陰の章 六


 歪んだ姿が振り返らず消えた扉を、私は見ている事しか出来なかった。
 後を追おうとした足は動かず。
 顔を覆った両手から溢れた雫が、ソファに零れ落ちるだけだった。

 私は馬鹿だ。
 心のどこかで期待していた。
 耕一さんが抱き締めて、許してくれるのを待っていた。
 抱き締めて恨んだりしてない。
 何があっても好きだって言って貰えれば、全部打ち明けても許して貰えそうな気がして。
 馬鹿な私は耕一さんを、また試して。

 梓に両親と叔父様の話を伝えると言った耕一さんの言葉は、確かにショックだった。
 梓は真っ直ぐな子だから、きっと黙っていた私を烈火のごとく怒るだろう。
 梓の性格は良く知っている。
 あの子が怒るのは情けないから。
 私が話さなかったのを、四人だけの姉妹なのに情けなく寂しく感じるから。
 あの子はきっと私を怒るのと同じに、話せるほど頼りにされていなかった自分の情けなさを責めるだろう。
 でも、梓の為ばかりじゃなかった。
 梓に、私が信用していないと思われたくなかった。
 信頼を無くすのが怖かった。
 私は梓の為と言いながら、保身しか考えていないのかも知れない。
 耕一さんが自分の事は自分で決めると言った言葉に、だからあんなに動揺したんだろう。
 私は耕一さんの意思も、梓の意思も無視して、自分の不安だけで考えているから。
 耕一さんを呼んだのも、手に掛け様としたのも、梓に話さないのも、私の身勝手だから。
 耕一さんに、ちゃんと話せば良かった。

 どうして私は、耕一さんの前だと我が侭な子供みたいになるの?
 あの女。
 由美子さんて人を見た途端、不安や罪悪感より嫉妬で何も考えられなくなるなんて。
 連絡が途切れがちなのが、アルバイトの所為だと判っただけで安心するなんて。
 いいえ。
 それより耕一さんの話が、将来の話だったから安心したのかも知れない。
 耕一さんが何も気付いていなかったから。
 話してる間も、気付く様子がなかったから安心していたのかも。
 耕一さんには、私を責める気なんかなかったのかも知れないのに。
 私は、私の身勝手を責められてる気がして、取り乱して。
 何度も気にしていないって言ってくれたのに。
 私の方が苦しんだ。
 幸せにするとまで言って貰ったのに。
 耕一さんは、もう呆れているかも知れない。
 焼きもち焼きで、いつまでも同じ事を繰り返して、泣いて喚くうっとうしい女だもの。

 …そうよね。それだけじゃないわ。
 さっき私が言った事だけで、普通の人なら近付きもしない。

 崩れる様にソファに身を委ねると、皮張りのソファが冷たく私の頬を受け止めた。

 自分の苦しさや辛さの為に死んでくれなんて、良く言えたものだわ。
 しかも、自分で仕組んで置いて。
 自分じゃないって言って、逃げ回る耕一さんを追い回して、切り裂いて。

 クツクツといつの間にか、私はソファの冷たい皮に顔を押し付け、笑いを洩らしていた。

 それでも許して貰って、何が不満だったの?
 ネズミを追いかける猫みたいに、殺そうと追いかけ回す女が愛して貰おう。
 なんてね。

 止まらない笑いを擦り付けた皮は、冷淡な私に相応しく冷たく濡れていた。

 鬼だから?
 耕一さんも鬼だから、判って貰えると思っていたの?
 そんなの、理由に何かならないわよ。
 耕一さんは知らなかったもの。
 自分に鬼の血が流れてるなんて。
 私は耕一さんに、直前まで何も教えなかったもの。
 勝手に痕だけ確かめて、水門まで連れて行って、勝手な理由を並べ立てて。
 そう、誘き寄せた獲物を仕留めるみたいに追い回して。
 見えなくても、私の手は耕一さんの血で濡れているもの。
 死ななかったのは、偶然みたいなものよ!
 命を助けて貰っただけでも充分じゃない!

