エピローグ


 ふぅと息を吐き、あたしは横目で賢児さんを覗いた。
 賢児さんも目のやり場に困り、地面に向い溜息を吐いている。
「ありゃ、こっちの世界帰って来ないよ。どうする?」
「挨拶だけでも、って雰囲気じゃないですよね」
 わざとらしく視線を道の先から逸らし、賢児さんは力なく言った。
「いま行くなら、葬式の準備ぐらいしとくけど」
 あたしは熱く赤くなった顔をそむけ、そこだけ真夏になってる場所を親指で示した。
「はぁ、葬式? ですか。…そう…でしょうね」
 毒気を抜かれた顔で頷いた賢児さんは、ぼりぼり頭を掻くとくるりと踵を返した。
「どうするの?」
「命は惜しいし、出直します」
 あたしも一度道の先に目をやり、くるりと踵を返した。
 耕一と千鶴姉は、いまだに道の真ん中で抱き合ったまま、辺りの雪を熔かしてる。
 二人の周りから陽炎が立ち昇っているのは、あたしの目の錯覚じゃなさそうだ。

 キスって、息苦しくないのかな?

 熱く火照った顔を手で拭い。
 熱を持った頭でぼんやり考えながら、あたしは賢治さんを追い歩き出した。
「墓碑だろ? 少し戻れば近道あるけどさ。案内しようか?」
「お願い出来ますか? 単なる下見ですけど、一応候補に入ってるもので」
 助かったと言うように賢治さんは嬉そうな笑顔をあたしに向け、軽く頭を下げる。
「候補って?」
「観光ですよ。佐久間が国内観光に手を出す、手始めが隆山です。最初が肝心ですから、副社長の兄貴まで来てるんですよ」
 あたしは鼻に皺を寄せ、頬を掻いた。

 こんな汚いお寺、観光に来たってな。

「古い物を見たがる人もいるんですよ。特に海外の方はね」
 苦笑気味に考えを言い当てられ、あたしは乾いた笑いを洩らした。

 あたしのまわりには、どうして勘の鋭い奴ばっかり集まるんだ?

「こっちだよ。雪が残ってるから、気を付けてね」
「あ、はい」
 あたしは昨日駆け抜けた細い脇道を指刺し、先に立って歩き出した。

 静謐に包まれ白く染まった樹木の間に、雪を踏む足音だけが静けさを破る。
 冷たく凍て付いた空間に、時折樹木の間を吹き抜ける風が、ジャンバーの衿元からのぞく首筋を、刺す様な冷たさで駆け抜ける。

 あの二人、きっとこんな寒さも感じてないんだろうな。

 小さな震えを起こした冷たさに首をすくめ、あたしは足を速めた。
 ふわっと掛かった首筋の柔らかな温かさに足を止め、そっと手を伸ばす。
 手に触れた感触は、毛足の短い柔らかな手触りを伝えた。
「あんたが寒いだろ? いいよ、あたしは」
 マフラーを首から外し賢児さんに差し出すと、彼は掌をあたしに向け首を横に振った。
「大丈夫ですよ。この間までロシアでしたから。慣れてます」
 そう言って微笑むと、賢児さんは手からマフラーを取り上げ、そっとあたしの首に回すと先に歩き出す。

 あたしは少しの間、動けなかった。
 自慢にもならないけど、マフラーとか貸す事はあっても貸されるのなんか初めてで。
 それも、男の人に首に巻いて貰うなんて。

 でも、何かあったかいな。

 ぼっと赤くなった顔を意識して、あたしは俯きながら賢児さんの後を追った。


  § § §


 気付かれないよう微かに息を吐き、私は視線を佐久間さんに走らせた。
 そっと覗いたつもりだったのに、佐久間さんは私の視線に気付き、にっこり微笑みを向ける。
 パッと目を臥せ、私は唇に指を当てた。

 どうしたらいいの、困った。
 梓姉さんったら、私を置いて行くなんて。

 和尚さんを訪ねて来られた佐久間さん兄弟は、梓姉さんの知り合いとかで。
 先に見えられた御客様と和尚さんの御話が終わるまで私達と同じ部屋で待つ事になった。
 姉さんはお兄さんが苦手みたいで、次郎衛門の碑を見に行くという弟さんと連れだって部屋を出て行った。
 一緒に行くと言う暇もないほど素早く、梓姉さんの姿は消えていた。

 私が遅いだけなの?

