凍った時、番外編1
独白 〜楓〜
遠く響く足音に少し眉を顰める。
やっと解け掛けた問題集から視線だけを上げ、そっと息を吐き出す。
遠くに聞こえた足音に乱された集中力。
一問だけ、解けそうで解けない数学の方程式を睨み鉛筆を持った指の力を抜く。
支えを失った鉛筆は問題集の上をころころと転がり、見えない力に止められぴたりと制止する。
見えない力。
表面張力、転がり定数。後は摩擦係数だっけ?
姉さんや初音が見たら驚くような渋面で、私は鉛筆を取り上げ強く鉛筆の端を噛みしめる。
初音ならこんな事考えない。
お箸が転がってもおかしい年頃、そう言う言い方がある。
些細な事でも他愛なく笑える年頃。
私もその年頃の筈なのに。
鉛筆を転がして表面張力を考える私は、普通の女の子らしくないのかしら?
チラリと上げた瞳を机の上の時計に走らせる。
冬期休暇に入って仕事が忙しい千鶴姉さんが帰って来るまで、まだ数時間はある。
疲れて帰ってくる姉さんに教えて貰うのは悪い。
まだ食事の用意には早いし、梓姉さんに聞いてみよう……
二つに折った問題集の間に鉛筆を挟み、くるりと椅子を回して立ち上がり廊下に出ると小さく身震いが起こった。
旧家屋の家には、セントラルヒーティングなど無い。
建て増しした私達姉妹の部屋もそれは同じ、でも昔ながらの母屋の方が暖かい。
今の建て方と違い、戸を閉め切ると外部の冷気を遮断し内部の熱を閉じ込めるからだって、叔父さんが前に話して下さった。
そのせいだろうか、暖房を入れた部屋から一歩出ると、母屋と繋がる私達の部屋の前、板張りの廊下は外気が通り抜け冷蔵庫の様に冷え切っている。
十二月。
今年も後もう僅か、寒いのは当たり前か。
白く濁る息を手に吹きかけ、隣の部屋の扉を二回ゆっくりと叩く。
少し待って、もう一度。
受験勉強をしている筈の姉さんの返事は、幾ら待っても無かった。
寒さに竦めた肩を手でさすり、私は居間に足を向ける。
梓姉さんの行動パターンは読めている。
勉強の息抜きと称して居間で炬燵に入ってテレビでも見ているか……うちの学校の三年生はもっと。
ふるふると首を振って考えを追い払う。
うちは進学高だし、梓姉さんには姉さんの考えが……ある。と思う。
廊下から見上げた空はどんよりと曇り、今にも泣き出しそうだ。
午後まだ早いと言うのに夕暮れのように暗い庭を渡る風にまた身震いが起こる。
カーディガンでも羽織ってくれば良かった。
居間に向かう廊下で、私はふと首を傾げた。
廊下を伝う黒いコード。
目で追って行くと、コードは普段電話が置いてあるラックからずっと居間の方に続いている。
珍しい事もある。
掛かって来るにしても、掛けるにしても居間に電話を持ち込むほど長電話をする事は家では滅多にない。
梓姉さんや初音は、電話で話すよりすぐ出掛ける方だし、千鶴姉さんは仕事の関係で自分の部屋に電話がある。
私には長電話するような友達はいないし、顔を合わせていても何を話して良いのか解らないのに、顔の見えない電話では余計話なんて出来ない。
電話の邪魔にならないようにそっと居間の戸を開ける。
案の定、梓姉さんは炬燵に足を突っ込み俯せになって受話器を耳に押し当てていた。
余程親しい友達なのか部屋に入った私にも気付かず、口調は荒いが楽しそうに話している。
どうやら姉さんに教えて貰うのは諦めた方が良さそうだった。
私はそっと息を吐く。
吐いた息を、梓姉さんが何気なく呼んだ名前が飲み込ませた。
急いで梓姉さんの脇に腰を下ろし、ちょんちょんと指で脇をつつく。
梓姉さんは振り向くと驚いた様な決まり悪そうな顔で笑う。一言私に変わると言って受話器を差し出した。
受話器を通して懐かしい……一月前の誕生日に電話で話したばかりなのに、懐かしいはおかしいんだろうか?
