凍った時

   陰の章 一


 寒い。
 どうしてこんなに寒いの?

 身震いする寒さにコートの襟を合わせても、寒さは和らがない。

 ブランド品と言っても実用的じゃないわ。
 幾度目かの溜息が出た。
 いいえ、気温はこちらの方が高い。
 そっと手を伸ばし人指し指を伸ばす。

 何度目?
 どうしても指が止まってしまう。

 押しかけたチャイムから指を離し、そっと掌に息を吹きかける。

 あまり温かくない。

 窓から洩れてくる温かそうな明かり。
 扉一枚が、こんなに遠いなんて。
 このチャイムを押せば、こんな寒さ無くなる筈なのに。
 でも、連絡もせず来てしまって迷惑だったら。
 やはり、明日でも電話してから出直した方が良いのかしら?
 でも、入れ違いになったら?
 明日の朝出て、家に来るつもりでいるかも知れない。
 せっかく来たのに。

 …そうよね。
 こっちに来てる事だけでも。
 早くしないと運転手さんにも悪いわ。
 そうだわ!

 慌てて腕の時計を確認した。

 もう時間があまりない。

 もう一度腕を伸ばし、途中で止められない様、勢いをつけチャイムのボタンをグッと押し込む。
 間の抜けたチャイムの音。
 洩れ聞こえたチャイムの音が滑稽で、何だか気が抜けて可笑しくなった。
 ふっと息を吐くと白い濁りが薄く広がる。
 あんなに悩んだのが嘘みたいに、気持ちが軽くなっている。
 微かに扉の向こうから物音が聞こえてくる。
 その間にもう一度表札を確認する。

 うん、間違いない。
 こんな簡単な事で何度も扉の前を行き来するだなんて、梓に知られたら半年、いいえ一年は笑われるわね。
 …一生…かしら。

 扉を開く音に、精一杯、一番いい笑顔を向け。
 時間が止まった。

 ……誰?
 どうして?
 どうして、耕一さんの部屋から女の人が出て来るの?
 部屋を間違えた?
 いいえ何度も確認したわ
 じゃあ、どうして?
 帰ってから連絡が途切れがちだった。
 この女(ひと)が居るから?
 いつ電話しても留守だった。
 この女と出掛けていたの?
 でも、耕一さんは。
 でも、私わ。

「千鶴さん!」
 力が篭もった叱責に、ハッと我に返ると女の人が崩れる様に倒れ、耕一さんが抱き止めていた。

 …私、…どうして。
 今まで勝手に力が出るなんて無かったのに。
 耕一さん、当然だけど声が怖かった。
 やっぱり、出直せば良かった。

「……あの、表に車が待たせて在りますから。宜しければ、お使いになって下さい」
 耕一さんに寄りかかり逃げる様に部屋から出て来た女の人と、耕一さんに恐る恐る声を掛ける。
 ただの御友達かも知れないのに、私のせいで、耕一さんに大学でいやな思いをさせたら。

「うん、助かるよ。悪いけど千鶴さん、少し中で待っててくれる。ちょと下まで送って来るから」
 耕一さんはそう言うと、由美子さんと呼んでいた女性を抱き抱え背中を向けた。
 去り行く二人の後ろ姿が親密そうで、さっきより寒さが酷くなった気がする。

 耕一さん、怒ってはいなかった見たいだけれど。
 今から逃げ出す様な事をしたら、耕一さんに余計な心配まで掛けるだろうし。
 …車がないと、地理が判らないわね。

 小さく息を吐き、部屋に入り扉を後ろ手に閉めた。

 家の客間より狭い。
 初めて入った耕一さんの部屋の第一印象は、それだった。
 コーヒーの香りが漂い、真ん中に炬燵が置かれただけの部屋。
 キッチンと小形の衣装ダンスの他には、テレビと電話、後は、本棚位しか無い狭い部屋。
 衣装ダンスには、見覚えが在った。
 亡くなった叔母様。
 耕一さんの御母様が、生前御使いになっていらした物だった。
 叔母様を思い出すと、今でも胸が痛む。
 傍らに居て叔父様を見ていた私達と、離れて叔父様を想っていらした叔母様と、どちらが辛かったのか。
 耕一さんの事がなければ、叔母様は叔父様と居る方を選ばれただろう。
 以前は御母様の様に見ていないで済むなら、叔母様にも良い事の様に思えていた。
 でも、今は何故だか、そう言い切れない。