 和尚さんも佐久間さんを案内してこられてから戻られないし、千鶴姉さんとも知り合いらしいから、鶴来屋関係の人かしら?

 私に取っての気不味い沈黙も、佐久間さんにはそうでもないみたい。
 何も話さない私に苛立つこともなく、静かにお茶を口に運び、私と視線が合うと静かな微笑みを受かべる。

 落ち着いた感じの人。
 それが私の感じた、佐久間さんの第一印象だった。
 ビジネススーツを雑誌のモデルのように着こなし、背筋を伸ばして正座し、穏やかな笑みを崩そうとしない。
 でも無理に微笑んでいる感じは受けないし、嫌味でもない。
 梓姉さんが一緒の時も、挨拶以外口を開かなかった私に気を使っているのか、佐久間さんは無理に話かける気はない様子だった。
 ただ佐久間さんは、私といるのが不快でないのを示すように、目が合うと微笑みを向ける。

 性格を変えるつもりなら、私から何か話せばいいのだけど。
 何を話せばいいのか判らない私は、目を上げては顔を臥せるを繰り返していた。

 大学で経済を学んだら、千鶴姉さんを手伝うつもりだから、お客様の相手をする時ってきっと来るはずで。
 せっかく決心したんだから、今の内から話すのに慣れる為にも、何か話さないと。

 そうは思って見ても気ばかり焦ってしまって、私はよけい居心地悪くなって、唇に当てた爪を噛んだ。

「そんなに困らないで下さい」
 優しい声が苦笑気味に耳に届き、私は上目遣いにそっと佐久間さんを覗き見た。
「御一人の方が宜しければ、席を外しましょうか?」
 少し哀しそうな顔でそう聞かれ、私は慌てて首を横に振った。

 一緒にいるのが嫌なんじゃなくて、あまりお話をした事がないから、なにを話したらいいのか判らないだけ。

「では、話題が見付からない?」
 小首を傾げそう聞かれ、私はこくんと頷いた。
「無理に話す事は、ないんですよ」
「…でも」
 やっと出た私の声は、呟くように小さかった。

 それじゃ、いつまでたっても私は変われない。

「いいんですよ。話したい事、聞きたい事が自然と湧いてくれば。探さなくても、話題には事欠きませんよ」
「…でも」
「はい?」
「…退屈じゃ…?」

 私のいつもの心配、口下手な私と居ても退屈なだけじゃないだろうか?
 耕一さんとでも二人だけだといつも不安になるのに、初めて会った人に何を話せばいいのか。
 自然に話が湧いてくるなんて、私にはとても……

「いいえ」
 短い声が、キッパリと私の問いを否定した。
「ですが、肩の力を抜かれた方がいいですね。気が急きますと。余計に話は、湧いては来ませんからね」

 肩の力を抜くと言われても、男の人と二人っきりの部屋で、そんな。
 家でなら、初音か梓姉さんが助けてくれるけど。

「まずは、息を大きく吸いながら一度肩を上げて、肩を下ろしながら息を吐き出す。吸った空気は、お腹に入れるつもりで。やってご覧なさい」
「でも」
 私は優しい眼差しでジッと見詰められ、恥ずかしかったけど。諦めて言われた通りにしてみた。

 腹式呼吸は知っているから、目を瞑り、そっと息を吸い込む。
 胸を通ってお腹を膨らませるように。

「ええ、それで両肩を持ち上げる感じで上げて」

 声に従い両肩を持ち上げると、自然に背筋が伸び、お腹に息が楽に入るようになった。
 お腹一杯に吸い込んだ息を、ゆっくり吐き出しながら肩を落としていく。

「そうそう、ゆっくりと」
 息を吐き出し静かに肩を落とすと、首筋の辺りからゴリっという音が耳の奥で聞こえた。
 静かに息を吐き終り瞼を開けると、俯いていた顔が正面を向き、優しい眼差しが目に飛び込んできた。
「ああ、俯かないで」
 慌てた声が聞こえて来た時には、私の目には畳が映っていた。

 でもさっきよりは、少し気持ちが楽になった気がする。

「どうも。楓さんでしたね?」
「…はい」
「楓さんの場合。顔を上げて、お話しになりたい方をご覧になる練習から、初められると宜しいかと思いますよ」

 私には、話すより難しそうな気がする。

「お話をする時には、相手の方を見ないのは非礼になりますから」
 恥ずかしさに、私は身をすくめた。

 それじゃ俯いてる私は、佐久間さんに失礼な事をしてる事になる。

「私の事ではありませんので、緊張なさらずに」
 苦笑気味の声が私の考えを言い当て。
 私は佐久間さんが本当に気にしてはいないようで、小さく息を吐いた。
「お気持ちは判りますよ。私も会話は不得手ですから」
 慰めて貰ったのかと思い、そっと覗いて見ると、佐久間さんは昔を懐かしむように、遠くを見る瞳で目を細めていた。
「…でも、そうは思えません」

 梓姉さんとも積極的に話をしていたし、和尚さんとも礼節をわきまえた、立派な挨拶をしていたのに?