 そう考えると頬が歪んだ。

 あのまま死んだ方が良かったかも知れない。
 そうすれば、家も鶴来屋も妹達も、何も考えずに済んだのに。

 …耕…一…さん?

 扉をノックする音に慌てて身を起こし、駆け寄りノブに掛かった手が止まった。
 出て行った耕一さんが引き返して来たなら、ノックなんて。

「萩野ですが。会長、いらしゃいますか?」
 一度止んだノックが再び野太い声と共に聞こえた。
「…萩野さん? どうぞ。御入り下さい」
 スッと息を吸い声が掠れない様に気を付け、返事を返した。
 返事を返しながら踵を返し、開かれた扉の音に背を向けハンカチで涙を拭い会長席に向う。

 重役では居留守は使えない。
 会社に居る間は、私は会長をやるしか無いのだから。

「ああ、仕事の話ではありませんので。宜しければこちらで」
 会長席に着こうとした私の背に、萩野さんのいつもとは違う穏やかな声が聞こえた。
 不信に思いながら涙をもう一度拭き振り返ると、ソファに腰を下ろし、萩野さんは出したままのティセットを眺めていた。
 出来るだけ落ち着いた足取りでソファに近付き、涙で濡れた横に腰を下ろし、手にしたハンカチをさりげなく濡れたソファの上に被せる。
「仕事ではないと仰ると。御見合いの件でしたら、お断りいたします」
 先に釘を刺すと、萩野さんは僅かに眉を潜めた。
「佐久間さんの方には、きちんとお断りして置きました」
「そうですか」
 軽く答え微かに笑みを作る。

 早く本題に入って貰いたいものだ。
 いつまでも顔を作っている自身が、今の私にはない。

「会長も御人が悪いですな。賢治さんの息子さんですが、確かもう一年程で卒業では?」
「はっ?」
 意外と言うか、急に耕一さんを持ち出され、私は首を傾げた。

 萩野さんが耕一さんを持ち出すのは、予想はしていた。
 でも、それは恥を掻かされた非難であって、萩野さんのどこか楽しそうな様子は予想外だった。

「いや、ですから。卒業したら鶴来屋にこられるのでしょうな?」
「いえ、あの?」
 ぎこちなく笑い聞き返すと、萩野さんは眉間に皺を寄せた。
「会長、有望な人材の獲得と時期役員の育成は最重要な業務ですぞ。佐久間さん等は、副社長自らヘッドハンティングの指揮を取っていらっしゃる」
「それは判りますが。それと耕一さんの御話との繋がりが、掴めないものですから」
 何とか冷静に勤め聞き返すと、今度は、萩野さんは腕を組んで考え込んだ。
「ふむ。てっきり接客等を御客様の立場から見る為と思っておったのですが、早とちりでしたかな?」
「萩野さん、一人で納得なさってないで。順を追って御話になって頂けませんか?」
 話の内容が掴めず軽く睨むと、萩野さんは考え込んでいた顔を上げた。
「いや、失礼いたしました。佐久間さんの副社長が気に入られた様でしてね。何かとお尋ねになられる」
「御見合いは、お断りしたと?」
「いや、賢治さんの息子さん。耕一さんでしたか? 彼の方です」
 私は思わず額を押さえていた。

 私はどうでも良くて、耕一さんを気に入った?
 好かれたかった訳じゃないけど、私にもプライドがある。 あの副社長、私をとことん馬鹿にしているわ。

「どうも、佐久間に欲しがっておられる様でして」
「ですが。耕一さんの大学は、佐久間クラスの雇用者予定には入っていない筈ですが?」

 耕一さんを馬鹿にする様で気は引けるけど、大学のランクが低いのは事実だから。
 ごめんなさい。

「私は大学は出ておりませんが、重役ですぞ」
「いえ、そういう意味では。失言でした」
 ムッとした顔で睨まれ、私は頭を下げた。

 萩野さん、私が国立大出たのにコンプレックスを持っているのかしら?

