陰の章 五
重い。
クスッ。
もう慣れてた筈なのに、たった二日で改めて感じた身体の重さに、思わず笑いが洩れた。
でも、慣れって恐ろしいわ。
あんなに不安でも眠れるなんてね。
利権争いの時は眠れなかったのに、まだ中学生だったからかしらね。
まだ朝一番早起きの梓さえ起きていない早朝の御風呂場。
熱いシャワーを浴びて髪を直せば、目に隈さえ残っていない。
鏡に映った顔は、いつもの笑顔。
いつまで、この顔を作っていくのかしら?
忌まわしい血のお蔭で、少し整えれば隈さえ残らない。
女性なら誰しも羨むだろう、いつでも健康な肌。
その裏に隠された鬼女の血も知らず、いつも綺麗だと羨む女性社員達。
好きな人を信じて許しも乞えない卑怯で浅ましい女を、あの人達は綺麗だと羨む。
綺麗だと言って貰いたいのは、一人だけ。
今では、一人だけなのっ!
私は踵を返しゆっくり歩き出した。
そのまま鏡を見ていると、叩き割りたくなるから。
いつの間にか客間に向っていた足は、客間に着く事なく止まった。
あの人は、廊下で庭を眺めていたから。
廊下の角を曲がった途端、瞳が映し出した姿に、私は曲がった角に身を隠した。
また、あの表情と瞳だった。
庭に向けながら瞳は遠くを見、表情は早朝の冷気を映した様に厳しかった。
どの位そうしていたのか、不意に耕一さんは息を吐くと、白く濁った息が消えるのを眺め客間に入って行った。
私は耕一さんの姿が消え、シャワーで暖めた身体が冷え切っているのにやっと気が付いた。
小さな身震いが起こり、私は自分の肩を抱き居間へ向った。
身体を震わせたのが身を切る様な寒さの為か、耕一さんの姿の為なのか理解出来ないまま客間に入る勇気が、私にはなかった。
居間に入ると、台所から朝食の用意をしている梓と初音の声が聞こえて来る。
私は台所に声を掛けず、いつもの場所に腰を下ろし、新聞を広げた。
広げた新聞の活字は目に映るだけで、意味のある言葉にはならなかった。
僅か一日で、天国と地獄を行き来している様。
一晩そばから離れただけで、同じ家に居ると言うのに、こんなにも不安になってしまう。
これが、私の犯した罪の報いなの?
「千鶴お姉ちゃん、おはよう」
新聞から顔を上げると、眩しい純粋な笑顔が向けられていた。
私が遠い昔に無くした。
自然と見る者を幸せにする、幼子の様な無垢な笑み。
初音の微笑みを天使の微笑みなんて、耕一さんは冗談めかして言っていたわね。
「おはよう、初音」
台所から食器を手に現れた初音に朝の挨拶を返し、自然に頬に笑みが浮かんだ。
こんな時でも、ちゃんと受け答えしている自分が妙におかしい。
私の荒れすさみそうな心を、いつも妹達が和らげてくれる。
「おはよ。この分じゃ、楓もすぐ起きて来るな」
「おはよう、梓。この分って、何の事かしらね?」
朝食の用意を進めながら厭らしい目付きで見る梓に返すと、梓は鼻の頭を掻き掻き顔を横向け、厭し目を横目に変える。
「いや、なにね。耕一が来ると早起きになるのが、二人ばかりいるんでね」
「梓お姉ちゃんだって、いつもより早かったよね?」
すかさず初音が、横から助けてくれる。
「それは、いつもより一人分多いからさ」
「手間は、おんなじだよ」
照れ臭そうに顔を逸らした梓の様子が、初音の言葉を裏づけている。
梓には、間違ってもポーカーフェイスは出来そうもない。
「初音だって早かっただろ」
楽しそうに言い合いながら、二人共手は休めずどんどん朝食の用意を進めて行く。
どうしてあれだけ話しながら、お皿も割らず用意が出来るのかしら?