 …でも、どうしてかしら。

 もう一度部屋を見回すと、割れたカップがキッチンの前に落ちているのが目を引いた。

 何か嫌な感じ、二つの割れたカップ。

 割れたカップが起こした不愉快さを振り払い、視線を部屋の中に振り向ける。
 後は炬燵の上に置かれた、レポート用紙と古びた本だけ。

 寒い部屋。
 耕一さんが留守がちなのも、判る気がする。

 コートを着たまま、私は膝を折り扉に向って腰を下ろした。
 耕一さんが戻られたら、ちゃんとお詫びを言わないと。

 耕一さんの部屋は、エアコンの低い唸りだけが、やたらと耳についた。

 初音に、御正月には必ず来るからって約束したって聞いたけど。
 こんな寒く寂しい部屋に独りで、どうして耕一さんは、休みに入っても家に来てくれないのかしら?
 私には、とても独りでは、この部屋で暮らせそうにもない。

 叔父様の苦しみを見ているのは辛かったけれども、叔父様と妹達に囲まれていた私は、まだ恵まれているのかも知れない。
 鶴来屋は重いけれども、生活の不安もなく帰る家が在って、帰れば待っている妹達が居る。
 叔母様を亡くされてから、耕一さんはこの寒く寂しい部屋で独りで過ごして来た。
 それなのに、みんなに優しい。
 妹達が居ないと自分を保てない私より、耕一さんは何倍も強いのだろう。
 でも、それが私を不安にする。
 耕一さんが優しいのは、私にだけじゃないから。
 妹達にもさっきの女にも、誰にでも優しい人だから。
 多分、嫌いでも優しく出来るほど強く優しい人だから。

 会長職に就いてから、いろいろな人と顔を合わせた。
 会長職は結局、書類に承認印を押し、人と会うのが仕事。
 あからさまに小娘と馬鹿にした顔の人。
 何とか取り入ろうとへつらう人。
 本心を見せず、言葉で飾るだけの人。
 仕事に誇りを持ち媚びる事を良しとせず、自身に満ち溢れた人。
 流石に鶴来屋の規模だと、コンパニオンか何かと間違う様な人は居ないけれど。
 だけど、みんなどこか隔絶した遠い人達。

 耕一さんは、誰とも違う。
 叔父様の様に、優しく温かく包んでくれる人。

 …でも、あれから少しずつ耕一さんは変わった。

 寂しい笑い方をする様になった。
 遠い瞳で、何か私に見えないモノを見る様になった。
 以前と違う冷たさを、時折感じてしまう。
 変わったと感じていたのは、私だけじゃなかった。
 梓や楓、初音も何か変わった気がすると言っていた。
 雨月寺の和尚様も、二人だけで話していると、御爺様の様な威圧感を感じると仰っていた。
 もしかしたら耕一さんは、私達の前で昔の耕一を演じていたのかも知れない。

 昔の明るく優しい従兄弟を。

 私が知っている耕一さんは、小学生の従弟。
 叔母様のお葬式で、一緒に住まないかと申し出られた叔父様を、睨む様に見て言葉少なに拒絶した頑なな成人前の姿。
 そう、あれは拒絶だった。
 他人から哀れみを施された者が、プライドを傷付けられ拒絶する様な憎しみにも似た瞳。
 耕一さんの叔父様に対する態度は、他人だった。
 だからこそ叔父様は、叔母様の実家を通して学費と仕送りを申し出られた。
 でも私の願いを受け入れ、夏に訪れた耕一さんは、昔の明るく優しい従弟だった。
 私が知る耕一さんは、後は叔父様から伺った話だけ。
 私は、耕一さんの何も知らない。
 いいえ、知ろうとしなかった。
 やはり叔父様と、重ねていたからかも知れない。
 少し前、電話で話した時、梓から聴いていた就職の話を尋ねてみた。
 答は、私の期待したものとは違っていた。
 私はどこかで、耕一さんも叔父様と同じに鶴来屋に、私達の元に来ると応えてくれる。そう考えていた。
 でも答は、決め兼ねているだった。
 当然かも知れない。
 耕一さんには、私の知らない耕一さんの生活が在って、ここには友達もいる。
 二十歳の耕一さんが、何も将来を考えていない筈がない。
 興味が在る事。
 就きたい職業。
 いえ、それ以前に、耕一さんがどんな生活をしてるのかさえ、私は知らない。
 私は聞かなかった。
 自分の事を判って欲しいと願いながら、私は耕一さんの事を知ろうとはしなかった。
 叔父様と耕一さんを、同じに考えていたのかも知れない。
 親子でも、好みや考えが違っていて当り前なのに。
 私も妹達も好きな耕一さんだもの、今まで女性と付き合った事がない方がおかしい。

