陰の章  三


 温もりを探る手が虚しく空を切った。
 暗闇の中で目を覚ますと、温かさを伝えていた身体が消え、肌寒さが身震いを起こさせた。
 空調は完璧に働いている。
 この寒さは、いつも感じて来た慣れる事のない心に寒さだった。
 ベッドサイドに目を走らす。
 ぼんやりと浮かんだデジタルグリーンが、朝の五時を回ったのを教えてくれた。
 シィーツを引き寄せ、ぼんやり浮かぶ蛍光色の緑を眺めていると、自然と笑みが浮かんだ。

 寒いはずなんてないのに。

 レストランから見えた夜景にも、緑の輝きが瞬いていた。
 二人だけの食事、二人だけの時間。
 少し前まで、私には訪れないと思っていた、普通の恋人たちの時間。

 萩野さんに佐久間さん。
 昨日は、耕一さんに助けて貰ってばかりの一日だった。
 人伝に社内の派閥争いを聞いて、鶴来屋が重荷になっていないか、耕一さんがあんなに心配してくれていたなんて。
 耕一さんに心配を掛けて申し訳ないけれど、とても嬉しかった。
 梓が聞いたら怒るだろうけれど、家での食事より美味しく感じたのは、昨日が初めて。
 途中で佐久間さんの邪魔が入ったけれど。
 耕一さん、真剣に怒ってくれて。

 ふふっと洩れた自分の笑いに視線を移すと、淡い緑が時の流れを教えてくれた。
 シャワーでも浴びているのかと思っていたけれど、耕一さんは、まだ戻って来ない。
 気怠い、だけど心地好い疲労を残す身体をゆっくり起こし、ベッドから抜け出し素肌にローブをまとい、そっと扉を開ける。
 窓辺から差し込む薄い日差しが、ぼんやり室内を照らし出していた。
 部屋を横切る影が、薄く窓辺から続いている。
 窓辺に目を向け、出しかけた声は言葉にはならなかった。
 静かに扉を閉め、私はベッドに戻った。
 横になりながら、私はベッドを抜け出す前の心地好さが消えた身体を両腕で抱き締めた。

 窓辺に佇む耕一さんは、思い詰めた表情で遠くを見詰めていた。
 薄明が浮かび上がらせた横顔は、何者をも拒絶する孤高を感じさせ。現(うつつ)から隔絶した気配を身にまとい、瞳はジッと遠くを見詰めていた。
 寂しい哀しい瞳で、何も映さない瞳で何かを見詰めていた。
 でも、出しかけた声を飲み込ませたのは、私の中の恐れ。
 そこに居るのが耕一さんだと認めてしまえば、私の知っている耕一さんが、幻の様に消えてしまう。
 声をかけ振り向いた耕一さんが、厳しい表情で、哀しい瞳を私に向ければ。
 その瞬間、今までの耕一さんが居なくなってしまう。
 そんな恐れ。

 あの瞳の光りには見覚えが在った。
 楓と同じ瞳。
 いつからか表情が乏しくなり、胸の痛くなる様な悲哀を浮かべる様になった妹の瞳。
 楓の変化は、両親を亡くしたショックと叔父様の鬼の所為だと思っていた。
 楓は姉妹の中でも、一番感受性が強かった。
 その所為か、鬼を感じる力も一番強い。
 でも鬼が目覚めたからと言って、耕一さんが楓と同じ瞳を持つ理由にはならない。

 どうして耕一さんが、楓と同じ瞳を?
 あれは、鬼に苦しんでいるのとも違う。
 今の耕一さんからは、鬼をまったく感じない。
 やはり、楓の言っていた事は正しかったの?
 楓は、私や梓が鬼を隠そうとしても、近くに居れば感じ取れる。
 だけど耕一さんが制御してからは、楓も耕一さんの鬼だけは、感じ取れなくなった。
 それも、私の居る時だけ。
 私の居ない時には、微かにでも鬼を感じると言っていた。
 鬼の力は、鬼同士の感情を伝え合う事も出来る。
 私の前でだけ鬼を抑える耕一さんは、私にだけ心を閉ざしたのと同じ。

 肩を抱いた腕に力を込め身体を丸め、いつもして来た様に自分の温もりを確かめる。

 でも、以前とは違う。
 抱き締められる温かさを知る前とは違う。
 自分の温りを感じる程。
 心に穴の空いた様な虚しい寒さが、魂まで凍て付かせる。
 虚空に独り漂う様な心細さと、凍える様な寒さは、以前より酷くなった。

