………………

 

 

……っ………っ…

 

……な……に?

 

……えぐっ……えぐっ……

 

……泣き……声?

 

 

 

 

 

 

 

 

【 逢瀬 】

 

『 千鶴 』

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆっくりと瞼を開けてみると、そこは闇だった。

自分自身の身体がしっかりとそこに存在しているのか。

それさえ確認出来ない程の、深い闇。

無音。

沈黙や静寂ではなく。

何も無い。
ただただ無機質で、空虚な闇の世界。

肌に突き刺ささる凍てつくような寒さと、途方も無い孤独。

 

でも。

 

それは、かつて慣れ親しんだもの。
私の、日常そのものだった空気。
どこか、懐かしささえ感じる感覚。

呪われた血の宿業に、のたうちまわる父を見て。
呪われた血の非業に、泣き崩れる母を見て。
そして、呪われた血の因果の果てに、自ら死を選んだ二人を見て。

どす黒い欲望にとり憑かれた、骸に集る蝿のような人間達から。

家を……何よりも大切な妹達を守るために。

そのために。

己からさえもその悲しみの全てを覆い隠すために。
心を凍らせ、魂さえも凍てつかせて。

外では酷薄な「大人」、家では穏やかな「母親」。
そんな偽りの「仮面」を被り。
体温を持たない、虚ろな抜け殻のように過ごしていたあの日々。

 何も無く、また何を思うことも、何を感じることもやめていたあの日々。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……済まんな、千鶴」


なにがですか?

「お前には辛い思いばかりさせているな……」

辛いって……?
ふふ、まさか。その逆ですよ。

叔父様には本当に感謝してます。

叔父様が来てくださってから、妹達は本当に明るくなりました。
やっと心から笑ってくれるようになりました。

叔父様のおかげです。 

「……そうかな?」

ええ。

「だがな、千鶴。お前は違うだろ……」

……え?

「お前は、あの娘達のように俺に甘えようとはしない……」

私……ですか?

ふふふ。私は、もう甘えるって歳じゃありませんよ。

「……お前にとって、俺は助けになってやれない」

…………。

そんなことありません。
私だってそうです。

叔父様が来てくださってどれだけ助けられたか。
どれだけ救われたか。

本当に……感謝してもしきれない程なんです……。

だから……。
だから、叔父様が謝ることなんて何もありませんよ。

「……ハハハ……お前は、本当に嘘が下手だな。千鶴」

叔父様、嘘なんかじゃ……。

「お前のそんな仮面も外してやりたかったんだが……」

…………。

「お前にこんな重荷を押し付けている俺に、言えた台詞ではなかったな……」

……叔父様、もうそんな話はやめて、もう一杯いかがですか?

「…………」

ね、叔父様?

「……お前は……もう泣き方さえ忘れてしまったんだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

叔父様。

 

大好きだったお父様と同じ匂いのした人。
疲弊しきっていた私達を、優しく包み込んで癒してくれた人。

あの時、叔父様が私達の元へ来てくださらなかったら、本当にどうなっていたことだろう……。

それほどに酷い日々だった。

だから。

その意図するところが純粋に私達のためだけではなかったとしても。
叔父様が私達の支えになってくれて。
私たちの心ごと、その温かな腕で抱きしめてくれたのは間違えようのない事実だったから。

叔父様は、私達姉妹にとって本当に……本当にかけがえのない存在だった。

いくら私が心を偽ろうとも、いつも簡単にそれを見抜いてしまった叔父様。

その度に。
少し哀しそうな笑顔を浮かべて私の頬を撫で、そして謝っていた叔父様。

そんな叔父様を前にしても……。
お父様と同じ匂いのする叔父様の、その温もりを分けてもらっても。

私の瞳から、涙が零れることはなかった。

それはきっと、私の涙は枯れ果ててしまったからだろうと思った。

苦しみ続けるお父様と泣き続けるお母様を見ながら、何も出来なかったあの頃の。

歯噛みすることさえ忘れるほどの悔しさと。
どこまでもやりきれない絶望さえ感じる、情けなさに。

だから、きっと、そのときに私の涙は枯れ果ててしまったのだろうと思った。

 

でも。

 

そうじゃなかった。
私の涙は枯れ果ててしまったわけではなかった。

『……お前は、泣きかたさえ忘れてしまったんだな』

そう言って、哀しそうに顔を歪めた叔父様。

そうですね。
ええ、そうですね、叔父様。

悲しみから逃れようとして……。
心を、そして魂までをも凍らせたあの時に。

皮肉なことに、私の流すべき涙もまた、凍りついてしまっていたんですね。

『泣くことの出来ないお前が、いつか悲しみに押し潰されやしないか……それが心配だよ……』

だから……。
だから叔父様が、私の傍から居なくなったんだと知った時。
もう二度と会えないんだと、気づいた時。

そこに居たのは、また何も出来なかった私で。
また何もしてあげることの出来なかった私で。

辛くて……本当に本当に辛くて……。
胸が張り裂けそうなほど、悲しくて……。

でも涙は出てこなくて……泣けなくて……。

私の目の前にあった筈の世界はがらがらと音を立てて崩れてしまって……。
真っ暗な世界に私一人だけが取り残されて。
身体を内側から切り裂かれるような……そんな哀しみにとり憑かれて……。

私は、壊れてしまったのだと思う。
柏木千鶴という人間は壊れてしまったのだと、そう思う。
壊れて、狂ってしまったお人形。
心を失って、ひび割れて。
あとは朽ちるのを待つだけの お人形。

自分のことも。

仕事のことも。

柏木の家の事も。

あげく、妹達のことさえどうでもよくなって。

もうすべてがどうでもよくなってしまって。

叔父様の居ない世界で、生きていく気力も自信も無くなって。

その時は、本当に死んでしまおうと……そう思った。

 

でも。

そこで、私は気づいた。

 