 小さく溜息が出た。

 どうしても、さっきの女性が気になる。
 ふっくらとした優しそうな女性だった。
 メガネがチャームポイントになって、可愛い感じの女(ひと)だったけれど。
 胸、梓ぐらいかしら?
 男の人は胸が大きい女性が好きだって、梓は言ってたけど。
 耕一さんも、そうなのかしら?
 チラッと胸元に視線を走らせ。
 また溜息が出た。
 形は良いと思うんだけど。

 扉のノブを回す音に顔を上げ、そのまま私は頭を深く下げ謝った。

 やっぱり耕一さん、怒ってる。

 頭を下げる前に、チラッと目にした耕一さんの表情は険しかった。
「…記憶も曖昧だから、気にしなくていいけど。でも、どうしたの?」
 でも返って来た耕一さんの声には、心配そうで気遣う優しさが在った。

 でも、どうって?
 力の事かしら?
 それとも、突然尋ねて来た事?

 どちらかは気になったけれど、私はもう一度頭を下げて謝った。

 少なくとも耕一さん、怒ってる訳じゃ無さそう。
 そう感じただけで、少し温かくなった気がする。
 耕一さんに促されるまま、私はコートを脱いで炬燵に座り直した。
 耕一さんは、玄関からキッチンに向う。

 いやだ。
 耕一さんが戻られる前に、割れたカップを片付けて置けば良かった。

 キッチンで割れたカップを片付ける耕一さんを見て、私は顔が熱くなった。

 初音なら、ちゃんと片付けてるわ。
 気が利かないって思われなかったかしら?

 そんな事を考えている間に、耕一さんは私の斜め前に座ると、コーヒーを勧めてくれた。
 耕一さんの気持ちは嬉しいけれど、私は口をつける気にはなれなかった。

 さっきの女の為に作られたコーヒー。
 居てはいけない所に割り込んだ様な、嫌な気持ち。
 少し寒さが戻って来た様な嫌な気分に押され、思い切ってさっきの女性の事を尋ねてみる。
「うん、丁度いいか。明日でも、届ける次いでに様子を見て来るから。千鶴さんは、気にしなくていいよ」
 耕一さんは、さっきの女性の物なのかディバッグを脇に寄せながら、私を気遣いそう応えてくれた。

 でも、私が聞きたかったのはそんな事じゃない。

 不満が顔に出たのか、耕一さんは可笑しそうに私の顔を覗き込み、ゼミの友達でレポートを手伝って貰っていたと説明してくれた。
 私は心の中を見透かされた恥ずかしさに、赤くなった顔を臥せて隠した。

 こんな所は叔父様そっくり。

「久しぶりだけど。みんなは、元気にしてる?」
 居心地悪そうな私に、耕一さんは気を利かせてくれたのか、話題を変えて妹達の事を尋ねてくれた。
「えっ? あっ、はい。みんな元気にしています。でも、寂しがっていますよ。特に初音が。御正月には耕一さんが来て下さると思って。みんな、楽しみにしているんですよ」
 その優しさに感謝しつつ、私は少し上目遣いに睨んで語尾に家に来てくれない不満を乗せた。
「ごめん。バイトが忙しくって。今やってるレポートを出したら、行くよ」
 耕一さんは申し訳なさそうに言う。
 私が顔を覗き込みながら確認すると、どこか楽しそうな苦い笑いで頷いた。

 でも、もう年も暮れるのにレポートに追われてるなんて。

 もしアルバイトが忙しくて留年でもしたら。と、私は叔父様の仕送りを受け取る様に切り出そうとしたが、話し出した途端、耕一さんにきっぱり断られた。
 自分の力で生活したいという耕一さんは、自立心旺盛で頼もしい。
 でも嬉しい半面、私は何か寂しさを感じてしまう。
 弟の様に接していた名残だろうか?
 どんどん耕一さんが、私を置いてどこかに行ってしまう様な、一抹の寂しさを感じる。