 判らない。
 どう考えればいいのか。

 昨日は、萩野さんと佐久間さんに、耕一さんは私の為に本気で怒ってくれた。
 鶴来屋や柏木が重くないか気遣ってくれていた。
 私を幸せにすると言ってくれた。
 足立さんにも、一緒に話に行くと言ってくれた。
 でも耕一さんは、私に心を閉ざした。
 時折、私の知らない表情を覗かせる。
 哀しそうな、寂しそうな瞳。
 冷淡な厳しい表情。
 窓辺で遠くを見詰める耕一さんと同じ顔。
 優しくて明るい従弟の耕一さんとは、別の人の顔。

 どちらが本当の耕一さん?

 いいえ、どちも本当の耕一さんなのかしら。
 誰しも幾つかの顔を持っている。
 私が役目に相応しい顔を作る様に、耕一さんが裏と表の顔を持っていても不思議はない。
 私が踏み込まなければ、判りはしない。
 耕一さんが私の哀しみに気付いてくれた様に。
 でも、すぐそばに耕一さんは居るのに、私は聞くのが怖い。
 もし拒否されたら?
 私には、関係のない事だと応えられたら?
 いいえ、耕一さんはそんな事は言わない。
 心配する事ないって、笑って首を横に振るだけ。
 でも、それは明確な拒絶。

 微かな光りが部屋に差し込み、私は耕一さんが戻って来たのに気付いた。
 衣擦れの音が聞こえ、静かな温かさが滑り込む様に傍らに戻ってくる。
 そっと薄く瞼を開くと、片肘を突いた耕一さんの顔が瞳に映った。
「ごめん、起こしたかな?」
 申し訳なさそうに言った耕一さんは、私のよく知っている耕一さんだった。
 どう応えていいか判らず首を横に振ると、耕一さんの指が、私の額をなぞり、そっと掌が頬に温もりを伝えた。
「千鶴さん、寒いの? エアコン強くしようか?」
 いつしか、私は震えていたらしい。
 耕一さんはそう言うと、頬に触れていた手を離し起き上がろうとした。
 思わず私は、起き上がろうとした耕一さんの身体に手を伸ばし、ぎゅっとしがみ付いていた。
 手を離すとそのまま何処かに行ってしまう気がして、そのまま胸に顔を埋めた。
 私の突然の行為に、耕一さんは戸惑った様だった。
 少し躊躇い。
 そっと身体をベットに戻すと、優しい手が髪を撫で、背中に回した腕が私を抱き締めてくれた。
 髪を撫でていた腕を私の頭の下に回し腕枕にして、両腕が私を包み込む様に力を強めた。
 今までの不安も寒さも、潮が引く様に遠ざかって行く。
 代わりに、心地好い温かさと安らぎが私を満たす。

 私は卑怯なのだろう。
 年下でまだ学生の耕一さんの優しさに甘え、縋(すが)っている。
 耕一さん自身を知ろうともせず。
 耕一さんの胸の中で、心地好さに浸っている。
 知って失うよりは、今のままの方が良いと思っている。
 耕一さんの胸の中で、力強い腕に抱かれている時だけは、全てを忘れていられるから。
 柏木も鶴来屋も、一切の不安を知らなかった子供に戻れるから。
 もう失ったら、どうやって生きて行けばいいのか判らないから。
 だから、私は何も聞かない。
 何も聞けない。
 本当の私は臆病で卑怯で狡い、只の弱い女だった。

 耕一さんは、そんな私を知っているんですか?
 耕一さんは、そんな私を知っても抱き締めてくれますか?

 聞いてしまいたい。
 でも聞いたら、失ってしまう。
 そんな恐れと不安が、私の口を塞ぐ。
 今は何も考えず温かな安らぎに浸っていたい。
 今だけでも……



 いつの間に眠ったのか、心地好さに包まれた微睡みから覚めると、薄く開いた瞼の間から、ジッと見詰める優しい瞳が最初に目に入った。

 あれは夢?

