こんなに日に掃除当番だなんてついてない。
もう、教室にはわたし一人。
廊下から呼ばれて、鞄を抱えたわたしはパタパタ上履きを鳴らして教室を飛び出した。
廊下で待っていてくれた友達三人が、不意に真顔になると少しバツの悪そうな顔で、ごめんね。と謝るのに首を横に振る。
三人はわたしのお誕生日だから、お祝いをしてくれるって。
でも、お小遣いに余裕がないからって、みんな申し訳なさそうな顔をするの。
仕方ないよ。
わたしの誕生日は二月の二七日。
十四日のバレンタインで、クラスの子達は競うようにチョコを買ってたんだもん。わたし達のお小遣いじゃ余裕なんて、そんなにないもの。
プレゼントより、わたしはみんながお祝いしてくれる気持ちの方が嬉しい。
正直な気持ちを伝えて、わたしがありがとうって言うと、みんなは少し照れ臭そうに、十六歳のお誕生日は特別なんだって言うの。
十六歳。
両親の承諾があれば、女の子は結婚出来る歳。
昨日と今日でなにかが変わったわけでもないのに、大人と子供の狭間で、境目のない歳。
わたしに取っては、別の意味でも特別な歳。
初めて、お姉ちゃん達だけとお誕生日を過ごす歳だから。
去年までは、お誕生日にはみんなには悪いと思いながらすぐに家に帰っていた。でも今年は、帰りたくない気持ちがするのは、一つ欠けた席が寂しいからだと思う。
だから、みんなが誘ってくれた時も断ろうとして、帰っても叔父ちゃんは居ないんだって思って、少し、ほんの少し寂しい気がした。
でも梓お姉ちゃんは、お誕生日どころじゃなかった。
楓お姉ちゃんの方が、叔父ちゃんと仲が良かったんだもの。一足先に十七のお誕生日を迎えた楓お姉ちゃんの方が寂しかったはずだから。
だから、わたしが寂しい顔を見せちゃいけないんだもん。
「ねえ」
どこかでハンバーガーでも食べて、ウインドウショッピングしてって話しながら校庭を横切っていると、隣を歩いていた子がわたしの肘を突ついて、みんなの顔のぐるりと見回した。
「うん?」
「あれって、誰の知り合い?」
「うん?」
真っ直ぐ伸ばされた指が指した校門にみんなの視線が集まる。そこに大きく手を振っている男の人がいた。
薄日射す肌寒い校庭には、クラブ活動をしてる子の他には、もうわたし達の他に人影はない。
ちょっとホッとした様な顔で手を振っているのは。
「えっ、ええ!」
わたしは思わず大きな声を出して、目を見張った。
「耕一お兄ちゃん!」
手を振っているのがお兄ちゃんだと判った途端、わたしの足は勝手に動き出していた。
「お兄ちゃん、なにかあったの?」
「えっ?」
耕一お兄ちゃんが平日の学校に来るなんて思ってなかったわたしは、何かあったのかと思って駆け寄った勢いのまま息を整えながら聞くと、耕一お兄ちゃんは驚いた様な顔で首を傾げた。
「なにかって? あっと、やっぱり学校に来たのは不味かったかな」
ちょっと気まずそうな顔をした耕一お兄ちゃんの視線は、わたしの頭を越えて、後ろの方を見ていた。
わたしは首を捻って背中の方を見て、カッと顔が熱くなった。
駆け出したわたしに置いてきぼりを食った友達が、お兄ちゃんと私を見て、意味有りげなクスクス笑いを洩らしていた。
「あっ、ううん。…そんな事無いよ」
首を横に振ってお兄ちゃんにそう言ったけど。わたしの顔は真っ赤の筈で、お兄ちゃんの顔をまともに見られなかった。
「初音、また明日ね」
そう言って横を通りすぎて行く友達が、そっとわたしの耳に、優しそうな彼だねって囁いて行った。
一瞬なにを言われたか判らなかったわたしは、言われた意味に気づいて身体中が湯気が出るほど熱くなって、頭がポーとしているうちに、友達はわたしとお兄ちゃんを置いて、帰ってしまった。
きっと明日は、みんなから質問責めにされるだろうな。
そっと目を上げると、お兄ちゃんにも聞こえていたのか、耕一お兄ちゃんは赤い顔で頭をぼりぼり掻いている。
「「あの」」
なにか言わなきゃっと思って口を開いたわたしとお兄ちゃんの声が重なって、わたしとお兄ちゃんは顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
「ごめんね、初音ちゃん。まだ誰も家に帰ってなかったから、ちょっと来てみたんだけど。友達と約束があったんじゃないの?」
「ううん。ちょっと寄り道しようかなって、話してただけだから」
申し訳なさそうな顔をするお兄ちゃんに、わたしは首を振った。
「あっ、でも耕一お兄ちゃん、学校は?」
「自主休校。暇な大学生の特権でね」
そう言って耕一お兄ちゃんは笑ったけど。わたしの笑いはぎこちなくなる
だって耕一お兄ちゃんったら、バレンタインの時もそう言ってたのに、大学生ってこんなにお休みばっかりしてて良いのかな?
