陰の章 二


 少し髪が引きつれるわね。
 慣れない所為かしら?

 そっと結い上げた髪に触れ、簪を動かすと少し頭が楽になった。

 後一人で最後だから、我慢しないと。

 膝に目を落とし生地に触れてみる。
 真新しい藍染の紬(つむぎ)は、表面がざらついた感じがした。

 旅館がメインだから着物って、安易みたいな気もするけれど。
 無地の藍染は地味だったけれど、流石にトップクラスの方は目も肥えていらっしゃる。
 何人かの方とお会いしたけれど、一目で最高級の紬だと判るみたいだわ。
 少し目を開くと、感心した様に目を細めていらした。

 目を眼下に移すと、少し霞んだホテルの庭園が黄緑の染みの様に見える。
 春や秋なら綺麗でしょうね。
 目を戻し正面を向いて小さく息を吐いた。

 やはり一流で通った企業のトップともなると威厳と言うか、身にまとった迫力が違う。
 地元では大きくても、鶴来屋はやはり地方の一企業だと改めて感じた。
 鶴来屋でお会いする地元トップの方々とは、時折垣間見える威圧感に雲底の差があった。

 でも、まだマシよね。
 何と言っても叔父様の葬儀に弔電を下さった方々だから、最後まで気を抜かず失礼のない様、気を引き締めないと。
 せっかく叔父様が、後を引き継ぎ易い様に根回しして置いて下さったのだから、失礼が在れば叔父様に申し訳がない。
 それに、もうすぐ耕一さんとの約束の時間だし。
 …でも、やはりちょと不味かったかしら、少し時間を早く教えてしまって。
 でも、やっぱり着物姿を見て貰いたいし、耕一さん結構時間にルーズだから。

「会長」

 硬い声にスッと息を吸い、気持ちを仕事に切り変える。
 顔を上げると萩野さんが睨む様に私を見て、隣に腰を下ろした。

 萩野さん、鶴来屋グループの重役。
 足立さんが鶴来屋、萩野さんがレジャー関連。
 以前は足立さんと共に叔父様の片腕だった方。
 叔父様が亡くなられ、反柏木の先陣に立たれた方。
 それも仕方が無いのかも知れない。
 足立さんは柏木の鬼をご存じだけれど、萩野さんは柏木の鬼を知らされてはいない。
 警察まで他殺の疑いを持ち、捜査に鶴来屋が圧力を加えれば、私に不信感を持たれても萩野さんを責められない。

「これを。最後の方です。そろそろ御見えになられる時間ですので、私はお迎えに」
 そう言うと、萩野さんはテーブル上に不備がないか見回し、立ち上がりながら二つ折りの白い台紙の様な物を私の前に置き、歩み去った。

 今まで口頭で伝えていたのに。

 不信に思いながら台紙に手を伸ばし開いて見た。
 中を開くと、写真と略歴が綴られていた。
 それが何かは、一目で判った。

 御見合いとは、こんな手で来るなんて。

 私は唇を噛み締めた。
 もう相手が来るでは、手の打ち様がない。
 私に不信を持ち、重役で在りながら自ら随行を申し出られた時に、何か在ると気付くべきだった。
 今から席を外せば、萩野さんに恥を掻かせる。
 実際に鶴来屋グループを動かしているのは、足立さんと萩野さんだった。
 萩野さんの失態は、直接鶴来屋に跳ね返る。
 しかも相手が悪い。
 佐久間グループの次男。
 世界的なリゾート総合開発の雄が相手では、個人対個人の話だけではない。
 鶴来屋と佐久間の約束事になる。
 萩野さんの独断では済まされない。
 会うだけでも会わないと、鶴来屋グループの信用問題に関わる。
 席を外せば責任感の無さを広め。
 御見合いが上手く行けば佐久間との提携に繋げ、萩野さんの鶴来屋内部での評価は上がる。
 御見合いが上手く行かなくても、萩野さんには実害は無い。
 しかも一度御見合いをすれば、普通の御見合いとは違い、気に入らないからでは、佐久間に恥をかかせる。
 世界的企業が相手では、こちらの方が立場が弱い。
 断るそれなりの理由を作らないと。
 こんな絡め手で来るなんて。
 ギリッと噛み締めた歯から音がした気がした。