「私の話し方、堅苦しいですよね?」
 どう答えて良いか判らず迷った末、私はこくんと頷いた。

 確かに佐久間さんの話し方は、決められた型道理に話しているという気がした。

「会話は仕事上、重要でしてね。インストラクターに訓練を受けまして。英才教育を受けておりましたので、学外では家庭教師と弟ぐらいで。他の方と会話を交す機会に恵まれては、おりませんでしたから」
 私は驚いて佐久間さんに顔を上げた。

 仕事に必要だから話し方を覚えたというのは誇張にしても、家庭教師と弟さんだけが話し相手というのは、本当のようだった。
 そう言った時の佐久間さんの瞳は、寂しそうに陰っていたから。

「あの、ご両親は?」
 聞いてから微かにしかめられた眉を見て、亡くされたのかと思って後悔した私に、笑顔を取り戻した佐久間さんは首を傾げ、
「ええ、今頃は東欧でしょうか。昔から年に数度、帰国するだけですので」
 そう言った。

 でも、私は安心するより気の毒に感じた。
 年に数回帰って来るだけでは、きっと寂しかったと思う。

「そんな顔をなさらないで下さい。私には弟がいましたし。両親も仕事ですから」
「いくら仕事でも……」
 言い掛けて私は言葉を切った。

 家庭の事情に、初対面の私が口を挟むのは間違っている。

「やむを得ません。数万の社員と家族の生活がかかっております。両親も寂しいのですよ」
 ふっと小さく息を吐くと、佐久間さんは嬉そうな微笑みを浮かべた。
「それより、ちゃんとお話になっていらしゃるでしょ?」
 その時になって私は、佐久間さんの顔を見て話していたのに気が付いた。
 気が付いた途端恥ずかしくなって、パッと顔を臥せると、静かなさざ波のような笑い声が聞こえた。
「相手の方に関心を持ってご覧になれば、聞きたい事は自然と湧いてきます。恥ずかしがらず、お尋ねになる事ですね」
「でも、迷惑だったら?」
「迷惑でしたら返事をなさらないでしょうし。御気を悪くなされば、頭を下げ、誠実にお詫びを申し上げればよろしいかと思いますが?」
 いとも容易く言われ、私は息を吐いた。

 何て自信家の人だろう。
 謝っても許して貰えないとか、相手の人を不快にさせて嫌われるとか思わないのかしら?
 私にも少し、その自信を分けて貰いたい。

「少なくとも貴方に興味を持たれ、迷惑に思われる男の方は、いらしゃらないと思いますよ」
 楽しそうな声に、私はかっと顔が熱くなった。

 佐久間さん、自分で言ってて恥ずかしくないのかしら?
 それとも、からからわれてる?

「まあ、顔を上げて微笑まれる事ですね。そうすれば相手の方も、悪意がなかったのは判って下さいます」
「そうでしょうか?」
 上目遣いに覗くと、佐久間さんは力強く頷いた。
「初めは上手く笑えなくても、徐々に自然に笑えるようになりますよ。こちらが微笑んでいると、相手の方も安心してお話になって下さいますからね」
 そう言われて、私は千鶴姉さんを思い出した。

 いつも温かく微笑んでいて、見ているだけで安心出来る笑顔。
 もう千鶴姉さんの笑顔が、作った物に戻る事はないだろう。
 耕一さんがいるもの。
 私にも、千鶴姉さんのような微笑みを作れるようになれば、いつかは自然な笑顔になるんだろうか?