「なにか急用でもあったの?」
「うん。やっぱり今日じゃないとね」
「あっ、それじゃ早く帰ろう。千鶴お姉ちゃんも、今日は早く帰るって」
よっぽど急ぎの用事があるんだと思ったわたしが慌てて言うと。耕一お兄ちゃんは、クスクス笑ってわたしの頭に手を置いてぐりぐりと撫でる。
大きくって温かい手が優しく頭を撫でると、わたしはそれだけで焦りや寂しさが消えてしまって、少し恥ずかしいけど温かな優しい気持ちになってぼぉっとしてしまう。
「初音ちゃん、ゆっくりしてこうよ。友達の代わりに付き合うからさ」
「でも耕一お兄ちゃん、急いでるんでしょ?」
「今日は、初音ちゃんの誕生日だろ?」
おかしそうに笑いながら、耕一お兄ちゃんの目が優しく細められる。
「ええっと、耕一お兄ちゃん、わたしのお誕生日だから帰って来てくれたの?」
「うん。やっぱり誕生日は、今日だけだからね」
まさかと思って尋ねると、耕一お兄ちゃんは当然というように頷く。
「初音ちゃん?」
お兄ちゃんの驚いたような困ったような声が聞こえたけど、わたしは目元が熱くなって、涙が止まらなくて両手で目を擦りながらしゃがみ込んでしまった。
小さな子供みたいで恥ずかしいけど、どうしても涙が溢れてきて、膝から力が抜けたようで立っていられなくて、涙を拭うわたしを耕一お兄ちゃんはそっと抱き寄せると頭を何度も何度も撫でてくれる。
お父さんとお母さんが居なくなった後、叔父ちゃんと千鶴お姉ちゃんがしてくれたように優しく抱き寄せて、涙が止まるまで何度も何度も撫でてくれる。
しばらくして泣き止んだわたしを連れて、耕一お兄ちゃんはこんな所でごめんね。と言いながら、ハンバーガーショップに連れて行ってくれた。
「ごめんね。耕一お兄ちゃん」
いきなり泣き出したのをハンバーガーを齧るお兄ちゃんに謝ると、耕一お兄ちゃんはにやっと笑う。
「いやぁ、あんなに感激して貰えるなら毎日誕生日でも良いな。でも初音ちゃんは、ちっちゃい頃から変わらず感激屋さんだね」
「耕一お兄ちゃんは、意地悪だよね」
いつもなら言えない台詞がさらっと口から出て、わたしはちょっと驚いた。
「俺って意地悪かな?」
「だって、いきなりなんだもん。驚いちゃって」
こないだのバレンタインの時も、耕一お兄ちゃんは暇が出来たからって突然帰って来た。
もちろん、お兄ちゃんが帰って来てくれるのは嬉しいけど。梓お姉ちゃんじゃないけど、いきなりだとなんの準備も出来ないから少し慌ててしまう。
お兄ちゃんは、私達を驚かして喜んでるような気もするけど。バレンタインのチョコなんか、もう少しで宅急便で送るところだったんだから。
考えるように首を傾げると、耕一お兄ちゃんは寂しそうな顔をする。
「そっか、俺って意地悪な奴だから、初音ちゃんに嫌われたかな?」
「そ、そんな事ないよ」
「いいんだ、慰めてくれなくても。でも初音ちゃんに嫌われると、とっても悲しいな」
わたしは慌てて首を横に振った。
「そんな事無いよ。わたし耕一お兄ちゃん大好きだよ」
言ってから、わたしは両手で口を押えて身の縮む思いがした。
慌てていたからか、お店に人が少なかったからか声が意外に大きく響いて、驚いた顔でお店の人やお客さんがわたしの方を見ている。
「俺も、初音ちゃんが大好きだよ」
耕一お兄ちゃんは視線が気にならないのか、嬉しそうな顔で、そんな事を言う。
とっても恥ずかしいのに。
何だか耕一お兄ちゃんが嬉しそうに笑うと、ちょっと安心して、つられて笑い返してしまう。
いつも帰りに友達と食べるハンバーガーも、耕一お兄ちゃんと一緒だと、全然別の物みたいに美味しいし。
耕一お兄ちゃんって、ちょっと変だよね。
嫌な変じゃなくて、とっても素敵な変。
「さてと。これからどうしようか? 普通のデートコースだと、映画とか食事だけど。映画は今からだと遅くなるし、食事は梓が腕を振るってるだろうしね」
デート?