 厳しい表情で、悲哀を感じさせる瞳で、遠くを見詰めていた耕一さんは、私の恐れが見せた夢だったの?
 瞳に映る耕一さんは、優しい眼差しで微笑むいつもの耕一さんだった。
 ぼんやり考えていると、耕一さんの表情が苦笑を浮かべた。
「おはよう千鶴さん、そろそろ起きないと。チェクアウトまでにシャワーも浴びられないよ」
「おはようございます。もう、そんな時間ですか?」
 言われて時計に目を走らせ様と頭を動かすと、耕一さんの微かな呻き声が聞こえた。
「耕一さん? どうかしましたか?」
 慌てて目を戻すと、耕一さんは顔をしかめながら、また小さな呻き声を洩らした。
「いや、そのね。…ごめん千鶴さん、頭をね、その動かさないで貰えるかな」
 苦く笑って言われ、私は耕一さんの腕の上で頭を動かしていたのに気が付いた。
 夢の中で、腕を枕に抱き締められた時のままに。

 じゃあ、やはりあれは夢ではなかったの?

 夢ではなかった落胆にふっと息を吐き身体から力を抜くと、耕一さんは眉を潜め息を噛み殺した。

 いけない!
 ずっと腕枕をしていたから、腕が痺れているんだわ。

 私は慌てて胸元をシィーツで押さえ半身を起こした。
「ごめんなさい、耕一さん」
 どうしていいか判らなくておろおろする私を、苦笑いを浮かべ痺れていない左腕で引き寄せると、耕一さんはそっと顔を近づけた。
 薄く目を閉じると唇に温かさが広がった。
 そのまま引き寄せた左手が首筋の後ろをなぞる様に動き、私を強く引き寄せ、熱い息が私の息と混ざり合い、頭を痺れる様な幸福感が満たした。
「…んっ…ふっ」
 静かに唇が離れ、塞がれていた唇から吐息が洩れた気恥ずかしさに、私は熱くなった頬を隠す様に視線を落した。
「すぐに痺れは取れるから、気にしないで。そろそろ支度しないと。もう九時だからさ」
 耕一さんはそう言いながら、私を左腕で一度軽く胸に引き寄せてから腕を離した。
「…はい」
 私は視線を下げたまま小さく頷くと、ローブをまといシャワールームに向った。

 それまでの不安が嘘の様に、キス一つで幸せになれる何て、我ながら現金ね。
 久しぶりに憶えた空腹感に頬を緩め、私は汗を流し髪を整えた。

 普段からお化粧はあまりしない。
 これも忌まわしくある血のお蔭の一つ。
 同年代の女性と比べると肌が若い。
 逆に言うと幼いって事だけれど、いつまでも若くいられるのは嬉しいし、肌荒れとかシミとも無縁だ。
 鬼の血を引く者は、成長や老化が遅いのかも知れない。
 楓や初音が、実際の年齢より幼く見えるのもその所為だろう。家では外見と年齢が一致して見られるのは、梓だけ。
 もっともあの子の場合、性格が多いに影響している見たいだけれど。

 薄くルージュを引いて、スーツを着れば支度は終わり。
 年齢だけでも若すぎる会長職という役がら、実際より若く見られがちな私は、着る物も意識して地味な物を多くしている。
 明るい服装やお化粧をすると、高校生に間違われる事すらあった。
 御世辞。の、つもりだとは思うけれど。
 会長職は周囲が思っているより、華やかさとは縁遠く責任だけが重い仕事。
 でも耕一さんが一緒なら、他の服も持って来るんだったわ。
 いくら仕立てが良くて高級でも、地味なビジネススーツじゃ味もそっけも無いわよね。
 やっぱり都市部の大学だと、綺麗な女性も多いんだろうな。
 華やかな服を着て、綺麗にお化粧して。
 由美子さんて方も、ちゃんと御化粧をすると、可愛いより綺麗になりそうだったし。

 ふっと息を吐き、考えを振り払った。

 考えても仕方ない。
 それに、どちらにしろコートを着ると一緒よね。
 耕一さんは、着る物にはこだわらない見たいだけれど。


 部屋に戻ると、耕一さんはソファで古びた本に目を落としていた。
 気付かれない様に背中から近づきそっと覗くと、古文字の羅列が目に入った。

 耕一さんに、こんな趣味が在ったのは意外だった。
 普通の人が読める類の物ではない。
 専門的に古文献などを扱う人でも無いと、読めない筈の物だ。

「千鶴さん、もういいの?」
 本から目も上げずにそう聞かれ、思わず頬が膨らんだ。
「ええ、荷物の用意も出来ていますから」

 私が戻ったのにちゃんと気付いていて、知らん顔をしてるなんて酷い。
 おどろかそうと思っていたのに。

「じゃあ俺も汗だけ流してくるから。それからチェクアウトして、食事でどうかな?」
 クスクス笑いながら耕一さんはそう言うと、本を閉じ首を傾げて私を見上げた。
「ええ、いいですよ」
 クスクス笑いが、私の行動を見抜いていたのを教えてくれ。私はむくれてソファにポンと腰を下ろし、素っ気なく答えた。
 耕一さんは余計楽しそうに笑い、私の膨れた頬に手を当て額に口付けすると、シャワールームに向った。