何もかもがなくなって、空っぽになってしまって。
すべてがどうでもいいように思える。

そんな、私だからこそ出来ることがあると。
最後に叔父様にしてあげられることが残っていたのだと。

そのことに気づいた。

悲しみに憑かれ、狂った私はそのことに気づいた。

 

 

 

それで……耕一さんを呼んだ。

 

 

 

なのに……。

耕一さん。

大好きだったお父様と同じ匂いのした叔父様に、良く似た人。
でも、お父様とも叔父様とも、どこか違っている人。

事情があったとはいえ。
結果的に私達姉妹が耕一さんと叔母様から叔父様を奪ったのは違えようのない事実なのだから……。
恨まれていても仕方無い筈なのに。

いらしてくださった時から、ずっと私達4人のことを気遣ってくれて……。

叔父様の様に優しく笑ってくれて。
叔父様の様に私達を温かく包み込んでくれた。

そこに居てくれるだけで、ほっとすることが出来る。
その温もりを、感じるのことが出来る。

そんな、叔父様が帰って来たような感覚をおぼえた。

でも、そう思ったのは最初だけ。
そうじゃないことはすぐにわかった。

朝起きて、耕一さんを起こしに行くことが楽しくて仕方なかった。
仕事を終えて家に帰って、耕一さんの晩酌のお相手をするのが楽しみで仕方なかった。
耕一さんの横に居ると、胸が温かくなって。どうしようもないほど幸せな気持ちになる。

楽しい? 幸せ?

心からそう思えたのは、一体いつ以来だったろう……。

ふと気づくと、強張っていた心はほぐれ、子供のように耕一さんに甘えてしまっている。

拗ねて、笑って。

仮面の存在など忘れたかのように、ありのままの自分を曝け出してしまっている。

 

だからこそ、苦しかった……。
だからこそ、辛かった……。

 

でも。

 

それでも、やっぱり私は壊れていて……。

やっと泣くことが出来たのに。
流す涙の熱さを思い出せたのに。
耕一さんの腕の中でなら泣けるんだ、と気づいたのに。
耕一さんは、ちゃんと私の心も身体も温めてくれたのに。
凍りついていた私の全てを、融かしてくれたのに。

 

やっと「愛してる」と、そう言えたのに。

 

それなのに、結局私はやっぱり狂っていて。
やがてくる悲しみがもたらすであろう苦痛に、ただひたすら怯えていて。

お父様とお母様……そして叔父様……。
もう二度とあんな辛さを味わいたくない……。

そればかりが頭の中を占めてしまって……。

この耐え難い悲しみの連環から早く解放されたいばかりで……。

誰よりも好きな耕一さんなのに……。
愛しくてたまらない耕一さんなのに……。

その言葉を聞こうともせず……。

彼の肉を引き裂く生々しい感触。
頬に飛び散った、彼の生暖かい血の、その匂い。

今でもはっきりと思い出すことが出来る。

とうとう全てが終っしまったという絶望と。
やっと全てが終ってくれたのだという安堵。

そして次の瞬間、状況を認識した私を襲ったのは、後悔などという生易しいものではなく。
己に対する気も狂わんばかりの怨恨だった。

発狂しなかったのは、ただ敵を前にした狩猟者としての本能のお陰に過ぎなかった。

 

なのに。
それなのに。

 

耕一さんは、微笑んでくれて。
泣きじゃくる私の、涙に濡れた頬を、その大きくて温かい掌で撫ぜてくれて。

「辛かったんだね」って、そう言ってくれて。

私の犯した罪は、取り返しのつくようなことではないのに。
どんなことをしても、償いきれるものではないのに。

耕一さん……。

誰よりも耕一さんのことが好きです……。
誰よりも耕一さんのことが大事です……。

けれど。
だけれども。

どうして、こんな私を恨まないのですか?

どうして、こんな私を許してくれるんですか?

どうして、こんな私に優しくしてくれんですか?

 

耕一さん……どうして……。

 

どう……して……。

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 相変らず、寝起きの気分は最悪。

 眉根を寄せたままの顔を、ふかふかの枕にぎゅうっと押しつけて衝動に耐える。

 どうにも、日を追う毎に夢見が悪くなってる気がして仕方ない。
 本来であればその内容は、覚醒とまどろみの狭間でぼんやりと忘れてしまうのが常なのだけれど……。
 こうもはっきりとした記憶があると、どうしても悪夢そのものをするとはなしに反芻してしまい、余計に気分が沈んでいく。

  そんなどんよりとした思考の渦の中、ふとそういえば、長いこと「快適な目覚め」に縁がないような気がしてきてしまい、今度はどうにも不機嫌な気分になってくる。

 そんなものだから、周りに誰も居ないことをいいことに、お行儀悪く「う〜……」などと唸ってみたりする。

 が、自らの思考のプロセスの中で気づく。
 自分が今この広いベッドの上で一人でいるのだということを。
 そうして自分の隣には誰も寝ていないのだ、ということをまざまざと思い知らされると、自然どうしようもないほどの喪失感を受けてしまう。

 自らの半身の不在のような。そんな悲哀。

 

 刹那、思わず顔を埋めたままの枕を引きちぎりそうになる。

 

 朝目覚めると隣に誰かが――いいえ、耕一さんが居てくれるというこの上ない幸せ。
 それに溺れている自分に気づかされて。それを切望してる自分に気づかされて。
 その幸せが手元にないという、至極当然なことに打ちのめされている自分に気づかされて。

  「悪夢」に苦しんだその矢先に、そんな即物的で現金な感覚に支配される。
 そんな自分に気づかされて。

 

 浅ましい女。
 

 そう心の中で吐き捨てる。

 それでも私は、繰り返すのだろう。同じ事を。また、明日の朝も。
 同時にそうも思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 §

 

 

 

 

 

 

 

 会議室から戻った私を、眩しいほどの西日が出迎えてくれる。

 鶴来屋本館の最上階フロアに位置する会長室からは、隆山の温泉街を一望することが出来る。

 今、私の眼下に広がるこの隆山の温泉街は、薄っすらと雪化粧を纏っている。
 軒を連ねる昔ながらの木造の建物と、湯元から立ち上る水蒸気。
 浴衣の上に丹前を羽織った湯治客達が行き交うその場所を、ゆっくりと沈みゆく太陽の鮮やかなオレンジ色が彩る。

