陰の章 八
耕一の馬鹿さ加減に腹が立ち、力任せに扉を叩きつけ、あたしは大股に歩き出した。
耕一から聞いた話はショックだった。
千鶴姉が、耕一殺そうとしたのもだけど。
あたしには、耕一が千鶴姉の事しか考えてないのが、もっとショックだった。
あたしだけじゃなく、可愛がってる初音がどんなに悲しむか、耕一にも判ってる筈なのに。
それでも耕一は、千鶴姉を少しでも楽にする為なら、一人で出て行くって言ってる。
自分の人生なんか考えてなくて、千鶴姉としか子供作る気無いなんてあっさり言い切りやがった。
馬鹿だとは思ってたけど。
耕一が居なくなって、千鶴姉が喜ぶとでも思ってるのか?
喜ぶはずないだろっ!!
腹立ち紛れに廊下の壁を殴りつけ、そのまま角を曲がった所で、あたしは柔らかい物にぶつかって跳ね返され。
あたしは、ぶざまにも廊下に腰を落とした。
普段のあたしなら転んだりしなかった。
でも今は力の使い過ぎで身体中が痛い上、耕一から聞いた話のショクか、今一つ身体に力が入らなかった。
「失礼いたしました、御怪我は在りませんでしたか?」
あたしは微笑を浮かべ手を差し出す男の人を尻餅を着いた格好で見上げ、怒鳴り付け様とした声が喉で止まった。
「何処か、痛められましたか?」
「あっ、いいえ。大丈夫です」
優しい微笑を曇らせ聞かれ、あたしは慌てて起き上がった。
差し出された手を無視した格好になったのを、あたしは立ち上がってから気が付いた。
でも、その人は嫌な顔一つ見せず。
そっと手を引くとにっこり微笑んで頭を軽く下げた。
キザだけど優雅さと身に馴染んだ仕草のせいか、酷く自然で似合っていて、嫌味ったらしくは感じなかった。
耕一とは大違いだ。
これが大人の余裕って奴か?
「失礼いたしました。本当に御怪我は在りませんか?」
そう聞かれ、あたしはポォーとその人を見ていたのが恥ずかしくなった。
「兄さん?」
背後で開いた扉から男の人に呼ばれ、その人は流れる様な動作で半身を捻って向きを変えた。
部屋から出て来た所を、あたしがぶつかったらしい。
あたしは改めてその人を見直した。
年は、三十まではいってなさそう。
背は耕一より少し高い位、細身の身体に一分の隙も無く青みががったグレーのスーツを着こなし、振り向いた途端、伸ばした背筋から高圧的な威厳の様な物を感じた。
このフロアって鶴来屋でもトップクラスだから、ビジネスエリートって奴かな?
「どうだった?」
「喪に服するとの理由で、暫時休養を取られておられるそうです。出社時機は未定との事です」
部屋から出て来た男の人は答えながら、あたしに奇妙な目を向けた。
「弱ったな。かなり怒らせたからな」
「兄さんの悪い癖です。気に入るとからかうんですから」
「確かめる必要が在った。それだけだ」
「兄さん。そちらの方は?」
尋ねられた男の人から威厳が消え、あたしに目を戻し申し訳なさそうに静かに目を臥せた時には、表情に静かな穏やかさをたたえていた。
「重ね重ねの失礼をお詫びいたします。綺麗なお嬢さんを転ばせた上、背を向けるなどとは」
お世辞だろうし、キザだとは思った。
だけどあたしは赤くなって、俯いてしまった。
綺麗なお嬢さんって?
あたし?
元気なお嬢さんてのは、良く言われるけど。
叔父さんは可愛いって言ってくれたけど、耕一なんか、何も言ってくれた事ないのに。
そう考えて哀しくなった。
もう耕一が、言ってくれる事はないんだ。
今までそれドコじゃなくって怒ってたけど、失恋したんだな。と改めて実感した。
耕一は千鶴姉の事しか考えてなくてさ、あの馬鹿!
自分の人生より、千鶴姉が大切なのかよ……
「やはり何処か痛められたのでは? 宜しければ、御部屋までお送りさせて頂けませんか?」
あたしが黙り込んだもんで、その人は心配になったらしく、そう言ってくれた。
「あっ、いえ本当に大丈夫ですから。それに……」
宿泊客じゃないと言い掛けて、あたしは自分の失敗に気付いた。
どうやって帰ろう。
飛び出して来たから、財布も何も持ってない。
後から出て来た人の視線の意味も分かった。
あたしの格好は、ジーンズにポロシャツと言うこのフロアには相応しくない格好だった。
それも屋根を飛び越えたりした時に、雪や泥で汚れあちこち染みになっている。
もう身体が痛くて力使うのイヤだし、今更引き返して耕一に頼むのもシャクだしな。
この格好じゃ、街歩くのちょと恥ずかしいな。
でも初音も心細いだろうし、早く帰らないと。
タクシー使うか、足立さんにお金借りて服買うしか無いかな?
…あっ!