でも、そう感じる優しい声が、メリークリスマス。
今日はクリスマスイブ。
すっかり忘れていた私は、どきどきする心臓と熱いくらい火照る頬に受話器を押し付け、ちょっと口ごもりながらメリークリスマス。
何を話して良いか判らない私は、ただ聞こえて来る耕一さんの声に見えるはずも無いのに頷きながら相槌を打つだけ。
耕一さんの勉強中だって聞いたからの言葉に梓姉さんを睨んだけど、梓姉さんは素知らぬ顔で口笛を吹いている。
口ごもりながら考え考え話す私を、耕一さんは辛抱強く待ってくれる。
話したいことは一杯あるのに言葉にならないもどかしで、私の胸は詰まりそう。
きっと耕一さんには判らない。
電話で声を聞けるだけで、向こうに耕一さんがいると思うだけで幸せな気持ちになれる。
それを伝えたいのに言葉に出来ないもどかしさ。
でも、それを伝えられ無いまま、私は買い物から帰って来た初音と電話を変わった。
私が伝えられなかった言葉。
耕一さんの声が聞けるだけで嬉しい。
私が口ごもってしまうそんな些細な言葉を、屈託無く口に乗せる初音。
頬を上気させ、嬉しそうに買い物の途中で見たクリスマスの飾りの話などが軽やかに初音の口から紡ぎ出される。
同じ姉妹なのに、私のたどたどしい話し方とは全然違う。
初音や梓姉さんと話す方が耕一さんも話しやすいんだろうな……つい、そんな風に考えてしまう自分が哀しくなる。
そんな私の思いを感じ取ったように、ふと初音の声が陰りを帯びた。
恥ずかしいぐらい鋭くなった耳が小さく呟くような初音の残念そうな声を捉え、チンと言う受話器を置く音が小さな溜息と重なる。
受話器を置いた手から顔を上げた初音の弱く取り繕うような笑みを、私と梓姉さんはジッと見詰めていた。
あのねあのねを繰り返した後。
初音はまるで自分が悪いことをしたようなシュンとした顔で、お兄ちゃん忙しくてお正月までは来られないんだって。そう言った。
ホンの一瞬の間を置いて梓姉さんは、そんな初音にまあ正月には来るって事だしさ。と慰めるように言っていたけど、どこか気が抜けた様な寂しそうな表情に私は気付いていた。
初音も梓姉さんも、私も、みんなどこかで耕一さんがひょっこり来てくれないか期待していたんだと思う。
姉妹四人で迎える初めてのクスリマスイブ。
近頃では意識しなくなった一つ空いた席。
でも、誕生日やイベントが近づくとどうしても意識してしまう。
初音の買って来た姉妹四人には多すぎる買い物を片づけだした姉さんと初音を横目に、私は初音や姉さんと顔を合わせないように居間を後にした。
きっと今の私は醜い顔しているから。
居間を離れた廊下で腰を下ろし、私は私の心と同じ色の空を見上げた。
灰色から黒に変わろうとしている空。
今にも泣き出しそうな空。
千鶴姉さんにも宜しく。そう耕一さんが言っていた。
初音はそう言っていた。
それを聞いたとき、私の中に湧いたのは……
どのくらいそうしていたのか、膝を抱えた私の頬を冷たいものが濡らした。
そっと瞳を上げた先に白いものが舞い落ちる。
二つに折った問題集の答より難解な心を笑うように、微風に揺られ舞い落ちる粉雪。
ホワイトクリスマス。
そう呼ぶほどには降りそうもない雪が、静かに舞う。
凍えるような冷たい風に舞い踊る粉雪は、今の私の心を映したように舞い上がり揺られ揺られて流されて行く。
でも、私の心は粉雪の様に白くない。
いえ、雪もよく見ると泥とゴミにまみれ、表面上と違い汚いと誰かが言っていた。
もう一度、次に耕一さんと会ったら。
私の心も、どこかに吹かれて行くんだろうか?
それとも……
シンと音もなく不安定に揺れ落ちる粉雪を見詰める私の耳に遠くから声が聞こえてきた。
初音と梓姉さんの声。
でももう少し、ここでこのまま。
そう、部屋に帰る姉さんが通るまで。
笑ってお帰りなさいって、メリークリスマスって言えるように。
耕一さんが言ってくれたように、暖かい声で。
頬に舞い落ちる雪が幾筋も雫となって落ちる。
静かな足音が近づいてくる。
もう少し、もう少し、笑みを頬に刻むまで、このままで。