「千鶴姉は、今日もいいの?」
「ええ、止めて置くわ」
意地の悪い子。
答が判っていて、梓は毎朝聞いてくる。
私の中で正直なのは、今ではお腹だけなのかしら?
昨日はあんなにお腹が空いたのに、今日は何も欲しくない。
「それより、何か手伝う事はないかしら?」
一瞬二人の動きが止まったかと思うと、梓と初音は顔を見合わせた。
「あっ! じゃあ、耕一お兄ちゃん起こして来て貰おうかな?」
「ああ、そうだよな。それがいい。頼んだよ」
初音が言うと慌てて梓が頷き、二人は素知らぬ顔で朝食の用意を再開した。
いつもなら喜んで行くけど。
行かないと、二人共不信に思うでしょうね。
私は重い身体を持ち上げ客間に向った。
客間の前の庭は、晴天の眩さに私の心とは裏腹に明るく白い輝きを放っていた。
客間の前で立ち止まり、中を見通そうとする様に障子を見詰める。
何度目だろう?
こうやって、ここで恐れながら障子を見詰めるのは。
一度目は、蒼い月の下。
二度目は、残暑を残す日差しを受けていた。
どちらも、そして今も、己が罪の深さと失う恐れに震えている。
息を一つ吸い込む。
凍える冷たさに満たされた胸が、微かな痛みを訴えた。
「…耕一さん」
痛みを訴える胸から、そっと吐き出した息に乗せ名を呼ぶ。
自分の鼓動が頭の中で響き、膝から力が抜けそうになる足を何とか励ました。
中に居るのは、私の知っている耕一さん?
それとも……
「千鶴さん? どうぞ、入って」
永遠とも束の間ともつかぬ時の後。
障子越しに応えたのは、私の知っている耕一さんの少し眠そうな、優しい声だった。
胸に残った痛みを吐き出し、私は障子を開けた。
§ § §
耕一の手が目の前で揺れる。
右、左、それだよ。
「よし。こっち」
「あっ!」
だめだ、また負けた。
「梓。お前、弱いな」
耕一の馬鹿っ面がニヤニヤと歪む。
「ヘン。あたしが負けなきゃ耕一がべべだろが」
「おぉ〜お。花を持たせたって言いたいのか?」
チィクショー。
何で、あたしがばば抜きで六連敗もしなきゃなんないんだ?
千鶴姉がいれば、べべは決定なのにさ。
千鶴姉が仕事に出掛けた後、居間の食卓の上には、初音が部屋から持って来たトランプが山を作っている。
残っているのは、あたしの手元のばば一枚。
「梓お姉ちゃん、トランプ苦手だから」
初音、それはフォロ〜のつもりか?
「姉さん、顔に出るから」
楓まで耕一が来ると、急に言う様になるんだから。
「初音ちゃんが、またトップか」
「えへへ。楓お姉ちゃんと丁度三勝で、同点だね」
ご褒美に耕一に頭を撫でられ、嬉そうに笑う初音をちょっと羨ましそうに見る楓を、あたしは見逃さなかった。
「楓も三勝だし、初音だけってのは狡いよな」
楓は真っ赤になって俯くと、チラッと耕一に視線を送りふるふる髪を横に揺らした。
「うぅ〜ん、確かにそうだな。楓ちゃんは、いやかな?」
耕一に聞かれた楓は、どうしていいか判らず俯いたまま固まり。耕一は消極的な肯定と取ったのか、手を伸ばし楓の頭をゆっくり撫でた。
初音まで行かなくても、あたしも楓ぐらい正直になれたらな。
あたしは口元を指で押え、真っ赤になって目を細めて嬉そうにしている楓を見て、そう思った。
頭を触られるのは嫌いだけど、耕一ならいいと思う。
耕一はよく頭を叩くけど、痛くない様に乗せる見たいにしてるのは知ってる。
怒って見せるけど、そんなにイヤじゃない。
口が裂けても自分から、撫でて欲しいなんてあたしには言い出せないけど。
「よし、もう一勝負」
「悪い」
あたしが勢い良くテーブル上のカードを集め出すと、耕一はそう言って顔の前に片手を挙げた。
