陰の章 七


 背広の背中に向い、あたしは頭を深々と下げた。
「すいません、わざわざ来て貰ったのに」
「気にしないで下さい。休みを取る様に勧めていたのは私ですからね。少し働き過ぎですから、充分休養を取れば元気が出ますよ。みんなも、あまり心配し過ぎない様にね」
 そう言って振り向いて軽く手を上げた足立さんに、あたしはもう一度、深く頭を下げた。
 がらがらと戸の閉まる音に頭を上げ、ほっと息を吐いた。
 息を吐いたあたしの横を、初音がばたばたと駆け抜け、慌てて靴を履くと閉じたばかりの戸に飛び付いた。
「初音? どっか行くの?」
「うん。友達と約束してたの忘れてて」
 振り返らず応えた初音は、そのまま戸を開けピシャンと閉めた。
 あたしはまた大きく息を吐いて、廊下を引き返し出した。

 初音もおかしいや。
 普段なら顔も向けず出掛ける子じゃないのに。
 やっぱり千鶴姉と耕一の事で、頭が一杯なんだろうな。
 それでも友達との約束を忘れない辺りが、初音なんだろうけど。
 まだ千鶴姉は出て来ないし、耕一が帰ってないのを知って泣いてたのよりか、出掛ける気になっただけマシか。
 苛々してたから怒鳴り付けちゃったし、あれは不味かったなぁ。
 足立さんが来てくれて助かったけど。

 あたしは居間に戻ると、時計を見上げた。
 十一時になったが、一向に千鶴姉が部屋から出て来る気配はない。
 居間は、昨日とは雲底の差だった。
 一日経った居間はしんと重く沈んで、御通夜見たいに寒々としている。

 昨日はトランプやって、初音も楓も、耕一だって楽しそうに騒いでたのに。

 今日は朝から初音に嘘を吐いたのを謝って、千鶴姉を起こしに行ったけど。返事は、食事はいらないと、ごめんなさいだけ。
 それも、初音が泣きながら頼んでだ。
 初音が泣いてたら、どんな時でも飛んで来た千鶴姉とは思えない、信じられない反応だった。
 流石に初音も不安が抑え切れなくなって、自分でも涙が止められなくなった見たいで、とうとう泣き出すし。
 楓とあたしの二人掛かりで慰めても中々泣き止まないもんで、あたしはカッとなって怒鳴り付けてしまった。
 あたしも昨夜は、居間でテーブルに突っ伏し少し眠っただけで、悪い想像ばかり浮かんで切れる寸前だった。
 足立さんが千鶴姉の様子を見に来たのは、そんな時だった。
 千鶴姉が暫く休むと、鶴来屋に電話したらしい。
 いつもは無理しても出社する千鶴姉だから、足立さんも心配になったそうだ。
 初音は足立さんに懐いていたし、足立さんも初音を可愛がってくれていた。
 あたしは千鶴姉の部屋まで、初音に足立さんを案内させる事にした。
 応接間でなく部屋にしたのは、足立さんがあたし達姉妹とも親しくて、足立さんなら千鶴姉も出て来るかと思ったからだった。
 結果は、今は酷い顔で会えないそうだ。
 足立さんもそう言われると、頭を掻いて引き下がるしか無かった。
 楓の奴は、足立さんと話してる間にとっとと出掛けちまうし。
 初音が少しは落ち着いてくれた以外、昨夜から何も変化していない。
 足立さんに耕一の事を尋ねたが、挨拶だけで別れたらしい。
 別れる時、千鶴姉と会長室でお茶を飲んでいたのが、足立さんの見た耕一の最後の姿だった。

 一体、耕一は何処に行ったんだ?
 どうして帰って来ないんだ?
 昨夜、千鶴姉と何があったんだよ?
 耕一!
 独りの居間で頭を抱えたあたしの耳に、虚しく時計の音だけがやたらと大きく響いた。


 耕一!?