「まあ良いでしょう。副社長が気に入れば、学歴など関係はありません。仕事は後で覚えれば宜しい」
「では佐久間さんは、耕一さんの何を気に入られたと?」
「気迫ですな」
「気迫。ですか?」

 確かに鬼の気なら、気迫で人を押さえ付けられるけど。
 佐久間さんの前で鬼を見せたのは私だった筈。

「さよう。二十歳そこそこで副社長と互角に話し合える人材は、そうはおりませんからな。仕事は覚えられても、これはなかなか教えられません。事実うちの社員も、接客はよろしいが、新規に事業を押し進める気迫に欠けます。最後の押しが弱い」
「耕一さんには、その気迫があると?」
「あれは気迫というよりは、殺気でしたが。白刃の下に身をさらした気がいたしました。まだ御若いのに、御爺様そっくりですな」
 苦笑いを浮かべ、萩野さんは御爺様の写真を見上げられた。

 この方も晩年の御爺様に育てられた方だから、私と同じ様に感じたらしい。
 でもこれで萩野さんが反感を持っているのは私で、柏木ではない事が良く判った。
 萩野さんが言いたい事も判った。
 佐久間が欲しがっているから、耕一さんを早めに鶴来屋に入れろと言いたいのだろう。

「それでは萩野さんは、耕一さんを鶴来屋に迎えたいと仰るんですね?」
「当然でしょう。次期会長なら早めに仕事を覚えて頂いた方がよろしいでしょう。副社長からそう御聞きしたのですが?」
「あっ、それは」

 そうだった。
 萩野さんから足立さんの耳に入る前にって…耕一さんが…
 …私の社内での立場を考えて。

「喧嘩ですか?」
「えっ?」
 ふっと息を吐くと、萩野さんはやれやれと頭を振った。
「こちらに来ていて、鶴来屋に泊まるとはおかしいとは思いましたが」
「耕一さんに、お会いになられたんですか?」
「御部屋に案内されていかれたのを見ましてね。足立君も帰った後でしたので、宿泊名簿を少し」

 じゃあ、耕一さんは本当に家に帰らないの?

「彼、生活の方は? 学費とか生活費ですが」
「学費は叔父様の遺産を、生活費はアルバイトで。…何故ですか?」
 萩野さんの唐突な質問にうっかり答えてから、私はハッとして萩野さんに顔を上げた。
「アルバイトで自活ですか? なかなか骨がありますな。ですが、早めに話し合うかどうかしないと。破産しませんかな?」
「破産?」
「会長が空き室の状態もご存じ無いでは、弱りましたな」
 苦笑気味に萩野さんに言われ、少し考え私も思い当たった。
 予約外で空いている部屋は、耕一さんに払える様な額じゃ。
「足立君は普段は融通が聞きますが、仕事となると厳しいですからね。宿代がなくなるか、その前に帰るかですかね」

 萩野さんの言う通りだ。
 柏木だからって宿泊費を無料にする足立さんじゃない。
 そんな事をしたら、社員に示しが付かない。
 でも、一泊で耕一さんの一月分の生活費位になるんじゃ。

「まあ時期役員の視察なら、足立君も何とか名目は立ちますが」
 忍び笑いが洩れ聞こえ、私は考え込んでいたのに気が付き、表情を引き締めた。
「こじれる前に話し合われる事ですな。では、そろそろ失礼いたします」
 そう言って立ち上がった萩野さんは、叔父様がいらした頃の優しい表情をしていた。
「会長も、年頃のお嬢さんでしたな」
 笑いを洩らしながら背を向けた萩野さんに、私は小さく頭を下げた。

 耕一さんは不思議な人だ。
 あんなに頑なだった萩野さんを、叔父様のいらした頃の萩野さんに戻してしまった。
 御爺様に傾倒し、叔父様とも親しかった萩野さんだから?
 萩野さんも、耕一さんに叔父様の面影を見たのかしら?
 落ち着くまで待っていると、耕一さんは言っていた。
 出て行く時、耕一さんはなんて言ったのかしら?
 よく聞こえなかったけど、確かに何かを言っていた。