 肩の力を抜き、大きく息を吸う。

 善後策を練らないと、あっさり嫌ってくれれば助かるけど。
 梓なら手料理を食べさせろって言うのかしら?
 でもそれって、情けない気が……

 もう一度写真に目を落とし、略歴を追ってみる。
 学歴は申し分ない。
 24歳、肩書きは佐久間の一部門で、管理責任者??
 何これ?
 次男で閑職?
 あまり重要視は、されていないって事かしら?
 断る理由とすれば、柏木は地方とは言え旧家、佐久間は成り上がりって所かしら?
 でも家に格式なんて無いし。
 それにしても、何だか頼りなさそうな人。
 名前では絶対に呼びたくない。
 よりにもよって、一字違いで叔父様と同じ読み方だ何て。

 溜息がクセになりそうな予感がして、出掛けた溜息を呑み込み、水のグラスを口に運び喉を湿らす。

 そうだ! 耕一さん!!
 …どうしよう。
 御見合いでは、時間より早く終わるなんて有り得ない。
 いいえ、それより耕一さんが様子を見に来て誤解されでもしたら……
 …そのまま…怒って帰ちゃうかも。
 飲み込んだ筈の溜息は、やっぱり出るしか無かった。


  § § §


 定番って所かしらね。
 簡単な紹介の後は、若い二人で御散歩とわね。

 さっき眼下に眺めていた日本庭園を歩きながら、ほっと息を吐いた。

 萩野さんと一緒よりマシだから来ては見たけど、陽は差しているのに何だか肌寒い。
 それに真新しい草履が歩き難い。
 葉が黄色く染まった中に、枯れた茶色の葉が混ざる庭園は、お世辞にも綺麗には見えない。
 それに隣の佐久間さん。
 さっきからニヤニヤと嫌な目で見てるし、内容の在る話一つしようとしない。
 会社の事業とか、出身大学の自慢ばかり。
 それも全部人の作った土台の話、自分では何もしていないのかしら?
 こんな人が叔父様と同じ名前だ何て、世の中間違っているわ。

「あの、柏木さん。ご趣味とかは?」
 やっと自慢以外に口を開いたと思ったら、揉み手でもしそうなへらへら笑いで、佐久間さんはそう聞いてくる。

「古文書分析と心理学を」

 どうしてこの人、顔が引きつるのかしら?
 確かに趣味というよりは、必要だったからだけど。普通の読書とか、映画鑑賞も良いわよね。
 まあ好かれたい訳じゃ無し、別に笑って見せる必要も無いし。
 まあ、いいわよね。

 慎重に歩き出すと、佐久間さんは手を貸すつもりか手を差し出してくる。
 私は差し出された手を無視して、ゆっくり歩き出した。
 行き先は庭園の真ん中に見える東屋。
 ゆっくり話すつもりでじゃなく、ただ草履が歩き難いから腰を下ろしたいだけ。
 佐久間さんは出した手の持って行き場に困り、自分の手と私を交互に見て隣に並んで歩き出した。

 本当なら今頃は、耕一さんと一緒に歩いてる筈なのにぃ。
 耕一さんなら、手を差し出す何て紳士的じゃないかも。
 きっと先に立ってゆっくり歩き出すの。
 でも私が転ばない様に、さりげなく気を使ってくれるわね。
 そう考えると頬が緩んでくる。
 一見無頓着見たいだけれど、相手に気を使わせない様にさりげなく気使ってくれる。
 そういう所も、叔父様譲りなのかしら?

 隣を歩いてるのが耕一さんなら良かったのに、と考えて溜息を飲み込み顔を上げると、佐久間さんが顔を覗き込む様にして、鼻の下を伸ばした笑顔を向けていた。

 この人、どちらかと言えば整った顔立ちなのに、同じ笑顔でも、どうして耕一さんと違って不愉快になるのかしら。
 不思議よね?