「耕一お兄ちゃん、飽きちゃった? 他のゲームにしようか?」
「ごめん、ちょっと用事があって出掛けないと」
「用って? 耕一、昼までに帰ってくんだろ?」
悪そうに頭を下げた耕一から時計に目を移すと、十一時前だった。
「いや、スマン。そのまま足立さんに挨拶に行くからさ、昼飯はいいわ」
「何だよ、もっと早く言えよな」
寒いのに慣れてないだろうと思って、せっかく鍋焼きうどんの材料買っといたのにな。
まあ、明日でもいいか。
「スマン。大掃除とか手伝うから勘弁してくれ」
「ああ、掃除なら終わったよ」
「終わった? 三十日じゃないのか?」
軽く言うと、耕一は気の抜けた様な顔をした。
「千鶴姉が張り切るからね。留守の間に済ましたんだよ」
「お姉ちゃん」
「いいって。逆に手間が増えるって事ぐらい、耕一だってもう判ってるよ。なっ?」
「まあ。な」
止める初音に軽く手を振り耕一を見ると、耕一は少し複雑な表情で曖昧に返した。
千鶴姉が絡むと、耕一は時々こういう曖昧な答え方をする。
そりゃ千鶴姉は、あたしには出来すぎたいい姉貴だ。
後、料理が上手くて食器を割らずに洗ってくれれば、完璧だろうさ。
でも耕一がこういう曖昧な答え方をすると、あたしは何となく嫌な気持ちになってしまう。
嫉妬なのかな?
耕一の態度が、千鶴姉とあたしで全然違うからかな?
でも今更、弟みたいだったあたしが、千鶴姉の真似したって似合わないし、耕一だって気味悪がるだけだろうな。
「洗い物とかあったら、先に出しときなよ。乾き難いから、あんまりためられると困るからね」
だからあたしはこんな風に、千鶴姉が苦手な家事で、自分は女なんだってアピールしようとするんだと思う。
「ああ、悪いな。じゃあ出しとくわ」
「あっ、お兄ちゃん。あたし、お部屋まで取りに行くね」
「あっ…うん」
立ち上がった耕一は、一緒に初音が立ち上がると何か言い掛けて途中で止め。
「じゃあ。初音ちゃん、悪いけど頼める?」
「うん」
初音の頭に手を置くと、そう言ってこくんと頷いた初音と歩き出した。
楓は相変わらずマイペースで、二人の後を目で追い溜息など吐いて、お茶を口に運んでいる。
耕一が言い掛けて止めたのは、初音が、少しでもそばに居る理由を作りたかっただけなのに気が付いたんだろう。
夏来た時より、耕一はそういう所が聡くなった見たいだった。
前なら初音に悪いからいいよって言ってた筈だ。
そして初音が少し寂しそうに笑うと、やっと気付いて他の理由を考えてやるんだ。
だんだん耕一も、変わって行くのかな?
あたしは、このまま弟なのかな?
「とっ、そうだ」
あたしは立ち上がり、耕一達の後を追って客間に向った。
庭に面した客間の前の廊下は吹きっさらしで、かなり寒い。
足早に廊下を進み、スッと障子を開ける。
「耕一っ! てめえっ!」
あたしは、部屋の様子にカッと頭に血が昇った。
ずっと踏み込むと耕一めがけ回しげりを放つ。
足は狙い道理、耕一の横っ腹に重い手ごたえ、イヤ脚ごたえが、
「あれ?」
なかった。
あたしはその場で、軸足を中心にくるっと一回転しただけだった。
「梓! いきなり何すんだ!?」
初音の背後に立って覆い被さる様にしていた耕一は、首だけあたしに振り向け、ムッとした顔で睨み付ける。
でも、確かにあたしが狙った位置で。
さっきと同じ上半身裸で立っている耕一には、慌てた様子も無い。
狙いが外れたのか?
「そりゃ、こっちの台詞だ! スケベ学生!」
耕一を真っ向から睨み返し、あたしが指刺した初音は、耕一の足元で小さく丸まって。
へっ!?
