陰の章 四
まただわ。
汽車の揺れと寄りかかった肩から伝わる震えに微睡みから覚めると、覚め切らぬ瞳が厳しい表情で自分の手を見詰める耕一さんの横顔を映し出した。
何かの痛みに耐える陰った瞳で、左手で掴んだ右手を睨む様に見詰めている。
「…耕一さん?」
「うん? もうすぐ着くよ」
小さく呼んだ私に顔を向けた耕一さんは、もう普段の表情に戻っていた。
「そんなに眠っていました?」
見間違いだったのかと目を擦り、車窓から覗く景色に視線を移すと、慣れ親しんだ景色が白く染まっていた。
僅か数日離れただけなのに、故郷に帰って来た安堵に小さく欠伸が出てしまい、口を抑えると耕一さんは静かに微笑んだ。
「疲れているんだよ。忙しすぎるんじゃない?」
「いいえ、大丈夫です。ゆっくり眠れましたから」
気遣ってくれる耕一さんに、素直に耕一さんの肩に寄りかかっていると安心して眠ってしまうとは言えず。私は頬の火照りを俯いて隠し、照れ隠しに微笑みを作った。
「そう? なら良かった」
笑みを浮かべた耕一さんは、私の頬に手を添えると、指で目元を拭った。
私はそれで欠伸した名残が残っていたのに気付き、恥ずかしさに狼狽えると、耕一さんは楽しそうに笑い声を洩らす。
私がまるで以前とは反対に、耕一さんに子供扱いされているのが悔しくて、拳を握りムキになって笑ったのをたしなめると。
「判った。もう笑わない」
そう言うと、耕一さんは正面に目を向け知らん顔を決め込んだ。
私が顔を覗き込んでも目も向けず、素っ気なく返すだけ。 わざと目を会わせない様に、網棚を見上げてみたりする。
その耕一さんの横顔が、あの私の知らない耕一さんに重なり、少し哀しくなって指を弄りながら、また勝てないのは悔しかったけれど、
「…やっぱり。…耕一さんは、笑ってた方がいいかなって」
諦めてそう言った。
でも耕一さんは、まだ遊び足りないのか溜息なんか吐いて見せる。
そう、これは耕一さんが私に仕掛ける悪戯。
私の慌てるのを見て喜んで、素直になるまで許してくれない。
従弟のお姉さんをやっていた時は、逆だった。
私がむくれて怒って見せると、耕一さんは慌てていた。
その時のお返し見たいに、今は耕一さんが私を慌てさせ、恥ずかしがらせて喜ぶ。
でも、からからわれてるのが判っていても、耕一さんが笑っていると、私まで楽しくなれるから、心の中から温かくなるから。
ついムキになって、耕一さんの身体を揺すって見たりする。
そうすると、耕一さんがいつもの様に、笑いを押さえ切れず笑い出すのを知っているから。
やっぱり耕一さんは、楽しそうに笑い出した。
悪戯が成功した子供みたいに、無邪気な笑顔を見ていると、意地悪された悔しさも忘れ頬が緩んでしまう。
「もう、すぐ子供みたいになるんですから」
私は怒って見せようとしたけれど、緩んだ頬は締まらなかった。
やっぱり耕一さんは他の人とは違う。
こうやって隣で笑っている耕一さんを見ているだけで、幸せで心が温かくなる。
幸福感に浸っている間に、車中が騒がしくなった。
もう隆山、耕一さんを一人占め出来るのも後少し。
家に着けば、妹達が耕一さんを待っている。
妹達の喜ぶ顔を見るのは楽しみだけれど、私だけに向けられる耕一さんの笑顔でなくなるのは少し寂しい。
耕一さんは、こんな私の心を知っていて、半日だけでも二人だけの時間を作ってくれたんだろうか?
それとも。
耕一さん自身が、私と二人で過ごしたかったから?