 私は机に向かい、フロントに耕一さんの部屋を尋ね。
 会長席に深く腰を下ろした。
 いつの間にか、もう十一時を回っている。

 …行かないと。
 どうなるにしろ、今のままよりは……

 行こうと思いながら、ぼんやり瞳に映る時計の針だけが動き続けていた。

 時計の針が重なったのを眺め、私は重い身体を起こした。
 会長室を出て、エレベータで五階下のフロアに向う。
 鶴来屋でも最上級に次ぐ部屋が並びフロアだ。
 深夜のフロアはシンと静まり返っていた。
 ゆっくり重い足を引きずる様に進むと、もうそこに耕一さんの部屋がある筈だった。
 でも、私の足は廊下の端で止まった。
 壁に寄りかかり、私はエレベータに戻り後は憶えていない。

 気が付くと車が家の前に着いていた。
 訝しげな運転手の唇が、盛んに形を変えている。
 そのまま車から揺れる地面を踏み門を潜り抜け、玄関を通り部屋に向う。
「…千鶴…姉?」
 不意に肩を掴まれ足が止まった。
 掴まれた肩から手を払い退ける気も起きない。
「…どうしたんだよ?」
 私の前に回り込んだ梓の顔が、奇妙に歪んでいた。
「…千鶴姉? 一体、どうしたんだよ?」
「…あずさ、ごめん。…つかれたの」
 自分の声とは思えないしわがれた掠れ声が、耳の奥で何度も響き、身体から最後の力まで奪っていく。
「……耕一? 耕一は、一緒じゃなかったのか?」
「帰って…来ない…わ」
 もう永遠に帰って来ないのかも。
「帰って来ないって?」
「梓っ!」
 どこにそんな力が残っていたのか、頭が割れる様な自分の声に、私は頭を押さえ唖然とする梓を残し自分の部屋に入って鍵を掛けた。
 扉を叩く音が頭に響く。
 ベットに潜り込み、私は身体を丸め両手で耳を塞いだ。

 遅かったの?
 それとも、…将来って?
 あの女との将来?

 赤い顔で耕一さんの部屋から出て来た女の顔が浮かび、暗く重い冷たい心が、私の中を闇一色に染め上げる。

 聞こえなかったのは、別れの言葉?
 何も考えたくない。
 もう……


  § § §


 扉を叩く音だけが、虚しく廊下に響き渡る。
 ふっ〜と息を吐き出し、痛くなった拳を左手で摩る。
 あたしが扉を叩くのを止めると、初音が小さく部屋の中に呼び掛ける。
 数度繰り返したが、千鶴姉は何も応え様としない。

 こんな事は初めてだ。

 耳を扉に押し付けても、中からは何の物音も聞こえて来ない。
「姉さん、だめ」
 あたしが扉を破ろうと鬼を開放し出すと、楓がふるふる髪を揺らし、視線をあたしに据えたまま首を横に振る。
「でも楓。千鶴姉、普通じゃないよ」
 初音を怯えさせない様、あたしは何とか怒鳴り付けるのを抑えた。
 初音は千鶴姉の部屋の前で、怯え切った蒼褪めた顔をあたしに向けている。

 千鶴姉を心配してるだけじゃなく、怯えている。
 千鶴姉があたしに発した一言は、寝ていた楓と初音を起こし、肩を掴んだあたしの手を離させるのに充分な力を持っていた。
 それも、いつも力を使う時の冷たい冷静さを欠いた、悲鳴の様な哀しい力。

「落ち着くまで待った方がいいと思う」
 楓は心配そうに固く閉じられた扉を見ながら、考える様に目を臥せ、下唇に指を置いた。
「でもな楓、こ……」
 耕一も帰って来ないと言い掛け、あたしは初音の瞳に気付き言葉を切った。

