【 逢瀬 】

 

『 楓 』

 

 

 

 庇護するが如く、私の背に廻された腕はあくまで優しく。
 頬を押しつけている、その胸の奥から聞こえてくる鼓動はこの上なく力強く。
 聴き慣れた息遣いと共に、私をとても安心させてくれる。

 夢の中、私をその腕の中に抱きしめた耕一さんが、耳元で囁く。

「もう……二度と離さないよ……」

 

 そう、これは夢。
 私の夢。
 最近、よく見るようになった夢。
 

 言葉通りに、耕一さんは私を抱く腕にぎゅっと力をこめる。
 そうして、耕一さんは慈しむような、けれどどこか哀しげな瞳で私を見つめる。

 そんな耕一さんの表情に、私の胸に甘い痛みがこみ上げてくる。彼の心を占めているのが私なのだという悦びと、一刻も早く彼を安らげてやらねばという慈愛。
 耕一さんを安心させるように、私はゆっくりと微笑んでから、そっとその顔に手を伸ばす。
 前髪をかきあげるように漉いてあげてから、頬を柔らかく撫ぜる。

 そこで、私は違和感を感じる。
 私の視線の先にある、手。
 耕一さんの頬を撫ぜる、指先。
 それが、私の見慣れている自らのものと、どこか違うつくりのものであることに気づく。

 

 そう、これは夢。
 私の夢。
 最近、よく見るようになった夢。
 

 刹那。
 私は「そこ」から弾かれる。
 何かを放り出したのか、それとも私が放り出されたのか。
 それは判然としないけれども、例えるなら自身を二つに切り裂かれるような、そんな衝撃。
 その強烈な衝撃に、私の意識が一瞬ぶれかかる。
 懸命にそれをふり払いつつ、顔を上げた視線の先には。
 先には。

 

 そう、これは夢。
 私の夢。
 最近、よく見るようになった夢。
 

 しっかりと、互いが互いを抱きしめあっている男女。

 耕一さんと……「彼女」。

 互いの存在を確認しあうかのように、その身を更に寄せ合う二人。
 柔らかな微笑みを浮かべて、何事かを囁きあう二人。
 額を寄せ、じゃれあいを見せる二人。

 

 ……やめて 。
 

 耕一さんの深い愛情が浮かぶ瞳は、ただ「彼女」にのみ向けられる。

 

 ……やめて。
 

 私ではなくて、「彼女」。

 

 ……やめて。
 

 そして、二人は互いの瞳に映る互いを確認するように、ゆっくりと顔を寄せ合って。

 

 やめてっ!
 

 やがて、その唇を重ねる。
 求め合うように、何度も何度も。

 

 そう、これは夢。
 私の夢。
 最近、よく見るようになった……夢。
 

 だから。
 だから……。

 

 きーんこーんかーんこーん……

 霞みがかった意識の先で、今日最後の授業の終わりを告げるベルが鳴っている。
 うすぼんやりとした意識を引きずったまま、喧騒に包まれつつある教室の中私はゆっくり身を起こす。

  意識の底に微かに残っている、澱んだ感情を吐き出すように「ふぅ……」と溜息をついて、まだ僅かに痛む胸を制服の上からきゅっとおさえる。

 ……はやく、会いたいな。

 目を閉じて、今日も家に居るはずの耕一さんのことを想う。
 その耕一さんが、今朝「ヒマだヒマだ」とぼやいていたことを思い出して、私はクスッと微笑む。

 そういえば、梓姉さんも初音も今日は用事があるから遅くなるって……。
 ふとそのことを思い出す。千鶴姉さんは、いつも通り定時だろうし。

 胸の高鳴りを感じつつ、私は帰り支度をする手を少し早めた。

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 じりじりじり……

 
  太陽の光が地を焦がす、そんな音が聞こえてきてもおかしくないような、そんな天気。 

「……暑い」

 涼むつもりで縁側に出て来たものの、風一つ吹かないのだからどうしようもない。
 ここに来た当初には、氷をたたえて盛大に涼しげな汗をかいていた麦茶の入ったグラスも、既に空になって久しい。