耕一さんも同じ気持ちでいてくれたなら、嬉しいんだけれど。
そんな事を考えながら降り立った薄曇りの隆山は、都会とは違う寒さに、吐く息を白く濁らせた。
「…ごめんなさい」
私は耕一さんの背中に小さく謝った。
地元だと言うのに、私はすっかり隆山の厳しい寒さを忘れていた。
耕一さんの着ているジャンバーは、とても冬の海と山に囲まれ、雪に覆われた隆山で寒さをしのげる物ではなかった。
冬に訪れた事のない耕一さんが、隆山の冬の厳しさを知らないのは当然だった。
鶴来屋にいらっしゃる御客様にも、御予約時に温かい服装を御勧めすると言うのに、すっかり忘れていた私は、やはり浮かれていたのだろう。
振り返り首を傾げた耕一さんは、もう一度謝ろうとした私を遮り、大丈夫だと言ったけれど嘘なのは判っていた。
言いながら背中に回された手が、寒さで微かに震えていた。
でも、謝れば謝るほど耕一さんが気を遣ってくれるのは、判っている。
私は、耕一さんに背中を押されるまま身体を寄せて歩き出した。
こうしているだけで、耕一さんも私と同じに温かくなってくれると良いと願いながら。
駅を出ると足を止めた耕一さんは、珍しそうに雪景色に浮かぶ道路を見回した。
融雪装置が熔かした道路が、黒く白い雪景色に浮かび上がっているのが珍しいのだろう。
この隆山に融雪装置が設置されたのも、御爺様が安全に御客様に来て頂こうと、最初に提唱なされたと聞かされている。
御爺様は、本当の意味で企業人であり当主だった。
普段は温和で在りながら、事業拡大の為には情け容赦が無く、買収、乗っ取りとあらゆる手段を使われた。
そして、それは柏木には、必要な力だったのだから。
「鶴来屋は、盛況だね」
耕一さんの声に顔を上げ視線を追うと、鶴来屋の送迎バスが御客様を迎えているのが見えた。
望んで付いた仕事ではないけれども、御客様の楽しそうな様子を見るのはやはり嬉しい。
鶴来屋の接客に満足し、喜んで帰られるのを見ると、少し羨ましい気持ちと、苦労が報われた充足感が在る。
でもこの所の不景気は、やはり接客業には不利に働いている。
例年なら満室の鶴来屋も、今年はまだ空きがある。
社内では、叔父様から引き継いだ私の経営手腕に責任を見い出そうとしている様だが、隆山全体が同じ状態では、何も言えない様だった。
つい愚痴っぽく空室がある事を洩らすと、耕一さんは学生らしく、八分目で丁度良いと軽く言う。
社会人ではない耕一さんらしい言葉だった。
企業間で凌ぎを削る一線の人は、そうは言わない。
一人でも多くの御客様を向え利益の拡大を謀る。
でも私は、そんな耕一さんの言葉だけで、一時でもギスギスした利益優先の世界から抜け出せた様で嬉しい。
「耕一さんは、随分余裕が在りそうですけど?」
どこか悠然とした耕一さんをからかって見たくなってそう聞くと、
「まだ、その日暮らしだからね。卒業したら、そうも行かないだろうけど」
耕一さんは答えながら腕を組んで考えて見せる。
「でも。やっぱり仕事一筋って言うのは性に合わないかな。家に帰る暇もないんじゃ、嫌だし」
首を捻る様に私に笑い掛けた耕一さんが、私と同じ考えで嬉しくなった。
一緒に重責を分かち合って欲しいと願いながらも、同時に私は、耕一さんには今のままギスギスした利益を追う様な生活を知らず。普通の生活をして、いつまでも変わらずにいて欲しいと願ってもいた。
「ええ。みんなと穏やかに暮らせるのが、一番ですから」
私は出来るなら、鶴来屋も柏木もいらない。
会長の座も、有り余る資産もいらない。