 玄関の戸が開く音に、うたた寝していたあたしは、飛び起き廊下を一気に駆け出した。

 耕一が帰って来たなら全部判る筈だ。
 いつもみたいに、怒鳴り付けて憎まれ口聞いて。
 そしたら、きっと千鶴姉も出て来て。
 いつも道理に戻る。

 半分寝ぼけた頭で、脈絡のない思考に安心感を覚え、あたしは玄関に急いだ。
 でも玄関から走って来たのは、楓だった。
 あたしには目もくれず、横を駆け抜け様とした楓の腕を掴もうとしたあたしは、派手にすっ転んだ。
 良く磨かれた廊下は、全力で走って来て急の止まろうとしたあたしの足を、受け止めてはくれなかった。
 楓は廊下に叩きつけられたあたしにチラッと顔を向け、再び小走りに家の奥に向った。

 今度は、楓まで?

 あたしは、すぐに追い掛けられなかった。
 口元を片手で覆った楓の頬は赤く染まり、大きな瞳からぼろぼろ涙を溢れさせていた。
 感情を現す事が少ない楓が、ぼろぼろ涙を零してる。
 こんな楓は、叔父さんが死んだ時ぐらいだ。

 気を取り直し、あたしは打った腰を押えながら楓の後を追った。
 でも、あたし達の部屋の在る一角にたどり着いた時には、楓の部屋の扉はバタンと閉じられる所だった。
「楓、どうしたんだっ! 楓っ!」
 閉まった扉を叩きながら、ノブを回したが鍵が掛かっている。
「独りにして!!」
 何度も何度も扉を叩き楓を呼んでいると、部屋の中から叫ぶ様な一言だけが聞こえた。
 あたしは扉に背を、その場に座り込んだ。
 初めて聞く楓の叫びは、あたしを拒否した妹の涙で濡れていた。
 その叫びが、昨日の千鶴姉の悲鳴の様な一言と重なり、あたしはもう立っていられなかった。

 どうしてだよ?
 何で楓まで?
 みんな、おかしくなっちゃたの?

 もう、あたしの知らない何かが狂ったとしか思えなかった。

 千鶴姉も楓も泣いてる。
 耕一だって帰って来ない。
 どうしたらいいんだよ?

 あたしはずるずると、千鶴姉の部屋の前まで四つん這いで這って行った。
「…千鶴姉?」
 そのまま扉に背をもたれ、小さく呼んでみた。
 後ろ手に数回扉を叩いたが、中からは物音一つ返って来ない。

 あたしは、無力だ。
 自分がこんなに何も出来ない人間だとは、思って無かった。
 昨夜だって、楓が初音を安心させたんだ。
 あのまま扉破って、どうするつもりだったんだ?
 あたしに何が出来るんだよ?
 きっと千鶴姉なら、楓も扉を開いて話す筈だ。
 でも、あたしじゃだめなんだ。

 勝手な思い込みかも知れない。
 でも、みんな叔父さんと千鶴姉を頼りにして来たんだ。
 叔父さんが死んじゃって、もう千鶴姉しか居ないんだもん。
 あたしは、自分がこんなに千鶴姉に頼っているとは、今まで思ってなかった。

 何でも一人で出来るつもりでいたのに。
 それがどうだ?
 千鶴姉が部屋に篭もった途端、家の中おかしくなって。 あたしは、姉貴の部屋の前で膝を抱えてるしか出来ない。
 捨てられた犬みたいに、扉が開くのを待ってるなんて。
 妹の泣いてる理由一つ聞いてやれない。
 姉貴にも妹にも、何の力にもなれないじゃないかっ!

 あたしは自分の無力さを噛み締め、抱えた膝に顔を埋め、扉の前でジッとうずくまった。

 どれ位そうしていただろう。
 あたしは板張りの廊下の寒さの為か、小さく身震いしてゆっくり立ち上がった。
 眠っていたのかも知れない。
 寝ていた感じも、何かを考えていた気もしなかった。
 ただ冷え切った身体だけが、時間の流れを教えてくれた。
 楓の部屋の前まで歩き、扉に耳を当てそっと様子を窺って見た。

 押し殺した嗚咽が、扉越しに聞こえて来る。
 声を掛けてまた拒否されたら、扉を叩いて拒否の叫びが返って来たら。
 そう思うと扉を叩こうと作った拳も、掛け様とした声も凍り付いた。