  さすがに我慢できなくなった俺は、膝に広げていたクロスワード雑誌を脇に放って、手元に置いておいた『鶴来屋』印の団扇を手に取る。

 文字通り茹だる様な暑さ。

 絶え間なく鳴り響くアブラゼミの大合唱が、否が応にも体感温度を高めてくれる。
 それに加え、いかにも旧家らしい眼前に広がる庭園の景観も手伝い、俺に一昔前に流れていた遊園地のCMを思い出させてくれる。あの盛大に暑っ苦しいヤツだ。

「……はあ」

 団扇をぱたぱたと扇いで胸元に風を送り込みながら、俺は額に手を翳して、庇の庇護化から出ないように用心しつつ、うんざりしたように空を見上げる。

 これでもかと言わんばかりに青一色の空には、雲一つ浮かんでいない。

 中天にある太陽は、嫌味かと思えるほどのカンカン照りで、その存在感を誇示している。

「……やれやれ」

 諦めたように溜息をついた俺は、そのままばたっと上半身を後ろに倒す。

「……今日も暇、だな」

 ごろん、と寝返りを打ちながら呟く。

 まあ、当たり前といえば当たり前なんだが。

 千鶴さんはお勤めだし、梓に楓ちゃん、それに初音ちゃんも当然の如く学校がある。
 必然的に日中は、このただっ広い屋敷に俺一人が残される形となってしまい誰も相手をしてくれない。

 夕飯の時にそのことをぽろっと漏らしたら、案の定、梓のヤローがははん、というような表情を浮かべて、『ったく、大学生様は最高だねえ……1日中寝転がってりゃ飯に洗濯に風呂、全部全自動だもんなあ、いい御身分だねえ? こっちゃこのクソ暑い中ひいこらひいこらガッコ通ってるってーのに』等と呆れるような調子で言ってくれる。

 千鶴さんなどは、そんなあからさまにぐうたら丸出しな俺を見かねた様子で、『そんなに時間が余ってるんでしたらうちでバイトでもしませんか……?』等と少し困ったような笑みを浮かべて言っていたが……。

 語尾のアクセントが妙に強い調子だったのと、いつもはふにゃらっと垂れている千鶴さんの目が笑っていないことから、どことなくただのバイトで済みそうにない雰囲気を感じ取った俺は、愛想笑いを駆使して適当にごまかした。

 また足立さんと何か企んでいるんだろうけど、俺としてはまだふんぎりがついてないし、

 大学生という人生のモラトリアムをもう少し味わいたい……気がしないでもない。

「ふわあ……」

 盛大に大口を開けて欠伸を一つしつつ、もう一度ごろりと寝返りをうつ。  

 
 ちりーん、ちりーん……

 
 久方ぶりの涼し気な風が縁側を吹き抜け、軒につられている風鈴を鳴らす。
 清涼感を誘われるような、そんな澄んだ音色に引き込まれるようにして、俺は軽く目を瞑る。
 

 ちりーん、ちりーん……
 

 目を閉じたことで自然とすまされていく耳に、風鈴の音色が涼し気に響く。
 庭園に植えられた木々の枝葉がその風に撫でられこ擦れ合い、サーッという心地よい音をたてる。
 

 それは。

 
 ざらついた心を、優しく撫でてくれるようで……。

 何処か俺を落ち着かせて。
 安らぎをもたらし。

 そして……何故か懐かしい香りがした。

 


 

 

 

 
 

§

 

 

 

 

 

 

 

 心もち急ぎ足で家路を急いできた私は、少し上がってしまった息を整えるようにしながら、玄関へと続く石畳の上をゆっくりと歩く。

 静寂に包まれた世界。
 この瞬間この世界に私一人だけが浮き上がるような、そんな感覚。
 
 大きな通りから少し離れたところにある上に高い併や庭園の木々に囲まれたこの家は、時折こんな音という音全てから隔離されたような状態になることがある。

 そんな静謐に浸るように私は立ち止まり、視線を転じる。

 鮮やかに燃える西の空。
 奇麗な夕焼けのグラデーション。
 黄昏時の西日が地面に私の影を長く映す
 

 かなかなかな……

 
 それまでの無音の世界を、庭の木のどれかにとまったらしいヒグラシの鳴き声が静かに、そして優しく侵す。

 特に特別な風景じゃない。
 毎年この時期に繰り返される、お決まりの風景。

 でも私は、この季節のこの時間のこの風景が好き。

 何故か胸が切なくなる。

 でも。

 それと同じほどに、心が安まる。

 そして……。

 失ってしまった……。
 今は失ってしまった、何か大切なものを……。

 取り戻せるような。
 そんな気にさせてくれる。

 だから、私はこの風景が私は好き。

 

 

 

 

 

 

 

 
§

 

 

 

 

 

 

 

…………。

…………。

…………?
 