「本当に大丈夫ですから。じゃあ、これで。すいませんでした」
あたしは頭をペコンと下げ、返事も待たずエレベーターの方に歩き出した。
会長室に行けば、昨日持ってなかったから千鶴姉のバックとコートがある筈だ。
あたしが歩き出すと、一呼吸遅れて男の人達の歩き出した革靴の音が静かな廊下に響き始めた。
でもその靴音は、あたしが従業員用エレベータの前に着くと後ろで止まった。
「あの、なにか? これ、業務用ですけど」
「いいえ。従業員の方でしたか?」
後を着けられてる様で気になって振り向くと、にこやかな笑みで逆に尋ねられ。
あたしは口ごもった。
会長の妹がこんな汚い格好じゃ、千鶴姉が恥掻いちゃう。
「ああ、御心配にはおよびません。社長に御挨拶に伺うだけで、告げ口などは致しませんから」
アルバイトか何かだと思ったんだろう。
このフロアを汚い格好でうろついていた事か、ぶつかった事かは判ん無かったけど。
大丈夫ですよ、って感じでその人は首を傾げた。
「足立さんに?」
あたしは、反射的に聞き返していた。
「社長の御知り合いでしたか?」
知り合いだと、今度は足立さんが恥を掻くかな?
「名乗りもせず失礼いたしました。佐久間賢吾と申します」
「弟の賢児です」
あたしが黙り込んだのを、正体不明で疑ってると取ったのか。
ぶつかった人が先に名乗り後から出て来た人が続いて名乗り、非礼を詫びる様に二人共腰を折った。
高校生のあたしが、立派な社会人にここまで礼を尽くして貰っては、あたしも名乗らない訳には行かなくなった。
「柏木梓です」
汚い格好でも礼儀正しくしてくれる人だから、大丈夫かなっと思って、あたしは頭を下げ小さな声で名前を教えた。
「柏木、梓さん? 確か会長の妹さんも?」
「はい。次女の方だったと」
賢吾さんが僅かに眉を潜め賢児さんに聞くと、躊躇いなく賢児さんは答えた。
「では、会長の妹さんでしたか?」
「…はい」
知られてる以上、胡麻化し様がなかった。
どちらにしろ会長室に入るには、足立さんに一言断って置かないといけない。
その足立さんに会うんじゃ、どうしてもばれちゃう。
「そうでしたか。会長はお休みと御聞きしたのですが?」
「えっ! その、ちょと具合が悪くて」
「御病気でしたか? それは御心配でしょう。くれぐれもお大事にとお伝え下さい」
丁度エレベータが着いて、賢吾さんはそう言いながら手で扉を押さえ、あたしに先に入るよう僅かな仕草で示した。
「はい。ありがとうございます」
ペコンと頭を下げ、あたしは熱く火照った顔を俯かせ足を進めた。
これがレディファーストって奴かって感心するほど、自然な仕草だった。
あたしはこれまで、いちにん前の女性扱いってされた事がなくて。
嬉しいより気恥ずかしくて、エレベータの奥で指を弄りながら二人から視線を逸らした。
エレベーターが上昇を始め、あたしは弟の賢児さんの方が気になって横目で覗いて見た。
背は耕一と同じ位、細身の身体はお兄さんと同じで、優しそうな顔立ちだけど、どこか頼りなさそう。
でもお兄さんの方は、別の世界の人間って感じで話してるだけで疲れそうだけど。
弟さんの方は気取った感じがなくて、背広よりラフな格好の方が似合いそうな砕けた感じがして、好感が持てた。
名前が叔父さんと一緒だから気になったんだけど、耕一が言ってた、千鶴姉の見合い相手よりかはマシだろう。
エレベータが着いた時も、やっぱり賢吾さんが手で扉を押さえて、あたしに微笑みかけ。
真っ赤になって俯いたあたしが可笑しかったのか、笑いを洩らした賢児さんは、賢吾さんに睨まれ慌てて真面目な顔を作った。
笑われてムッとしてざまあみろって横目で覗くと、賢児さんは苦笑しながら悪戯っぽく片目を瞑って見せた。
対象的な兄弟の様子が可笑しくて、あたしは今日初めての笑いを洩らした。
「宜しければ、弟にお送りさせては頂けませんか?」
賢吾さんにそう尋ねられたのは、御先に用事をどうぞと促され。あたしが千鶴姉の忘れ物を取りに来たと伝えて、足立さんに会長室の鍵を取りに行って貰った後だった。
来客を待たせるのに躊躇いを見せた足立さんは、賢吾さんに年末の夜訪れる非礼を詫びられ。気にしないよう促されると、恐縮しながら鍵の保管庫に向った。
年末の夜だし、事務所の中は居残りの人達だけで、がらんとしていた。
重要書類なんかが在るから、他に鍵を任せられる人が居なかったらしい。
「いえ、そんな。一人で帰れますから」
「ですが、夜遅くに女性の一人では危険です。車を持って来ておりますから、御気遣いなく」
賢吾さんは応接室に案内し様とした女性に、少し待ってくれと言う様に軽く頭を下げ、あたしに目を戻した。