 最近、全然耕一さんに勝てない。
 前は私が怒って睨むと慌てていたのに、今では平然と切り返してくる。
 最後にキスで胡麻化すんだから。
 …嫌じゃ…ないけど。

 そっと唇の触れた額に指で触れ、私はフロントへ電話を入れた。
 荷物を宅配便で送って貰える様に手配を頼み、私は耕一さんの読んでいた本を手にした。
 鬼について調べているのかと思っていたが、その本はいわゆる偽典だった。
 正史では認められていない、偽の歴史とされている物だ。
 鬼についての手掛りになる様な本ではなかった。
 私はほっと小さく息を吐いた。

 私は恐れているのだろう。
 耕一さんに全てを告げて、許しを乞うのが一番正しいとは思う。
 でもそばに居る時は安心出来るのに、離れていると不安ばかりが募る。
 許すと言って貰えても、耕一さんは帰ってしまう。
 離れている間に好きな人が出来たら、耕一さんは、もう戻って来てはくれないかも知れない。
 人は便利なものだもの、不都合な記憶は仕舞い込んで自分を正当化する。
 そして私のした事は、許して貰えなくて当然だから。
 手を掛けた私を許してくれた耕一さんに、これ以上信じて許して欲しいと願うのは、虫の良すぎる話だと思う。
 いいえ。
 耕一さんは、もう気付いているのかも知れない。
 ただ、私だけでなく妹達まで見放せず、何も言わないだけかも。
 同情と哀れみで、突き放せないだけかも知れない。

 暗く落ちていく思考を払い退ける様に頭を振ると、髪が私を頬を叱る様に打ち据えた。

 どうして私は、信じられないの?
 耕一さんに、許して幸せにするとまで言って貰ったのに。
 耕一さんが帰ってから、不安ばかりが大きくなる。
 電話が掛かって来ないから?
 電話してもいつも留守だから?
 判ってるのよ。
 アルバイトで生活を支え大学に通えば、自由な時間なんてないもの。
 …でも、本当は声を聞くのも嫌で避けてるんじゃ。

「……千鶴さん?」
 声に顔を上げると、耕一さんが心配そうに覗き込んでいた。
「どうかしたの、気分でも悪いの?」
 隣に腰を下ろすと、耕一さんはさっき髪が打った頬に掌を添えた。
「いいえ、何でもないんです。大丈夫です」
 答えながら、私は頬に添えられた手に手を重ねた。

 こうやって隣に居て、手を繋いでいるだけで安心出来るのに、少し離れ姿が見えないだけで不安になる。

「でも、まだ時間は在るから。少し休んだ方がいいんじゃない?」
 心配そうに聞かれ、私は耕一さんに寄り掛かり身体の力を抜いた。
「じゃあ。時間まで、こうしていてもいいですか?」
 肩に回された腕ともう片方の腕が、私の身体を包む様に円を描き、胸の中にそっと抱かれたのが答だった。

 耕一さんはこんなに優しい。
 二人で過ごそうって言い出してくれたのも、耕一さんなのに。
 こうしていると一切の不安が消えて行くのに、一人になると私は馬鹿な事ばかりを考えてしまう。