 あたし達でも震え上がったのに、初音は力さえ発現していない。
 その上千鶴姉が返事もしないから、余計不安がっている。
 こんな時に、耕一が帰って来ないって知ったら。
 初音はもっと。

「それに、今扉を破っても、姉さんは何も話さない」

 楓の言う通りだろう。
 いつも笑ってて、優しくて相談に乗ってくれるけど。
 千鶴姉は大抵の事は話し合って決めるけど、自分の事や肝心な事はあたし達には話さない。
 保護者だから、姉だから自分の事で心配を掛けたくないんだろうけど。
 こういう時、あたしは何か壁見たいな物を感じてしまう。

「判ったよ。初音も楓も、もう寝な。明日んなったら、千鶴姉も出て来るだろ」
「梓お姉ちゃん、耕一お兄ちゃんは? 千鶴お姉ちゃんと一緒じゃなかったの?」
 初音の頭を撫でながら二人に言うと、初音が小さな拳を胸の前で握り締め、心配そうに聞いてきた。

 一緒ならここに居ない訳無いよな。
 あたしはこういう時、嘘を吐くのが苦手だ。

「えっと、あの馬鹿なら先に帰って来て。酒呑んでて寝ちゃったけど」
「初音、もう遅いから。耕一さんには、明日相談しましょ」
 楓は一瞬であたしの嘘を見破った。
 初音が聞き返す前にスッとあたしと初音の間に入り、言い聞かせながら初音の肩を抱き部屋に促した。
 初音もそう言われると、今から耕一を起こそうと言い出せる子じゃない。
 耕一が家に居るのに安心した様に胸に手を置き小さく息を吐き、こくんと頷くと楓に連れられ自分の部屋に入って行った。
 あたしはもう一度千鶴姉の部屋の扉を叩き、暫く返事がないか待ってから居間に引き返した。
 居間に胡座を掻いて座り、ふっ〜と息を吐いた。

 何がどうなっているのか、さっぱり判らない。
 この街はおろか、自分のマンションしか耕一には行く所なんかない。
 いや、叔母さんの実家があるか?
 でも帰って来ないって事は、千鶴姉と一度は会ってるんだよな?
 叔母さんの実家もマンションも、それからなら夜行だし、荷物も取りに来ない何ておかしいよ。

 ボリボリ頭を掻くと、余計苛々して来た。

 それに千鶴姉も、普通じゃない。

「姉さん」
「初音は?」
 居間に入って来た楓に呼ばれ、あたしは顔を上げた。
「耕一さんが帰っているって聞いて安心したみたい。何とか寝ました」
「明日の朝が大変だよ」
 夏に耕一の姿が見えなくて、朝から家中探し回った初音を思い出し、あたしは頭が痛くなった。
「耕一さん、やっぱり帰って来てないの?」
 楓はやっぱりあたしの嘘に気付いていた。
 腰を下ろすと目を臥せポツリと聞いた。
「うん。千鶴姉が帰って来ないって、一言だけ」
「それだけ?」
「聞き返したら、梓、ってさ。楓もアレで起きたんだろ?」
 こくんと頷くと、楓は黙り込み俯いてしまう。
「取り合えず明日だな。楓も、もう寝な。あたしももう寝るからさ」
 小さく頷くと、楓はスッと腰を上げ居間を後にした。
 あたしは楓の姿が見えなくなり、ほっと息を吐いた。
 楓に千鶴姉の様子を聞かれたら、どう答えていいか判らなかったからだ。