「会長には後日、お詫びとお見舞いに伺わせて頂こうと考えております。道順なりと御教え願えれば、私どもも助かりますので、お気になさらず」
「兄さん。次いでと言いますと大変失礼ですが。お送りさせて頂き、私が先にお見舞いに立ち寄らさせて頂いては、如何でしょうか?」
今まで自分から口を開こうとしなかった賢児さんがそう言うと、賢吾さんは眉を寄せ賢児さんに顔を向けた。
「しかし会長とは言え、妙齢の女性のお見舞いに夜遅く御訪ねするのは非礼に当たる。それに御病気では、それなりに親しく御付き合いしていなければ、御顔を拝見するのも失礼だと思えるのだが?」
穏やかな叱責混じりに聞かれ、賢児さんは小さく首を竦めた。
「夜御挨拶に伺わせて頂く非礼を、社長に快く御承諾頂いた我々としては、殊更礼には配慮を払い。後ほど御都合をお伺いした上で、改めて伺わせて頂くのが礼儀と言う物だと思うが。ここは御見舞いの品に留める気配りをするべきだと、私は考えるのだが?」
口調こそ穏やかに尋ねていたが、確かに賢吾さんは、弟の考えの浅さを咎めていた。
「兄さんの仰る通りです。軽率でした、申し訳在りません」
腰を折り謝る賢児さんを見ていて、何かあたしが遠慮した所為で弟さんが怒られてる様で居心地悪くなって。
「あ、あの。じゃあ、お言葉に甘えて、送って貰きます」
あたしはそう言っていた。
「どうぞ御気兼ねなく御使い下さい。では私はこれで失礼させて頂きますが。会長には、佐久間が非礼をお詫びしていたと御伝え下さい。賢児、くれぐれも失礼のない様に」
あたしに顔を向けた時だけにこやかに微笑み、賢吾さんは頭を軽く下げ案内の女性に着いて行った。
普段の生活とは全然違う気疲れがして、賢吾さんの姿が扉に消えると、あたしはどっと疲れて深く息を吐いた。
あたし以外の溜息の音に顔を上ると、隣で賢児さんも同じ様に息を吐いていた。
顔を見合わせ、賢児さんは頭を掻いて苦笑いを浮かべた。
あたしは、その人前で叱られた子供が照れてる見たいな賢児さんの様子が可笑しくって笑いを洩らした。
千鶴姉も大変だよな。
一緒に居るだけでも疲れるのに、あんな人を相手に仕事してんのか。
戻って来た足立さんから鍵を受け取りながら、あたしはまた小さく息を吐いた。
§ § §
車の中から見える景色が、白く濁って行く。
顔を窓から離す。
スッと濁りが取れ、闇の中に光りが流れる。
こんな風に、心の濁りも取れたらな。
あたしはこれからどうしたらいいのか、車に乗ってからずっと考えていた。
千鶴姉と耕一を会わすのが、一番いいんだけど。
耕一から聞いた話は、千鶴姉には言えないよな。
耕一が勝手にあたしに話したの知ったら、千鶴姉ショックだろうしな。
千鶴姉が耕一殺そうとしたなんて、きっと初音が知ったら信じられなくて泣くよな。
耕一が居なくなったら、初音に何て言やいいんだよ。
「柏木さん?」
「なんだよ?」
ぼんやり振り向き、めんど臭く答えてから、あたしは地が出たのに気付いて慌てて口を押さえた。
「この道、真っ直ぐでいいんでしたね?」
「ええ、はい」
クツクツ笑いながら聞かれ、あたしはかしこまって頷いた。
「さっきは助かりました。兄貴、説教始める長くって」
「いえ、そんな」
「いいですよ。俺も地で行きますから」
「へっ?」
急に賢児さんの私が俺になって、あたしは運転してる横顔を見詰めた。
「あなた、御姉さんとは随分違いますよね?」
「まあ。そうだろうね」
どうせ、千鶴姉ほど上品じゃないよ。
「ああ、性格ですよ。二人共美人だけど、性格が違うなってね」
あたしの考えを読んだ様に賢児さんはまた笑う。
だけど二人共って、あたしも美人?
「御姉さんの相手は、疲れましたから」
「千鶴姉の相手って?」
「あれっ、聞いてません? 見合いですけど」
あっ!
耕一の言ってたにやけた男?
でも耕一が言ってた程、嫌な人じゃないけどな?
あいつ嫉妬焼いてたのかな?
「あんたか、金持ちのぼんぼんて?」
「酷いな。金持ちはお互いさまでしょ?」
「いいの。言ったのは耕一だから。あいつ金無いもん」
耕一の言ってた見合い相手だと判って、あたしは不愛想に返してやった。
「でも従兄なんでしょ?」
「ばぁ〜か。バイトで生活してる耕一とあんたじゃ、全然違うね」
「はぁ〜、兄貴とおんなじ事言われるとはね」
溜息を吐くと、賢児さんは小さく笑った。
「お兄さんも、耕一知ってんの?」
「見合い潰したの彼ですよ。知らないんですか?」
「潰した? 初耳だけど」
あの馬鹿見合いに乱入したのか?
「御姉さんが転びかけたら突然現れて。そのまま抱き抱えて、かっさらわれました。見合いは、それで終わり」
抱き抱えてかっさらった!