「…はい」
 小さく頷き、私は顔を上げた。

 千鶴姉さんだけじゃない。
 耕一さんも叔父さんも、いつも温かく笑っていて、笑顔が曇ると私まで哀しくなったから。
 佐久間さんの言葉は正しいと思えた。

「じゃあ、ちょっと微笑んで見て下さいますか?」
「えっ!」

 そんな。
 いきなり言われても、心の準備が。

 でもそんな私の気持ちにお構いなしに、佐久間さんは早く、というように小さく頷きかける。
 私は意を決し息を整え、頬を動かした。
 でも、ぎくしゃくした変な顔になっていないかとても心配で、そのまま顔を臥せた。
「大変結構」
 そっと覗くと、佐久間さんはうんうん頷き楽しそうに笑っていた。
「…今の、ですか?」
「はにかんだ笑みも可愛らしいですが。明るく笑うと綺麗な笑顔になると思いますね」
 恐る恐る聞くと、佐久間さんは首を傾げ下から覗くように私を見る。

 はにかんだ笑みに見えるの?
 ……精一杯、笑ったつもりだったんだけど。
 でも、変な顔って言われなくて良かった。

「…あの…ありがとうございます」

 どう言っていいか判らずそう言ったけど。
 変だったかしら?

「いいえ。御姉さんへの私の評価も、間違ってはいなかったようですし。久しぶりに、仕事を忘れて楽しくお話しさせて頂ています。お礼を言うのは、私の方ですよ」
「…評価?」
「ええ。貴方と梓さんを見ていれば判ります。御姉さんの御人柄もだいたい察しは付きました。信頼して良い方のようです」
 私は唖然として、微笑む佐久間さんを見詰めた。

 何げない会話の中で、ちゃんと私を観察して、千鶴姉さんの人柄を見極めていたなんて。
 仕事で会話の訓練をしたというのは、本当みたいだった。

「すいません。ですが、仕事でお話ししていた訳ではありませんので。誤解はなさらないで下さいね」
 軽く頭を下げた佐久間さんは、そう言って小さく息を吐いた。
「身に染み付いた習性と言う物でして、お気を悪くなさらないで下さい」
 私も小さく息を吐き、微笑みを作り首を傾げて見せた。
「はい」
 佐久間さんの表情が、今度は上手く笑えたのを教えてくれた。


  § § §


 お寺の参道の途中まで来て、私の足は止まった。
 私は自分の顔が強ばるのを感じ、そっと隣を扇ぎ見た。
 思った通り、耕一さんの表情も強ばっていた。
「楓」
 静かに呼ぶと、本堂の脇で男の人と話し込んでいた楓は私達に気付き、顔を上げゆっくりこちらに向かって歩きだした。

 人見知りする楓が、初対面の人と楽しそう(私だから判る微かな表情の変化だけれど)に話しているのは、姉としては喜ぶべきなんだろうけれど。
 相手が相手だから喜ぶより、心配になった。

 楓と一緒に歩み寄った佐久間さんが、会釈で笑みを向ける。

 佐久間から提携の申し入れがあったのは、足立さんから聞いていた。
 でも、まだ佐久間の思惑を調査中で、足立さんからの報告もまとまっていない。
 なにより私としては、あれだけ馬鹿にしておいて、よく顔が出せると呆れているぐらい。

「昨年は、実に失礼いたしました。ご病気と伺ったのですが?」
「お見舞いまで頂きましたそうで」
 あくまでにこやかな佐久間さんに、余計なお世話と素っ気なく返すと、楓が意外そうに私を見詰める。

 楓の視線の意味は判っている。
 でも私にだって、愛想よく出来ない相手ぐらいいるのよ。

「佐久間さんは、観光ですか?」
 不機嫌そうな声にチラッと目を上げると、耕一さんも嫌そうな顔をしている。
「ええ、半分はそうですね」
「それじゃ、お邪魔しちゃ悪いですね。俺達はこれで。楓ちゃん、梓は?」
 佐久間さんを一瞥しただけで、耕一さんは楓に顔を向けた。
「あ、あの。次郎衛門の墓碑の方に……弟さんと…一緒に」
 あからさまに佐久間さんを嫌っている私達に、楓は戸惑ったように佐久間さんと私達を見比べて答えた。
「…弟さん?」
 私が聞き返すと、楓はこくんと頷いた。

 梓と楓の機嫌を取って、外堀から埋めるつもり?