 家は、みんな早く寝る方だと思う。
 耕一は最初驚いていたけど、朝食の用意とかもあるから、みんな遅くても十一時には部屋に引き上げる。
 今日も千鶴姉と耕一の帰りを待っていた初音と楓を、十一時過ぎに部屋に帰らせ、あたしは一人で居間で帰りを待っていた。
 電話の一本もして来ないのに腹を立てながらも、足立さんと耕一でお酒でも呑んでいるのかも知れないと思い。
 仕方ないかもな、とも考えていた。
 待っている内、いつの間にか眠っていたあたしは、玄関を開ける音に目を覚まし、文句の一つも言ってやろうと勇んで居間を出た。
 玄関であたしは、一瞬目を疑った。
 最初は、酔っているのかと思った。
 千鶴姉の蒼白い顔に虚ろに淀んだ瞳で、ふらふらと歩く姿は、あたしが想像もした事のない姿だった。
 前に立っているあたしが目に入らない様に向けられた、俯かせた顔に長い髪が被さった面にゾッと背筋に震えが走った。
 前にテレビで見た幽霊画の幽霊みたいに現実感がなくて、影の様に儚く淡い姿だった。
 声も掛けられず突っ立っていたあたしの横を、よろよろ通りすぎた千鶴姉を、はっとして追いかけ様としたあたしは、玄関にいたおっさんに呼び止められた。
 ハイヤーの運転手だった。
 千鶴姉を追おうと焦るあたしに、運転手は領収書にサインだけくれと言い。
 領収書とローヒールをあたしに差し出した。
 千鶴姉は靴も履かずハイヤーから降りたらしい。
 礼を言いサインする間に、運転手は鶴来屋で乗せた時も、家に。としか言わなかったと教えてくれた。
 会長だから乗せたが、普通なら乗せないと言う運転手の嫌みったらしい言い方に、頭に血が昇りかけたが運転手の言い分も、もっともだった。
 さっき見た千鶴姉なら、途中で放り出されていたら、どうなっていたか。
 いくら鶴来屋に出入りしているハイヤーでも、無事家まで乗せて来てくれて、感謝しても怒鳴れるスジじゃなかった。
 我慢して、あたしは頭を下げた。
 運転手が帰って玄関を締めると、あたしは千鶴姉の後を追った。
 廊下には引きずった様な濡れた足跡が残されていた。
 よろよろと右に左に足を引きながら、あたし達の部屋の方向を目指していた。
 追いかけながら、あたしは泣きたくなった。

 こんな千鶴姉は初めてだ。
 父さん達が死んだ時も、叔父さんが死んだ時も、あたし達に、こんな姿を見せたりしなかった。

 やっと追い着いたのは、千鶴姉の部屋の前だった。
 廊下の端から姿が見えてから何度呼んでも聞こえない様に振り向きもせず。

 いや、本当に聞こえてなかったのか?

 追い付いて肩を掴むと、よろけて壁に寄り掛り足を止めただけで、顔を上げ様ともしなかった。

 あたしはそれにも驚いたが、それより千鶴姉の肩を掴んだ感触が、まるで調理前の生気が失せた生肉みたいに、冷たい骨を鷲掴みにした様だったのにギョッとなった。

 多分混乱してヒステリーを起こす手前だったんだろう。
 喚き散らしたいのを、何とか必死に我慢した。
 あたしはジッと動かない千鶴姉の前に回り、顔を覗き込んで千鶴姉を呼んだ。
 覗き込んだ千鶴姉の顔からは血の気が失せ、御通夜の前、死化粧を施される前の叔父さんを思い出させる顔色だった。
 死んだ魚見たいな澱んだ瞳に涙を浮べ、いつも綺麗にしている長い髪は乱れ、所々に泥がこびり付いていた。
 そう思って千鶴姉を足元から見直してみると、足もスーツも、何度も転んだ見たいに雪が混ざった泥にまみれていた。
 着て行ったコートも着てないし、バックも持っていない。
 助けも呼べない不安で、あたしは押し潰されそうになった。
 妹達にこんな千鶴姉を見せられないと言うのが、最後に残ったあたしの理性だった。
 何とか声を振り絞りどうしたのか聞きながら、あたしは誰かに助けて欲しいと心の底から願った。
 今までどうしていいか判らない時、助けてくれたのは千鶴姉と叔父さんで。
 叔父さんが死んで、助けてくれる千鶴姉がおかしくて。
 あたしは、どうしていいのか判らなくなっていた。
 一番最初に、頭に浮かんだのが耕一だった。
 あたしはそれまで千鶴姉の様子に驚いて、すっかり耕一の事を忘れていた。