派手な事するな。
「萩野さんは慌ててましたけど。彼に脅されて二人して逃げ出しましたよ」
ふっと息を吐くと、ハハハッと賢児さんは乾いた笑いを洩らした。
「離れて見てたけど、こっちまで殺されるかと思った」
「そりゃ、残念だったね。命が在るだけマシだったかもね」
見合い潰すのに、鬼まで使ったのか?
耕一の奴、何が説教だ。
「潰して貰って助かったから、いいんですけど」
「いいって? あんた、千鶴姉のどこが不満だってんだ!」
あっさり言われムッと睨み付けると、賢児さんは驚いた様に眉を潜めた。
「美人だし不満は無いですよ。でも俺、ああいう冷たい感じの美人は、ちょとね。気疲れしちゃって、趣味の問題だから」
なに言ってんだこいつ?
「千鶴姉のどこが冷たいんだよ。あんた馬鹿じゃないのか?」
「ああ、彼と居る時は笑ってましたね。俺には冷たかったけど」
「嫌われたんだろ。名前負けしてるからね」
「兄貴も御姉さんに睨まれて、震え上がってましたけどね」
あたしは額を押さえ、深く息を吐いた。
あんだけあたしに言っといて、千鶴姉まで鬼使ってるのか?
「兄貴の居ない所で謝ろうと思ってたんですけど。病気じゃ、余計怒らせるかも知れないから。やめときます」
「謝るって、振られたのあんただろ?」
「あの見合い。半分は、兄貴が俺の社内での立場上げるのに使ったもんで。俺としては、断って貰って助かったんです」
あたしは首を捻った。
見合いで立場上げるってのも判らないけど、千鶴姉に見合い断られて助かったてのが、余計判んない。
千鶴姉嫌う男がいるとは思ってなかった。
まあ、千鶴姉の料理食べりゃ命が惜しくなるだろうけどさ。
「やっぱり判りませんよね? 彼は兄貴が匂わせただけで気付いたんで。兄貴の奴、俺と比べ出しちゃって」
「あんたね。判る様に話しろよな」
ムッと睨むと、賢児さんは軽く頭を下げた。
「ああ、すいません。上手くすりゃ、旧家の令嬢に鶴来屋まで付いて来る。俺の社内での評価も上がるって事ですよ。
「何だよ、それ?」
あたしには、良く判らない話だ。
でも、それじゃ鶴来屋と旧家だったら、千鶴姉で無くても良いっ…て……!!
「止めろっ!! 降りる!!」
一つ判ったのは、千鶴姉が思いっ切り馬鹿にされたって事だ。
ぶん殴ってやろうと思ったが、車は走ってる。
殴りつけたら事故になっちまう。
「怒らないで下さい。俺だってこういうの好きじゃないんですから。謝ります、本当にすいません」
車を止めずに横目をあたしに向け、本当に悪そうな顔で頭を下げられ、あたしはムスッとシートにもたれ掛かった。
初音も心配だし、車の方が早く帰れるのは確かだ。
「俺も断り切れなくて、兄貴には世話になってるし」
「あんた兄貴に頭あがんないのかよ? 自分の見合いだろ? 千鶴姉も良く見合いなんかするよ」
耕一の言ってた通りだ。
情けない奴。
千鶴姉だって耕一が居るのに、何だって見合いなんかすんだよ。
「会社同士の見合い見たいなもんだから。お姉さんは、俺と会うまで知らなかったみたいだけど。間に立つ人が大物だったら、知ってても断れなかったかな?」
「なんでよ?」
あたしは腕を組んで、馬鹿にした目を向けてやった。
知ってたら、絶対断るね。
「大物ほど面子にこだわるんですよ。納得出来る理由がないと、機嫌を損ねるんです」
「結婚すんのは本人だろ。面子なんか知るかよ」
軽く睨み付けると、賢児さんは頭をぼりぼり掻いて苦笑を洩らした。
「世のしがらみって奴でね。仕事に影響するから、関係ないじゃ済まないな」
「仕事だ?」
「たとえば。うちは海外が専門でね。大手の旅行代理店に、鶴来屋に入る客を他に回すよう圧力をかけられる。力関係で言ったら、鶴来屋を潰す事も出来るんですよ」
鶴来屋を潰す!?
「なんで? なんで見合い一つでそんな事になるんだ?」
「そりゃ、今回は鶴来屋重役の萩野さんの方から持って来られた話ですから。会長の御姉さんにも結婚する意思が在ると、こちらは思いますよ。鶴来屋は佐久間と姻戚関係を持って提携したがってるってね」
「萩野さん?」
叔父さんの葬式でぶちぶち言ってた、いけ好かない親父か?
「ええ。佐久間は同族会社で成り上がりだし。断られるにしても納得出来る理由がないと。こちらとしては、一地方企業の御嬢さんが佐久間を利用しようとして、格式を盾に馬鹿にしたと取れるでしょう?」
「ちょっと待ってよ。じゃあ、あんたを気に入らないって断ったら?」
あたしは慌てて尋ねた。
普通の見合いと違うのか?
「理由にはなりません。見合いした時点で、結婚が決まってる様なもんですから。会社としては佐久間の方が大きいですからね。佐久間には格式がないから、いい様にあしらわれたって、業界の笑いもんですよ。佐久間と鶴来屋の企業間戦争にも成りかねませんよ」
そんなの見合いかよ?