耕一さんと妹達、みんなと笑って暮らせるなら、少しぐらい生活が窮屈でも構わない。
生活に困った事のない私だから、それがどんなものか判らないけれど。それでも忌まわしい血と責任を、鶴来屋と引き換えに出来るなら、喜んで誰にだって代わって上げる。
「さてと。それじゃ、みんなの所に急ごうか?」
言葉少なに私に同意してくれた耕一さんに微笑んで頷き。促されるまま、私は耕一さんと共に家に歩き出した。
私の帰る場所。
妹達が居て、両親と御爺様、叔父様の思い出が詰まった家。
苦しい事、辛い思い出が多い家。
でも、同時に喜びと温もりをも与えてくれた場所。
どう足掻いても逃げ出せない、柏木の血を引く者の集う安息の場所。
そう、私達鬼の血を引く異分子が、この社会で生きて行く為には、柏木の名も、鶴来屋も必要な力だった。
御爺様はそれを知っていらしたから、鶴来屋を作られた。
御父様も叔父様も、それを知っていらしたから、鶴来屋を成長させた。
そして、それは正しかった。
私は、今ここにいるのだから。
鶴来屋の力がなかったら、私は今頃、叔父様を殺害した容疑で留置されていたかも知れない。
睡眠薬も、株の譲渡も、私には不利な状況証拠だった。
いいえ。
叔父様が八年前来て下さるのが遅かったら、私は本当に人を殺していた。
あの時、御爺様の配慮が仇になった。
御母様が御父様と自殺された後。
鶴来屋は、未成年だった私の物になった。
御爺様が株の分散を恐れ、私に株を集中して置かれた結果だった。
でも、それが裏目に出た。
鶴来屋を狙う者には、有力な後見のいない私から権利を譲渡さすだけで、鶴来屋が手に入った。
まず柏木を裏切ったのは、御父様が信用なさっていた弁護士だった。
頼る者を無くし失意の最中の私に、未成年では経営は出来ないと、権利の買い取りを申し出た。
でも私は御爺様から鶴来屋が、私達柏木にどうして必要か、得々と聞かされていた。
そして私も、御爺様と御父様が築かれた鶴来屋を手放したくはなかった。
連日訪れる弁護士に断り続ける内、徐々に譲渡を迫るのは弁護士だけではなくなっていった。
御爺様や御父様と親交の在った企業の人達。
御爺様に育てられた関連企業の人達。
御父様達が亡くなる前は、両親とも親しくしていた方々までが。
彼らも鶴来屋の大きな利益の前では、只の欲に目の眩んだ亡者でしか無かった。
最初家に訪れ脅し梳かし、怯える妹達の前で権利の譲渡を迫った人達は、私がどうしても譲渡する意思がないと悟ると、今度は精神的な圧力を加え出した。
通学途中の私や妹達の前に、連日嫌がらせにやくざもどきの人達が姿を現す様になった。
狡猾にも彼らは表立った行動はしなかった。
私達姉妹の周りを徘徊するだけ。
それだけで充分だった。
友人達と一緒にいると現れる彼らに、私達の周りから友人達は、一人二人と去って行った。
私達の周囲を歩いているだけでは、警察では手の出しようが無かった。
御爺様に続き両親を亡くした痛手を癒されぬまま、友人すら去った私達には、肩を寄せあえるのは姉妹だけだった。
日増しにあからさまな脅迫に近くなる恫喝に追い詰められる日々の中。
私は自分自身にも恐れを抱いた。
御父様の鬼の影響で、私の鬼は目覚めていた。
鬼は、私に卑しい者達を殺せと囁いた。
御爺様に恩が在りながら。
御父様に信頼されながら、欲に目が眩んだ亡者の身を裂き、命を散らすのに罪悪感は感じ無かった。
私を押し留めたのは、私が人を殺した後残される幼い妹達への義務感だった。