 顔を背け、飲み込んだ筈の溜息が出た。

 これだけ冷たくされて、そろそろ諦めてもいい様なものだけれど?
 まさか鬼を使う訳にも行かないし。

「あの宜しければ、この後夕食をご一緒にどうでしょう? それまで街を案内させて頂きますので」

 えっ?!
 この人、全然応えてないの!

「きゃ!」
 振り向こうとした私は石を踏んで足がもつれ、景色が斜めに視界を過った瞬間、目を瞑って痛みに備え身体を硬くした。
 でも、痛みは無かった。
 強い力に引かれ、私の身体は温かい胸と逞しい腕に支えられていたから。
 そっと目を開くと、苦笑を抑えた表情に優しい瞳がからかう様な光りをたたえ、私の前に在った。
「千鶴さん、大丈夫だった?」
 いつの間に来ていたのか、耕一さんにそう聞かれ、気不味さに落した私の視線の先で、佐久間さんが腕を押さえ呻いていた。
「……耕一…さん?…大丈夫です。すいま…せん」
 上目遣いに微笑みながら、お見合いと抱き止めて貰った二つの意味で耕一さんに応え。私は佐久間さんの様子と、耕一さんの突然の出現の意味を悟った。
 耕一さんの肩越しに、地面に通常では残り得ない見事な足形が深々と残っているのが見えた。
 耕一さんは私の視線を追い、目をうろうろ泳がしハハッと乾いた笑いを洩らした。

 梓だけでも手を焼いてるのに、耕一さんまで力を使って。と、思ったけれど、ちょと嬉しいかったりもする。

「あの、柏木さん?」
「何だ?」「えっ?」
 佐久間さんの掛けた声で私と耕一さんの声が重なり、私達は顔を見合わせ、笑い声を洩らした。


  § § §


 心地良い香りは体臭だろうか?

 足が地に着いていない不安にしがみ付き、顔を埋めた首筋から、規則正しい鼓動が温かな匂いを香らせる。

 コロンとも違う。
 シャンプーの香りとも、叔父様のタバコの臭いとも違う。
 決して香水の様な香りではないけれど、落ち着いた温もりを与えてくれる匂い。
 耕一さんの匂い。

 耕一さんと笑い在った後。
 紹介を曖昧に胡麻化すと、佐久間さんは耕一さんに自己紹介を始めた。
 耕一さんも名前を聞いた途端、顔をしかめ無視を決め込んだ。
 佐久間さんが悪い訳ではないけれど、向こうから断ってくれるのが一番望ましい。
 私は、あえて何も言わなかった。
 耕一さんは脱げた草履を拾って、鼻緒が切れていると言ったけれど。
 あれは嘘。
 ちゃんと拾う時に鼻緒を千切ったのが見えたもの。

 もしかして、嫉妬かしら?
 こういう所は、子供みたいで可愛い。

 肩に掴まる様に言われそっと腕を回すと、耕一さんはそのまま私の膝をすくい上げ胸に抱き上げた。
 恥ずかしくて、小さな声で下ろして貰おうと頼むと、
「他に人も居ないし、気にしない」
 隣に佐久間さんが居るのに、そう言って耕一さんは歩き出した。
 佐久間さんが何か言い掛けた見たいだったけれど。それより私は、恥ずかしさと足が地に着いていない不安でぎゅと耕一さんにしがみ付いた。

 擽(くすぐ)ったい様な気持ち良さに、ずっとこうしていたい様な、早く下ろして貰いたい様な恥ずかしさが重なる。
 恥ずかしさで熱くなった顔を、耕一さんの肩に臥せて隠すと、何か良い匂いが懐かしさを呼び覚ました。
 懐かしさと、小さな子供に戻った様な安心感。