会社盾に、千鶴姉脅してるんじゃないか。
「ああ、そんな顔をしないで大丈夫です。彼が上手くやってくれましたから」
あたしは余程酷い顔をしたのか、気遣う様にハンドルから離した片手で肩を軽く揺すられ顔を向けると、賢児さんは優しく微笑んでいた。
「彼って? 耕一か?」
「ええ。間に立った萩野さんが、ちゃんとした手順を踏んで無かったのが断った理由ですから。うちとしても旧家相手じゃ、手続きの不備で済ますしか無いですよ」
「そんなの千鶴姉が断ったって、一緒じゃないの?」
あたしには耕一が断ったって、千鶴姉が断ったって同じに思えて聞き返した。
「いいえ。まったく違いますね」
「どこが?」
意外そうに否定され、あたしはまた聞き返した。
「御姉さんは会長ですから。重役の萩野さんの行動を知らなかったでは済まされませんよ。萩野さんを理由に断ったら、自分の管理能力の無さと社内の統率の乱れを社の内外に宣伝する様なもんです。まだ会長になられたばかりでは、能力不足が下からの突き上げ材料にもなり兼ねませんからね」
「そんなもんなのか?」
あたしには判らない世界の話だった。
でも会社でも、思った以上に千鶴姉が苦労してるのは判った気がする。
「企業のトップなんて、人を道具にしか見てませんから、そんなもんです。彼なら会社には関係ないし、柏木家の直系ですからね。家を代表して不備を指摘されると、こちらとしても改めて手続きを踏むしか在りません」
「どうして、耕一ならいいんだ?」
あたしには、まだドコが違うのか全然判んないよ。
「御姉さんは公人ですが。彼は個人ですから。彼が柏木家を代表して断るなら家同士の問題になります。今度は家の格式が物を言ってきます。萩野さんの話を鵜呑みにし、相応しい仲人も立てず柏木家の意向も確かめなかった。これは格式ある旧家の御嬢さんとの婚姻を望んだ、格下の佐久間側の手落ちですから。会社間の問題にすると、佐久間は成り上りで上流の儀礼も知らないって、佐久間が笑われる」
「じゃあ耕一が居なくて不備がなかったら、結婚するしかないって言うの?」
「力関係の問題ですけど。有力議員か財界の偉いサンが仲人に立っていたらそうなりましたね。なにせ、御姉さんには矢面に立つ御両親がいらっしゃいませんから。会社での立場も在りますし、御本人が角を立てずに断るのは難しいでしょう。御自分で全部責任取るしか在りませんから」
叔父さんが居たら、断れたのか?
「責任て?」
「会長を辞任するか。諦めて結婚するかどっちかですね。佐久間と仲人相手に喧嘩して、勝てるなら話は別ですけどね」
あたし達が面白半分で聞いてた見合いで、会長辞めるか鶴来屋潰されるかなんて話にまでなるのか?
見合い一つするのに、千鶴姉、そんな事まで考えなくちゃいけないのかよ?
「ですから兄貴の奴、俺を可愛がってくれてるもんで、馬鹿にされたと思って腹立てて嫌がらせしに行ったんですよ」
「嫌がらせ? そんな人に見えなかったけど」
「あれでも子供見たいな所が在りまして。まあ、嫌がらせは成功って所です」
そう言うと、賢児さんは楽しそうに笑いを洩らした。
「嫌がらせって、何したの?」
「御二人がいいムードになったの見計らって、わざわざ邪魔しに行ってからかったんですよ。もう一度、見合い頼んでね」
「それが嫌がらせ、子供かあの人?」
「彼に手酷く断られましたけど。兄貴も、返す言葉がなかったな。お蔭で、散々説教されました」
「耕一の奴、何て言って断ったの?」
さっき見た賢吾さんのイメージとけちな嫌がらせが繋がらなくて、眉を潜めたあたしは興味を引かれ聞き返した。
「それ、聞きます?」
「聞きたいね。どんなヘマやらかしたのか、教えて貰いたいもんだ」
情けなさそうに聞き返され、あたしは大事にならなかった安心感も手伝い鼻で笑って応えた。
「転びかけても助けられない。鼻緒が切れても対処出来ない。究め付けは、兄貴に話させないと、自分じゃ話しも出来ない軟弱者。ってね。見合いするだけ時間の無駄だそうです」
溜息混じりに言われ、あたしは聞いたのが少し可哀想になった。
千鶴姉が転ぶのなんて、日常茶飯事だろうに。
「耕一の奴、口悪いからさ」
何であたしフォロ〜入れてんだろ。
「まあ、御姉さんの真意確かめる意味もありましたからね」
「ただの意地悪じゃないってか? でも、真意って?」
あたし、耕一にもこの人にも聞いてばっかり。
なんか情けないな。
「御姉さんが佐久間の後押しで、鶴来屋内部での地位の確保を狙ったと読んでたんですよ。俺は断る理由が欲しかったんで、場を和ませて切り出そうと思ったんですけど。御姉さん、まともに口聞いてくれなくて」
「余程嫌われたんだ。でも、地位の確保って?」
一言で済まし聞き返すと、賢児さんは引きつった笑いを浮べ弱く息を吐いた。
「知らないんですか? 前社長が亡くなってから、鶴来屋内部、二派に分裂してるんですけど」
「分裂?」
叔父さんが死んで、千鶴姉が苦労してるの知ってたけど、そんな事にまでなってるのか?