 そんな夕の温泉街独特の艶めいた雰囲気に、自然と私の頬が緩む。

 

「……それでは、明日のスケジュールの確認をしてよろしいでしょうか?」

 

 そんな無粋な声が、私を現実に引き戻す。 気づかれぬようこっそりと溜息をついてから振り返ると、会議室から付かず離れず後を追ってきていた秘書の方がデスクの前に立っていた。

「ええ、お願いします」

 そう応えた私が椅子に腰を下ろすのを待ってから、彼女は手元に明日のタイムテーブルが記された一覧表を差し出してくる。

「9時からの朝食会にはお出になられますか? 定例経営会議の方が10時から。そこで取り扱う各報告書と中間財務諸表の方はどうなさいますか?」

「朝食会の方は済みませんけど、いつも通り欠席します。書類の方は……そうですね、今目を通しておけば足りるでしょう」

 少し申し訳なさそうにしている彼女に気づかない振りをして、私は淡々と応える。

「はい。では、これをどうぞ。それから、2時から例の新聞社の取材が写真撮影を含めて20分。質問事項は……」

 そう言って、彼女が差し出してきた箇条書き数項目を記した別紙に、さっと目を通す。

「……わかりました」

「よろしくお願いします。そして明日は3時からの社内巡回はなし。事業開発本部で西−1棟リニューアル計画のブリーフィングがありますので、そちらに出席してください。同席の役員はそこに書いてある通りです。4時半に時民党の吉崎先生から電話が入りますので、これだけはよろしくお願いします」

 ちらり、と一覧表に目を落としてみると「Y氏から謝礼の電話」とある。大方例のパーティー券の件だろう。不自然に爽やか笑顔を振り撒く某国会議員の顔が脳裏を過ぎって、少しげんなりしてしまう。

「はい、わかりました」

「以上です。何かご質問は?」

「そうですね……ブリーフィングの方なんですが……。柳井専務が欠席となってますが、何か理由が?」

「はい。専務は明日、例の新規ツアー開設の件で東日本旅行社本社の方で行われる打ち合わせに出席なさるとのことです」

「ああ、出張ですか……。わかりました。それでしたら仕方ありませんね」

「他にはございますか?」

「いえ。結構です」

「はい。では失礼します」

「ご苦労様」

 

 秘書の方が会長室から退室するのと同時に、意識せず深い溜息が零れる。
 それに気づいて、思わず苦い笑みが口の端に浮かんできてしまう。

 相変わらず、ここでの私はこんなさもしいことを繰り返している。

 ことさら「ぶる」つもりはなにのだけれど、ここにいると人前では無意識のうちに酷薄じみているともとれる態度をとってしまう。殆ど条件反射のようなものなのかもしれない。

 そうわかっていながら、それを改めようという気にならない自分に僅かに自己嫌悪を感じながら、私はもう一度、今度は意識して深い溜息を吐く。

 

 ……耕一さん……会いたいです。
 

 僅かに綻んだ心の壁の隙間を縫うようにして、零れ落ちる想いの欠片。
 私の心の真ん中の部分を埋め尽くす、その想い。

 心の中でそう一言あの人の名前を呟くだけで、私の内側に篭っていた息苦しさはスッと引いてしまう。

 暗闇の中、ぽっと点った蝋燭の灯かりのように。
 ほうっと丸い吐息をつける。

 そんなどこかくすぐったいような温かさが、私の胸の中でじんわりと拡がる。

 

 そして……そんなどこまでも愚かな私自身を、もう一人の私が否定し、なじる……。

 

 コンコン……

 会長室の扉から響くノック音。
 それが、いつものように沈みかけていた私を、辛うじて現実に引き戻してくれる。

 インターコムで秘書の方の呼び掛けがなかったことに少し眉をひそめながら、私はすっと背筋を伸ばして、軽く喉の調子を整えてから口を開く。

「はい、どうぞ?」

 

 

「おや、お仕事中でしたか?」

 扉を開けて入ってきたのは足立さんだった。
 足立さんは、扉を開け放ったままそこで立ち止まり、私の手元に広げてあった書類に目をとめて首を傾げる。

「いえ、帰宅する前に少し書類の整理をしていただけです」

 そう自分で応えながらも、私は手元の時計にちらりと視線を走らせて、既に定時である17時を廻ってることを確認する。

 

こんな時間に、わざわざ足立さん本人がここにいらっしゃるなんて……。
何かあったのかしら?
 

 そんな私の思いを知ってか知らずか足立さんは、それならよかった、と笑顔を浮かべる。

「ちーちゃんにお客様がいらっしゃったみたいだからね。出過ぎた真似かとは思ったけどお連れさせてもらったよ」

「……?」

 足立さんが口調を崩したことで、どうもプライベート関連みたいだということはわかるけど……。

 私にお客様?
 この時間の、ここに?

 困惑する私に何か意味ありげな視線を投げかけた足立さんのちらりと背後の扉の向こうに目配せする。
 それから足立さんの、どうぞ、という声とともに入ってきた人の顔を見て、私は愕然としてしまう。

「こ、耕一さんっ!?」

「……うん、久しぶり」

 椅子を蹴るような勢いで立ち上がった私に、耕一さんはどこか困ったような笑顔を浮かべながらも軽く手を挙げて応えてくれる。

 耕一さんのその反応に、自分のはしたなさを恥ずかしく思いながら、軽く咳払いをして誤魔化す。

「ど、どうして?」

 今度は声を抑えたつもりだったけれど、やっぱり動揺は抑えきれずどこか上擦った調子の声になってしまい、さらに気恥ずかしい思いをさせられてしまう。

「いや、従業員用玄関の所で待ってようと思ったんだけどさ……」

「そこに私が丁度外出先から戻ってきてね、ちーちゃんの心情を察するにあの寒さの中待たせるわけにはいかないな、とそう思ってね」

 微苦笑を浮かべて頭をかく耕一さんの背中を、ぽんと叩きながら足立さんが片目を瞑る。

「……あ、足立さんっ」

 『ちーちゃんの心情』を強調した足立さんの、よりにもよって耕一さんの目の前でのあからさまな物言いにもう身の置き所がないような気恥ずかしさを味わいながら、私は俯いたまま控えめに抗議する。