 ふっと胸につかえた息を吐き出し、額を押し付けた扉越しに、一つの名前がすすり泣きに途切れ途切れに混ざっているのに気が付いた。
 あたしは頭から血が引いて行くのを実感した。
 ふらつく足でその場から離れ、耳の奥で甲高くなる耳鳴りの様な声を聞きたくなくて、両耳を両の手で押えた。
 あたしは自分の部屋に入り、もつれる足でベッドにうつ臥せに倒れ込んだ。
 そのまま枕に顔を押し付け、両端を掴んだ枕で両耳を塞ぎ力任せん引き寄せた。

 信じたくなかったけど、信じられないけど。
 でも、楓まで泣きながら呼んでる。
 どういう事だ?
 何でなんだよ、耕一?
 あんたスケベでぐ〜たらだけど、女泣かす奴じゃなかっただろ?
 八年も会ってなかってけどさ。
 兄貴みたいにあたしからかって、子供の時とおんなじ馬鹿みたいな笑い方してさ。
 さりげなく優しくて。
 初音や楓にだって優しいまんまで、みんなあんたの事好きなんだよ。
 楓だってあんたが来てくれて、叔父さんが居る時より明るくなったんだよ。
 なんで、そのあんたが、千鶴姉や楓泣かすんだよ?
 耕一ぃ。
 あんたも変わっちまったのか?
 父さん達が死んだら、急にあたし達苛め出した連中みたいになっちまったのか?
 違うよなぁ?
 帰って来て、違うって言ってよぉ。
 誰も信じなくても、あたしはあんたが違うって言ってくれたら信じるから。
 早く帰って来て、言ってよぉ!

 顔を押し付けた枕は、どんどん濡れて冷たくじっとり、あたしの顔を覆っていった。
 あたしの心も枕みたいに、どんどんじっとり濡れて、暗く冷たくなっていった。
 暗くて冷たい水の中で足掻いていた子供の時みたいに、息が苦しくて。
 手足をばたつかせても、上も下も判らなくて、どこまでも闇に吸い込まれ呑み込まれていく、冷たい恐怖があたしを冷やしていった。

 変わってて、当然なんだ。

 不意にそんな声が、あたしの内に沸き起った。

 あたし達、恨んでてもおかしくないんだ。
 あたし達が居なかったら、耕一は叔父さんと暮らせたんだ。
 叔母さんだって、死ななかったかも知れない。

 判ってただろう?

 叔父さんの葬式にだって来なかったじゃないか。
 来なくてホッとしただろう?
 寂しかったけど、どこかで安心してたじゃない。
 恨まれてたら、どうして良いか判らなかったから。
 夏だって、来るって聞いて早く会いたいと思ったけど。
 もし、冷たくされたらどうしようって不安だったろ。
 変わってなくて安心したけど。
 中身が変わってないかなんて、判ん無いだろ。
 あたしだって、弟やってんだから。
 耕一だって、昔の従兄やれるさ。
 八年も経ってて、変わってない訳ないだろ?
 叔父さんの残した仕送りも、断ったって言ってたじゃないか。
 バイトしてでも生活した方が、マシに思うほど叔父さん恨んでんだよ。
 あたし達、恨んでない訳無いだろ。
 だから家にも来たがらなかったんだ。
 バイトって言ってたけど。
 本当は、家に来て従兄やるのが面倒だったんじゃ無いのか?
 もう、めんど臭くなって、最後に恨み晴らす気じゃないのか?
 だって、あいつだって鬼だもん。
 あいつは覚えてないけど、あたし達と同じ鬼が住んでんだ。

 あたし達は知ってる。
 あいつの鬼の本性。
 あたし達を殺そうとした、鬼の本性を。

 叔父さんが、何で連れて来なかったか知らないけど。
 叔父さん取って、恨まれて当然だと思うけど。
 でも、だからって千鶴姉や楓を泣かして良いって事にはならない。
 あたし、信じてたんだよ。
 あんたは、あたしを裏切ったんだっ!