「梓お姉ちゃん、どうしたの?」
怯えてうずくまっていた筈の初音は、振り返ってキョトンとしていた。
「どうって、そりゃ、耕一が裸でさ、その。えっ?」
あたしが言葉に詰まって、両手の指を突き合わせながら照れ笑いを浮かべると、耕一は呆れた目を向ける。
「シャツ着替えてた。初音ちゃんは、ほれ」
耕一はそう言うと、初音のうずくまっていた辺りからぼろい本を取り上げ、あたしの目の前に翳(かざ)した。
「これを見てたんだ。判ったか?」
そう言うと耕一は、あたしが頭を掻いて乾いた笑いを洩らすのを横目に、新しいシャツを着出した。
「なんだ燃えるゴミか? 耕一、あんたこんなの持って来てどうすんの?」
照れ隠しに本をつまんで見せると、耕一は溜息を吐き、本を大事そうにあたしの手から取り上げた。
「間違っても燃やすなよ。借り物だし、貴重な本だからな」
「それが?」
あたしにはどう見ても、ゴミにしか見えない。
「そうだ。頼むから、ゴミに出すなよな」
「へぇ〜、これがね」
耕一が初音に渡した本を、あたしも横から覗いて見た。
ミミズがのたくった様な線ばっか。
まるっきり読めない、これが字か?
「初音、あんた読めるの?」
「ううん。お兄ちゃんが着替える間、少し見てただけだよ」
ったく初音は、耕一が持ってると何にでも興味を持つんだから。
紛らわしい真似をするなって。
八つ当たり気味に眉を潜めて初音を見ると、恥ずかしそうに頬が赤くなっていた。
あっ!
初音の奴、耕一が着替え出したんで、恥ずかしくって本読んでるフリしてたのか?
いつまでも幼い感じで子供だと思ってたけど、初音ももう高校生だもんな。
ちゃんと女らしく成長してんだ。
「ところで、どうしたんだ」
「へっ?」
何となく初音が段々女らしくなって行くのが寂びしい気がして、初音の赤い頬を見ていると、耕一の声が背中から聞こえ、あたしは間の抜けた声を出して振り返った。
「急ぎの用か?」
「あっと。いやさ、帰りは何時頃になるかと思って、夕食の時間が……」
帰りが何時で夕食って………
結婚とかすると、ヤッパ奥さんの台詞かな?
あれっ?
何で顔が熱くなるんだろ?
「悪い、少し遅くなると思う。俺に構わず先に食ってくれよ」
耕一の返事がドラマで見る夫婦の会話みたいで、更に顔が熱くなって、あたしは俯いて顔を隠した。
こんな想像をしたのも、振り返ったあたしの目に映った耕一が、見慣れたラフなカッコじゃなく、ジャケットを着ていたからだと思う。
夏にも一度見てたけど、ただシャツにジャケットを羽織っただけなのに、ちゃらんぽらんな学生の耕一が、いっぱしの大人の男に見えるから、何か変に意識してしまう。
「それだけか?」
「へっ? それだけって?」
「わざわざ客間まで、それ聞きに来たのか?」
あたしは少し首を傾げた耕一の言っている意味に気が付き、目をうろうろ泳がせた。
出掛けるなら居間で待ってりゃ、前通ったよな。
「いや、まっ。ほら勉強もあるからさ」
妙に焦って、あたしはそう言っていた。
もしかして初音と一緒で、あたしも耕一と居る理由付けたかっただけなのか?