 千鶴姉と一緒に居た筈の耕一は、どうしてこんな状態の千鶴姉を一人で帰したの?
 まさか耕一に何かあって、千鶴姉がおかしくなっているのかと思って、あたしは耕一の事を聞いてみた。
 微かに瞼を動かした千鶴姉の返事は、あたしを余計混乱させた。

 千鶴姉は、耕一は帰って来ないと言う。
 でも耕一には他に行くトコなんか無いし、こんな状態の千鶴姉を放って置く奴じゃない。

 そう思って聞き返した瞬間、あたしは凍り付いた。
 千鶴姉に一言呼ばれただけだった。
 でもあたしは、多分妹達も。
 叔父さんが死んだ時みたいに心が痛くなって。
 あの時よりもっと哀しくなって、茫然と立ち竦んでいる間に、千鶴姉は部屋に入って鍵を掛けてしまった。
 初音と楓が部屋から恐る恐る顔を出し、あたしは妹達が開けた扉の音でやっと我に返った。
 でも幾度扉を叩いても、あたしと初音が呼びかけても、千鶴姉は返事処か物音一つ立てなかった。

 一体、どうしたんだ?
 あんな状態の千鶴姉放っといて、耕一はどこに行ったんだ?
 まさか事故!?
 …いや、違う。かな?
 それなら病院から電話してくる筈だよな。
 命に関わる様な事故なら、耕一置いて千鶴姉が一人で帰って来る訳無いし。
 それに運転手さんも、鶴来屋で乗せたって言ってたよ。
 ローヒールだって、会社で使ってる奴だし。
 泥だらけの服と千鶴姉の様子だけなら、普通なら暴漢の線だろうけど。千鶴姉は鬼だからな、どんな男が襲ったって敵う訳無いし。
 実際睨まれただけで、あたしでも震え上がって動けなくなるんだから。
 まあ、子供の頃からの条件反射になってるからだけど。
 でも、それじゃ……!

 自分の想像に、あたしは頭を掻き毟(むし)って笑いを洩らした。

 ははっ、そんな訳ないじゃん。
 確かに馬鹿でスケベだけど、卑怯者でも悪人でも無いんだから。
 そりゃ、あいつなら千鶴姉も鬼は使えないけど。
 下手すりゃ殺しちまうからな。
 そりゃ。もし、そうなら千鶴姉だって二重三重のショックで、おかしくなって当然だけど……

 暗く悪い方悪い方に流れそうな考えを、あたしはこつんと自分の頭を叩いて、大きく息を吸い追い払おうとした。
 でも、あまり効果はなかった。

 でも、なんで帰って来ないんだ?
 帰って来にくいか、帰りたくても帰れないとかか?
 足立さんと飲んで寝込んだ。とか?
 …違うな。
 足立さんが一緒なら、千鶴姉を一人で帰す訳無いよ。
 足立さんが送って来る筈だ。
 呑んでから帰る間に、何かあったとかか?
 でも、足立さんと呑んでたとも限らないよな。
 …会長室って、私室が在るから酒置いてたな?
 千鶴姉が普段呑んでんの見ないけど、あいつなら安心して、叔父さんの遺した酒だからとか言われたら呑むかも。
 さっきの千鶴姉、酔ってる様にも見えたよな?
 そんでもって、酔って千鶴姉が寝込んだりしたら?
 あいつ、……呑むとスケベになるからな。
 あいつって、昔から千鶴姉に憧れてたしな。
 あいつも男だし、酔ってついって事もっ!

「だめだっ。耕一ぃ〜、早く帰って来いよなぁ。帰って来ないと、どんどん悪い方に考えちゃうよぉ〜」

 あたしはそのまま居間のテーブルに突っ伏し、朝まで悪い想像をしては、否定して夜を明かした。

陰の章 五章

陰の章 七章

陽の章 六章

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