そっか、これってデートなんだ。
そう思うと、わたしの体はむず痒くなって、もじもじしてしまう。
「初音ちゃん、どうかした?」
「あっ、ううん。あのね、耕一お兄ちゃんは、デートとか良くするの?」
なんとなく気になって聞いてから、わたしはちょっと後悔した。
耕一お兄ちゃんの表情が考えるような、どう応えていいのか判らない複雑なものになったから。
そうだよね、耕一お兄ちゃんが帰って来てても千鶴お姉ちゃんお仕事で忙しいから、デートってあまりしてないもんね。
考えようによっては、浮気調査みたい。
「うぅ〜ん。俺ってもてないからな」
「えぇ、嘘だよ。耕一お兄ちゃんがもてないなんて」
友達がかっこいいって言うアイドルなんかは良く判らないけど。耕一お兄ちゃん優しいし、背だって高いからもてると思うんだけどな。
由美子さんだって、耕一お兄ちゃん大学で人気あるみたいに言ってたのに。
わたしは心底驚いて言ったけど。耕一お兄ちゃんは逆に驚いたみたいに眼をぱちくりさせる。
「ホントだよ。友達はいるけどさ、特別親しいって娘はいないな。でも初音ちゃんは優しいよね。梓なら思いっ切り馬鹿にするだろうな」
「梓お姉ちゃん、照れ屋さんだもん」
渋い顔ではふっと息を付いた耕一お兄ちゃんは、そうだね。と表情を崩す。
家でこんな話をしてて梓お姉ちゃんが聞いたら、ムキになって言い返すだろうな。
「でもさ、俺より初音ちゃんはどうなの? 学校でももてるんじゃない?」
「そ、そんな事無いよ」
耕一お兄ちゃんがからかうのに慌てて手を振る。
「初音ちゃんは、好きな男の子とかいないの?」
「好きって言うなら、友達はいるけど……」
どうしてだろ。
わたしには好きって言うのが、まだ良く判らない。
クラスで感じのいい子やよく話す子は居るけど、みんなの言う好きな男の子。
特別な男の子って言うのとは、なんとなく違う感じがする。
みんなは高校生なら好きな子の一人ぐらいいないと、変だって言うけど。
「ねぇ、耕一お兄ちゃん」
「うん?」
「あのね。高校生で好きな子がいないのって、変なのかな?」
変だって言われたらどうしようって思いながら聞くと、耕一お兄ちゃんは腕を組んで考え込んだ。
やっぱり変なのかな?