「ああ、スマン。受験の追い込みだったよな? 二度手間じゃ悪いよな。じゃあ、食って来るから晩飯もいいわ」
悪そうに頭を掻いた耕一の言葉に、あたしと初音は同時に耕一に顔を向けた。
「耕一お兄ちゃん、大丈夫だよ。あたしもいるし、それに千鶴お姉ちゃんも一緒なんでしょ?」
「どうせ千鶴姉の分作るんだから、耕一ぐらい居てもいなくても、手間は変わんないよ」
初音が慌てて言うのに併せ、あたしは顔を横向け何でもない様に言い捨てた。
本当は何でも無くなんかない。
初音が慌てたのは、きっと外で食べてくると、耕一の帰りが遅くなるからだ。
でもあたしは、耕一が来ると思っていろいろ献立を考えたのに、食べて貰えないのが寂びしいから。
「そうか? 悪いな。じゃあ、なるべく早く帰って来るからさ」
「あんまり遅くなるなよ」
「ああ、じゃあな」
耕一は軽く手を挙げ、初音の頭を一撫ですると部屋から出て行く。
「あれでも大学生だったんだね」
耕一が出掛けただけで寂しく感じる自分が恥ずかしくて、初音に向って、あたしはふっと息を吐きへへっと馬鹿にした様に笑って見せた。
「えっ?」
「こんな本読めるなんてさ。ぐ〜たら寝てるだけかと思ってたけど」
キョトンと見上げた初音に本を顎で示すと、初音は困った様にぎこちなく微笑んだ。
「千鶴お姉ちゃんになら、読めるのかな?」
「どうだろ? 家の蔵にもいろいろ在るから、読めるかもね」
難しい顔で本に目を落とした初音に聞かれ、あたしは千鶴姉が大学の頃、古い本を蔵から部屋に運んでいたのを思い出した。
普段は惚けてるけど、あたしにはさっぱり判らない本を読める千鶴姉が、当時中学生だったあたしには、それだけで偉く大人に見えたな。
「それでかな?」
「うん?」
考える様に口元を押え、初音はあたしに視線を向けた。
「夏にお兄ちゃん、蔵によく行ってたの」
「ああ、でも。あれっ?」
確か千鶴姉の部屋に運んだから、蔵にはガラクタしか残ってない筈だけど。
興味が在るなら、教えてやれば耕一の奴、喜ぶかな?
「あっ!」
小さく声を上げた初音は、いきなり立ち上がって障子を開けた。
「初音、今度は何だよ?」
「お兄ちゃんコート持ってなかったよね? 叔父ちゃんのコートで良いかな?」
相変わらず、よく気が回る子だ。
「うん、取って来るからさ。まだそこらにいるだろ」
コクンと頷くと、初音は慌てて廊下を走り出した。
あたしも足を叔父さんの荷物が置いてある部屋に向けた。
叔父さんの使っていた部屋は、そのままにして置きたかったけど、結局整理した。
叔父さんの部屋は書斎も兼ねていた。
その所為も在って、仕事を教わっていた千鶴姉以外はあまり入った事がなかったから、きっと叔父さんの思い出が多すぎて、千鶴姉には辛かったんだろうと思う。
どうしても整理するって千鶴姉が言い張り、反対仕切れなかった。
部屋に入ると探すまでもなく、コートを仕舞った場所は憶えていた。
洗濯に出したまま仕舞われたコートのビニールをはがし、そっと顔を押し当ててみる。
着る人を失ったコートからは、叔父さんの匂いは消えていた。
みんなで一つ一つ丁寧に仕舞った衣類からは、防虫剤の臭いがして、もう叔父さんの匂いは感じられなかった。
思い出に浸りそうな頭を振って、あたしはコートを手に部屋を出た。
廊下を大股に歩き玄関まで行くと、耕一と初音だけじゃなく、楓まで一緒に待っていた。
「悪いな、梓」
「ったく。冬の隆山を舐めてるんじゃないのか?」
憎まれ口を叩きながらスッとコートを差し出すと、ははっと笑いながら耕一は袖を通し少し妙な顔をした。
「耕一、小さかった?」
「いや、丁度良い大きさだ。じゃあ、行って来る」
そう言うと耕一は玄関を出て行った。
でも答えた時の耕一の笑顔が、何かぎこちなくあたしには思えた。
「耕一お兄ちゃん、どうかしたのかな?」
初音も何かおかしく感じたらしい。
「叔父さんのコートだから」
小さく息を吐き、ポツンと楓がそう洩らした。
「だからってさ、嫌だって訳じゃ無いだろ?」