私自身のもう一つの冷酷な顔を、私はその時悟った。
私が恐れたのは、その自分自身の心だった。
それまで教えられた社会倫理も道徳観も関係なかった。
私は、妹達がいなければ本当に彼らを殺していた。
それを躊躇い無く実行出来る私が、確かに私の内に存在した。
人を躊躇い無く殺せる鬼である私と、人の倫理に縛られた私。
人の私と、鬼の私、同時に存在しながら別の者で在り、また同一の者だった。
二人の私の狭間で、私は仮面をつける事を学んだ。
下地は出来ていたのだろう。
良き姉、良き娘、さまざまに求められる役目をこなす内、それぞれの仮面を知らない内につけていたのかも知れない。
だが、鶴来屋という大きすぎる利権に群がる者達は、その仮面すら、役に立たなくなるまでに私を追い詰めた。
その私を救って下さったのは、叔父様だった。
御父様亡き後、乱れた鶴来屋内部の権力闘争に忙殺され、私達の事まで手が回らない足立さんの配慮だった。
足立さんの願いを受け入れ、叔父様は隆山に来られた。
柏木直系の叔父様が戻られ、私の後見として鶴来屋の社長と会長代理を兼任する事に、誰も異議を差し挟めなかった。
でも叔父様を父の様にしたい、妹達が明るくなって行く中でも。最初、私は叔父様にも心を開けなかった。
人間不信に陥っていた私が信じられるのは、妹達だけだった。
そんな私の心の傷を、叔父様は辛抱強く温かく包み癒して下さった。
私の作る顔を見破り、温かな心と大きな腕で包み込んで下さった。
その叔父様に、私はどうしても最後の一歩までは心を開き切れなかった。
叔父様も御父様と同じ、鬼を制御出来ない方だったから。
鬼に苦しめられている叔父様に、私の事でそれ以上の負担をかけたくはなかった。
そして、叔父様が鬼に呑まれた時の事を考えると、叔父様に甘える事がどうしても出来なかった。
「きゃ!」
考えながら歩いていた所為で、歩道に残った雪で滑って転びかけた私は、耕一さんの腕に掴まり、中途半端に宙づりの様な格好で腕にぶら下がっていた。
「千鶴さん、気をつけないと危ないよ」
「ごめんなさい」
ひょいと言う感じで、耕一さんは私の腕を掴むとちゃんと立たせてくれる。
その表情は私をからかう様に楽しげで、悪戯っぽく首を捻るのも忘れない。
どうして考え事とかしてると、転ぶのかしら?
他の人も、そうなのかしら?
「何なら背負って行こうか?」
「耕一さん、子供じゃないんですから」
笑いを洩らしながら顔を覗き込まれ、熱くなった頬の照れ隠しにムッとした目で睨むと、耕一さんは余計楽しそうに笑い、私の肩を抱くとゆっくり歩き出した。
素知らぬ顔で私の足元の気を配りながら。
私も耕一さんと一緒に、息を一つ吐いて歩き出した。
耕一さんは、御父様とも叔父様とも違うのに。
耕一さんは、御父様も叔父様も成し得なかった鬼を制御したのだから、もう何一つ不安なんか無い筈なのに。
でも耕一さんは、私のもう一つの顔を知っている。
他の誰も知らない。
私自身が忌まわしく思っている、冷淡で残忍なもう一人の私を知っている人。
弱い私と残忍な私、その両方を知っている人。
でも、耕一さんはまだ知らない。
卑怯で自分勝手な私を。
耕一さんが知ったら?
この優しい人は、今の様に優しくしてくれる?
罵倒され、蔑まれないと言い切れる?
今の不安は、私自身が犯した過ちの罰なのかも知れない。
私の過ちは大き過ぎるから、耕一さんはその全てをまだ知らないから。
でも、いつかは耕一さんも知る時が来る。
その後でも、耕一さんは隣に居てくれるんでしょうか?