「変だとは思わないけど。でも、それだと俺だって変な部類に入るかな」
「えっ?」
それって。
「耕一お兄ちゃん、もしかして?」
照れ臭そうに笑うと、耕一お兄ちゃんはぽりぽり鼻の頭を指で掻き出す。
「いや、ね。ま、そっ、なんと言うか。高校の時ってさ、特に好きな子っていなかったんだよね。よっぽど性格悪くなきゃ、嫌いな子も居なかったけど」
恥ずかしそうに言いながら、横を向いた耕一お兄ちゃんはコークのストローを口にくわえる。
何だかこういう時の耕一お兄ちゃんは、とっても可愛く見える。
「じゃあ、みんな好きだったの?」
少し安心したけど。
でも、それって八方美人な気もするんだけど。
「うん、可愛い娘はみんな好きだよ。だからさ、初音ちゃんは大好きだよ」
嬉しいけど…でも、それじゃあ可愛い娘なら誰だっていいみたいだよ。
「もう、耕一お兄ちゃんったら。じゃあ可愛くないとダメなの?」
なんとなく耕一お兄ちゃんらしくない言い方に、少し上目遣いに睨んだけど。
どうしても頬が弛んじゃう。
「あっ、初音ちゃん。勘違いしてない?」
「勘違いって?」
得意そうに少し顎を上げると、耕一お兄ちゃんはふっと息を吐く。
「可愛いって言うのは性格も含めてだからね。顔やスタイルが良くても、性格が悪かったらダメ」
「じゃあ性格が良くて、あの…綺麗じゃなかったら…?」
「結局、好きになったら関係ないだろうけどね。って、俺が言っても説得力ないよな」
そっか、千鶴お姉ちゃん綺麗だし優しいもんね。
「考えて好きになるんじゃないからね。気持ちの問題だからさ。気にしなくても、そのうち初音ちゃんにも、気になる男の子が現れるよ」
そう言って耕一お兄ちゃんは、片目を瞑って見せる。
でも、顔をしかめたみたいな変なウィンクで、わたしはくすくす笑ってしまう。
「ねっ。じゃあ耕一お兄ちゃんの初恋って、幾つの時?」
「今日の初音ちゃんは、質問攻めだね。学校でなにかあったの?」
首を傾げた耕一お兄ちゃんに顔を覗き込まれて、わたしは思わず背を伸ばして顔を俯けた。
お兄ちゃんにこんな質問をしたりして、わたしやっぱり気になってたんだ。
「あのね。学校で十六歳だと結婚できるって。それで初恋とか好きな子の話になって……それで」
みんなは小学生の時とか早い子だと幼稚園とかいってたけど、わたしは初恋って覚えがない。
わたしの想い出で、一番楽しくて記憶に残っているのは、耕一お兄ちゃんが遊びに来た八年前の夏休み。
お父さんお母さん、みんなが揃っていた最後の夏。
もしかしたら、わたしの初恋って……
でも、みんなの話す初恋とは、ちょっと違う気もする。
「へっ、十六でもう結婚の話とかするの?」
お兄ちゃんは目を丸くする。
「えっ、おかしい…かな?」
「いや、俺ってやっぱり男だから、女の子の話は判らないけど。十八の時って結婚出来るなんて考えなかったな」
「そうなの?」
そうだ、どうして男の人は十八からなんだろ?
「ふぅ〜ん。女の子ってそう言う話するのか。で、初音ちゃんの初恋は幾つの時?」
「あっ、狡いよ耕一お兄ちゃん。聞いたのわたしなんだけどな」
興味を持って身を乗り出してくるお兄ちゃんを軽く睨むと。
「うん、だからさ。初音ちゃんが教えてくれたら、俺も教えるよ」
お兄ちゃんは、それでおあいこだよね。と、頬杖を突いてわたしの顔を覗き込む。
「でも…」
耕一お兄ちゃんのいう事はもっともだけど。
「うん、幾つの時?」
うぅ、聞くんじゃなかった。
耕一お兄ちゃん、たまに意地悪になるんだから。
興味津々の楽しそうな瞳は、話すまで許してくれそうもない。
「……まだ」
わたしは諦めて言った。
高校生で初恋がまだだなんて、笑われるかなと思ったけど。あんまり意外でもなさそうに耕一お兄ちゃんはそうかと呟いただけだった。
「じゃあ、今度は耕一お兄ちゃんの番だよ」
ちょっとホッとしたわたしは、上目でお兄ちゃんを覗きながら聞いた。
「俺ね。十二かな」
わたしから眼を逸らすと、耕一お兄ちゃんは照れ臭そうにハハッと笑う。
「…お兄ちゃん…それって…?」
十二歳の耕一お兄ちゃん。
小学生のお兄ちゃんが、家に遊びに来たのは、ちょうどその頃で……。
なんとなくそういう気はしてたけど、初恋だっんだ。
初恋は実らないって、嘘なんだね。
「うん。初音ちゃん、二人だけの秘密だからね」
耕一お兄ちゃんは照れ臭そうに頭を掻くと、身を乗り出して念を押す。
わたしはちょっと考えてコクンと頷いた
お姉ちゃんに教えて上げたいけど。お兄ちゃん照れ臭そうだし、しょうがないよね。
でも、それって。
子供の頃から、耕一お兄ちゃんは、ずっと千鶴お姉ちゃんだけを好きだった事になるのかな?