 生地の裂ける音がして、裂けた枕からどんどん湧き出るみたいに羽毛が飛び出し、あたしの顔は羽根枕の中身に埋もれていった。

 気が付くと、あたしは羽毛だらけの暗闇の中、枕の残骸を握った手で額を押さえ突っ立っていた。
 枕のなれの果てを床に叩きつけ、ベッドに腰を下ろし、あたしは深い深呼吸を数回繰り返した。
 胸を満たす空気を静かに吐き出し、新しい空気を吸い込むと胸を一杯に満たす。
 少し落ち着いた所で軽く頭を振り、あたしは羽根だらけのベッドに倒れ込んだ。

 どうして、あたしってこうなんだろう?

 いつも考え出すと頭の中がぐるぐるして、最後は訳が判かんなくなる。
 千鶴姉にも、散々良く考えてから行動しろって言われてるのに。
 耕一の所為だ何て決まってないのにさ。
 あの時だって、背負って帰ってくれたじゃない。

 頭を一振りして時計を見ると、闇に浮かんだ蛍光塗料が、夕食の用意を始める時間を示していた。
 のっそり身体を起こし部屋から出て、楓の部屋の前で少し躊躇って軽く扉をノックした。
 暫く待ったが、返事はなかった。
 初音の部屋まで移動し、ノックしたがこちらも返事がなかった。
 ノブを回すと軽く扉は開いた。
 扉の隙間から中を覗き込んで見ると真っ暗で、初音が居る気配はなかった。
 小さく息を吐き扉に額を軽く当ててから、一番奥の扉に目を移し、少し躊躇った後。
 そのまま居間に向かった。
 居間は、闇に沈んでひっそり静まり返っていた。
 朝怒鳴られたのを気にして、先に夕食の準備を始めているんだろうと思っていた初音の姿は、台所にもなかった。
 あたしは慌てて留守番電話にメッセージが入ってないかを確かめ、客間に向った。

 初音が千鶴姉の状態を知ってて、電話もしないで夕方まで帰って来ない何て変だ。
 こんな時には早く帰って来ても、連絡も無しに遅くまで遊んでいられる子じゃない。

 耕一が帰ってないか見に行ったのかと思ったが、客間にも初音の姿はなかった。
 仏間も御風呂場も、家中探したが初音は帰ってなかった。
 あたしは自分が混乱しているのに、探し回った後になってやっと気が付いた。
 玄関の靴を見れば、帰ってるか、帰ってないかはすぐ判るのに。
 そんな簡単な事にも頭が回らなかった。

 居間に戻り初音の友達のアドレスを探している所で電話が鳴り出し、あたしは受話器を取りホッと胸を撫で下ろした。
 でも、すぐ何も判らなくなって、受話器を叩きつけ家を飛び出した。

 電話は初音からだった。
 耕一と一緒に鶴来屋に居ると言う。

 あたしは鬼を使い、陸上で鍛えた足で一気に地面を蹴った。
 冬の早い帳を下ろした街中を駆け抜け、身体にかかる負担も考えず、あたしは走り続けた。
 頬に当たる大気の切り裂く様な冷たさが、あたしの頭を少し働き出させた。

 足立さんは知らないと言ってたのに、耕一が鶴来屋に居る。
 それも初音と一緒に。
 考えられるのは一つだった。
 耕一が足立さんに口止めして、初音だけ呼び出した。
 出掛ける時の初音の様子がおかしかった。
 初音が嘘を吐いて出掛ける何て、耕一が口止めでもしないとする筈がない。

 冷たい大気を裂きながら、あたしの身体はだんだん冷え、頭だけが熱くどす黒い炎に包まれた様に熱くなっていった。
 怯えた顔で振り返る人を無視し、邪魔な家の屋根を飛び越え、あたしは一直線に鶴来屋に向って走った。
 鬼の力を使い過ぎ、鶴来屋に着いた時には息が切れ、身体の節々が痛みに悲鳴を上げた。
 こんな長時間、力を使ったのは初めてだった。
 何とか平静を装いフロントに部屋番号を聞く。
 あたしが柏木なのを知っているフロントの人は、簡単に部屋を教えてくれた。
 あたしは階段を駆け上がった。
 エレベーターを待つ時間も惜しかった。
 教えられた部屋の前で大きく息を吐き、あたしは扉のノブに手を掛けた。
 硬い手応えを伝え、扉は閉じられていた。
 あたしは鬼を開放した。
 扉を叩き壊そうと一歩下がった所で、扉が唐突に開いた。