私はそっと腕を耕一さんの腰に回し、ジャンバーの裾を握り締めた。
遠くない日に失っても、今を思い出せる様に
§ § §
耕一さんを囲んだ夕食後の一時の後。
耕一さんが早めに部屋に引き上げると、妹達はみな一様に小さく溜息を吐き、寂しそうな顔を見せた。
私も内心では同じ気持ちだが、顔には出さなかった。
耕一さんの寝不足の最大の原因は、何と言っても。その、私だったりするから。
「あぁ〜あ。耕一の奴、偉くあっさりしてやんの」
「梓お姉ちゃん、仕方ないよ。耕一お兄ちゃん、疲れてるんだろうし」
洗い物を放り出して居すわった梓がつまらなそうに言うと、すかさず初音が耕一さんのフォローに回る。
「だけどさ、久しぶりなんだし。もうちょと付き合ったってさ。初音、顔が寂しいって言ってるよ」
「えっ! それは、…ちょと」
「楓も、名残惜しそうに背中見てたよな」
言われて慌てて両頬を押さえた初音に厭し目を送り、梓は楓に顔を振り向けると、覗き込む様に下から見上げる。
楓は正直にも真っ赤になって、顔を臥せると固まってしまう。
「せっかくいい酒買っといたのにさ。呑まないって言うし」
「梓、もう良いでしょ。耕一さんだって列車に揺られて御疲れなんだから。今日、明日にも帰るって訳じゃないんだし」
「そりゃ千鶴姉はいいだろうさ。仕事が伸びたお蔭で、一緒に帰ってこられて大満足って顔してんだから」
梓は時々鋭い事を言う。
「いえ、私は。その、初音にも耕一さんの様子を見て来てって頼まれてたし、次いでも在ったから」
「ねえ、千鶴お姉ちゃん。耕一お兄ちゃんのお部屋まで行ったの? どんなお部屋だった?」
赤くなりそうな顔を隠し、梓に言い訳する私に、初音は耕一さんの話なら何でも知りたいらしい。
興味を押さえ切れない顔で私を覗き込んだ。
「初音は。夏にも耕一に聞いてただろ?」
「お兄ちゃんに聞いても。家の客間ぐらいの大きさで、何にもないって言うだけなんだもん」
梓が面倒臭そうに言うと、初音は耕一さんが曖昧に答えたと思っていたのか、少し寂しそうに視線を落とした。
楓は興味が在りそうに、まだ赤みを残した顔で上目遣いに私の方を覗いている。
私はどう答えたものか少し迷った。
ありのまま伝えるには、寂しすぎる部屋だった。
「そうね、耕一さんの言われる通り、何もない部屋だったわ」
やはり私は、ありのまま伝える事にした。
みんなも私と同じに耕一さんを心配している。
隠す様な事でもないし。
何より家に居る間だけでも、耕一さんに家族の温かさを感じて欲しかった。
居間の中を耕一さんの部屋に見立て、家具の配置や部屋の様子を細かく語り。
叔母様の衣装ダンスの話で締めくくる頃には、みんなシンと考え込んでいた。
「…お兄ちゃん、寂しくないのかな」
初音が涙ぐみながらポツンと洩らしたのが、みんなの気持ちだった。
「休みんなったら、とっとと家に来りゃいいんだよ」
そう言った梓の言葉は乱暴だったけれど、微かに声が震えていた。
私達姉妹は、誰も独りで暮らした事がない。
いつでも、家に帰れば誰かがいる。
だから余計寂しく感じるのかも知れない。
独り暮らしの学生さんや単身赴任した人達は、耕一さんと同じ様な暮らしだろう。
だけど、その人達には帰る家が在る。
待っている家族がいる。
でも耕一さんには、もう帰る家と呼べる場所がない。
特に初音と梓は、叔父様が耕一さんと叔母様を残して別居された理由を教えていないから、なお更だろう。
二人共、私達姉妹の為に、耕一さんを独りにした気がするのだ。
そして在る意味、それは正しい。
耕一さんの為とは言え、叔父様の事情を知らなかった耕一さんには、私達が父親を奪ったも同然だった。
叔母様が亡くなってから、叔父様を拒絶した耕一さんは本当の意味で独りだった。
叔父様の葬儀を、新規に始めたアルバイトを理由に欠席を伝えられた時。私は耕一さんと叔父様の溝の深さを感じ、何も言えなかった。