「おや? 何か間違ったことを言ったかな?」

 堪えない足立さんはますますその笑みを深めて、意味ありげに私を窺いながら横に並んだ耕一さんを見上げるようにして訊く。

 火照った頬を気にしつつも、それでも耕一さんの反応が気になって、そうっと窺うように走らせた私の視線が、困ったように微笑う耕一さんの視線とぶつかり、私はますます身を小さく縮ませる。

「ねえ、ちーちゃん?」

「〜っ……知りませんっ」

 からかうような視線で追い討ちをかけてくる足立さんを、恨めしい思いで一睨みしてから、私はそっぽを向く。

「ははは……どうもお姫様はご機嫌斜めのようだから、邪魔者はここらで退散することにするよ。じゃあ耕一君、あとのことはよろしく頼んだよ」

 そう言って足立さんは、苦笑しながらも律義に頭を下げる耕一さんと二言三言言葉を交わしてから、会長室から出ていった。

 

 

「歳をとると若い人間をからかいたくなるって、どうもホントみたいだね」

 苦笑を浮かべたままの耕一さんが、足立さんの出ていった扉から私の方に視線を移して、肩をすくめる。

「あの足立さんでさえ、そうみたいなんだから」

「……すいません、耕一さん」

 私はなんとなく気恥ずかしくなってしまって、身体の前で組んだ手をもじもじとさせながら、そこに視線を落とす。

「いや、気にしてないよ」

 今度は微笑いながら、耕一さんがまた肩を竦める。

「それに、足立さんもさ……こういう千鶴さんが見れて嬉しいんだろうね、きっと」

「え?」 

 なんだろう。
 耕一さんの笑みが少し遠いものになる。

「いや……」

 優しい笑顔。

「それに悪い気はしないしね、千鶴さんとのことをからかわれるのは」

 首を傾げた私には応えず、耕一さんは続ける。

 その目がどことなく、笑ってるようで……。
 何となく、嫌な予感。

「千鶴さんは、気分悪い? 俺とのことをからかわれるのは」

 ……うう。

 予感的中。
 耕一さんの意地悪。

「えっと……あの……」

 なにか言おうと、口をもごもご動かしはするのだけれども、耕一さんがじっとこちらを見てるのを意識してしまうと、どうしてもかーっと頬が熱くなってくるばかりで、考えが纏まらなくなってしまう。

 焦っておろおろと視線を泳がせていると……。

「くくくっ……」

 必死に笑みをかみ殺そうとしてる耕一さん。

「こ、耕一さんっ!」

 やっとからかわれたことに気づいた私は、真っ赤な顔のまま抗議する。

「あははは……いや……くくくくっあははははっ……」

「わ、笑わないでくださいっ」

「あははは……いや、だってさ、困ってる千鶴さんが可愛いから」

「そ、そんなの理由になりませんっ」

 ちょっと嬉しいのを我慢して怒る。

「……耕一さんまで私をからかうんですね」

 悔しいからちゃんと恨みがましく見えるよう、上目遣いでじとっと睨んでみせる。
 そんな私を見て、耕一さんはまた堪えるようにくつくつと喉の奥で笑いながら。

「あ、あのさ、千鶴さん。ほっぺた赤くしてそんな風にされても、あ、あんまり怖くないんだけど」

 そう言って、今度は大笑いする。

 

 