「ええと、もう一つだけ聞いてもいいかな?」
「うぅ〜ん、そうだな。初音ちゃんだから、特別に許しちゃおう」
両腕を組んでちょっと偉そうにそう言うと、お兄ちゃんはこくんと首を傾げて笑う。
「あのね。耕一お兄ちゃんは、千鶴お姉ちゃんのどういうところが好きなの?」
「いっ!?」
すこし反り返り気味に座っていた耕一お兄ちゃんは、ちょっと椅子からずり落ちるとうっすら額に汗を浮べた。
「はっ、初音ちゃん。それって、むちゃくちゃ答え難いよ。勘弁してよぉ」
「でも…どうしても、ダメ?」
でも、どうしても知りたいんだもん。
チラッと上目遣いに眼を向けると、耕一お兄ちゃんは眉間に皺を寄せ本当に困った顔をする。
「そりゃさ、並べれば色々あるだろうけど。どれも表面的な理由だから」
「表面的って?」
「例えば、優しいからとか。綺麗だからとかさ」
「耕一お兄ちゃん、さっき言ってたのと矛盾してない? それなら、梓お姉ちゃんや楓お姉ちゃんも綺麗だし、優しいよ」
なんだか、今日のわたしってちょっと変。
お兄ちゃん困ってるのに、とっても意地悪な事言ってる。
「うん、だからさ。言葉に出来るようなもんじゃないから」
額の汗を腕で拭きながら、耕一お兄ちゃんは照れ臭そうな苦笑いを浮べる。
「あっ、そうだ。初音ちゃん、時間もないから、そろそろ出ようよ」
話を胡麻化そうとしたのか、耕一お兄ちゃんはトレイを持ち上げさっさと立ち上がる。
やっぱりこう言う事って、聞いちゃいけなかったのかな?
反省しながら一緒に立ち上がると、耕一お兄ちゃんは隣に置いてあったわたしの鞄に手を伸ばすと肩に掛けて歩き出した。
「あの、耕一お兄ちゃん」
「うん?」
「ごめんね」
トレイの上のゴミを屑箱に入れていたお兄ちゃんは、一瞬キョトンとした顔をすると、わたしの頭を二度軽くぽんぽんと叩いた。
「いいって。ちょうど興味がある年頃だもんな」
「ううん、そんなんじゃないの。ただ……」
お兄ちゃんは、恋愛に興味を持つ年頃だからって、そう思ったみたいだった。
「うん?」
「あの、わたしね。千鶴お姉ちゃんみたいになりたいの…だから…」
いつでも明るくてハキハキしている梓お姉ちゃんの陽気さが好き。
楓お姉ちゃんの静かな落ち着いた優しさも好き。
お姉ちゃん達、三人とも大好きだけど。
でも、お母さんみたいに暖かくて優しい千鶴お姉ちゃんは、わたしの理想だから。
耕一お兄ちゃんが千鶴お姉ちゃんを好きになったのは、当然だと思う。
だからわたしは、大好きな耕一お兄ちゃんが千鶴お姉ちゃんのどんなところを一番好きになったのか、とっても知りたかった。
でも耕一お兄ちゃんは、ちょっと困った顔をしてわたしを覗き込むと、微かに、本当に注意して見ていないと判らないほど小さな溜息の様な息を吐いた気がした。
「初音ちゃんは、初音ちゃんだよね?」
当り前のことなのに、とっても大事な事みたいにお兄ちゃんは優しくそう言う。
「えっ? うん」
「それでいいんじゃないかな」
そう言ってわたしを見つめる瞳はとっても優しくて。なぜか、わたしは恥ずかしくなってお兄ちゃんの瞳から逃げる様に俯いてしまった。
「まだ、早いかな。でもね、今のままでも初音ちゃんは、とっても素敵な女の子だよ」
わたしは顔も体も熱くなって、俯いてスカートの端をしっかりと握り締めていた。
耕一お兄ちゃんが、千鶴お姉ちゃんとお付き合いを始めてから、ちょっと変わったのはこう言うところ。
前ならこんな事をすらすら言ってくれなかった。