 そう、遠い昔。
 幼かった頃。
 まだ梓が生まれる前、御爺様の膝の上に抱き上げられた様な。
 御父様の胸に抱かれ、眠ってしまった時の様な心地好さ。
 私だけの御爺様や御父様、御母様で在った頃の、何の不安
もない、誰にも遠慮せず甘えて過ごせた日々の懐かしい温かさ。
 梓が生まれ、続いて楓と初音が生まれ。
 御爺様も御父様も、そして御母様も、私だけの者では無くなる前の懐かしい温もり。

 私だけの御爺様や両親でなくなったのが、不満だった訳じゃなかった。
 妹達は可愛いし、御爺様や両親は変わらず優しかった。
 でも、やはり五歳も年上の私が、生まれて間もない妹達の世話で忙しい両親を煩わせる訳には行かなかった。

 聞き分けの良い娘。
 妹達の御手本になる、良い姉。
 鶴来屋会長の孫、将来の後継者。
 旧家のお嬢さん

 私に求められた数々の役目。
 私は相応しくあろうと、そう努めて来た。
 でも、そうなりたかった訳じゃなかった。
 自分からは、それらの役目から逃げ出せない。
 それが私の弱さなのかも知れない。
 御爺様は、そんな私の弱さを知っていらしたのだろうか?
 確かに私しかいなかった。
 御父様が鬼を制御出来ないと悟ると、柏木の長女として、跡取りとして。
 御爺様は、私に柏木の血の秘密を語り聞かす様になった。

 私には否応もなかった。
 妹達はまだ幼かったし、その本当の意味が判ったのは後からだった。
 そして、遂にその真の意味を知る時はやって来た。
 御父様が発現に苦しむ地獄の日々の中では、御母様は妹達の前で平静を装うのがやっとだった。
 御母様と支え在い、私が妹達の世話をするしか無かった。
 でも。

 静かに足が地に触れた感覚が、私を過去から呼び戻した。
 首にすがり付いたままだった私は、微かに耕一さんの笑った気配にパッと手を離し、視線を下げると朱布が目に入った。
 いつの間にか庭園の東屋に着いていた。
 乱れた着物の裾を直し、朱布の引かれた台に腰を下ろす。
 隣にストンという感じで耕一さんは腰を下ろすと、細めた目を私に向けた。
 私が気不味さと抱き付いていた恥ずかしさに、両手の指を弄(いじ)りながら、待たせてしまったお詫びと御見合いって言葉を避けて、急な顔合わせと言うと、
「顔合わせ? お見合いって、言わないの?」
 耕一さんは笑いながらそう聞いてくる。

 いつもの意地悪だ。
 判ってるクセに、わざと私を困らせて笑うんだから。

 上目遣いに睨むと、今度は梓と転びかけたのを話題に御正月に盛り上がれる。何て言い出す。
 梓に知られたら、それこそ、いつまででもからかわれてしまう。
 慌てて耕一さんの胸を片手で押さえ、止めてくれる様に頼むと。耕一さんは余計楽しそうに頬を緩め、伸ばした手を私の頭の上でほんの少し泳がせた後、腕を私の肩に回した。

 あっ、そうだった。髪を結ってるから。

 いつもは髪が隠している、項(うなじ)の後れ毛に触れる袖の擽(くすぐ)ったさが、手を躊躇わせた理由を教えてくれた。

 少し残念。
 私って子供っぽいのかしら?
 梓は嫌がるけど、私は耕一さんに頭を撫でられるのは嫌いじゃない。
 頭を撫で髪を梳かれていると、何だか落ち着ける。
 プライドの高い人ほど頭に触れられるのを嫌うらしいけれど、他の人に撫でて貰いたいとは思わないから、それとは少し違うと思うんだけれど。
 項を擽る感触と、肩に置かれた手に少し落ち着いた気持ちになって、
「もう。それにだめですよ。あんな所で、あんな目立つ事をして。もし梓に話たりしたら、許しませんからね」
 怒って見せ、逆襲して見たけれど。
「じゃあ、転んだ方が良かった?」
 耕一さんは、笑ってあっさり受け流す。