「ち、千鶴さん?」
「ね、ねえってば」
「千鶴さ〜ん?」

 完全にそっぽを向いた私の背中に、耕一さんは猶も情けない声で呼びかけてくる。

「千鶴さ〜ん」

 ちょっと泣きそうな声。

「ホント悪気はなかったんだってばぁ……」

 ふんだ、それなら最初からしなければいいのに。

「……トホホ」

 耕一さんの肩を落とす雰囲気が背中越に伝わってくる。
 思わず振向きたくなってしまうけど、ここはぐっと我慢。

 改めて肩をいからせ首に力を入れて、今回ばかりは普段とは違うんだから、と身体で示してみる。

「…………」

 ?
 ふっと耕一さんの気配が消える。

「実力行使」

「きゃっ」

 急に耳元で耕一さんの声が聞こえたかと思うと、後ろからぎゅっと抱き竦められる。

「はっ、離してくださいっ!」

「駄目」

 耕一さんの腕から逃れようと、いやいやをするような要領でもがいてみるものの適うべくも無い。

「うう〜」

 それでもじたばたする私の肩に、耕一さんは背を屈めるようにしてちょこんと顎を乗せ、私の顔を覗き込んでくる。

「ねえ、千鶴さん」

「…………」

 じたばたするのを諦めた私は、その視線を避けるようにぷいっと顔を背ける。

「ねえってば」

「…………」

 反対側の肩から覗き込んでくる耕一さんに、私はまたぷいっとそっぽを向く。
 その頬を膨らませる私の横顔を見て、耕一さんががっくりとうなだれる。

 ちょっとやりすぎたかな……と思って横目でちらりと見た途端。

「っくっくくっ……」

 小刻みに身体を震わす耕一さん。

「こ、耕一さんっ!」

 心配した自分が情けなくて、思わず叱り付ける。

「だっ……くくくっ……だって……はぁはぁ……」

 必死に笑いの衝動を堪える耕一さん。

「だってなんですかっ!!」

「くくっ……ち……千鶴さん……かわいすぎ」

「ちょっ、こ、耕一さんっ! 私怒ってるんですよっ!?」

 やっぱり真っ赤になってるだろうから、説得力に欠けるかとは思ったけどそれでも怒って見せる。

「わ、わかってるってば。悪かったです。それは俺が悪かったです」

「……ホントに悪かったと思ってるんですか?」

「勿論思ってるよ」

 ジト目で疑わしげに訊く私に、苦笑を浮かべて耕一さんは応える。

「……ホントに?」

「ホントに」

「……もうしませんか?」

「しないしない」

「……ホントにそう思ってます?」

「思ってる」

「……じゃあ」

「じゃあ?」

 なんとなく、ちょっと恥ずかしいので。
 ちらり、と肩越しに耕一さんの顔を窺いながら。
 コホン、と咳払いしてみせる。

「ゴメンなさい、は?」

 もじもじとそう訊く私に、耕一さんはちょっと驚いたような表情をしてから、それからちょっと恥ずかしそうにし。

「ゴメンなさい」

 私の耳元で、そう囁く。

「…………」

「…………」

「もう……」

 ふう、と軽く溜息をついて身体の力をすっと抜く。 
 その動きを感じてホッとした表情を浮かべる耕一さんに、私もちょっと笑顔を浮かべる。

「で、千鶴さんはどうなの?」

「え?」

「気分悪いかどうかってこと」

「えっと……」

 今度は、柔らかい微笑みを浮かべる耕一さんに、私も頬が火照ってくるのを我慢して応える。

「うん?」

 私のお腹の上で組まれている耕一さんの手に、私のそれをそっと重ねて。

「……私も、悪い気はしないです」

 目を瞑って、全身の力を抜いて耕一さんに身体を預ける。

「うん」

 私の髪に口付けするようにして、耕一さんは応えてくれる。
 それをくすぐったく思いながら、私はまたちょっと微笑う。

「……少し、恥ずかしいですけど」

 

 

 暫くしてから、耕一さんの胸に顔を埋めていた私は、ふと思い出して訊ねてみる。

「あの、ところでどうしてここに?」

「うん? ああ、予定よりも早く隆山に着けたからさ。それなら先に千鶴さんに会って一緒に帰ろうと思って」

 耕一さんが髪を梳くように撫ぜてくれるのを心地よく感じながらも、私は言い直す。

「ん……そうじゃなくて……。耕一さんがどうして今日隆山にいらっしゃるのかってことです……」

「え? あれ? 楓ちゃんの誕生日って今日じゃなかったっけ……?」

 耕一さんは、驚いたように少し身を離す。

「……それは、今日ですけど」

 一瞬胸の奥で微かに蠢いたものに気づかない振りをして、私は応える。

「だよね? 良かった。間違えたのかと思ったよ……」

 はあ、と耕一さんが深い溜息をつく。

「誕生日のお祝いに来たつもりで、実は誕生日を間違ってたなんて間抜けもいいところだもんな」

「……でも、いらっしゃるならいらっしゃるって一言言ってくだされば……それなりの準備もありますし」

 耕一さんの視線から逃れるように、俯く。

 息苦しい想いが、私の内側をじわりじわりと蝕んでいく。
 頭では理解してるつもりでも、どうしても抑えきることが出来ない。

「そんなに気を使ってくれなくてもいいよ」

「……でも」

「実はさ、ぎりぎりまでどうなるか判らなかったんだ。もし行くって言っておいて行けなかったら楓ちゃんに悪いと思って……」

「…………」

 私は、強く奥歯を噛み締める。
 醜い言葉を、吐き出してしまわないように。

「? 千鶴さん…? どうかした?」

 俯いたままの私の顔を、耕一さんが覗き込む。
 その私に向けられた心配そうな表情で、その歪な衝動に私は何とか耐えることが出来る。

 ふっと強張った身体から力を抜いて、微笑んで首を振って見せる。

「そうですね……楓ったら落ち込むと長いですし」

 肩をすくめて、苦笑いを浮かべて見せる。
 ――それでも。

「でも……やっぱり私にだけは教えておいて欲しかったですぅ」

 それでも、冗談っぽく聞こえるようにそう付け加えてしまう。

「でもさ……」

 我が意を得たりというように、微笑んで私の耳元に口を寄せて耕一さんが続ける。

「千鶴さんの方が、俺が来れなかった時の落ち込み方は大きいって思うのは俺の己惚れかな?」

 その応えに、私は思わず瞬きしてしまってから、はにかんで微笑む。

「……あたりです」

 それから、その喜びを誤魔化すように耕一さんの唇に私の唇を寄せる。

「ん……」

 どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろう。
 どうしてこの人は、こんなにも温かいのだろう。
 いつも、私を暗いところから引き上げてくれて。
 いつも、私の望んだ以上のものを与えてくれる。

 胸を熱くしてくれる想いそのままに、耕一さんに唇を通して愛撫をねだる。
 そんな私に、耕一さんもまた熱く応えてくれる。

「ん……んぅ……」

 舌と舌が深い部分で絡み合い、踊る。

 くちゅ……ちゅく……。

 口唇と舌とで感じる彼の生々しい存在と。
 耳に聞こえてくる、湿り気を帯びた淫靡な響きとが、私の思考から理性を徐々に奪い去っていく。
 息をつくのももどかしいと感じるほどに。

 「はぁ……」

 やがて、どちらからともなく重ねあった口唇を離す。
 それまの深い繋がりを示すかのように、二人の唇の間にはつうっと銀糸の橋がかかる。

 ぽーっとしたままの瞳で見上げていると、耕一さんの唇がまた寄ってきて、私の濡れた口元をちとりと軽く舐め上げる。

「……いいのかな?」

 それから私の少し乱れた髪をかきあげて、耳を食むように口づけをしてくれながらそう尋ねてくる耕一さんに、上気した頬のままこくんと頷いてみせる。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 そう言って、耕一さんは控えめに笑みを浮かべる。