……声……。

……声だ。

澄んでいて。

寂しげな。

胸が締め付けられるような。

……声。
 

…………。
 

……呼んでる?

……誰かを呼んでる?

……そうだ、呼んでる。

……泣きながら。

……呼んでる。
 

…………。
 

……呼ばれているのは。

……呼ばれているのは、俺だ。

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 がらがらがら。

 戸を開けて玄関に入る。

 足元に目を向けると、丸石を敷き詰めた三和土にはサンダルが一対出てるだけ。
 大き目の、男性用の黒のスポーツサンダル。
 それを目にした瞬間、とくん、と胸が高鳴るのを自覚した私は、自分の現金さに少し恥ずかしくなる。

 僅かばかりの深呼吸の後。

「……ただいま」

 少し勇気を出して、いつもより大きなで言ってみる。

「……?」

 期待していた耕一さんの出迎えの声が聞こえてこない。

 

 ……居ない、わけないよね?
 

 怪訝に思いながらも私は、靴を脱いで家に上がる。

 

 やっぱりどこかに出かけてるのかな……?
 

 その疑問はすぐにすぐに解けた。
 居間に続く縁側の廊下で、耕一さんが大の字になって、心地良さそうに寝息を立てていたから。
 ――思わず苦笑いしてしまう。

 これじゃ、梓姉さんが怒るのは無理ないと思って。

 私は、耕一さんを起こしてしまわないように気をつけながら、そっとその場を離れてバスルームに行くと、少し考えてから自分のバスタオルをとって戻り、それを耕一さんの剥き出しになってしまっているのお腹にかけてあげる。

 それから、居間にある蚊取り線香を持ってきて火をつける。

 

 ……へんなところで子供っぽいんだから、耕一さんは。
 

 そんな事を思いながらも、こうしてあれこれと耕一さんの世話を焼けることに自然と頬が緩むのを感じる。
 胸が暖かくなる。
 普段、こういうことは全部梓姉さんがしてしまうから。

 

  ……こんな木板の上じゃ、頭……痛くなっちゃうよね?
 

 脇に座って落ちていた団扇で耕一さんに微かな風を送ってあげながら、暫くその穏やかな寝顔に見入っていた私は、ふとそんなことを考えて手を止める。

 私達以外誰もいないとわかっていても、思わず辺りを見回してしまう。
 それから、おそるおそる、でも思い切って、耕一さんを起こさないように注意しながらそっと膝枕をして上げる。

 頬が熱くなるのをはっきりと感じる。
 

  …………。

 
 耕一さんの頬にそっと手を添える。
 無邪気に眠る耕一さん。
 夢の中に出てくる、彼女の名を哀しそうに、必死になって呼ぶあの人そのままの耕一さん。

 彼女を軽く叱りつける耕一さん。
 彼女を優しく諭す耕一さん。
 彼女に笑いかける耕一さん。

 彼女を……彼女を……彼女を……。

 

 ……違う! 違う!
 