「ですから兄貴も、ちょっかいかけて真意を確かめ様としたんですよ。そうしたら御姉さんいきなり萩野さんの独断だって認めちゃうし」
「あんたさっき、それ認めると不味いって言わなかった?」
あたしはもう首を捻る事しか出来ない。
話が二点三点して、一つの話の中でどんどん言葉の持つ意味合いが変わっていってる。
「不味いですよ。うちとしても公には出来ませんけど。弱みは握られますから」
「公に出来ないって?」
ふっと息を吐くと、賢児さんは片手をハンドルから離し、後ろ頭を疲れた様にぽりぽり掻いた。
「一度潰れた話ですよ。公にしない方が、うちも恥掻かなくて済むって事です。まあ、主に断られた俺が恥掻くんですけど」
「ごめん」
あたしは乾いた笑いを洩らし、小さく謝った。
そうか、千鶴姉に振られたんだもんな。
あたし賢児さんに、自分の恥になる話を聞いてるのか。
「いいんですけどね。御姉さんも、さりげなく見合いが予定外だったの、俺に伝え様としてましたし。確証が欲しかっただけですから。御姉さんに他意がないのは、それで判りました。まあ彼が居ましたから、自分から見合い仕組むっておかしいんですけど。それで兄貴は会長の交代が近いと読んで、彼に矛先を変えましてね」
「会長の交代? 耕一とか?」
千鶴姉と一緒になると、耕一が会長か?
あの馬鹿に勤まるのかね。
「ええ、彼も柏木ですし、調べると卒業も近いですからね。時期会長交代を公表すれば、御姉さんに求められるのは、それまでの維持です、今とは状況が変わってきます」
千鶴姉の結婚って、そんな大事なのか?
そりゃ、結婚は大事だよ。
だけど結婚するだけで、鶴来屋が潰れる潰れないになるのかよ?
そりゃ漠然と大変だろうとは思ってたけどさ。
千鶴姉、家ではそんな事なんにも言わなくて。
いつも大丈夫だって笑ってて。
あたし達に心配掛けない様に、ずっと無理してたのか?
耕一が言ってたのって、鶴来屋の事も在ったのかな?
千鶴姉と結婚して、耕一が会長なって全部上手く行くんなら、それが一番いいんだろうな。
「耕一が会長になれば、全部上手く行くのかな?」
「ええ。彼も柏木ですし、お父さんは人望が在った様ですね。でも婚約はなさっていませんし。それで彼試すのに、自分と見合いしようって兄貴が御姉さんに言い出して。弟の次は兄とは馬鹿にしてるって、彼切れる寸前でしたね。御姉さんが必死に宥めてましたよ」
命知らずな。千鶴姉が慌ててたって事は……
こいつら、本気で死ぬとこだったな。
普段なら耕一の奴ざまみろって笑うけど、あたしは可笑しいより、良く二人とも殺されなかったなと口の端が引きつった。
「まあ、狙い道理、彼は認めましたけど」
「耕一、自分が会長になるって?」
「いいえ。でも、御姉さんは自分の者で、他の奴にはチャンスなんか無いって、キッパリとね。兄貴も俺も呆れましたけど」
耕一、あんたには本当に呆れるよ。
なんでそんな事まで言っといて、居なくなろうとすんだよ?
「耕一に、会長なんて勤まるのかな?」
あたしが耕一で千鶴姉の代わりなんて出来るのか。と、溜息混じりに洩らすと、賢児さんは驚いた様にあたしの方を見て、慌てて視線を道路に戻した。
「充分でしょ?」
「でもさ、あいつ馬鹿だし。お調子もんで頼りないしさ」
そんなトコも全部ひっくるめて、好きなんだよな。
「あの。それ、柏木耕一さんの事ですよね?」
どうしてだか、賢児さんは不思議そうに横目をあたしに向けた。
「他に耕一は居ないよ」
「いえ。どうも彼のイメージと合わなくて」
「イメージが合わない?」
あたしは眉を寄せて賢児さんの横顔を見詰めた。
そう言われれば、今日の耕一はいつもと違ってた。
最初に千鶴姉の話でショック受けたから、あんまり気にする余裕もなかったけど。
いつもふざけ合ってばかりいたから知らなかったけど、あいつ真剣な話の時って、ああなるのかな?