「あの……まだ、時間有りますし、帰ったら妹たちも居ますから……」

 なんとなく耕一さんの考えていることがわかったので、恥ずかしいのを堪えて上目遣いにそう切り出すと、耕一さんもちょっと赤くなる。

「あ……でも、スーツが皺になっちゃうかな?」

 抱き上げた私を会長室の奥にある休憩用のソファに横たえながら、そう言って悪戯っぽい表情を浮かべる耕一さんに、私はちょっと慌てて応える。

「あ、えっと……その……何着か替えがありますから、あの……」

「…………」

「……えと?」

「ぷっ……はははは……」

 困惑する私の上で、堪えきれないように笑い出す耕一さん。

「も、もうっ! なんですかっ?」

「あはは……いや、なんでもないよ。千鶴さん」

 そう言って、耕一さんはきゅっと抱きしめた私の背をよしよしというふうに撫でる。
 それから、子供にするように私の額にかかった髪をかきあげてそこにちゅっと軽くキスをする。

「ん……も、もう……」

 そんな甘い仕種に顔を赤くする私に、耕一さんは微笑いかけてから、今度は深いキスを求めてくる。

 お互いの唾液を交換するような行為。
 耕一さんの舌を介して感じられるそれに含まれる甘味に、気持ちが高揚していくのがわかる。

 再び、徐々に奪われていく理性。

 過敏になりつつある身体。
 キスは続けたままに、その上を耕一さんの掌が這い手際よく服を脱がせていく。
 耕一さんの掌が、私の弱い部分をなぞるたびにピクリと身体が震える。
 そんな与えるか与えないかの控えめな愛撫が、私を焦らせこの身体に甘い疼きをもたらす。
 そんな私のもどかしさを耕一さんに伝えようと、私はより一層耕一さんの身体に自らの身体を摺り寄せる。

 一瞬、そんな自分のはしたなさがどうしようもなく恥ずかしく感じられるが、今は目をつぶることにする。

 今はやっと与えられたこの温かい快楽に、ただこの身を浸らせよう。
 今はただ、なによりも大事な彼を全身で感じよう。

 甘い悦楽の波に翻弄され、熱い吐息を漏らしてしまうのを抑えることさえ出来なくなりつつある意識の片隅で、そう決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 ボーン、ボーン……

 

 壁にかけられた古時計の時刻を知らせる音が、居間に響く。

 次いで、再び訪れる静寂。
 縁側の硝子戸から覗いている蒼い月。その月から零れ落ちる微かな光だけが、今薄暗い室内を照らしている。

 

 ……さっきまでの大騒ぎが嘘みたいね。
 

 そんな中、炬燵で身を縮める私は、どちらかというと心地よいその静寂に身を委ねながら、そう思う。
 当然というべきか、耕一さんの突然の訪問は妹達を驚かせ、そして喜ばせた。

 初音はあの娘らしい素直さで、終始満面の笑みを浮かべて耕一さんの傍を離れようとしなかったし、
 梓も料理がどうとか口ではぶつぶつ言いながらも、やっぱり浮かれっぱなしだった。
 直接贈り物を手渡された楓に至っては、言うまでもない。

 そんなあの娘達も――アルコールが入ったこともあるのかも知れないけれど――流石にはしゃぎ疲れたのだろう。今はもう、各々の部屋で夢の世界の住人となっている。

 つい一時間程前に終った宴を思い返して、私は複雑な気持ちで微笑む。

 あの娘達は、本当に心から耕一さんが好きなんだ、と改めて感じる。
 そっと身を寄せるような、そんな仄かな恋心。
 曇りなく澄んだその純粋な想いを、私は羨ましく思うと同時にそれがあの娘達を傷つけるようなことにならなければいいのだけれど、と願う。

 

……偽善ね。
 

 こつん。

 炬燵に顔を伏せた拍子に、軽く額を打ってしまう。
 炬燵の温かさよりも、剥き出しの背中に突き刺さる部屋の寒さばかりが感じられる。

 そう、それは偽善だ。

 あの娘達のそんな想いを知りながら、耕一さんを独占してるのは他ならぬ私なのだから。
 例えあの娘達が泣いたとしても、私は耕一さんの手を決して離しはしないだろうから。

 思わず自嘲の笑みが浮かぶ。

 浅ましい女。

 融けて再び動き出した私の心は、子供のそれのように抑制のきかないもので、馬鹿みたいに浮き沈みして。独占欲ばかり強くて。

 今日だってそうだ。

 私の前で楓の話をする耕一さんを、危うくなじってしまうところだった。

 耕一さんはその腕でしっかり私のことを抱きしめてくれているのに、耕一さんは当たり前の様に私のことを見てくれているのに。

 耕一さんが、家族として妹に注ぐ愛にさえ嫉妬する。
 耕一さんの、そのこころのすべてが私に向いてないことに不安になる。
 その貪欲なまでの、独占欲。

 本当に浅ましい女。

 それがわかっていながら、私にはどうすることも出来ない。どうすればいいのかわからない。

 一度は失う事を覚悟した癖に、この手で殺そうとまでした癖に。

 凍った心を融かされた今では、その温もりにこんなにも縋りきってしまっている。
 それこそ、耕一さんなしでは息をすることさえ出来ないほどに。

 なのに。
 それなのに。

 どこかで、私は耕一さんのことを信じきることが出来ずに居る。
 やはり何処かで、疑っている自分が居るのを私は知っている。

 それが、なお一層に救い難い。

 

「……千鶴さん?」

 背中から聴こえた呼びかけに、はっとして顔を上げると。
 淡い月明かりに照らされた廊下に通じる障子戸に寄りかかる耕一さんと、目が合う。

「……眠れないの?」

 不思議そうに首を傾げながらも、耕一さんは笑いかけてくれる。

 その笑みに、ふと私は我に返る。
 真夜中に電気も点けないで炬燵に突っ伏す女。どこからどう見ても奇行。

「あっ、その、何でも……じゃなくて、今寝ようと思って……」
「そっちに行ってもいいかな?」

「えっあのっ……」

 焦ってしどろもどろに言い返す私のその言葉が終る前に、耕一さんもよいしょと炬燵に入ってくる。
 ただし、私の後ろから。

「えっと……あの……耕一さん……?」

 耕一さんの体温を背中に感じて頬が熱くなるのを自覚しながら、取り敢えず名前を呼んでみる。

「ふぃ〜暖かいね……」

 私の背中を抱きしめるようにして、密着する耕一さん。

「で、なに?」

「えっと……その……なんというか……」

 背中に感じる耕一さんの体温と、耳元で囁かれる声のくすぐったさに、私の身体はもじもじと、私の言葉はごにょごにょとなってしまう。

「こうすれば、千鶴さんは背中も暖かいし。俺は気持ち良いし。一石二鳥」

 笑みを含んだ声で耕一さんが、ぎゅっと抱きしめてくれる。

「もう……耕一さんたら」

 だから、私も微笑う。

 