確かに叔母様の実家から仕送りを受けていると思っていた耕一さんが、以後の生活の不安を匂わせれば、不義理とは言え、遠方まで無理に来てくれとは言えなかった。
でも本当の理由が、叔父様との絆を自ら絶った為なのは、判っていた。
そして、もし耕一さんが、叔父様を奪った私達を恨んでいたら。
そう考えると、葬儀で顔を合わせなくても済むという安堵感も在った。
恨まれていないか恐れながら、叔父様の四十九日を理由に耕一さんを呼び寄せたのは、私の弱さだった。
そう、私は呼び寄せた。
私は、もう不安と重責に耐えられなかった。
叔父様を失った寒さを、誰かに埋めて貰いたかった。
誰かに救って貰いたかった。
その弱さが、耕一さんに恨まれているかも知れないと思いながら、縋るような気持ちで耕一さんに連絡を取らせた。
叔父様の息子だから、同じに助けてくれる。
そう考えただけでも、耕一さんの気持ちを無視しているのに。
それすらも、いい訳かも知れない。
耕一さんの鬼がいつ目覚めるのか、待つのが辛かった。
耕一さんが制御出来るのか、確かめたかった。
鬼を制御出来、私達を恨んでいなければ。
私を苦しみから解放し、私達姉妹の叔父様を失った心の傷を癒して貰えると思った。
鬼の力が強まる満月期に、鬼の目覚めた私達姉妹と共にいれば、耕一さんの鬼が目覚めるのは判っていたのに。
それに敢えて目を瞑り耕一さんを呼んだ私は、耕一さんに命を賭した罠を仕組んだも同然だった。
そして訪れた耕一さんは、私達に叔父様の様に優しく温かかった。
それなのに私は、自分の思い込みだけで耕一さんを殺そうとした。
私は、いつも後で後悔している。
私は、もう狂っているのかも知れない。
自分で失う様に仕向けながら。
失いたくないと願っている。
自分に都合のいい事しか考えていない。
耕一さんの優しさに、甘えるだけ甘え、縋ったというのに。
まだどこかで、許して貰えると思っている。
きっと耕一さんは、私を許してなどくれないだろう。
せめて今だけでも、この家を、耕一さんが自分の家だと思ってくれていれば嬉しいのだけれど。
「だから。夏と同じ様に家に帰って来たつもりで、温かく過ごして貰いましょ。ね、初音も、梓も、楓もいいわよね」
そう言いながら、初音のぴょこんと立った癖毛を押さえる様に撫でると、初音はこくんと頷き。
梓も楓も、目を向けると同じ様に頷いた。
「さてと、洗いもん片付けるか」
「あ、じゃ手伝うね」
珍しくしんみりしたのが気恥ずかしいのか、梓が勢い良く立ち上がる。
初音も後を追う様に、目元を擦りながら立ち上がった。
「じゃあ、私も」
「来るな!」
私が手伝おうと腰を上げかけると、間髪入れず梓の怒声が降って来る。
「洗い物に徹夜なんて、ごめんだね」
「あずさ、徹夜ってなにかしら」
怒って見せながらも、梓と言い合っていると家に帰って来たって実感する。
「千鶴お姉ちゃん、出張で疲れてるんだから。明日もお仕事でしょ? もう休んだほうがいいよ」
初音は気を利かしてそう言ってくれたけど、何か笑顔が引きつってる気が。
「そう? ありがとう、初音。じゃあ先に休ませて貰うわね」
私が初音に小首を傾げながら笑い掛けると、初音は嬉そうに笑い。
梓は鼻で笑った。
まあいつもの事だし、あまり気にしないで置こう。
部屋に向うと、先に居間を出た楓が部屋の前で待っていた。
「楓? どうかしたの」
声を掛けると、楓は俯き唇を押さえた。
楓のいつもの考える時の仕草だ。
こういう時の楓との会話は、時間が掛かる。
「廊下じゃ寒いから、部屋の中でね」
私はドアを開け部屋に入る様に促し、楓をベットに座らせ、私も隣に腰を下ろした。
俯いたまま考えている楓を急かす様な事はせず、私はジッと楓が口の開くのを待った。
急かすと楓は、話をやめてしまう。
「あの、耕一さん。夢の話とかは………」
俯いたまま思い切った様に口を開いた楓の言葉は、意外だった。
「楓。耕一さんから、何か感じたの?」
私は何も感じなかった。
まさかまた鬼がと思い尋ねると、楓は首を横に振った。
心配しているだけだったの?