「帰って来たようですよ」
 私達の不機嫌さを無視した佐久間さんの穏やかな声で振り返ると、梓と賢児さんが参道に姿を現した所だった。
「梓、帰るぞ!」
 耕一さんが呼びかけると、梓は慌てた様に小走りに駆け寄って来た。
「耕一、どうかしたのか?」
 梓にも異様な雰囲気と、耕一さんの声が含んだ不機嫌さが判ったのだろう。
 眉を寄せ私達を見回した。
「なんでもない。帰るだけだ」
「そう無下になさらず。失礼は幾重にもお詫びいたします」
 佐久間さんは無視されたのも気にせず、深く腰を折り頭を下げた。
「…姉さん。耕一さんも。失礼じゃ」
 気の毒そうに腰を折る佐久間さんを見て、楓が私達に囁いてくる。
「あ、あのさ、千鶴姉。耕一もちょと」
 愛想笑いを浮べた梓に腕を引っ張られ、私と耕一さんは本堂の脇に場を移した。
 楓も何事かと後から着いて来る。
「実はさ……」
 ぼりぼり頭を掻き、梓はチラチラ佐久間さん兄弟を気にしながら話し出した。


「…あずさ」
 梓から佐久間さん側の事情を聞き、私は額を押えた。
 耕一さんはまだよく判らない様子だったが、萩野さんが叔父様の片腕だったのを説明すると、小さく溜息を吐き、
「お前な、もっと早く話せよ」
 梓を睨み低く呟いた。
「…話せ。だと? 誰の所為だよ。どこに、そんな暇があった」
 額に青筋を浮かせ拳を震わす梓に睨まれ、私と耕一さんはそっぽを向いた。
「姉さん達も佐久間さんも、萩野さんに上手く乗せられたのね」
 ふぅと息を吐くと、楓が小さく呟いた。
 楓の身も蓋もない言い方に、私は呻き声が出そうなのを、こめかみを押さえて堪えた。
「楓? 乗せられたって?」
 梓は、まだ事情を理解していないらしい。

 家は梓に任せて正解だけど。
 やはり仕事の方で、将来頼りになるのは楓みたいね。

「あのおっさん。わざと抜け道作って、千鶴さんが会長に相応しいか試したんだよ」
「試すって?」
「自分の身ぐらい、自分で守って見せろって事だ」
「楓、悪いけど。梓に説明してやって」
 耕一さんの説明に余計首を捻る梓を頷いた楓に任せ、私は佐久間さんに足を向けた。
「千鶴さん」
「はい?」
 一緒に歩き出した耕一さんに腕をそっと取られ、私は足を止め耕一さんを見上げた。
「大丈夫?」
「えっ? ええ。一応、こちらの事情に佐久間さんを巻き込んだようですし」
 心配そうに見る耕一さんに安心して貰おうと、微笑んで答えると、耕一さんは迷った表情で眉を潜めた。
「いや、そうじゃなくて。……いや、いい」
「耕一さん。どうかしたんですか?」
 何を心配しているのか判らず首を傾げると、耕一さんは笑みを向け、私の肩に腕を回し歩き出した。

「どうやら、ご理解頂けたようですね?」
「ええ。ですが、少しやり方が気に触りますね」

 こちらに非があるとしても、簡単に謝る訳には行かない。
 萩野さんの思惑がどうあれ、それに乗ったのは佐久間なのだから。

「申し訳ありません。こちらとしても、大事な御客様をお預けする訳ですので。慎重にならざるを得ないのです」
「鶴来屋では、ご心配でしょうか?」
 確かに佐久間ほどの会社が、国内に新規参入するなら慎重になるのは判るけれど、副社長自ら出て来るのは少し異常な慎重さだと思えた。
「いいえ。鶴来屋については、最初から心配いたしておりません」
 佐久間さんは考える様に小さく呟く。
 肩に掛かった耕一さんの腕の力が強まり、私はそっと耕一さんを見上げた。
「あわよくば、鶴来屋を手に入れようとしたんですから。痛み分けという事で、いいでしょう」
 話を打ち切ろうという様に、耕一さんは睨む様に強くなった視線を佐久間さんに向け口を開いた。
「そうですね。貴方が出てこられて、萩野さんの思惑も外れた様ですし。しかし貴方には参りますね。それ程の情報を、お話ししたつもりはないんですが」
 眉を潜め笑いを消した佐久間さんは、ジッと耕一さんを見詰め返した。
「貴方じゃなく、次男をでしょ? 養子でも構わないって事ですよね。そうでなきゃ、貴方が最初に出て来てる」
 耕一さんの答えに佐久間さんは首を傾げ、私に目を移すと小さく嘆息した。
「なるほど。そういう事ですか?」
「ええ。そうです」
 意味不明な言葉で頷きあって、耕一さんと佐久間さんは、睨み合った表情を崩した。
「どうも、駆引きは通用しないようですね。では率直にお尋ねしましょう。鶴来屋には、全国または海外に手を広げるつもりはない。と考えて宜しいですか?」
「俺は学生ですって」
「佐久間さん。どうして鶴来屋を全国に広げるなんて、どこからそんな話が?」
 仕事の話は判らないと苦笑を浮かべた耕一さんを横目に、私は話の展開に付いて行けず慌てて聞き返した。