梓お姉ちゃんは、お兄ちゃんに似合わないキザな台詞だって言うけど。優しい瞳で耕一お兄ちゃんに言われると、わたしの胸はどきどきしてしまう。
胸のどきどきを制服の上から両手で押えると、身体中が心臓になったみたいにとくんとくんと頭にまで鼓動が伝わってくる。
どきどき脈打つ心臓の音を聞きながら、小さく一つ息を吐き出すと、吐く息もとっても熱くて風邪を引いて熱がある時みたいに口の中に苦い感じが広がる。
耕一お兄ちゃんは、俯いたままのわたしをどう思ったんだろう。
頭をそっと撫でて、わたしが赤くなっているはずの顔を上げて、ぎこちなく笑うとゆっくり歩き出した。
本当にゆっくりゆっくりと、わたしの歩幅に合わせて足を進める耕一お兄ちゃんと肩を並べながら、わたしは心臓の音がお兄ちゃんに聞こえないかとっても心配だった。
どきどきする胸を押さえながら駅前のショッピングモールの中を、お散歩するみたいにゆっくりとお兄ちゃんと肩を並べて歩く。
と、不意に耕一お兄ちゃんは、身体を捻ってわたしの顔を覗き込んだ。
「そうだ初音ちゃん、誕生日のプレゼント何がいい?」
「えっ!? ぷっ、プレゼント?」
耕一お兄ちゃんの顔が目の前一杯に広がってまたどきんと胸が跳ねたわたしは、とっさに返事が出来なくて聞き返していた。
「うん、ごめん。女の子が喜びそうな物って判んなくて、時間もなかったから用意して来なかったんだ」
耕一お兄ちゃんは、申し訳なさそうに顔の前に片手を上げる。
「わたし、お兄ちゃんが来てくれただけで十分だよ」
胸のどきどきがお兄ちゃんに聞こえそうな気がして、凄く心配になったわたしは、思わず一歩後退りながら首を振る。
「くぅ〜初音ちゃん、なんて可愛いこと言うんだろ。お兄ちゃんは、初音ちゃんの為だったら全財産だって投げ出しちゃうから、遠慮しなくったっていいんだよ」
大袈裟すぎるほど感激して見せる耕一お兄ちゃんの声で、夕方の只でさえ人通り多いショッピングモールの視線が突き刺さっていた。
「え、遠慮してる訳じゃ…わ、判ったから…耕一お兄ちゃん」
全身が火を噴いたみたいに熱くなったわたしは、慌ててそう言った。
「うんうん。じゃあ、なにがいいかな?」
嬉しそうに耕一お兄ちゃんは、うんうん頷くとわたしの手を握って歩き出す。
耕一お兄ちゃん、お願いだから場所を考えてよぉ〜〜。
まだみんなこっちを見てる。
ううぅ。恥ずかしいよぉ。
「取りあえず、初音ちゃん」
「う、うん?」
「ここから離れよう」
そう言うと、耕一お兄ちゃんも恥ずかしかったのか、わたしの手を取って一気に駆け出した。
わたしも真っ赤に染まった顔を俯かせて一生懸命に走る。
頬に当たる風はまだ冷たいけれど、コートの中はとっても熱くなって吐く息も熱いけれど。
でも、わたし合わせて小走りに駆けるお兄ちゃんと繋いだ手はもっと熱い。
少し行った角を曲がってわたしとお兄ちゃんは足を止め。曲がった角からそっと首だけ出して来た道を覗いてみる。
誰も見てる筈なんかないのに一緒になって覗いているのがおかしくて、二人してクスクスと笑い出した。
「もう、耕一お兄ちゃんたら」
「ゴメン、ゴメン。ちょっと恥ずかしかったよね」
「とってもだよ」
少し上目遣いに睨むとお兄ちゃんは、そうかなと。と首を捻る。
「ま、それよりプレゼント、プレゼント。何がいいかな?」
「うん。えっと近くによく行くお店があるんだけど」
わたしは少し迷いながら言う。
お気に入りのお店だけど…お兄ちゃんにはどうかな?