 心の奥で湧き始めた澱んだ感情を、私は首を振り必死になって否定する。
 お門違いも甚だしいし、何よりそれは彼女に対する冒涜だ。

 

 ……でも。
 

 ここにいるのは、柏木耕一さんで。

 私は、柏木楓。

 それはわかってる。

 

 でも……でも……。
 

 勝手だって思うけど。

 それでも。

 それでも、ここには彼女に嫉妬する私が間違いなくいる。
 耕一さんが好きなのは愛してるのは、私ではなく彼女なんじゃないかって。

 そう嫉妬する私が、ここにいる。

 
 ここにいるんです。
 ――耕一さん。
 

 

 

 

 

 

 

 
§

 

 

 

 

 

 
 

 ちちちち……

 頭上を覆い尽くす緑の天井から、無数の小鳥達の囀りが聞こえる。

 裏山の車道から少し外れた獣道。

 視界を埋め尽くし、青空さえ覆い隠してしまうほどの木々。
 その緑なす枝葉の隙間をぬって、僅かに零れ地面を彩る木洩れ日。

 むせかえるような、緑と土の匂い。

 そのどれもが、鉄筋コンクリートやアスファルトに囲まれて育った僕にとって新鮮で、胸をドキドキさせるものだった。

 ここに来る前は、一度も会ったことのない従姉妹達とどう接すればいいのかとか、とんでもない田舎で何も無いんじゃないかとか、不安が尽きなかったけど今はそんなものは完全に何処かへ行ってしまっていた。

 こんなテレビでしか見たことないような、すっごい自然に直に触れられるなんて。
 売ってるのしか見たことないカブトムシやクワガタが、それこそうじゃうじゃいるし。
 川の水は実際に泳げるくらい、澄んで奇麗だし。

 こうやってただ歩いてるだけでも、まるで自分がアマゾンの奥地を探検してるような、そんな気分にさせてくれる。

 正直、感動だ。

 ……それに従姉の千鶴さんは奇麗だし。
 勿論楓ちゃんと初音ちゃんも可愛いし。
 これで、梓も可愛いい女の子だったら完璧だったんだけど……、やっぱり神様はそんなに甘くない。
 何しろ、こっちに来た初めの日に一緒にお風呂に入るまで女の子だって気付かなかった。
 お風呂でそう言ったら、ぐうで殴るし。あれは、本気で痛かった。
 でも、まあ弟ができたみたいで嬉しいけど。
 

 サーッ……
 

 頭上を吹き抜ける爽やかな風が、木々の枝葉を撫でる。
 森の木々に包まれて、僕自身は風を感じることのない中で聴くその音は何故か心に響いた。

 僕は歩みを止め、周囲を見回す。

 ふと、今の拍子に何かが聴こえた様な気がしたから。

 誰もいない……よな。
 

『ヒッ……、……す…… ック……、た……こ……さ……』
 

 ……やっぱり聴こえる。
 ……声……?
 ……人の声だ。

 ……泣いてる人の。
 

『ヒック…、たす…て… ックヒック…、た…けて…こ……ちさ……』
 

 ……助けを……助けを……呼んでる?
 

『ヒック……、こういちさん……たす……っん……、けて……』
 

 呼ばれてるのは……僕!?

 相変わらず、見る限り周囲に人の姿は見当たらない。

 でも……。
 でも……、僕は走り出した。全速力で、走り出した。
 迷いは無かった。
 あの子が何処にいるか、何処で僕に助けを求めてるのか。
 何故かはっきりと知ることができた。

 だから、迷いはなかった。

 ただ、焦りがあった。

 何故か。

 胸を焦がすような……、そんな焦りがあった。

 
 

 胸が焼け付くような焦慮を抱えて、 樹と樹の間を縫うように全速で走り抜けながら……。

 そんなはずはないのに。

 何故か。

 昔……、同じようなことがあった。

 ……そんな気がしてならかった。

 同じように、誰かの……。
 僕にとって大切な……。
 これ以上ないくらい大切な誰かの声を聴いて……。

 どうしようもない程の焦りに苛まれながら……。

 必死になって、その誰かのもとに駆けつけようとした。

 そんなことは、ある筈ないんだけど。
 そんな気がしてならなかった。

 ……そして……その時は。

 

 ……間に合わなかった。
 

 何故かそう感じた。

 だから、僕は全速で走る。
 今度は、今度こそは、間に合せるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 間に合った。

 視線の先に楓ちゃんの姿を認めた僕は、ちりちりと焼け付くようも胸の奥で燻っていた焦慮感がすうっと引いていくのと同時に、大きな安堵感がその部分を満たしていくのを感じていた。

 しかし、それも一瞬のことだった。

 大粒の涙をその大きな瞳からぽろぽろこぼしながら、それでも気丈に声も上げずにいる、じっとうずくまって動かない楓ちゃんの視線の先で、大きな野犬が低く唸っているのを確認したからだ。

 泣きたくなるほどの怯えに耐えながら、それでも小さく弱いものを懸命に守ろうとする。そんな強い意志が、唐突に僕の心に浮かび上がる。

 その突拍子もない訳のわからない感覚に困惑しながらも、僕は丁度目に付いたピンポン程の大きさの石を手に取ると思いっきり、けれどしっかりと狙いを絞って野犬に投げつける。

 
 きゃいんっ!