「耕一さん、結構頑固ですね。その分、家に来て貰えれば、みんな喜ぶんですけど」

 私は嘘付きだ。
 来て欲しいのは私なのに、妹達を持ち出さないと素直に寂びしいから来て欲しいとは言えない。
 でも耕一さんは、そんな私の本心を見抜いた様に、私が喜ばないなら御正月も来ないと言い出す。
「そんなぁ。私、嬉しいです。耕一さん、ずっと来てくれないし、電話してもアルバイトで留守番電話ばかり。たまに掛かって来ても、すぐ梓や初音に取られてゆっくり話せないのにぃ。…ひどい…ですぅ」
 慌てて言い募るうち、鼻の奥がツンとして目元が熱くなった。
 やだ、子供みたい。
 でも、来年になれば就職も控えた耕一さんが、鶴来屋に来ないつもりなら、ゆっくり会えるのはこの御正月だけ。

 私が泣き出すとは思っていなかったのだろう。
 耕一さんは、慌てて手を突いて謝り出した

「もう。謝る位なら、最初から言わなきゃいいのにぃ」
 そう言って頬を膨らせて見せたけど、心は何か温かい。
 さっきまでの寒さが嘘の様。
「はは、いやその。…そう言えば千鶴さん。こんな年末に、どうしてこっちに?」
 えっ?
 やっぱり突然来て、迷惑だったのかしら?
 いきなり寒さが戻って来た気がした。
「あっ、あの、旅行社の方とかに挨拶周りですけど。…もしかして。お邪魔でしたか?」
 恐る恐る尋ねると、耕一さんは少し怒った様に慌てて否定した。

 やっぱり突然来て、迷惑だったんじゃ?
 そう言えばレポートも書き掛けだし、さっき割れてたカップ、お揃いだった。
 目の前に置かれたカップとは別。
 怒った様に慌てた態度もおかしい。

「…でも、御正月も来ないつもりじゃなかったんですか?」
 まさかと思って聞くと、耕一さんは決まり悪そうに目を逸らし頭を掻き出した。

 来ないつもりだったんだわ。
 可愛がってる初音との約束を破る程大事な用って、レポートは家に来ても書ける。
 私はもう一度部屋を見回して見た。

 綺麗すぎる。

「お部屋、綺麗なんですね。耕一さんが、こんなに綺麗好きだなんて、知りませんでした」
「そりゃ、掃除ぐらいするけど?」

 嘘だ。
 梓が読んだ本も片付けないって、こぼしていたもの。

「やはり、お邪魔だったんじゃ?」

 そう言えばあのバッグ、本当に置き忘れたの?
 初めから、部屋に置いて在るのが当然なんじゃ?
 こんな寂しい部屋に独りなら、人恋しくても。

「そんな、邪魔だなんてとんでもない」
 引きつった顔で口調を改めた耕一さんの態度は、何か後ろ暗いものが在る様に見えた。

 そうだ。
 付き合ってる女性が居ないとは、耕一さん、一言も言わなかった。
 私が、そう思っていただけ。
 叔母様が亡くなってから独り暮らしだもの、恋人の一人や二人いてもおかしくない。
 コンパとか、酔い潰れた女性の話が脳裏を過った。
 まさかとは思うけど、一緒に暮らしてた女性が居たって、おかしくない。

「やっぱり。さっきの女がそうですね!」

 思わず口を突いて出た言葉に、自分自身で驚いた。
 だめ、上手く感情が抑えられない。

「えっと。そ、その由美子さんが、どうかしたのかな?」
 逃げる様に耕一さんは、身を引く。

 どうかって決まってる。
 だって耕一さんなら、大学でも女性に人気がある筈だもの。

「耕一さん! ああいう可愛い女がいいんですね!」

 だんだん感情が高ぶって、目元が熱くなる。
 焼きもち焼きのヒステリーみたいじゃない。
 耕一さん呆れたみたいに見てる。

「…どうせ年上だし、さっきの女ほど胸も無いし。…あっ!
 もしかして。メガネがいいとか」

 年はどうしょうもない。
 胸も、もう無理かも。
 でもメガネぐらいなら。
 似合わないかしら?