 真夜中の居間。

 静寂の中、壁掛け時計が時を刻む音と二人の微かな息遣いだけが浮き上がる。
 私と耕一さん。二人だけの、時間。

「ふふふ……」

「……なに?」

 突然含み微笑いを漏らした私の顔を、耕一さんが目だけで覗き込んでくる。

「いえ……私もすっかり忘れてたんですけど、そう言えば前にも同じようなことがあったんです」

 恥ずかしいけれどちょっと我慢して、耕一さんの首筋に軽く頬擦りをしてみる。

「うん?」

 くすぐったそうに笑って、耕一さんは先を促す。

「……小さい頃、まだホントに小さい頃なんですけど、炬燵があんまり気持ちいいんでここで寝たいって我が侭言ったことあるんです」

「うん」

「そしたらお母様に、はしたないって叱られて……」

 言ってるうちに、自分でも本当にはしたなかったような気がしてきてしまい、少し恥ずかしくなって、炬燵の上の耕一さんの掌に包まれた、私の掌に視線を落とす。

「でも、どうしてもしてみたくて、こうして今みたいに電気を消してこっそりここで寝たんですけど……すぐにお父様に見つかっちゃたんです」

「うん」

「でもお父様はただ笑って、耕一さんみたいに私と一緒にこうして炬燵に入ってきてくれたんです。すごく暖かくて、すごく嬉しかった……」

 何となく気恥ずかしかったので、付け加えて言う。

「またその後すぐにお母様に見つかって二人で叱られたんですけど」

「ハハハ……成る程……」

 どこか意味ありげに、耕一さんがなおもくすくす笑う。

「何ですか?」

 小首を傾げる私に、耕一さんはもう一度笑う。

「いや、小さい頃の千鶴さんも今と同じできかない子だったんだなって」

「まっ……」

 耕一さんの意地の悪い物言いに、ちょっとむっとして言い返す。

「こ、『耕ちゃん』にそんなこと言われるなんて思いもしませんでした」

「あ、そう来る? それなら俺も『ちーちゃん』って呼ぼうかな?」

「あっ」

「ふふん」

「うう〜」

「どうかした?『ちーちゃん』?」

「うう〜」

「どっか痛いの?『ちーちゃん』?」

「うう〜」

「……負け?」

 ニヤリと笑った耕一さんが、頬を膨らませた私の顔を覗き込む。

「……降参です。だから、やめてください」

「可愛い呼び方だと思うけど?」

「それでも、耕一さんからそう呼ばれるのは嫌ですっ」

「そう?」

「……耕一さんの意地悪」

「ハハハ……ゴメンゴメン」

「もう……」

 この薄闇の中で炬燵から微かに漏れる、暖かそうなオレンジ色。
 そんな嬉しさ。

 耕一さんと一緒に居ると感じることのできる想い。

 

 ――けれど。

 それは一瞬のこと。

 すぐにまたその想いを侵食するようにして、闇色の息苦しい感情が滲み出してくる。
 先刻、耕一さんが来る直前の私を支配しかけた感情。

 底無しの不安。

 私の内側から凄まじい勢いで滲み出てくるそれは、怯える私を嘲笑うかのように一つのカタチをとる。

 偏執的な猜疑心。

 耕一さんのことを深く想えば想うほどに、それはより強く大きく狂気じみたものとなって私を苛む。

 あまりに浅ましい私。
 あまりに醜い私。  

 そして私は、自らを憎悪する。

 だから。
 それだから、考えずにはいられない。

 どうして、耕一さんはこんな私を恨まないんですか?
 どうして、耕一さんはこんな私を許してくれるんですか?
 どうして、耕一さんはこんな私に優しくしてくれるんですか?

 私は、誰よりも耕一さんの事が好きです。
 私は、誰よりも耕一さんが大事です。

 勿論、それは本当のことです。

 でも、私の罪は。私の犯した罪は。

 到底許されるようなものではありません。
 どんなことをしても償いきれるようなことではありません。

 耕一さんは違うって言ってたのに。
 誰よりも大事で、誰よりも大好きな耕一さんは違うって言ってるのに。

 耕一さんが苦しまないようになんて、そんなのはただの言い訳だったんです。

 ただもう、あれ以上苦しみたくなかったんです。
 もう、哀しい想いをすることに耐えられなかっただけなんです。

 他の誰でもない、私が。

 私は……自分のためだけに耕一さんを殺そうとしたんです。
 とにかく早く楽になりたくて、ただそれだけで耕一さんを殺そうとしたんです。

 なのに。

 どうして、耕一さんはこんな私を恨まないんですか?
 どうして、耕一さんはこんな私を許してくれるんですか?
 どうして、耕一さんはこんな私に優しくしてくれるんですか?