 鶴来屋内部にもチェーン化の話はないのに、全国展開の話が広がっているなら、噂を消すのに早急に手を打たないと。

「彼が、華僑の大物と親交を深めていらっしゃるからです。ご存じではない?」
「ええ」
 意外そうに聞き返され、私は耕一さんを見上げた。

 華僑?
 中国人系経済界の大物と、耕一さんが?

「大袈裟な。友人に趣味を通じて紹介されただけですよ」
「趣味ですか? 確かあの方は、拳法の宗家でいらしたと」
「健康の為に気功をちょとね。バイトに口聞いて貰った位ですよ」
「そうでしたか。佐久間といたしましても、華僑の力は侮りがたいものですから。安心いたしました」

 副社長が現場まで出て来るはずだわ。
 華僑の経済力をバックに、鶴来屋が佐久間の国内展開に影響しないか、海外市場を荒らされないか、確認に来たのね。

「ですが、少し勿体ないですね。どうです、佐久間に来て、世界を相手になさるつもりはありませんか?」
 私は耕一さんの腰に腕を回し、コートの端を握り締めた。

 萩野さんの予想が当たっていた。
 耕一さんの将来を考えれば、佐久間の誘いを断るのがいいとは思わないけれど。
 世界なんて飛び回っていたら、あまり一緒にはいられない。

「英語って苦手なもんで、遠慮しときます」
 耕一さんは鼻の頭を指で掻くと、興味も無さそうに一笑に付す。

 少し複雑な気持ちで、私は胸をなで下ろした。

「広い世界を相手にするより。それほど柏木家と言うのは大事なのですか?」
「全然」
 ふっと息を吐き苦い笑いで尋ねた佐久間さんに、耕一さんは即座に一言で否定した。
「はっ?」
 予想外の返事だったのだろう。
 佐久間さんは呆気に取られたように、いつも浮かべていた笑みを崩しポカンと聞き返した。
「千鶴さん。俺、何か変なこと言ったかな?」
「その、変って言うか」
 急に聞かれて私は狼狽えた。

 両親を亡くしてからずっと守って来た柏木を、私としても、そう簡単に大事じゃないと言い切られると。
 どう答えていいの。
 怒ればいいの、拗ねたらいいの。

「そんな、あっさり言い切らないで下さい」

 八年近く守って来たものが、意味がないように思えて。
 結局、私は情けなくなって泣きたいような気持ちで返した。

「確か家の歴史の重さだと、伺ったと思ったのですが?」
 私より先に立ち直った佐久間さんが尋ね、耕一さんは首を傾げた。
「俺が? まさか」
「耕一さんったら。ラウンジで、歴史の重さだって言ったじゃないですか」
 しらっと惚ける耕一さんを上目遣いに睨むと、耕一さんはまた首を傾げる。
「ああ、あれか。千鶴さんに睨まれた時ね」
「余計な事は、思い出さなくてもいいんです」
 含み笑いでからかう耕一さんを、ぷっと膨れた頬で睨み付ける。
「そんな意味じゃ。なかったんだけどな」
「じゃあ、何が重いんですか?」
 困った様に首を捻り頭を掻くと、耕一さんは私から目を逸らし答えてくれない。
「私も興味を引かれますね。家の歴史より、世界を相手にするより重い物ですか?」
「重いって、体重か?」
「…梓姉さんったら」
 いつの間に戻って来たのか、背中から聞こえたからかう声を睨み付けると、梓は乾いた笑いを洩らし背中を向ける。
「………ですよ」
「なるほど」
 呟きに振り返った時には、顔を寄せた耕一さんに耳打ちされ、佐久間さんは感心した様に頷いていた。
「あの?」
「千鶴さん、そろそろ帰らないと。初音ちゃんが待ちくたびれてるだろうしさ」
「そう…ですね。佐久間さん、お話は後日、日を改めてという事で宜しいでしょうか?」
 聞き逃した答えを知りたかったけれど。家で待っている初音も気がかりで、私は先に話を打ち切る事にした。
「はい、結構です。今度の仕事は弟に任せるつもりですので。しばらくは、私が監視いたします」
「兄さん、監視はないでしょう」
 ずっと黙って話を聞いていた賢児さんが、情けない声をあげる。
「いやなら私を安心させろ」
 佐久間さんにひと睨みされ、賢児さんは溜め息を吐くと頭を掻き出した。