耕一が叔父さんを快(こころよ)く思ってないのは知っているけど、だからってコートぐらいで。
そう思って聞くと、楓は軽く首を横に振った。
「耕一さんのお父さんは、耕一さんが子供の頃の叔父さんだから」
楓は寂しそうに微笑んでそう言うと、意味が判らず顔を見合わせたあたしと初音に、困った様に唇を押えた。
楓はたまに、こういう謎掛けみたいな話し方をする。
多分頭が良すぎるんだろう。
自分にはそれで理解出来るから、必要な説明を最小限しかしない。
「初音も梓姉さんも、お母さんの服を着てぴったりだったら? 私達の知らないお母さんの服を着て」
そう楓に聞かれ、何となく判った気がした。
初音も判ったんだろう。
少し寂しそうに視線を落した。
あたし達が両親を亡くしたのは、まだ小学生の頃で。
小学生のあたしは腰を折って視線を合わせる母さんを、いつも見上げていた。
母さんの服を着てぴったりで似合ったら嬉しいと思うけど、それだけ母さんの想い出が遠くなった様で寂しくなると思う。
耕一は、叔父さんと離れて暮らしていたから余計だろう。
自分の知らない叔父さんを感じて、余計に寂しいのかも知れない。
「耕一は、男だからさ」
寂びしそうに俯く初音に何と言っていいか判らず、あたしはそう言って初音の頭を撫で客間に引き返した。
こういう時、あたしはどう言ったらいいのか判らなくなる。
初音ならもっと気の聞いた台詞を言う筈だし、千鶴姉ならそっと初音を抱き寄せて、優しい言葉を掛けるんだろう。
小さく息を吐くと、客間の障子を開け中に入った。
洗い物を集めていると、シャツからあたし達とも、叔父さんのタバコの臭いとも違う香りが仄かにした。
耕一の匂いなんだろうな。
香水の様な良い香りじゃないけど、何か安心出来る匂い。
昔、耕一に背負われて家まで帰った時に嗅いだ匂いとは、少し違う。
記憶が薄れてるから?
それとも、成長すると匂いも変わるのかな?
いつの間にか、顔をシャツに寄せていたあたしは、恥ずかしくなってシャツを放り出した。
ストーカーじゃあるまいし、あたし何やってんだろ?
男と女じゃ匂いも違って当り前だろ。
男か?
さっき初音に言った陳腐な台詞を思い出し、息を吐いた。
耕一が男なのは当り前だけど、男だからって寂しくない訳ないよな。
耕一は、寂しくないのかな?
こっち来れば、いつだってあたし達がいるのにさ、なかなか来ないし。
就職もどうするか、まだ決めてない見たいだし。
…あれ?
足立さんに挨拶するだけで、何でそんなに遅くなるんだ?
千鶴姉、確か五時って言ってたよな?
もしかして、就職の事を頼むつもりなのか?
そうだと良いけど、でもチョとな。
またあたしの口から、今度は想い溜息が洩れた。
耕一が家に住めば嬉しいけど。
鶴来屋に勤めたら、耕一も柏木だし、叔父さんの後継者だって思われるだろうから、千鶴姉と一緒の時間が多くなるんだろうな。
千鶴姉は、耕一の事どう思ってるのかな?
弟?
息子…は、ないよな?
じゃあ、叔父さんが帰って来たみたいで嬉しいだけ?
それとも、あたしと一緒で耕一が好きなのかな?
こんな事を考える原因は判ってる。
夏の御墓参りで東屋で待ってたあたし達に向って、耕一と千鶴姉が並んで歩いて来たのが、凄く様になって見えたからだ。
それまでは、心のどっかで安心してた。
耕一は千鶴姉よりか年下で、どっか頼りなくて。
千鶴姉は気さくだけど、やっぱり旧家のお嬢さんて感じが抜けなくて。
耕一も千鶴姉には、あたし達と違って一歩引いてるみたいな所が在ったから、耕一が千鶴姉に憧れてるのは知ってたけど。
あたしの方が、耕一に近い気がしてた。
でも、ちゃんとした服装で和尚さんに挨拶してる耕一は、叔父さん見たいに落ち着いた大人で。
東屋では、千鶴姉の隣に居るのが自然な様に、二人肩を並べてあたし達の前に現れた。
重い息が出そうになって、あたしは大きく背伸びをして丸まった背筋を伸ばした。
あたしが、千鶴姉の機嫌取ってくれって頼んだんだけど。
なんか絵になってたんだよな。
初音や楓と同じで、千鶴姉も耕一の中に叔父さんを見てるのかな?