 恨んで欲しいわけじゃないけど。

 許して欲しくないわけじゃないけど。

 優しくして欲しくないわけじゃないけど。

 私にはわからないんです。
 信じきることが出来ないんです。

 その想いを否定する術を持ち得よう筈もない私は、ぎゅっと目を瞑って涙が零れ落ちないようにしながら、それでも繰り返し繰り返し心の中で耕一さんの名前を呟く。

 私には結局、縋れるものはそれしかないから。

 だから、繰り返し繰り返し心の中で耕一さんの名前を呟く。

 

 そんな震える私の身体を、耕一さんはすっぽり覆い尽くすようにぎゅっと抱きしめてくれる。

 

「ねえ……千鶴さん……」

 私の頬に自分の頬をぴとっとつけて、目を瞑った耕一さんが囁く。

「千鶴さん……我慢しないでいいから。言ってよ……千鶴さんが辛いと思ってること全部。俺は千鶴さんのこと好きだから。大事だから。幸せにしてあげたいから。俺にも努力させてよ」

 心を通して流れ込んでくる感情。
 震える私を柔らかく包み込んで、凍える心を温めてくれる。

「耕一さん……」

 瞳から零れ落ちる熱い雫。
 喉の奥に感じる熱い塊。

「耕一……っ……さん……わたっ……わたしっ……」

 鳴咽まじりに、それでも続けようとする私を、耕一さんはもう一度痛いくらいにぎゅっと抱きしめてくれる。それが、どうしようもない程心地よくて私の心をほぐしてくれる。

 とうとう耐えられなくなって、私の瞳からぼろぼろと大粒の涙が溢れて頬を伝う。

「っ……うぐぅっ……っく……」

 体を捻って肩に顔を埋めて鳴咽する私の背中を、耕一さんは黙ってただ優しく摩ってくれる。

「う、ううっ……わた……し……不安……っ……なっです……」

 耕一さんの顔を見上げる。

「なんで……っ……こ……っ……いちさんが、わたっ……わたしのことゆる……して……くれるのか……」

 とめどなく溢れる涙に視界が滲む。

「うぐっ……っ……わからっ……ないんです……」

「俺は、こうしてここにいるよ?」

 次から次へとぽろぽろ零れる私の涙を、耕一さんが優しく指で拭ってくれる。

「で……っ……も、わたし……かって……りゆうで……こういち……っ……さ……んの……きかないで……」

 目を瞑ってされるがままになりながら言い募る私に、耕一さんが続ける。

「重要なのはあの時一番辛かったのは誰かってことなんだよ、千鶴さん。俺は千鶴さんの痛みを全部知ることは出来ないけど、少なくともその幾らかを察することは出来るつもりだから。小っちゃい頃からいろんなモノを背負わなくちゃならくて、大人の仮面を被ってみんなを守って。自分を犠牲にして」

 そこで耕一さんは優しく微笑んで、その大きな掌でぐしぐしと私の頬を撫でてくれる。

「俺はね、その娘を幸せにしてあげたいんだよ、千鶴さん」

「わた……し……っ……うぐっ……わたしっ……」

 こつんと私の額に自分の額をくっつけてから、耕一さんは続けてくれる。

「千鶴さんが泣く時は、涙が止まるまで抱きしめてるから。千鶴さんが不安に震えてるなら、その度にその不安を打ち払ってあげるから。だから、千鶴さん。俺を信じて。絶対に俺が千鶴さんを幸せにしてみせるから」

「……こういち…さ……んぅ……」

 鳴咽交じりに応えようとする私の口唇を、耕一さんが優しく塞いでくれる。
 新しく溢れた涙が零れ落ちる、その前に。

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……っ……っ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……な……に?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……えぐっ……えぐっ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……泣き……声?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと瞼を開けてみると、そこはまばゆいばかり陽の光で溢れていた。

 とても温かくて柔らかな、午後の日差し。

 全身を包む、気だるい疲労感。
 けれど、徐々に戻ってくる五感。

 ――すると、聞こえてくるのは。

「えぐっえぐっえぐっ」

 盛大な泣声。
 ――泣声?

 

 ……ああ、そうか。
 

 やっとのことで、心の奥にあるこの誇らしい気持ちの理由を理解する。
 同時に、胸が一杯になってその途端に溢れ出す衝動をなんとか堪えるように唇を噛み締める。

「ご苦労様……千鶴さん……」

 ベッドの脇に立った耕一さんが、ちょっとやつれた顔で微笑んでくれる。

「耕一さん……わたし……」

 耕一さんが、その胸に抱いていた、真っ白な産着に包まれたこの盛大な泣声の主を、そっと私に抱かせてくれる。

 真っ赤な顔に、ちっちゃな……ホントにちっちゃな手。
 真っ赤な顔をくしゃくしゃにして。
 私の腕の中に、確かな重みと、温もり。
 大事な、大事な。私の……私たちの。

 

 ホント……見てるだけで、涙が溢れてくる。
 こんなにも、愛しくてたまらない。

 

「ありがとう……」

 そのちっちゃな手に指を握られて、ぽろぽろ涙を零しながら泣き笑いを浮かべる私に、耕一さんが優しく声をかけてくれる。

 喉にこみ上げてくる熱いもののせいで応えることの出来ない私は、必死に首を横に振る。

 そんな私を抱きしめて。
 私の腕の中をそっと覗き込んで、耕一さんは私の耳元でもう一度囁く。

「……ありがとう、ご苦労様」

「っわた……っ……し……ほんとに……っ……しあわっ……せ……です、こういちさん……」

 流れ落ちる涙を顎からぽとぽと滴らせたまま、なんとか最高の笑顔を作って耕一さんに向ける。

  

「それは……本望だよ、千鶴さん」

 少し首を傾げてから、耕一さんも照れくさそうに笑顔を浮かべる。

 

 ふと、あの時のことを思い出す。

 

 真夜中の居間で、私と一緒になってお母様に怒られるお父様。
 横目で私に笑いかけて、また怒られる。

 怒られてるけど、嬉しくて。どこかうきうきして。すごく幸せな気持ち。

 

 新しい家族を抱いて、耕一さんに抱かれて。

 願い。
 そして信じることが出来る。

 

 耕一さんと一緒なら。

 

 過ぎ去った遠い場所に。
 置き忘れてきた時間を。

 

 もう一度、手にすることが出来る。

 

 

 

 

 それはきっと、想像できないほど幸せな時間。

 

 

 

完 


初出   :1999年7月
加筆修正:2000年8月

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