 にやけた笑いを浮かべた耕一が、そこに立っていた。

 みんなが泣いてるのに、平気な顔で笑ってる耕一を見た瞬間。
 あたしは、暗い炎が身体を包むのを感じた。
「お出ぇ〜掛けかぁぁ〜〜耕一ぃ〜」
 何とか力を抑え様と喰い縛った歯の間から、声を絞り出した。

 まだ耕一だって決まった訳じゃない!

「千鶴姉に何した! 楓にまで何かしたな!!」
 抑え切れず、冷たい腹の底から声がほとばしり出た。
 声と一緒に暗い炎が全身を覆い、赤く染まった瞳が裂けたのを、あたしは感じた。
「馬鹿! 初音ちゃんもいるんだぞ!」
「馬鹿だと! 言え! 何した!!」
 耕一の罵声にあたしはカッとなりかけ、何とか拳を握り締め怒鳴り返した。

 一言でいい。
 何もしてないって耕一に、一言言って欲しい。

「初音ちゃん、ベットルームに行って」
 でも耕一はあたしに応えず、横目で視線をずらしそう言った。
 初音が耕一の背後から姿を現し、よろよろとベッドルームの方に歩いて行く。
 疲れた感じで、怯えた様に。
「…今度は、初音かぁ〜」
 あたしには、もう抑えている自信がなかった。

 やっぱりそうなのか、耕一!?
 だから、何も言えないのか!?

「梓、ちょと待てって。楓ちゃんがどうしたって?」

 なっ!
 お前の名前呼びながら泣いてんだぞっ!!
 どうして惚けるんだっ!!

 耕一は、惚けながら逃げる様に後ろに下がって行く。
 あたしは耕一に向かい足を動かしながら口を開いた。
「泣きながら部屋に閉じ篭もった! お前だろ。お前が何か、したんだ!!」
 あたしは必死に鬼を抑えながら、耕一に否定して欲しくて叫んでいた。
「言う事ないのか! 何とか、言え!!」
 否定して欲しくて叫んだあたしに、耕一は口の端でニヤッと笑った。

 耕一は変わっちまった!
 耕一は、もう昔の耕一じゃない!
 あたしの耕一は、こんな笑い方しない!!

 そう思った瞬間、あたしの鬼は一気に力を開放した。
「コォノオオオ〜〜〜ッ!!」
 渾身の力を込めた拳を、あたしは耕一めがけ放った。
 当たると確信した瞬間、耕一の姿が掻き消え、あたしの拳は空を切った。
 あたしの鬼が、危険を知らせあたしを振り向かせ様とした。
 でも振り向くより早く、あたしの身体はふわっと宙に浮き、一気に背中から床に叩きつけられた。
 とっさに頭を浮かせ、床に頭を打ち付けるのは回避した。
 でも、あたしの動きはそこで止まった。

 あたしを押さえ付けた耕一に、あたしは恐怖を感じていた。
 馬乗りにされ両肩を押さえ付けられたあたしは、さっきまで極限まで高まっていた炎の様な熱い力が、冷水を浴びせられた様に一気に冷え。
 自分が押し潰されるノミ見たいに小さく取るに足りない存在に感じた。
 それ程、圧倒的な力の差だった。
 千鶴姉の力に感じる恐さとは、比較にならない恐怖だった。
 硬直した身体は震える事も忘れ、只怯えるだけがあたしに許された生きている証しだった。

「梓! 力を抑えろ!」
 目の前にある耕一の口から、力を伴った怒号が頭に響き渡った。
「お前の誤解だ。説明するから、力を引っ込めてくれ。初音ちゃんが怖がるだろ?」
 そう言って笑った耕一は、あたしのよく知っている耕一だった。