 
  ドッジボールにはちょっと自信のある僕の放った一撃を、直撃で横っ腹に受けた野犬は情けない声を上げて、あっという間に退散する。

「こういちさん……!」

 僕の存在に気付いた楓ちゃんが、声を上げる。

 

 ……まただ。
 

 楓ちゃんに向かって駆け寄りながら、僕はまた戸惑う。

 今度は、驚愕……そして安堵、信頼、そんな意志がまた僕の心の中で唐突にかたちをなす。

 さっきからいったい何なんだろう……?
 
 僕の……じゃ無いよなこの感じは。

 

……楓ちゃんの?楓ちゃんの想いを僕が感じてるのか……?
 

「ううぅ……っく……こういち……っ……さん……」

 艶のある、肩の手前でばっさり切った艶やかな黒髪が、楓ちゃんがしゃくりあげるのに合わせて奇麗に揺れる。安堵のためか、脱力した楓ちゃんの瞳から新たな涙が零れ落ちるのを見て、僕は慌てて楓ちゃんに声をかける。

「楓ちゃん! 怪我は……!? どこか怪我してない!?」

 すんすん……としゃくりあげ、その深く澄んだ瞳からぽろぽろと涙を零しながらも、その頬は興奮からか微かに桜色に染まっている。
  どこかボーっとした感じで僕を見上げていた楓ちゃんの剥き出しの手足に視線を走らせながら、僕は内心おろおろしながら訊く。

「……大丈夫です。こういちさんがたすけに来てくれたから」

 楓ちゃんは、すんっ……ともう一度軽くしゃくりあげてから大粒の涙をたたえたままの瞳で、くすっとけぶるような微笑を浮かべる。

 僕は、何か内心を見透かされたようで顔が熱くなるのを感じた。

 

 楓ちゃんにも僕の感情が伝わってるのか……?
 

 少し頬が熱くなるのを感じる。
 それは、気恥ずかしくはあったが嫌な感じではなかった。

 むしろ……。

 むしろ、懐かしく。
 安心できるような。

 そんな感じがした。

 

 わたしもです……。
 

 僕を見上げる楓ちゃんの目がそう言っている様な気がして、僕の顔は再び熱くなった。
 僕は、照れ隠しに再び口を開く。

「でも、間に合ってよかったよ……」

 思わず『今度は』と付け加えてそう言ってしまいそうになる自分に驚く。

 何か今日は変なことだらけだ。

「はい……、ありがとうございました…こういちさん。それに……わたしもびっくりしました……だって、こういちさんのこと……ずうっと心の中でよんでたら、ほんとにきてくれましたから……」