 ごめんなさい、耕一さん。

 疑ってしまう心の弱さを心の中で謝りながら、頬を擦り寄せた胸からは、仄かにセッケンの香りがした。


  § § §


 そっと目を上げ、出そうになった溜息を飲み込む。
 昨日と同じ、スカイラウンジの窓際の席。
 窓から遠くのビル街が、霞が掛かった様にぼやけて見える。

 耕一さんの腕の中で安心した途端、空腹を訴え出した現金なお腹に、朝食。
 もう早めの昼食かしら? を取りに立ち寄ったラウンジで、私達の食事が終るのを待っていた様に、佐久間賢吾さんは姿を現した。
 せっかくの休日にまで、仕事の顔を作るのは嫌だったけれど、会長職に休日など在ってない様な物。
 知らん顔で食後のコーヒーを口に運ぶ耕一さんを横目に、佐久間さんは相席を申し出られた。
 儀礼上断り切れず、食事中の楽しい雰囲気とは一変した席で、私もオレンジジュースを口に運んだ。
 佐久間さんは、コーヒーを頼んでから笑顔を向けるだけ。
 耕一さんは、そこに佐久間さんが居ないかの様にあからさまに無視を決め込んだ。
 私はと言うと、気不味い席になって耕一さんに悪いと思いながらも、佐久間さんの思惑が読めず困惑していた。
 佐久間は海外での活動がメインで、国内観光にそれ程力を入れていない筈だった。
 鶴来屋にこだわる理由が判らず、佐久間の狙いが何なのかがまるで読めない。
 帰ったら足立さんとも相談しないと。

「昨夜は失礼いたしました。しかし御人が悪い。まだ婚約などは、なさっていないそうですが?」
 佐久間さんがそう言って、私と耕一さんを見比べる様に窺ったのは、運ばれて来たコーヒーに一口つけた後だった。
「それは……」
「個人の問題でしょう」
 私がまだですがと言う前に、耕一さんは佐久間さんに目も向けず、一言で済ませた。
「しかし、会長ともなりますと。個人の問題では済まされないのでは?」
「派閥や経済効果の事ですか? 海外事業が専門のわりには古いですね」
 顔を向けた佐久間さんに、耕一さんは視線をコーヒーカップに向けたまま、口の端に笑みを浮かべた。
「いいえ。欧州などでは、未だに婚姻や血統を重んじますので、一概に古いとは言えませんね」
「歴史のない佐久間さんは、それで苦労なさった?」
 淡々と返しながら、耕一さんは何かを悟った様に薄く笑った。

 私は、話から完全に外されていた。
 佐久間さんは耕一さんを注視し、耕一さんは昨夜とは逆に佐久間さんをからかう様に、素知らぬ顔で目を向け様ともしなかった。

「…まだ学生でいらっしゃると、萩野さんに伺ったのですが? 経済か歴史が御専門ですか?」
「いいえ」
「そうですか? まあ、仰る通りです。欧州貴族の方は、何かと歴史と伝統を重んじておられる方が多い。いまだ血筋の歴史を誇りとなさっておられる方もいらっしゃる。米国などでは国の歴史の浅さも手伝い。歴史在る血統には、劣等感さえ持たれている方がおられる程でしてね」
 深く息を吐くと、佐久間さんは馬鹿馬鹿しい事ですと軽く頭を振って額を押えた。
「それで地方とは言え、歴史を持つ柏木ですか? 次いでに、皇室も使った鶴来屋の名前までとは虫がいい」
 佐久間さんが姿を現してから初めて、ムッとした目を耕一さんは佐久間さんに向けた。

 それじゃ、佐久間の狙いは?

「いいえ、もちろん魅力的な会長さん在ってのお話です」
 非礼を詫びる様に私と耕一さんに頭を下げ、佐久間さんはテーブルに肘を突き両手を組むと、楽しそうに耕一さんに目を戻した。

 私はその時、佐久間さんが、私ではなく耕一さんに興味を持っている事に気が付いた。
 しかしそれより、私は屈辱感に唇を固く噛み締め、自制しようと膝で握った拳が小刻みに震えた。

「日本と言う国は、欧州ではいまだミステリアスでしてね。皇室が御使いになられた。血統が何百年の歴史を持つというのは、決して侮れない効果を持つのですよ。まして年若くして当主であり、神秘的な緑の黒髪を持つ美しきレディともなれば、社交界でも注目されますからね」
「見合い以外は、学生の俺には関係のない話ですね」
 私の期待とは裏腹に、耕一さんは怒りもせず素っ気なく応え、コーヒーを飲み干すとまた知らん顔を決め込んだ。
 佐久間さんは苦笑を洩らしながら、カップに口を付けるとおもむろに耕一さんに目を戻した。
「いや、失敬。もう御見合いの話を蒸し返すつもりは在りませんので、そう無下になさらず」

 この人、私を何だと思っているのよ!!