「ええ。とっさに質問して、自分の発言が御姉さんとも会社とも無関係なのを同時に印象づけるなんて。馬鹿でもお調子者でも出来ないと思うけど」
「またぁ、判んない話し始めんなよな」
「ああ、すいません。彼、萩野さんの前で、御姉さんに佐久間との話は、会社の意向かって聞いたんですよ」
頭を掻いた賢児さんの言葉は、あたしには良く理解出来なかった。
「見合いしてたから、嫉妬焼いたんだろ?」
「違いますよ。御姉さんに答えられる筈、在りませんから」
「どうして?」
「社の企業秘密を社外の人間に、重役の前で洩らしたら。自分で自分の首締める様なもんです」
耕一も身内だけど会社の人間じゃないし、それはあたしにも何となく不味いのは判る。
「でも、それなら耕一の奴。何でそんな事聞いたんだろ?」
「御姉さんの、立場の保全でしょう?」
「千鶴姉の立場?」
「御姉さんには答えられない。つまり、これから先の話は彼の独断で、御姉さんには関係ないって事です。萩野さんも目の前で御姉さんが社内の情報を閉ざしたから。後で御姉さんが彼を焚きつけたと非難は出来ない。せいぜい嫌味言われる位かな。それに、俺にも彼が会社とは無関係で、彼自身の意向なのは伝わりますから。俺が不満を言っても、身内からの反対を理由に見合いはおじゃんです」
「考えすぎだよ。耕一が、そんな事まで考えてる訳ないって」
深読みしすぎだと、あたしは鼻で笑って手をひらひら振ってやった。
「萩野さんと兄貴は、そうは思ってないですけどね」
「耕一も、随分と買い被られたもんだね」
あたしは、偶然だと思うけどな。
「二十歳で兄貴と渡り合うは、萩野さんを一睨みで黙らせるなんて。彼、普通じゃ在りませんからね」
「そうかな?」
まあね、鬼だからね。
あの力なら、普通の人なら下手すると睨み殺すかもな。
「まあ、そう言う訳で。御姉さんと彼に、謝ってたって伝えといて貰えませんか?」
「へっ? あっ、あんたそれ言うのに、今まで話してたのか?」
「ええ、そうですけど。変ですか?」
あたしはあっけらかんと返され、開いた口が塞がらなかった。
そんなの謝っといてくれで済むじゃん。
自分の恥だって言いながら長々と理由説明して、この人馬鹿正直なのか、抜けてるのかどっちかだ。
「変て言うかさ。あたしにわざわざ話す事ないんじゃないの?」
「でも理由も知らずに謝っといてくれって言われても。子供のお使いじゃ無し、貴方だって嫌でしょ?」
ハハっ。この人、馬鹿正直な方だ。
「判ったよ。今はそれどこじゃないから、後で伝えとく」
「すいません。話が本題に入る前に、兄貴が御姉さん怒らせたもんで。年が明けたら、改めてお詫びに伺いますから」
あたしが呆れて手をヒラヒラ振ると、賢児さんは申し訳なさそうに頭を軽く下げた。
馬鹿正直さに呆れながらも、話してる間、うだうだ悩んでいたのが少しは紛れ、感謝したい気もした。
誰かと話してるだけで、少しは楽になるもんだと、あたしは痛感した。
§ § §
がらがら戸を締める音の響きに混ざり、ぱたぱたと聞き慣れた初音の足音が、廊下の奥からあたしを出迎えた。
ホッとした顔で出迎えた初音の表情が、あたし一人なのを見て、スッと影を落とした。
「ただいま、初音。千鶴姉と楓は?」
あたしが賢児さんからの見舞いの果物籠を差し出すと、きょとんとした顔で籠を受け取り、初音はぷるぷる首を横に振りぎこちなく微笑んだ。
「お帰りなさい、梓お姉ちゃん。これ、どうしたの?」
「お見舞いだってさ。千鶴姉にだって」
あたしが言うと、初音は豪華な果物籠を両手でぶら下げ、あたしに目を戻した。
「ご飯出来てるから、お姉ちゃんもお腹空いたでしょ?」
初音に尋ねられ、朝食べた切りなのを思い出した途端。あたしは急にお腹が空いて来た。
「うん。初音は、もう食べたの?」
初音の頭に手を置き、あたしは居間へ向った。
「ううん。独りで食べても美味しくないし」
何か聞きたそうにしながら、初音は一緒に歩き始め寂しそうに俯いた。
初音が聞きたいのが耕一の事なのは判ってるけど。
どう言やいいんだ。
「お姉ちゃん疲れたでしょ? 座って、ちょと待っててね」
「うん」
居間に着くと、初音は台所に入って行く。
食卓には、きちんと五人分の食事が用意されていた。
いつもならあたしがやるって言うんだけど、とてもそういう気にならなかった。
いつもの場所に座ると、余計食卓の寂しさが身に染みた。
家に帰って来て、こんなに辛いなんて叔父さんが死んだ時以来だ。
辛い時でも、少なくとも食卓に姉妹四人は揃ってた。
千鶴姉がいて、楓がいて、初音がいて。
千鶴姉が励まして、初音がぎこちなく笑って見せて。
あたしが強がってみせると。
楓もやっと少し微笑むんだ。
千鶴姉に頼れない今は、あたしが何とかしないと。
楓はあたしと同じで失恋みたいだし、暫く置いとくとして。
問題は、耕一だ。
耕一をなんとか家に連れて帰らないと。
千鶴姉と耕一を会わせれば、何とかなるだろう。
「梓お姉ちゃん、お待ちどう様」
腕を組んで考え込んでいたあたしは、初音の声に顔を上げた。
「肉じゃが、か?」
初音が用意していたおかずは、耕一の好物だった。
あたしと一緒に帰って来ると思って、作って待ってたのか。
「…うん」
「うん、上手に出来てる。さあって食べよ」
あたしが肉じゃがを一口運んで出来を褒めると、初音は少し嬉そうにこくんと頷いた。
「梓お姉ちゃん。耕一お兄ちゃん、何か言ってた?」
食器を片付け居間に座り直したあたしに、初音は俯き加減の上目遣いであたしの顔を覗き込んで聞いた。
「初音、耕一から聞いてないの?」
あたしは、耕一が初音にどう説明したのか聞いてなかった。
耕一の説明に会わせないと。
「…うん。…千鶴お姉ちゃんと、意見の食い違いで喧嘩したんだって聞いたけど」
まあ。そりゃ本当だけどさ。
問題は、その中身なんだよな。
「あたしも、そう聞いただけ」
「そうなの? でも、耕一お兄ちゃん帰って来なかったんだね」
がっかりした様子で、視線を落した初音にどう答えたらいいのか。
どぎまぎして、あたしは初音から視線を逸らした。
「初音、一日中耕一と一緒だったのか?」
思い付きで聞いてから、あたしは少しおかしく感じた。
初音は昼前に出て、楓は昼過ぎに帰って来た。
入れ違いになったのか?