耕一を見る千鶴姉の目って、叔父さんを見てたのと一緒だし。
叔父さんはあたし達同様、実の娘見たいにしてたけど、千鶴姉は叔父さんが好きだったんだと思う。
あたしは、あたしが耕一を好きな様に、千鶴姉は叔父さんが好きなんだと思ってた。
千鶴姉は隠してたみたいだけど。
いや、千鶴姉自身も判ってなかったのかな?
我が姉ながら、不器用だからね。
自分の気持ちに気付いてなくても、不思議はないか。
首を捻りながら、我が姉の不器用さに思わずしのび笑いが洩れた。
叔父さんが相手じゃ、気付いてもどうしょうも無いけど。
叔父さんしかあたし達には頼れる人はいなかったし、千鶴姉はあたし達の母親やって、ろくに友達とか作る暇もなくて、頼れるのは叔父さんだけだったから判る気はするけど。
千鶴姉には、幸せになって貰いたいけど。
でも、だから耕一が好きならあたしには許せない。
それじゃあ、あたしは酷いと思うから。
耕一は耕一で、叔父さんの代わりじゃない。
昔水門で、あたしを命懸けで助けてくれたのは耕一だ。
八年ぶりに会って成人してても、耕一はやっぱり耕一のままだった。
あたしは、耕一を子供の頃からずっと好きだった。
叔父さんは父さん見たいで好きだったけど、耕一とは違う。
叔父さんに似てるから好きだって言うなら、それは耕一を好きだって事じゃない。
耕一自身を無視してるし、馬鹿にしてる。
そんなので好きだって言われたら、あたしだったら絶対許せない裏切りだと思う。
でも結局は、耕一次第なんだよな。
耕一は、あたしの事どう思ってるのかな?
弟かな?
それとも……
あたしは洗い物をまとめて立ち上がった。
考えても仕方ない。
うだうだ考えるのは、あたしらしくないぞっ!
客間の前の廊下から見上げた空は、久しぶりに澄み渡った快晴だった。
§ § §
沈み始めた陽が、室内を赤く浮かび上がらせる。
壁の一角のほぼ七割を締める窓を背に、会長室の椅子に掛けた私を。
赤く染まった部屋に黒いシルエットとなって浮かび上がらせる。
西洋神話に出て来る。
死の使いの様な、禍禍しい赤の縁取りを持った黒い影。
血の赤に浮かんだ、黒い死の影。
ふっと息を吐くと影も同じに息を吐く。
机の上のリモコンを手に取り、ボタンを押す。
微かなモーターの音が聞こえ、ブラインドが赤を消し、薄暗い闇が室内を満たす。
年末ともなれば忙しい筈が、回ってくる書類は余りなかった。
足立さんが気を使って下さったのだろう。
叔父様の喪中でもあり、この御正月は休みを取る様に勧められていた。
でも今は、その心遣いが恨めしい。
忙しくしていれば忘れていられるのに、時間が空くとどうしても考えてしまう。
朝の客間での会話。
耕一さんは、わざとはぐらかしたのかしら?
それとも、本当に鬼の夢を心配していると思っていた?
確かに鬼の夢の所為じゃないかとも、考えなかった訳じゃなかった。
でも。
じゃあなぜ、短い睡眠しか取らないの?
考えてみれば、疲れていたなら逆にお酒を呑んでゆっくり休んでも良い筈。
でも眠りそうだったから呑まなかった?
妹達と過ごす時間の為?