 どうやら佐久間さんが隆山まで来たのは、弟の賢児さんの心配もあったようだ。
 あんがい、兄馬鹿かも。
 気がかりな妹を持った身としては、何か共感してしまう。

「じゃあ、千鶴さん。ご住職に挨拶だけしてくるから」
「はい」
「宜しければ、車でお送りしますが?」
「えっ、ええ。でも」

 佐久間さんの申し出は有難いけれど。

「いえ。すいませんが遠慮しときますよ。少し歩きたいもので」
 チラッと視線を走らせると、耕一さんはそう言ってくれた。

 私もゆっくり歩きたい気分。

「あたしは乗せて貰おうかな 楓は?」
 横から口を出した梓に聞かれ、楓はこくんと頷いた。
「梓姉さん。バックは?」
「あっと、いけない離れだ」
「梓、車なら俺のも一緒に頼む」
 荷物を取りに本堂に向かう梓と耕一さんを見送り。
 私は佐久間さんに、さっきの耕一さんの答えを聞こうと振り返った。
「あ、あら? 佐久間さんは?」
 振り返った先には楓と賢児さんだけ、佐久間さんの姿は消えていた。
「車を取りに先に。姉さん、聞いてなかったの?」
 楓の苦笑混じりの表情で、佐久間さんが私にも声を掛けてから行かれたのが判った。
 私は素知らぬ顔で視線を逸らした。
「さっき耕一さん、何て言ってたのか。楓、聞こえなかったかしら?」

 梓のお蔭で聞き逃したから、梓と一緒にいた楓にも聞こえなかったとは思うけれど。

「ごめんなさい」
「いいえ、いいのよ」
「人生。だ、そうですよ」
「えっ?」
「兄貴に口止めしてたから。俺が話したのは、内緒にして下さいね」
 急に掛かった声に顔を向けると、賢児さんが頭を掻いていた
「ええ」
「家や世界相手より重いのは、人の歴史だそうです」
「…人の」
「歩んで来た人生の重さでしょうね」
 スッと伸び上がると、賢児さんは自嘲するように薄く笑い頬を指で掻いた。
「俺のは軽いな。会社でも苦労してないし」
 そっと肩に掛かった楓の手に片手を添え、私は耕一さんの姿が消えた本堂を見詰めた。

 もう、何て人。
 この一週間ほどの間。
 一体、言葉の中にどれだけの意味を託して、耕一さんは伝えようとしてくれていたんです?

「…判る気はしますけど」
「判る?…何が、ですか?」
 賢児さんの洩らした呟きに、楓がとがめるように声を掛けた。
 判ると軽く言われ、楓の声にも瞳にも、冷たい厳しさが篭もっていた。
 楓の責める声と瞳の厳しさに、賢児さんは目をうろうろ泳がした。
「…えっ? その、それは」
「貴方に、何が判ると言うんです?」
 私は肩に置かれた楓の手を握り、振り向いた楓に首を横に振った。
 振り向いた楓の唇も、繋いだ手も微かに震え、瞳は薄く濡れていた。

 軽々しく判ると言われた楓の胸の内は、私にも判る。
 柏木や世界を相手にするより、耕一さんが自分自身より重いと。
 言葉以上に行動で表してくれたのは、私達。
 でも、耕一さんの言葉の本当の重さは、他の誰にも判りはしない。
 私達の心の中に、大切に仕舞って置けばいい。

「…ごめんなさい」
 ゆっくりと静かに息を吐き、楓は背中を賢児さんに向け、小さく謝った。
「いえ、すいません。軽率でした」
 深く腰を折ると、賢児さんは真剣な顔で言葉を継いだ。
「でも、軽い気持ちで言った訳じゃありませんので。その。ご承知のように、会長の事も調べておりますし」
「ええ。事前調査の必要性は、承知しています」
 私は小さく息を吐き、賢児さんに気にしないように頷きかけた。

 賢児さんは両親や叔父様を亡くした家庭環境の事を知った上での言葉で、他意はないと言いたかったのだろう。

「調査の為に副社長までお出ましですもの。鶴来屋の信用度が低かったのでしょうか?」
 言葉にしてから、皮肉に聞こえたと後悔した。
「いえ、それは……」
 気不味そうに言葉を濁し、賢児さんは黙り込んだ。