でも何で、それだけの話で、初音は夜まで耕一んとこに居たんだ。
初音は一日中、鶴来屋で耕一帰って来るのを待ってたのか?
「ううん。耕一お兄ちゃん、一度家に帰るって出掛けたから」
嘘を吐いて出掛けたのを叱られていると思ったのか、初音は慌てて首を振ると俯いた。
「初音は、耕一と一緒じゃなかったの?」
初音だけ部屋に置いて、家に帰るっておかしいよな?
「うん。耕一お兄ちゃん、お友達とお昼の約束があるから、代わりに一緒にお昼食べて欲しいって。その間に千鶴お姉ちゃんと仲直りして来るからって」
何だ?
耕一の奴、昼間は千鶴姉と話し合う気だったのか?
でも、叔父さんの御墓で楓と会ったって言ってたよな。 叔父さんに相談にでも行ったのかな?
「でも、耕一お兄ちゃん途中で気分が悪くなって引き返して来て、すぐ寝ちゃったから。由美子お姉ちゃんは呑み過ぎだって」
「呑み過ぎって? それに由美子って誰?」
「うん。耕一お兄ちゃんの大学のお友達。お兄ちゃん、昨夜倒れるまでお酒呑んだんだって、由美子お姉ちゃんが言ってた」
心配そうに胸の前で拳を握り、お兄ちゃん大丈夫かなっと、初音は小さく呟いた。
自棄酒か?
まあ判ん無くはないけどさ。
自棄酒あおる位なら、さっさと帰って来りゃいいんだよ。
「じゃあ。初音は、ずっと耕一介抱してたのか?」
「うん。その間に由美子お姉ちゃんに、耕一お兄ちゃんの大学のお話し聞いてたんだけど」
あたしに気を使ったんだろう。
自分の知らない耕一の話が聞けて嬉しかったんだろうに、初音は決まり悪そうに上目遣いにあたしを見上げた。
「それは良いけどさ。それなら、もっと早く電話して来なよ」
耕一の居場所が判ったお蔭で、少しは落ち着いて来た初音の様子に、あたしは小さく安堵の息を吐いた。
「ごねんね。お話聞いてたら、いつの間にか時間が経っちゃてて」
「もういいよ。でも、これからは気を付けるんだよ」
たっくう。
昨日と言い今日と言い。
初音の奴、耕一の話だけでも時間経つの忘れるのか?
「うん。ごめんね」
しょぼんと謝る初音の頭を撫でながら、あたしの頭に一つの考えが閃いた。
「初音。耕一の奴、昨日の本大事だって言ってたよな?」
「うん。あっ、由美子お姉ちゃん、あの本読めるんだって。由美子お姉ちゃんの本なんだって、本の中身教えて貰ったんだよ」
初音、あんたは偉いっ!
ふふふ、耕一待ってろよ。
「その由美子さんて、こっちの人か?」
「ううん。でも由美子お姉ちゃんなら、鶴来屋に泊まってるけど?」
不思議そうに首を傾げる初音の返事で、あたしの中の考えが形になり始めた。
「由美子さんて、名字は何て言うの?」
「小出さんって言ってたけど。…どうして?」
ますます訳の判らない顔で、初音は眉を寄せた。
「いいや。明日耕一は帰って来るから、そしたら千鶴姉も出て来るさ。もう時間も遅いし、初音は安心してゆっくり寝な」
「本当、梓お姉ちゃん。耕一お兄ちゃん明日帰って来るって?」
耕一から、あたしが明日帰ると聞いたと取ったのか、初音はパッと顔を輝かせると身を乗り出した。
「ああ、絶対帰って来る。だからさ、ゆっくり寝て、明日は美味しいもん作っといてやろうな」
頭を撫でながら言うと、初音は嬉そうに何度も頷きほっと胸を撫で下ろした。
明日帰って来なかったら、耕一は居なくなっちまう。
「うん、じゃあ。あたしもう寝るね」
「うん、お休み」
「お休みなさい」
安心して居間からとことこ出て行く初音の背中を見送り、あたしは大きく肩で息を吐いた。