「料理も下手で。梓には、亀なんて言われちゃうし」

 もう梓は料理教えてくれないだろうし、初音もどうだろう。
 今からでも集中してやれば、人並みぐらいには。
 考えてみると、私って普通の女性が出来る事、殆ど出来ない。

「えっ! ちょ、ちょと千鶴さん。由美子さんは、ただの友達。本当に何でもないって」

 気が付くと、私は耕一さんの胸の中で声を上げて泣いていた。
 後から後から涙が出て来て止まらない。
 温かい胸、髪を撫でる優しい手が、心を軽くして温かく包み込んでくれる。

 やはり私は弱い。
 誰かにすがらないと生きて行けない。
 でも耕一さんが、あの事を知ったら。
 いいえ、それ以前に耕一さんは優しいから、突き放せず同情してくれているだけかも。

「俺が好きなのは、千鶴さんだよ」
 力強い腕が包む様に身体を抱き締め。優しい囁きが、内から湧き出る私の不安を、雪を熔かす様に熔かしてくれる。
 顔を上げると優しい瞳がそっと近付き、頬に柔らかな温かさが広がった。
 ゆっくり広がる安らぎに身を委ね、頬に力強い手が別の温もりを伝える。
 頬をなぞる指の感触が、擽(くすぐ)ったい様でいて心地良い。
 唇を塞いだ温かさが、残っていた不安までを押し流してくれる。
「…耕一…さん」
 今までの不安が嘘の様な心地好さに静かに呼ぶと、微かな優しい笑みを浮かべ、腰に掛かった腕が力強く私を引き寄せ、
「柏木さん。戻りましたけど、どうします!?」
 なかった。

 間の抜けたチャイムの音とだみ声。
 乗って来た車の運転手さんの声だ。
 夢から現(うつつ)に引き戻された落胆に小さく息を吐くと、耕一さんも同じ気持ちなのか、溜息を吐いていた。
「千鶴さん、帰していいかな?」
 そう尋ねられ、私は耕一さんに悪いと思ったけれど、まだ仕事が残っている事を告げた。

 部屋の前でグズグズしているんじゃなかった。
 もう会食まで、車でもギリギリの時間だった。
 運転手さんに戻る時間を伝えてあった。
 その所為だろう、何度もチャイムの音が鳴っている。
 耕一さんは私から離れると、運転手さんにすぐ行くと伝え引き返して来た。
「予定は明日の昼までですから。急な仕事が入らなければ、明日午後に帰る予定ですけど」
 日程を聞かれ、手帳を繰って調べた通り伝えると、耕一さんは少し考え、
「明後日は、帰ってすぐ仕事?」
 そう聞いた。
「いいえ。休養も兼ねて、一日余裕は見て在りますから。休み、ですけど?」
 出張扱いだから、翌日は休みだった。
 急な予定変更が無く、最後の会食が伸びなければ、だが。
 もっとも挨拶周りと言っても、忙しい企業トップの方が殆どだから、時間は厳格に決められている。
 滅多に伸びる事はない。
「じゃあ、今夜中にレポート上げるから。午後落ち会って。明後日、一緒にって。どうかな?」
 悪戯っぽく首を傾げた耕一さんの申し出は、以外だった。

 一緒に帰れるのは嬉しいし、異存なんて在る訳無い。
 だけど明日午後に出れば、家には夜遅くとも着ける。
 明後日にしなくても、少しでも早く帰れば妹達が喜ぶのは、耕一さんも知っている筈なのに。
 電話して置けば、きっとみんな深夜でも起きて待っている。
 初音なら眠れず、そわそわと玄関と居間を往復するのかしら?
 自分も落ち着かないものだから、梓は照れ隠しにそんな初音を落ち着けって叱って。
 きっと楓は、その隣で素知らぬ顔で時計をチラチラ覗いている筈だわ。

 思った通り伝えると、耕一さんは少し困った様にぎこちなく微笑んだ。
「その、向こうだと中々二人だけになれないから、半日ぐらいはね」

 えっと、それって。…二人だけで…過ごそうって。

 私は意味を理解し、熱く火照った顔を俯かせコクコク頷いた。
 妹達には悪いけれど、耕一さんが二人だけの時間を考えてくれていたなんて、思っても見なかった。

 私は慌てて泊まっているホテルと、会食の終わる予定時刻をメモに書きつけ、耕一さんに差し出した。
 メモを受け取る手がそっと腕を引き寄せ、気付いた時には、私は耕一さんの腕の中で、熱い心地好い安らぎに熔かされていた。

陰の章 二章

陽の章 一章

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