 どちらにしろあたしには、頷く事しか出来なかった。
 耕一は、引っ込めてくれと言ったが。あたしに出来るのは、言葉に従い力を抑える事だけだった。

 あたしが力を抑えるのに合せ、耕一の鬼もその力を消していった。
 耕一の鬼が消え。
 あたしはやっと息を吐けた。
 痺れた様に身体から力が抜け、まだ動く事が出来なかった。

 これが恐怖って奴なのか?
 昔水門で溺れて死ぬと感じた時も恐かったけど。
 こんな、自分が卑小で無力な存在に思える恐さとは違った。

 大きく深呼吸して、あたしは改めて身体の上に乗っている耕一を意識した。
「耕一、いつまで乗っかってる気だよ」
 声に震えが出ない様に気を付け、あたしは強がって見せた。
 でも、あまり威勢のいい声にはならなかった。
「おっ、スマン」
「梓お姉ちゃん、大丈夫だった?」
 耕一が立ち上がり、とことこ近寄って来た初音が、あたしの頭の横にペタンと座ると顔を覗き込む。
「あたしは大丈夫だけど。初音は平気なのか?」
 本当は、まだ身体に力が良く入らなかったけど。
 あたしは、心配そうに覗き込む初音の蒼白い顔の方が心配で、そう聞いた。
「うん、大丈夫だけど。どうして?」
 キョトンと聞き返した初音の様子に、あたしはほっと息を吐き、頭を床に落とした。
「顔色が悪いからさ」
「あほ。お前が力なんか使うからだろ」
 天井を見上げ額を押さえながら初音に答えると、耕一の呆れた声が降って来た。
 あたしは両手で顔を覆った。

 そうか、あたしの力で怯えてたのか?

「ごめん。でもさ耕一。どうして足立さんに、鶴来屋に居るの口止めなんかすんだよ?」

 そうだよ。
 居場所が判ってたら、あたしだってあんなに悩まなかったんだ。

「なんだっ? 足立さんとは、昨日別れた切りだぞ」
 上半身を起こしながら口を尖らせると、耕一はカンジュースを差し出しながら首を捻った。
「あっ、あのね。梓お姉ちゃん」
「初音も、どうしてここに居るんだ?」
 焦った声を出した初音を軽く睨むと、初音はもじもじ指を弄り顔を臥せた。
「ごめんね。耕一お兄ちゃんに帰って来て貰ったら、千鶴お姉ちゃんも出て来てくれると思って。梓お姉ちゃん怒ってたから。こんなに遅くなると思わなかったし」
「初音、あんたか?」
 上目遣いにシュンと小さくなった初音に聞き返すと、初音は更に小さくなって肩を竦めた。
「ごめんなさい」
 あたしは耕一から受け取ったジュースを喉に流し込み、溜息を吐いた。

 足立さんに口止めしといて、帰りに一緒に連れて来て貰ったのか?
 足立さんまで初音には甘いんだから、あたしの悩みは何だったんだよ。

「良く判んないけど。まあ、取り合えず立てよ」
 そう言って手を差し出した耕一は、あたしが手を払い退けると思っていたんだろう。
 あたしが手を掴むと意外そうな顔をした。
「梓、頭打ったのか?」
「背中が痛いだけだよ」
 本当は力の使い過ぎで、身体の節々が痛くて、立ち上がるのがおっくうだったけど。
 からかってくる耕一に言い返し、あたしは立ち上がった。
 引っ張り上げてくれた耕一の手は温かくて、力強く引き上げられ、あたしは昨夜からの事が嘘みたいに安心出来た。

 やっぱり、耕一は変わってなんか無かった。
 お調子者で、温かくて優しかった。

「梓お姉ちゃん。楓お姉ちゃん、どうかしたの?」
「うん。それがさ、楓も部屋に入ったまま出て来ないんだよ」
 床に座ったまま見上げた初音に聞かれ、あたしは本当の事を話した。
 耕一に聞こうとすれば、一緒に居る初音にも判る事だ。
「楓お姉ちゃんも?」
 心配そうに視線を落し、初音には珍しく長い溜息を吐いた。
「まあ、まず座れよ。先に説教だな。話はそれからだ」
 小さく息を吐くとあたしに背中を向け、耕一はそう言ってソファに腰を下ろした。
「説教だ? どうして、あたしが」