 でも、嫌な気分じゃない。
 ぽかぽか温くて、楽しい。
 この庭園も、黄色かった葉が金色に見え、間から覗く枯れ葉が金をより引き立て、さっきまでとは別の所みたいに綺麗に見える。

「会長!」
 せっかくの幸せを壊したのは、萩野さんの声だった。
「これは、どういう事でしょうか?」
 後ろで頭を掻き所在なさげにしている佐久間さんを気にしながら、仁王立ちで萩野さんは私を睨み付ける。
「萩野さん。こちらがお聞きしたい者ですわ。事前の説明も無しに、お見合いとはどういう事でしょうか?」
 頭を会長に切り替え睨み返し、私は答えた。
「まあ、仕事の一環と思って頂かないと」
 さも当然の様に、萩野さんは眉を潜める。

 冗談ではない。
 私は、仕事で身売りまでする気はない。

「見合いが仕事? 一昔前の考えだな」
 私が言う前に、耕一さんのどこか呑気な声が、隣から萩野さんに応えた。
「君は?」
「最近の歳よりは。人の名を聞く時は、名乗ってからって。礼儀、習ってない?」
 片眉を上げ、話に割り込まれた不愉快さを隠そうともしない萩野さんを挑発する様に、耕一さんは良い年をして情けないと首を振る。
「鶴来屋常務、萩野だ」
 険悪に睨み合い始めた二人に、耕一さんから萩野さんの注意を逸らそうと口を開きかけた私の眼前を、耕一さんは手で遮りスッと腰を上げた。

 何か雰囲気が、いつもの耕一さんとは違う見たいだ。

「柏木耕一。多分、父がお世話になった筈ですが。その節は、どうも」
「父? ああ。前社長の葬儀の折りも、お会い出来ませんでしたな」
 腰を折り頭を下げた耕一さんを、萩野さんはジロジロと眺め回す。

 叔父様の葬儀の間中、萩野さんは耕一さんが親の葬儀にも来ないと怒っていらした。
「それは、連絡が遅れたからで。耕一さんに責任は……」
 鶴来屋の社葬では、連絡の遅れを耕一さんの欠席理由にしてあった。
 父親の葬儀にも参列しないでは、事実を知った耕一さんが、鶴来屋で働きたいと思っても、働き難いと思ったからだった。
 でも私が話し終わる前に、耕一さんの手が再び私を遮った。
 顔を耕一さんに向けると、耕一さんは微かに笑って首を横に振った。
「身内に葬儀の連絡も満足に出来ないでは。困りますな」
 葬儀の後も、幾度も聞かされた言葉だった。
「それだけ深く悲しんでいた。萩野さん、貴方も人の子なら判る筈だ。列席出来なかった、俺が問題にしない以上。貴方が口を挟む筋では無い。と思いますが」
 事情を知らない耕一さんは、私を庇おうとしてくれたのだろう。真っ向から萩野さんを睨み付けた。
「まあ。会社は、そんな感覚で動かさんで貰いたいんですがね」
「千鶴さん。佐久間との事は、役員会の意向が在って進めてるの?」
 険悪さがますます高まる中、急に耕一さんは顔を萩野さんに向けたままそう聞いた。
「それは……」

 萩野さんの独断だった。
 でも、萩野さんと佐久間の繋がりを知らなかったのは、会長としての私の能力不足だ。
 それに萩野さんの前で、現時点では部外者とされている耕一さんに、社内の情報を教える訳には。

「じゃあ、萩野さんが勝手に進めてるのかな? 足立さんも知らない? ま、どっちにしても、見合いじゃ仕事に関係ないかな?」
 耕一さんは驚いた事に、私が言葉を濁した途端。その方が都合が良かった様に萩野さんを挑発した。
「私は、会長に相応しい相手を」
「仕事って言ったの、萩野さんでしたね?」
 息子より歳若い耕一さんを、萩野さんは問題にもしていなかったのだろう。
 自分の失言を指摘され、簡単な挑発に乗って怒りを滲ませ、ひょうひょうと返す耕一さんを睨み拳を震わせた。