 頬を染めたまま胸に手を当てて、楓ちゃんは思い出すように瞼を閉じる。

「僕も……」

 そんな楓ちゃんから目を離せなくなりつつ、楓ちゃんの声を聴いたような気がしたんだ、と言おうとした時、楓ちゃんの背中から何か小動物がひょこっと顔を出す。

「……なにそれ?」

 自分でも、それがえらく間の抜けた声だとわかる。

「あ、狸の子供です……。親とはぐれちゃったみたいで……」

 楓ちゃんは、その狸の子供らしいものにいたわしげな視線を投げかけながら、その背中を優しくさすってあげる。

「……足、怪我してるんだ……」

 僕は、その子狸の右後ろ足が血に染まっているのに気付いた。

「はい……。さっきののら犬におそわれてたんです……」

「ああ、それに楓ちゃんが割って入ってあんなことになっちゃたわけだ……」

 僕は、思わずこの小さな従妹のあまりの無鉄砲さに呆れてしまう。

 その僕の思いが伝わったのか、楓ちゃんはまた頬を赤くして俯く。

「気持ちはわかるけど……、梓じゃないんだから、あんまり無茶しちゃだめだよ……楓ちゃん」

 はあ……と僕は深い溜息をつく。

 もし、近くに僕がいなかったら……。
 考えただけでもぞっとする。

 けれど。

 けれど、楓ちゃんは無事だった。
 今は、その安堵が僕の心を満たしていた。
「……とにかく、楓ちゃんが無事で良かったよ」

 僕が笑顔を楓ちゃんに向ける。

「はい……」

 楓ちゃんも、僕に控えめな微笑みを返してくれる。

 その微笑みは。

 すごく嬉しそうな微笑みで。
 胸を暖かくしてくれる微笑みで。
 どこまでも透き通った微笑みで。

 何故か、どうしようもなく胸を締め付けられるような微笑みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 
 

 先程まで茜色に染まっていた空も、今はどこまでも深い夜の闇に覆い尽くされている。

 庭のどこからか聴こえてくる、鈴虫の澄んだ鳴き声が耳に心地よい。

 私は、膝の上に感じる耕一さんの確かな重みに、どうしようもないほどの安心感を覚える。
 込み上げてきた愛しさに、思わず無意識に、耕一さんの髪に手をさしいれて頭を撫でてしまう。
 

 サーッ……
 

 縁側に吹き込んだ涼しげな夜風が、私と耕一さんを包み込む。

 ……そろそろ、起こしてあげた方がいいかな。
 そう思って耕一さんの顔に視線を落とす。

 

 くすっ。
 

 すやすやと眠る耕一さんの寝顔があまりにも無邪気なので、思わず笑みが零れてしまう。
 と、何の前触れもなく耕一さんの目がゆっくりと開かれる。

 

 

「あ、あの、これは……!」

 なんの断りもなしに、膝枕なんてしてしまっていたことを思い出し私は狼狽してしまう。
 耕一さんに変な娘って思われたんじゃ……。
 自分でも、耳まで赤くなってるということがはっきりわかる。

 耕一さんは、そんなあたふたとする私に優しく微笑みかける。

 

 ……?
 

 軽い違和感。

 同時に胸が締め付けられるほどの懐かしさ。
 流れ込んでくる耕一さんの感情。

 

 ……深い、どこまでも深い。
 ……憐憫と。
 ……愛情。
 

「夢を……見た……」

 耕一さんが、いつもよりいくらか低い声音で呟く。

「ゆめ……?」

 その流れ込んできた感情に呆然としながらも、私は訊き返す。

「ああ……、夢だ……」

 耕一さんの大きな手のひらが伸びてきて、そっと私の髪にその指を絡める。

「小さな、まだ子供の頃のお前がいたよ……」

 可笑しそうに微笑みながら、耕一さんは続ける。

「その小さなお前を、やはり小さな俺が助ける夢だ……」

 そして、耕一さんは決定的な言葉を口にする。

「小さなお前は、子狸を庇って野犬に襲われていたんだ……エディフェル……」

 その言葉に、私の身体は硬直してしまい、じわっと湧き上がったと思うと、瞳から大粒の涙が頬を伝って零れ落ちるただただ、涙が溢れるばかりでどうしようもなかった。

 でも、それは哀しみからくる涙じゃなかった。

 もっと、もっと、熱い、熱いなみだ。
 心の一番深い部分が揺さぶられるような、泪。 

 ふいに感じる、温かさ。

 

 ……ああ……そうね。
 

 彼女の、謝罪と、感謝と、そして慈愛に抱かれて私は涙する。

 『きっと大丈夫』という彼女に、『ごめんなさい』と私も謝る。

 淡い笑みを浮かべて静かに首を振り『私もだから』という彼女に、私の中にあった彼女への嫉妬がスーッと消えていくのがわかる。

 そうね。そんな必要はないのね。

 私は私で。
 あなたはあなた。

 あの人はあの人で。
 耕一さんは耕一さん。

 それだけが、全部なのだから。

 彼女の温かな胸に抱かれながら、私はまどろむ。

 