「じゃあ、そこに行ってみよう」
わたしが迷ったのをまだ遠慮してると思ったのか鼻歌混じりでそう言うと、耕一お兄ちゃんはわたしの手を握ったまま歩き出した。
わたしもとことこその後に続く。
耕一お兄ちゃんの手は大きくて温かくて、やっぱり叔父ちゃんの手の感じと似ている。
耕一お兄ちゃんと手を繋いでいるととっても安心出来て、子供に戻ったみたいに色々な物が輝いて見える。
歩き出した道に並ぶウインドウの中に飾られたガラスの欠片が跳ね返す光が温かく感じられたり、何げなく置かれた看板までが別の世界のオブジェの様に感じられて、沈んでいたはずの気持ちがうきうきと踊り出す。
「えっと…初音ちゃん、ここ?」
着いたお店の前で、耕一お兄ちゃんは少し照れ臭そうな顔でわたしを伺う。
うんと頷いたわたしがお兄ちゃんの手を引いて入ったのは、小さな小さなファンシーショップ。
梓お姉ちゃんが教えてくれた、ショッピングストリートから少し離れた小さなお店。
入ってすぐのレジの上から迎えてくれる、大きなテディベアが、わたしの大のお気に入り。
お店を飾る抱え切れない大きなぬいぐるみ。手の平に乗る小さなぬいぐるみ。
周りに飾られたカチューシャ、ブローチ、ペンダント。
きらきら輝くお店の中は、人形達の国。
わたしのお部屋に居る子達も、ここからやって来た。
顔なじみになったお姉さんに挨拶すると、お姉さんは居心地悪そうなお兄ちゃんをちょっと意外そうに見て、からかうような笑みを浮かべた。
お店の中は学校帰りの女の子達で一杯、耕一お兄ちゃん以外に男の人はいない。
やっぱりお兄ちゃんも、こういうお店って苦手だったみたい。
他のお店にした方がいいのかなって思って見上げた耕一お兄ちゃんの視線は、落ち着きなくうろうろしてる。
照れ臭そうにきょろきょろしてるお兄ちゃんは、お店の中で頭一つ分ぐらい大きくて、小人の国に迷い込んだガリバーさんみたい。
他のお店に行こうかと思ったけど。お兄ちゃんは頬を指で掻きながらここでいいよって言ってくれた。
でも、お兄ちゃんがもてないなんて、やっぱりそんな筈ないよ。お店にいた子達の視線って、少し羨ましそうだったもの。
恥ずかしいけどちょっと嬉しくて、少しだけ得意がってるわたし。
お兄ちゃんとわたしって、回りの女の子にはどう見えるんだろ?
やっぱり兄妹かな?
恋人……なわけないよね。
ね、耕一お兄ちゃん。
家の近くの夕闇迫る公園のブランコ。
キーコ、キーコ、揺れるたび小さく鳴る。
手にはリボンのかかった小さな箱。
お兄ちゃんの選んでくれたイヤリング。
クマさんの縫いぐるみも可愛かった。
けど十六歳の記念だもの、少しだけ背伸びしてイヤリング。
初めてのデートの記念だし。
たったか駆けてくる足音に顔を上げ、コートのポッケに箱をしまう。
白い息を吐きながら駆けてきた耕一お兄ちゃん、ハイって缶コーヒーを差し出しながら小さく笑う。
「熱いから、気を付けてね」
「うん、ありがとう」
お兄ちゃんが隣に腰を下ろすと、ブランコは小さくキーと鳴る。
そう言えば、前にもこんな事あったっけ。
「ねえ耕一お兄ちゃん、覚えてる?」
「えっ?」
隣で缶コーヒーを飲んでいたお兄ちゃんは、少し首を傾げる。
「前にもこうやって、ここでお姉ちゃん達と一緒にブランコを漕いだんだけど」
ぶらぶらさせてた両足で地面を蹴って少し揺らすと、ブランコはまたキーと鳴く。
「ああ。うん、俺と梓で漕ぎ比べしたんだ。ここだっけ?」
「うん。そうだよ。わたしがここに座ってて、お兄ちゃんが後ろに立って漕いでくれたんだよ」
「初音ちゃん、鎖にしがみ付いて泣いちゃったんだっけ?」
「だって耕一お兄ちゃんたら、わたしが乗ってるのに梓お姉ちゃんと競争するんだもん。とっても怖かったんだから」
懐かしそうに言うお兄ちゃんをちょっと睨む。
「う〜ん。俺も若かったな」
お兄ちゃんたら少し困った苦笑いで、お爺さんみたいな事を言う。
「そしたら、お兄ちゃん缶ジュースを買って来てくれて」
「そうだっけ?」