 変だ。
 鶴来屋の接客体制は、業界でも評価されている。
 さっきも佐久間さんは、鶴来屋には問題がないように言っていた。
 鶴来屋に問題がないなら、何を探っていたの?
 耕一さんに遮られて、佐久間さんに返事を聞けなかったけれど。
 …耕一、さん?
 仕事の話の最中に、耕一さんが……

「…信用出来ないのは、私ですね」
 小さく息を吐くと、賢児さんは苦い笑いを浮べた。
「ご存じでしたか? 今では、私も兄も信用しております。彼が話を変えられたもので、ご存じではないとばかり思っていました」

 やはり佐久間が問題視していたのは、私自身
 じゃあ、耕一さんが心配していたのわ?

「信用して頂けて、喜ぶべきでしょうね」
「申し訳ありません。日本は物価が高いものですから、皇室御用達だと、海外の方には高額に思えても納得して頂けるものですから」
「鶴来屋ならば、費用と格式で折り合うと言うことですか?」
「はい。王室などが使われるホテルでは、高額は逆にステータスにもなりますので」
「では、鶴来屋に御泊めする方は、それなりに地位のある方々、と受け取らせて頂いて宜しいのでしょうか?」
 微笑みながら聞くと、賢児さんもほっとした様に笑みを浮かべた。
「はい。ですから外聞を気になさる方が多く。佐久間といたしましても、週刊誌や噂話には神経質になってしまい。本当に申し訳ありません」
 深く頭を垂れた賢児さんの声を聞きながら、耕一さんの心配していたことが判った。
「…姉さん」
 繋いだままだった手を握り、楓が心配そうに私を覗き込む。

 楓には、話した覚えがあった。

「心配しなくても、平気よ」
 微笑み手を握り返すと、楓は安心したようにそっと胸に手を置いた。

 まさか噂が、社外にまで広く伝わっているとは思ってもいなかった。
 最初会った時に佐久間さんが言っていた。
 週刊誌の記事を読み、噂も聞いていると。
 叔父様を殺し、会長の椅子を手に入れたという噂。
 柏木が呪われていると言う、週刊誌の見出し。
 その上、佐久間にお見合いを持ちかければ、私が地位や財産を欲しがっていると、佐久間が疑っても仕方はない。
 お見合いを口実に、何とか真意を探ろうとした訳ね。
 梓から話を聞いて、耕一さんは気付いていたのね。
 耕一さんまで噂を知っていたなんて。
 それで心配してくれていたの。
 佐久間さんも、遮られただけで耕一さんの意図を察し話を合わせた。

「戻られたようですね。それでは失礼します」
 会釈に会釈で返すと、賢児さんはスッと本堂に向かい歩き出した。
 梓の手から荷物を受け取り一緒に歩き出した賢児さんを見ながら、私は緊張を解き静かに息を吐き出した。

 実直そうな弟さんの方は、あまり心配はないけれど。お兄さんには気をつけないと、いつ足元をすくわれるか判らないわね。

「姉さん、先に帰りますね」
「ええ。気をつけてね」
 こくんと頷き、梓達の背中を追い山門に向かう楓を見送り。
 私は梓に軽く手を挙げ、歩み寄って来る耕一さんに目を向けた。

 変わっていないと思った。
 でも、やはり耕一さんは変わった。
 それは耕一さん自身が努力して。
 私達を支えようと、耕一さんが寝る間も惜しんで努力してくれた成果。

「お待たせ」
 胸の奥から湧き出る温かさに、自然に浮かんだ笑みでジッと見詰めている私を不思議そうに見返し、耕一さんは首を傾げる。
 一歩踏み出し背に腕を回し、私は胸に顔を埋めた。
「お帰りなさい」
 温かい手が私を抱き返し、髪を撫でてくれる。
「ただいま」
 顔を上げると優しい笑みが、目の前にあった。
 軽く唇を合わせ、私達はゆっくり足を進めた。
 山門を潜り遠く陽の煌めきを受ける輝きを目指し、腰に回した腕の確かな温かさと、肩に回された手の力強さを感じながら。

 初めて出会った場所。
 初めて結ばれた場所。
 これからも多くの想い出を紡ぐだろう場所。
 そして同じ時を、二人で歩む家へ。

 山門を吹き抜けた寒風が心地良く頬をなぶる中、私達は歩み始める。
 二人寄り添い歩み続ける時の中へ。



  凍った時、陰の章  完。


あとがき

陰の章 終章

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