 ……次に、耕一さんに顔を合わせたら、まず最初に……。
 

 そこまで考えたところで、私はほんの少しの眠りについた。
 

「そこでは、俺達は従兄妹同士なんだ……」

 次郎衛門は私の頬を撫でながら、よほどその夢が気に入ったのか、柔らかな笑みを浮かべ続ける。

「同じ場所で寝起きを共にし、共に遊び、共にまどろむ……そんな毎日を俺達は送っていたよ……」

「……きっと」

 そんな次郎衛門の心を感じた私も、次郎衛門の髪を優しく梳きながら口を開く。

「?」

 少しきょとんとした顔をする、次郎衛門。
 彼がそんな顔をするのは珍しいので私は微笑を浮かべながら、続ける。

「きっと……それは夢じゃないわ……」

 少し驚いたような表情を浮かべた後、次郎衛門はまた笑う。

「……ああ……ああ、きっとそうだな」

「ええ……」

 

 幸せになって欲しいと願う。
 幸せになれると思う。

 

 他の誰でもない、貴方とあの方なのだから。

 

 

 

 

 

 

 


§

 

 
 

 

 

 

 

 

「ん……」

 何かが顔に落ちてきたのを感じた俺は、うっすらと目を開ける。

 予想していたあの眩しいばかりの陽の光は存在せず、既に辺りは薄闇に包まれていた。
 庭からは、セミの声にかわり鈴虫の涼しげな鳴き声が聴こえてくる。

 

 ……随分寝ちゃったみたいだな。
 

 さすがに、思わず苦笑する。
 これじゃ、梓にあげつらわれても仕方ないか。

 柔らかな枕の、心地よい感触を楽しみながら思う。

 

 ……枕?
 

 はっとなり焦って頭上を見ると、影になって表情は良く見えないが、楓ちゃんの顔がそこにあった。

「……あの、楓ちゃん?」

 なんとなくおどおどと、そう声をかけようとした俺の耳に、すーすー、という小さな寝息が聞こえて来た。

 