「いいえ。耕一さんは、何も言ってなかったわ」
ほっとして答えると、更に意外な事に、楓は小さくそうと落胆した様に呟いた
「どうしたの? 楓、何か気になるなら話して見て」
何かが変だった。
耕一さんが夢を見ていないなら、楓も喜んでいい筈。
どうして落胆するのか、私には判らない。
「耕一さん。疲れてる見たいだったから」
そう言うと楓はスッと立ち上がり、止める間もなく部屋を出て行ってしまう。
いつも良く判らない行動を取る楓だが、今の態度は理解しがたかった。
確かに耕一さんは、疲れている見たいだった。
でも鬼の夢を見て…いな…い……
…夢?
…耕一さんは、いつ眠っているの?
私が目を覚ました時は、いつも起きていた。
…迂濶だった。
私の知らない耕一さんの顔と、自分の不安ばかりが頭に在って気が付かなかったなんて。
ホテルで最初目を覚ました時は、起きていた。
その後、私が眠ったからと言って、耕一さんが寝ていたとは限らない。
列車の中でも寝ていた様には見えなかった。
でも、食事も取らずレポートを仕上げていたなら、二日間殆ど寝ていない事になる。
いくら鬼が目覚めても、睡眠は不可欠な生理現象。
まさか、私の隣で寝ない様にしている?
寝っている間に、意識が洩れない様にしている?
でも、どうしてそうまでして意識を塞ぐの?
…まさか…耕一さんは、気付いているの?
他の鬼と意識を通わせた事が在る耕一さんが、私に眠っている間に考えが洩れない様にしているなら、説明は付く。
でも、それならなどうして?
二人で泊まったり、あんなに優しい筈が。
それに、どこまで気付いているの?
だめ!
まとまった考えにならない!
落ち着こうと大きく吸った息も、手で押えた頭の靄(もや)を晴らしてはくれなかった。
判らない。
耕一さんが何を考えているのか。
一体耕一さんは、この三ヶ月で何に気付き、何を考えているのか。
まるで判らない。
私は甘えて縋りながら、耕一さんを、まだ学生で年下だからと侮っていたのかも知れない。
いいえ、違うわね。
私が耕一さんを知らないだけ。
萩野さんを手玉に取り、世界に冠たる佐久間の副社長を相手に余裕すら持って話していた耕一さんなら、私の行動全てに気付いていてもおかしくない。
でも耕一さんは、何も言わなかった。
それに情報も不足している筈。
確信が持てないから、まだ何も言わないだけ?
それとも二人で過ごしている間に、私から話すのを待っていた?
でも、そんな素振りはなかった。
私は混乱した頭で部屋着のままベッドに潜り込み、自分の肩を固く抱き締めた。
何も考えたくない。
その一心で、身体を丸め寒さに震えながら、眠ろうと固く目を瞑った。