でも、耕一さんは早めに部屋に引き上げた。
どうしても、はっきり聞けない。
耕一さんを前にすると、はっきり聞いてしまうのが怖い。
机の上の時計に目を走らせると、私が耕一さんに伝えた時間まで、後三十分程だった。
足立さんは、急な仕事で少し遅れそうだ。
時間を遅らせて貰おうと昼に電話を入れたが、耕一さんは出掛けた後だった。
梓は直接鶴来屋に向うと聞いたらしいけれど、知り合いも居ないこの街で、耕一さんは何処に行ったの?
夏とは違う。
妹達は、みんな家に居る。
久しぶりに会った妹達より、優先させる程重要な用って?
それに、本当に足立さんに話して良いのかしら?
話せば足立さんは喜んで下さる。
それは判っている。
足立さんは御爺様の元で経営を学び、御父様や叔父様の信頼を裏切らなかった方だから、信用出来る。
耕一さんなら、足立さんだけでなく誰だって好きになる。
会う人を安心させる温かさを持った人だもの。
そう、耕一さんなら誰とだって幸せになれる。
たとえば、梓や楓、初音となら。
…他の誰とだって。
横道に逸れそうな考えを、頭の一振りで払い。
私は大きく息を吐いた。
いいえ、今は足立さんの事だわ。
足立さんに話した後で、耕一さんが知ったら?
許して貰えなかったら?
耕一さんは、もう二度とここに戻って来てはくれないかも知れない。
私の罪で、妹達まで耕一さんを失う事になったら?
やっと叔父様を亡くした痛手から立ち直った妹達まで、私の過ちで、また傷付けてしまう。
自分の想像にゾッと肌がざわめき、瞬時に目の前の闇が暗さを深めた。
妹達が立ち直れたのも、耕一さんのお蔭だわ。
きっと叔父様を亡くした時より、深い闇が家を覆う。
みんな、私を許してくれたりしない。
事情を知っている楓だって、鬼が目覚めるのが判っていて耕一さんを呼んだなんて知ったら、許してはくれない。
今なら私は許して貰えなくても、妹達の事を耕一さんに頼んで私が出て行けば、妹達は耕一さんを失わなくて済む。
足立さんに話した後では、足立さんは私を裏切って、耕一さんが追い出した様に取るかも知れない。
…でも…私は、独りでは生けて行けない。
かといって、両親や叔父様の元にも行けない。
自分で死んだりしたら、耕一さんの事だからきっと自分を責め続ける。
どうすればいいの?
ふっと長く息を吐き椅子の背に身体を預けると、適度な硬さを持った柔らかなレザーが、身体の形に窪みを作った。
叔父様の使われていた椅子。
もう叔父様の移り香も消えて久しい。
叔父様も、許しては下さらないのでしょうか?
自らが憎まれても目覚めさすまいとなさった耕一さんの鬼を、愚かな私は目覚めさせたんです。
叔父様が自らの命を絶って苦しみから救って下さった私自身が、新たな苦しみを呼び込んだんです。
…ええ。
耕一さんは、鬼を制御なさいました。
でも、それは結果でしかありませんよね?
その過程で、私の犯した罪は許されるんでしょうか?
叔父様ならどう仰います?
いつもの様に、馬鹿だなって笑って下さいますか?
それとも、叱って下さいますか?
……そう…ですよね。
叔父様なら、全部話せって言われるでしょうね。
俺の息子だから、大丈夫だって言われるんでしょうね。
でも。
……私は…怖い。
耕一さんは、叔父様とは違う顔を持っているんです。
私に厳しい顔と、寂しい哀しい瞳を隠しているんです。
叔父様。
耕一さんは、私を許そうとして許せず。
私の前で顔を作っているとは、考えられ無いでしょうか?
叔父様も、別の顔を持っていらしたんですか?
椅子の背に深くもたれ掛かり、私は震え出しそうな自分の肩を強く抱いた。
…待って、みます。
耕一さんは、家では出来ない話がしたいそうです。
確証が持てなくて、私に直接尋ねるつもりかも知れません。
狡いと思われるでしょうね?
でも、私から話す勇気はないんです。
…叔父様?
…もう、答えては…下さらないんですね。
いまでは、広い会長室に叔父様の存在を示す物は、壁に掛けられた御爺様や御父様と並んだ写真だけだった。