 ……寝ちゃったのか。
 

 なんとなく気が抜けてしまった俺は、もう一度楓ちゃんの太腿の上に頭を下ろし、少しばかりその感触を満喫させてもらうことにする。

 と、よく見れば、腹にはタオルがかけられている。
 それに、なんともいえない、くすぐったさの様なものを感じてしまう。

 
 ……けれど。
 

 改めて、頭上の楓ちゃんに視線を戻す。

 肩の手前で切り揃えられた、淡い輝きを放ち始めた月の光を受ける、艶やかな黒髪。
 木目の細かい肌。
 すらりと整った目鼻立ち。
 桜色の唇。

 ともすれば、冷たさを感じさせるほどの美人顔だが、それをあどけない幼さがそれを打ち消している。

 そして、一番印象的なのは、深く澄んだ瞳。

 その楓ちゃんの深く澄んだ瞳が、最近またあの頃のように、寂しげな色を宿すことが多いことに俺は気づいていた。
 
 それは、俺の胸をどうしようもないほど締め付け……。
 ぽっかりとあいた空洞のようなものを感じさせる。

 それが、彼女の感じている想いだということもわかっている。

 それなのに、俺は彼女に訊く事が出来ないでいた。
 話してくれ、と言えないでいた。

 彼女が、俺に訊かれることを拒んでいることにも気づいていたから。

 そんな想いに引きずられ、俺は思わず楓ちゃんの頬に手を伸ばす。

「……涙?」

 手のひらに感じた感触に、思わず頭を上げて楓ちゃんの顔を覗き込む。

「……ん……」

 その拍子になのだろうか、楓ちゃんの瞼がゆっくり開かれる。

「楓……ちゃん……?」

 ぼうっとしていた楓ちゃんの視線が徐々に定まっていくの感じて、そっと声をかける。

「耕一さん……ですか……?」

 その瞳に涙を湛えたままで、俺の方を向いた楓ちゃんが、少し躊躇いがちに訊いてくる。

「え……あ、うん。耕一だけど……?」

 意図は分からなかったが、取り敢えず頷く。

「……そうですか」

 それを見た楓ちゃんが、ゆっくりと透明な微笑を浮かべる。
 その拍子に、溜まっていた涙が、つーっ、と頬を伝って零れ落ちる。

「……あ」

 思わず、俺は声を出す。

 彼女の、今は涙をたたえて潤んだ瞳から、あの寂しさが消えていたから。

「……?」

 こくり、と小首を傾げる楓ちゃんに、俺は口を開きかけて、やめる。

 何があったのか訊きたくはあったが、今はいい。
 楓ちゃんが笑っていらるなら、それでいい。
 この娘が、心穏やかでいられるなら、それでいい。

 俺はかわりに、彼女に笑いかける。

「膝枕してくれてたんだね。それにタオルも。ありがと」

「!! あ……いえ……あの……」

 途端に顔を真っ赤に染めて、俯いてしまう楓ちゃん。

「……はい」

 そして、俯いたまま、制服のスカートの裾をきゅっと握り締めながら、蚊の鳴くような声でそう返事をしてくれる。

 俺は、そんな楓ちゃんを、できる限り優しく抱き寄せる。

「あ……」

 楓ちゃんが、俺の胸の中で息を漏らす。

「こ、耕一さん……?」

 しばらくもじもじと落着かなそうにしていた楓ちゃんだったが、やがてそっと身体から力を抜いて、俺の胸に顔を埋めながら、ほうっと丸い息をつく。

 細くて小さな身体。
 力いっぱい抱き締めたら、そのまま消えて無くなってしまいそうな気がして、何となく怖かった。

「ごめんね……」

 なにもしてあげられなくて、という泣き言は呑み込む。
 そのかわり。

「俺は、他の誰よりも、君のことが大好きだよ……楓ちゃん……」

 艶やかな髪を撫でてやりながら、大切な秘密を打ち明けるように楓ちゃんの耳元で囁く。

 はっ、と顔を上げた楓ちゃんの瞳に、みるみる内にまた大粒の涙が浮かんで来る。

「……謝らなければ……いけないのは、私の……方……です……」

 そこで楓ちゃんは、泣き出してしまうのを懸命に堪えるようにきゅっと唇を噛み締める。
 泣いてもいいのに。
 そう思いながら、俺は楓ちゃんの次の言葉を待つ。

「……耕一さんは……耕一さ……ん……なのに……。私が……私は……」

 やっとそれだけ言うと、楓ちゃんは再び俺の胸に顔を埋めてくぐもった泣き声を漏らす。

 俺に流れ込んでくる彼女の切ない想い。
 それで、やっと俺は彼女の感じていた哀しみの理由を知る。

 でも、俺は何も言わないことにする。

 今この瞬間、彼女から流れてくる想いの切なさは、哀しみの色に彩られたもそれでなく、誰かに対する感謝と歓喜の添えられた、とても温かな切なさだった。

 だから、俺は彼女をさっきまでより少し強く抱きしめる。
 彼女の髪にそっと口付けるようにしながら、震える背中をそっと撫でる。

 庭では、鈴虫達が控えめな、けれど心地よい音色を響かせている。
 月夜の夜風が、そっと俺たちの頬を撫でていく。

 

「……ずるいです」

 

 涙の流れるままに、俺の胸に顔を埋めていた楓ちゃんが囁く。

「……え?」

 涙をたたえたままの瞳で俺を見上げる。

「私が、先に言おうと思っていたのに……」

「?」

「……大好きだって。耕一さんのこと本当に大好きだって」

「あ……えっと……」

 つうっと楓ちゃんの大きな瞳から、涙が一つまた零れ落ちる。
 そして、それを拭おうともせず、楓ちゃんは淡い微笑みを浮かべる。

 

「愛してます。私は、耕一さんのことを愛してます」

 

 その泣き笑いは、どこか誇らしげなもので、とても綺麗だった。
 彼女の深く澄んだ瞳に見つめられながら、俺も微笑う。

 

「……うん」

 

柔らかで澄んだ月明かりは、どこまでも優しく俺達を包んでくれていた。

 

 



初出   :1998年6月
加筆修正:2000年5月

もしご意見ご感想がありましたら、是非是非こちらまでお願いします。
 
 

目次