そこまで覚えてなかったみたいで、耕一お兄ちゃんは考えるように首を傾げる。
「覚えてないの?」
「怒った梓に追いかけられたのは覚えてるんだけど。たしか、楓ちゃんが初音ちゃんを慰めてたんじゃなかった?」
「うん。その後、梓お姉ちゃんと戻ってきた耕一お兄ちゃん、ゴメンねって、缶ジュースくれたんだけど……」
ちょっと残念な気がして、わたしはお兄ちゃんの顔を下から覗き込んだ。
「……ああ、そうだ」
少し眼を瞑って考えてた耕一お兄ちゃんは、うんと一つ頷いて顔を上げた。
「一本しか買えなくて、みんなで回し飲みしたんだ」
違ったっけと覗き込む耕一お兄ちゃん。
「う、うん」
赤くなりそうな顔で微笑んで首を縦に振る。
「しかしなんか子供の時の俺って、初音ちゃん泣かして梓に追い駆けられてばっかいたような気がするな。よくみんなに嫌われなかったよね」
話を変えちゃった耕一お兄ちゃん、にぶちんさん。
お兄ちゃんが飲んでた缶ジュース、最初にわたしにくれたんだよ。
とってもとっても甘くて美味しかったんだから。
今から思い出すと、間接キッスなんだよね。
「ううん、嫌いになんかならないよ。耕一お兄ちゃん、優しかったもの」
小さな時、耕一お兄ちゃんと一緒になって駆けっこしたり、木登りしてた梓お姉ちゃんが羨ましかった。
わたしも楓お姉ちゃんも二人に全然追いつけなくて、一生懸命後を追っかけてたけど。
耕一お兄ちゃん、先に行ってもちゃんと待っててくれたもの。
「そうかな?」
「うん」
コクンと頷いてブランコを揺する。
キーコ、キーコ。
揺れる度、静かな公園に音が響いて消える。
八年も前の、耕一お兄ちゃんとの想い出の音と同じ音。
「初音ちゃん」
「うん?」
ブランコを揺すりながらコクンとお兄ちゃんの方を向く。
「冷え込んできたし、そろそろ帰ろうか?」
足を伸ばすとズズッと砂を擦る音でブランコの音が消えた。
「…うん」
頷いたけど。
「初音ちゃん?」
ブランコに座ったままのわたしをどう思ったんだろう。
耕一お兄ちゃんの声が訝しげにわたしを呼ぶ。
「あの。もう少しだけ。飲み終わるまで……」
上目遣いに目を上げると、耕一お兄ちゃんのちょっとキョトンとしたような顔。
そうだよね。
梓お姉ちゃんも楓お姉ちゃんも、千鶴お姉ちゃんだってもう帰ってるかも知れない。
みんな待ってるよね。
「ううん、何でもないの。お姉ちゃん達待ってるよね」
「いいよ。初音ちゃん」
ぴょこんと立ち上がったわたしの頭に、声と一緒にぽんと大きな手。
「ゆっくり飲んでいいからね。それから帰ろう」
ゆっくりゆっくり、髪を撫で付けるように大きな手が動く。
「でも」
「初音ちゃん、寒くない?」
「えっ? ううん。平気だけど」
「う〜ん、俺は寒いからさ」
そう言いながら耕一お兄ちゃんは、自分の膝の上をぽんぽん叩いて悪戯っぽく笑う。
「えぇっ!?」
「ダメ?」
うぅ わたしお兄ちゃんの悲しそうな顔って弱いんだよね。
街頭が灯りだした公園の中をきょろきょろ見回して誰もいないのを確かめてから、わたしはそおっとお兄ちゃんの膝の上に腰を下ろした。
小さく揺れたブランコが、また小さくキーと鳴く。
背中がとっても温かい。
お父さんや叔父ちゃんの膝の上と同じ、安心できる温かさ。
ゆりかご見たいに揺れるブランコ、瞼を閉じると小さな音と温かさが染みてくる。
キーコ、キーコ。
とってもおかしな子守歌。
ごめんね、お姉ちゃん。
もう少しだけ、お兄ちゃんとデートさせて。
キーコ、キーコ。
心の中の呟きに、応えるようにまた聞こえる。
「そうだ、まだ言ってなかったな」
「お兄ちゃん?」
お兄ちゃんの囁くような声で、首を傾げるようにして後ろを覗く。
「お誕生日おめでとう、初音ちゃん」
十六のお誕生日。
大人と子供の間のあやふやな歳。
でも、まだ子供のままでいたいな。
だって、大人になったらだっこして貰えないもの。
「ありがとう、耕一お兄ちゃん」
ね、耕一お兄ちゃん。
もう少しだけ、子供のままで構わないよね?