 やはりいつもの耕一さんじゃない。
 老練な萩野さんを怒らせて、手玉に取るなんて。

「政略結婚ですか? 古い、な」
「前社長の息子でも、余計な口出しは……」
 完全に萩野さんは、耕一さんに呑まれていた。
 あからさまに馬鹿にされ怒鳴り付け様としながら、耕一さんに睨まれた萩野さんは言葉を飲み込んだ。

 でも、耕一さんが放っているのは鬼の力とは違った。
 私から見える横顔は、私の知っている耕一さんとは明らかに別人だった。
 険しい表情、相手を視線で殺そうとする様な鋭い瞳。
 思わず背筋が薄ら寒くなる様な、冷酷な瞳。

「では、同じ柏木として言わせて貰う」
 そう言う耕一さんから、私は、今度は鬼までも感じた。
「柏木の者は、全て自らの意志で決める」
 鬼の力までを加えられ、萩野さんは既に立っているのがやっとの様に蒼褪め、耕一さんの言葉を聞いていた。
 私もまた驚きと畏怖に、言葉もなく耕一さんを見詰めているだけだった。

 耕一さんが人を殺意で恫喝し従わせるとは、考えた事もなかった。
 叔父様は、人の和を大事になさっていた。
 恫喝ではなく、協調と人望で社内をまとめていらした。
 耕一さんも、叔父様と同じだと思っていた。
 でも今、私の前にいる耕一さんは、絶対的な恐怖により、萩野さんを恫喝している。

「貴方の御心遣いは有難い。だが無用な配慮だ。以後遠慮して頂こう」
 耕一さんの言葉と共に一際強まった鬼の力がスッ消え、萩野さんは逃げる様に背中を向け、佐久間さんはその後を追った。
 消えた冷たい殺意に私も気を緩め、ほっと一つ息を吐いた。
 佐久間さんの様子では、離れていても耕一さんの殺気を感じたのだろう。顔が真っ青だった。

 でも助かった。
 柏木の名で耕一さんが断るなら、萩野さんは何も言えない。
 柏木の当主は私だが、直系の男子は耕一さんだけ。
 男系社会の名残を留める旧家が相手では、家の意向も確かめず、御見合いを仕組んだ萩野さんに歩が悪い。
 古い因習だが、会社に関係のない直系男子の耕一さんが、家を代表して断る根拠は十分在る。
 格式のない佐久間では、引き下がるしか無い。

「二人共、帰って行った」
「耕一さん。あれは、ちょと」
 笑って座り直した耕一さんに、私は息を吐き眇(すが)めた目を向けた。

 助かったのは確かだけれど、鬼の力まで使うなんて少し遣りすぎだ。
 それに助けて貰ったのは嬉しいけれど。
 人を脅し付ける耕一さんは、見知らぬ人見たいで、私が知らない耕一さんを見せ付けられた様で、どこか寂しい。

 でも耕一さんは驚いた様に目を開いて、萩野さん見たいな叔父さんが好みなの、なんて聞いてくる。
 いつもの耕一さんに戻った軽口にほっとして、ついムキになって言い返すと。耕一さんは可笑しそうに笑って、懲らしめて置かないと次は梓に持ってくると、冗談とも本気ともつかない口調で言った。

 確かにその通りだった。
 結婚まで仕事に持ち込むなんて、そう思うとまた溜息が出た。
 会長職に就いてから、幾度溜息を吐いたのかしら?