 話し聞きたいのはあたし方だ。

「当然じゃないのか? カーペット見てみろ」
「カーペット?」
 耕一が指刺した方を見ると、床に座ったままの初音が、カーペットの上を手でなぞっていた。
「梓お姉ちゃん、取れそうもないよ」
「なにが?」
 困った様に眉を潜め、唇を押さえた初音のなぞってる辺りを見て、あたしは血の気が引いた。

 こんなの、千鶴姉に見付かったら。

「初音ちゃん、いいよ。張替無いと無理だろうし」
「…うん」
 耕一に手で呼ばれ、とことこと硬直したあたしの前を横切り、初音は耕一の隣に座る。
「高いんだろうなぁ〜。いい部屋だからな」
「耕一ぃ〜」
 初音が手でなぞっていた所には、見事なあたしの身体の痕が残っていた。
 良く見ると扉から身体の痕まで、あたしが踏み締めた足跡までが点々と続いている。
「金なら無い」
 弁償代立て替えてくれと言う前に、耕一は一言で返す。
「だってさ、耕一が押し倒したんじゃない」
 思い出した途端、顔がボッと赤くなった。

 そういやあたし馬乗りにされて、耕一に押さえ付けられてたんだ。

「お前の責任だろ? 一年ぐらい、小遣いカットか?」
「そんなんで済むかよ!」

 耕一は甘い。
 千鶴姉が、そんな甘い罰で許すもんか!

「その前に、俺が親父に代わって説教してやる。楽しみだろう?」
「叔父さんの、代わりだ?」
 耕一は楽しそうに目を細め、深くソファに腰掛け直した。
「耕一お兄ちゃん。梓お姉ちゃんも、千鶴お姉ちゃんと楓お姉ちゃんが心配だっただけだから。叱っちゃ可哀想だよ」
 初音は隣から腕を掴み、耕一の顔を覗き込む。

 初音は、やっぱり良い子だ。

「初音ちゃん。それとこれとは話が別だよ。躾けは、きちんとして置かないと」
「千鶴お姉ちゃんも、そうは言うけど」
「あんたは、千鶴姉か!」

 何であたしが、耕一に説教されなくちゃ何ないんだっ!

「本人の為に涙を呑んで叱るんだから、叱る方だって辛いんだよ。梓が憎くて、千鶴さんが厳しくしてるとは、初音ちゃんも思わないだろ?」
 耕一はあたしを無視して朗らかに、得々と初音に話していた。
「うん。もちろんそんな風に思わないよ。千鶴お姉ちゃん、自分が辛いの我慢して、あたし達叱ってくれてるんだよね」
 初音は真摯な瞳で、耕一の話を聞いて感動している。
「だからさ、俺だって叱るのは辛い。でも、これは梓の為なんだ」
 わざとらしく片手で額を押さえ、耕一は溜息を吐いて辛そうな顔を作った。
「どこがだ!」

 嘘を吐け、嘘を、どう見たって楽しんでるだろ。

「そうなんだね。耕一お兄ちゃん、梓お姉ちゃんの事心配してくれてるんだよね」

 初音、納得するなぁぁ!

「耕一っ!」
「器物破損、室内への乱入。暴行未遂もか」
「えっ?」
 お前が悪いんじゃないかっ! と怒鳴り掛けたあたしは、小さな溜息を吐いた耕一に細めた目で睨まれ。
 さっきの後遺症か、思わず身を引き聞き返した。
「いくら未成年でも、一晩かな?」
「耕一、あんた。それって?」
「梓。冬の拘置所って、寒いんだろうな?」
「あっ…ぅ」
「座るな?」

 耕一はやっぱり変わった。
 こんな奴じゃなかったのにぃ!!

陰の章 六章

陰の章 八章

陽の章 七章

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