「佐久間さん、時間も在りませんので。お話がそれだけなら失礼させて頂きます」

 もう限界だった。
 私はキッと佐久間さんを睨むと、そう言い放ち。
 耕一さんに席を離れ様と目くばせした。
 何とか抑えたつもりが抑え切れずに力が吹き出し、佐久間さんだけでなく耕一さんまで腰を引くと、顔を引きつらせた。

 私の忍耐にも限度が在る。
 さっきから黙って聞いていれば、それじゃ何!?
 柏木の歴史と鶴来屋の名さえがあれば、私でなくても良かったって言うの!?
 人を馬鹿にして!!
 何が神秘的よ、私は見せ物じゃないわ!!
 家の格を上げるのに使おうとしたって事じゃない!!
 耕一さんだって、もっと怒ってくれると思っていたわ!!
 私があんなに馬鹿にされているのに、ムッとしただけだ何て!!
 どうしてあっさり納得するの!?
 こういう時は、鬼を使ったって構わないんです!!
 私は心の中で喚き散らし、席を立つと出口に向かった。

「…弟では、確かに役不足でした」
「歴史の重みです」
 そんな会話が背中から聞こえ、私は振り返って佐久間と耕一さんを、もう一度睨み付けた。
 二人が蒼い顔で乾いた笑いを洩らすのを後目に、息を飲み脇に避けたウェイターが腰を抜かしたのにも構わず。
 私はエレベーターに足を向けた。

 エレベーターホールで立ち止まると、追いかけて来た耕一さんは、隣に並び中途半端な時間で人影がないのをいい事に、くつくつ笑いながら横目で私をチラチラ窺う。
 私がムッと睨むと、素知らぬ顔で耕一さんは視線を逸らし、また笑いを洩らす。
「耕一さん、笑いすぎです。ぜんぜん可笑しくなんて在りません」
「千鶴さん、そんなに怒らないでよ。魅力的な会長なんだからさ」
「私が柏木で会長だからで、私自身はどうだっていいって事ですよね!」
 キッと睨んで私が言うと、耕一さんは一瞬ハッとした表情を強ばらせ、腕が私を引き寄せた。
「耕一さん?」
 こんな所では恥ずかしいと思ったけれど、私は名前しか呼べなかった。
 抱き寄せられる前に見えた耕一さんの瞳は、あの哀しそうで寂しそうな陰りを浮かべていたから。
「千鶴さんは、千鶴さんだから。他の誰でもない」
 静かに耳に届いた囁きは、どこか苦しそうだった。
 でも、聞き返す前にそっと離れた耕一さんからは、もう瞳の陰りも強ばった表情も消えていた。
「それに神秘的な黒髪のレディだからさ。とっても魅力的って事だろ?」
「そんな風に、聞こえましたか?」
 見間違えだったのかと思うほど耕一さんの声は楽しげで、私は怒っていたのも忘れ、安堵感から少し上目遣いに睨みながらそう聞いた。
「もちろん。千鶴さんは、怒った顔も魅力的だから」
 小さく笑い、耕一さんは私の顔を覗き込む。
「耕一さんったら、またからかうんですね」
 話している間に着いたエレベータに乗り込み、私は熱くなった顔を臥せ、横目で耕一さんを窺った。
「本気なんだけどな」
 隣に並んだ耕一さんに握られた手が、本当だと念を押す様に力を増し、私は怒ったのが馬鹿馬鹿しくなって小さく息を吐いた。
「あっ、耕一さん」
 重要な事を忘れていたのに気が付き、私は耕一さんを見上げた。
「どうかしたの? 千鶴さん」
「ごめんなさい。ラウンジの支払い、忘れていました」
 チェクアウトした後だから、キーを見せてサインで済む筈が無かった。
 一流だけ在って食事と席のキープだけでも、学生の耕一さんには馬鹿に出来ない出費の筈だった。
 でもそう言うと、耕一さんは首を傾げ笑顔を綻ばせた。
「ああ、あれね。佐久間に押し付けた」
「押し付けたって?」
「腰を抜かしたウェイターに、佐久間が払うからって言っといた」
「そんなぁ〜、耕一さん」
「いいの、せっかくの貴重な時間を邪魔したんだから」
 そう言うと、耕一さんは悪戯を楽しむ子供の様に私に笑い掛ける。
 耕一さんの笑い方が子供の頃のままで、私まで楽しくなってしまい、私も頬を緩め小さく笑みを零した。

陰の章 二章

陰の章 四章

陽の章 三章

目次