「梓なら、相手蹴飛ばして帰って来るかな?」
 耕一さんにそう聞かれ、梓が佐久間さんを蹴飛ばす姿が脳裏に浮かび、落ち込みかけた気持ちが少し楽になった。
 そう言えば、耕一さんの恫喝する姿、同じ者を昔家で見たような……
 そうだ!
 耕一さんの殺気と冷酷な瞳、あれは昔御爺様から感じたモノと同じ見たいだった。

 御爺様を思い出し、耕一さんに御爺様に似て来た見たいだと言うと、耕一さんはどうしてか複雑な表情をした。
 顔は笑っているのに、瞳が寂しそうな痛みを浮かべた。
 御爺様とは余りお会いした事のない耕一さんには、懐かしさより、御爺様を知らない寂しさの方が強いのかも知れない。

「御爺様、普段は温和で優しい方でしたけれど、仕事には厳しい方でした。意気込んで家まで来られた方が、御爺様にお会いして蒼い顔で帰られたものです。萩野さんを見ていて、思い出してしまいました」
 耕一さんにも御爺様を知って貰いたくて、私は話ながら萩野さんの姿に笑いを洩らし、鮮明に思い出した。

 御爺様が亡くなる一年程前、御客様にお茶をお出しした時だった。
 御爺様の前で震えていた御客様が、御爺様に一喝され逃げる様に帰って行かれた。
 普段温厚な御爺様の眼光と殺気が酷く怖くて、今のが鬼の力ですかとお尋ねしたら、寂しく笑いながら違うとお答えになられた。
 戦場で培(つちか)った殺気だと、生死の境を潜り抜け、初めて身にまとう哀しい気迫だと仰ていた。
 でも、どうしてそんな気迫を耕一さんが?

「どっちかな。温和で優しい方? それとも怖い方?」
 思い出に浸っていた私は、耕一さんの声で顔を上げた。
 からかう瞳が悪戯を楽しむ様に輝いて、耕一さんは怖い方か優しい方か、なんて聞いてくる。
 答えに詰まって、俯くとカッと頬が熱くなった。
「怖い方か」
 溜息混じりの言われ、私は耕一さんの顔を覗きながら、
「…耕一さんは…優しいです」
 諦めて素直に答えた。

 本当に耕一さんの意地悪。
 判ってて私が応えないと、哀しそうな顔をするんですもの。

「爺さんも、あの手で相手脅したのは考えられるかな。あれなら相手は、半分も言いたい事が言えない。並の人間なら気を失うか」
 私の答えに面白そうに笑った耕一さんは、御爺様が鬼の力を使ったと思った様だった。
「耕一さん……割り切ったん…ですね」
 私の哀しい気持ちが、声音に責める様な響きを持たせた。

 私は割り切った訳じゃなかった。
 ただ必要だったから。
 こんな力、無ければその方が良い。
 両親を、叔父様を苦しめ死に追いやった呪われた血。
 耕一さんは三月程の短期間で、その呪われた力を使うのが当り前の様に口にする。
 理不尽だとは思う。
 どう足掻いても逃げられない力なら、それを制御出来た耕一さんが、有効な使い方を考えるのは前向きだとは思う。
 でも私は、力を受け入れられる耕一さんが、私とは違うのが哀しい。
 やはり耕一さんも、血の呪いを真実その身で体験した訳では無いから、仕方がないのかも知れない。
 他の人の鬼の声を聞いただけだったから。
 でも、それは喜ばしい事。
 耕一さんは苦しまなくて済んだのだから、私は失わなくて済んだのだから。
 でも、真実私の苦しみは、理解はしてくれないのかも知れない。
 そう考えてしまう自分の浅ましさが、余計哀しい。

 そんな私の声音に気付いたのか、耕一さんは立ち上がると、部屋に行こうと肩を貸してくれた。
 私は肩に掴まりながら、声音に責める響きが入ったのを、後悔した。
 耕一さんの横顔は哀しそうで、どこか遠くを見る様な瞳の陰りに悲哀を感じたから。

 耕一さんは何を見ているんだろう?
 どうして、そんな哀しそうな顔をするんですか?

 気にはなったけれど、私まで哀しくなる愁いが、尋ねてはいけない気にさせ。
 私は声を掛けられず、耕一さんに寄りかかり、部屋まで無言で横顔を見詰めていた。

陰の章 一章

陰の章 三章

陽の章 二章

目次