【 逢瀬 】

 

『 梓 』

 

 

 

 

 ……はん、成る程ね……こういうこと。

 対面に腰を下ろす連中を横目で見ながら、内心あたしは一人ごちた。

 あからさまな態度をとって思いっきり困らせてやりたいという気持ちがないと言えばうそになるけれど、あたしだってもう19だ。
 ささくれだった内心をなんとか抑え込んで、表面上同席している友人達と楽しげに会話してみせる。
 いつもあたしのことを子供扱いするけど、あたしだってもうあんたと同じ大学生なんだ。
 こうして場の雰囲気にだって気を配れるし、時と場所だってちゃんと選ぶ。
 いつでもどこでもお構いなしに、ぎゃーぎゃーわめいてばかりの子供はもう卒業したんだ。

 あたしはもう、節度をわきまえた大人なんだ。

「ねえねえ、どうどう? 結構イイ感じじゃない?」

「うーん……そうねえ……」

「私は結構イイと思うなあ……平均で85点」

「時子はお手軽過ぎ。平均で70点が無難よ」

「え〜? そっかな〜?芳香ってばキツイよぉ……ねえ、梓はどう? 何点?」

 横目でそれとなく窺うあたしの視線の先で、誰かさんは先周りに合わせて笑顔を浮かべながらもどこか気まずそうに視線を泳がせている。

「…………」

「…………」

「…………」

「……梓?」

 ふと、我に帰ると友人達の視線があたしに集中していた。

「……え? あっと……何だっけ?」

 焦りで笑顔をが崩れてしまわないように気をつけながら、訊き返す。  

「それにしてもみんなカワイイねえ!」

「ホントホント! 今日はツイてるよな、俺達!」

 横合から入った、普段なら癪に障るようなそんな間抜けで軽薄な言葉にも、今回ばかりはホッとしてしまう。
友人たちの気が、それでそれてくれたから。

「柏木も来てよかったろ?」

 その固有名詞に、思わずあたしの身体はぴくんと反応してしまう。

「ん? あ、ああ……」

 ちょっとビックリしたような顔であたしと耕一を交互に見る友人たちと、何気なさを装ったあたしの視線の先で、耕一はどこか決まり悪そうにしている。

「あ、柏木さんって言うんだ〜。 この娘も柏木って言うんですよぉ!」

「ちょ、ちょっと……!」

 隣に座った友人が、構わずあたしの肩に手を回す。

「へえ……奇遇だなあ、柏木?」

「ん……ま、まあ……な……」

「? 何だよ? ノリ悪いな……あ! 大丈夫だって! ちゃんと黙ってててやるから!」

 その言葉で、困惑顔の耕一をよそに、彼の周囲の友人達がどっと笑い出す。

「なんだよ? 黙ってるって?」

「由美子さんだよ! コイツ、分かってるくせに!!」

 背中を思いっきり叩かれた耕一に、また周囲がどっと沸く。

「ちょっ! おま……何言ってんだよ!? 由美子さんは関係無いだろ!?」

 ぎょっとした表情で、耕一が焦ったようにその友人に詰め寄る。

 

 『由美子』……さん……?
 

 ――ああ。

 何となく、あたしはぎゅっと奥歯を噛み締める。

「え〜? 由美子さんってどなたですかぁ?」

「もしかして……柏木さんの彼女とか?」

 おそらく、こういった場の常なんだろう。あたしの友人達も笑顔を浮かべてその騒ぎにのっていく。

 慌てたように、彼の友人達が入れてくる茶々を否定する耕一。
 そんな耕一の狼狽振りをネタに、場は益々盛り上がっていく。

 ……自己紹介とかしないのかな?

 そんな事を思いながら、あたしも笑顔を浮かべる。
 周囲の陽気な喧騒と、それに被さるようにして店内を流れるアップテンポの曲が、何故か今はこれ以上ないほどに煩わしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 

「へえ〜そんなことがあったんだ。スゴイね〜。……ハハハ、そんなことないよ。え? またまたぁ」

 電話口でそう話す耕一を横目に見ながら、あたしはキッチンに立ち黙々と夕食の準備をこなす。

 これは多分、初音。
 初音と話す時、耕一はこんな感じで、おどけた、それでいて初音の目線に合わせたようなあの娘を慈しむような話し方をする。

「うん。そう……。こっちは特に変わりないよ……そっちは? そう……よかった」

 これは楓。
 楓と話す時、耕一は一生懸命に話そうとするあの娘の声に耳を傾けて、言葉少なに普段とは別人のような落ち着いた優しい声で、楓を包み込んでやるような受け答えをする。

「え? あ、いや、そんなことないよ……うん、ありがたいって思う。うん、嘘じゃなくてね。ハハ……ん? あ、うん、そうじゃなくてね、うん、心配性だな、って……」

 で、これは言うまでもなく千鶴姉。
 電話で話す千鶴姉と耕一の会話は……なんて言うか……言葉を交わすことでお互いの存在を確かめ合っている感じというか……。 勿論、耕一の声しかあたしには聞こえない訳だから、内容はまではわからないんだけど……。

 

……すごくわかり合ってる、って感じがひしひしと伝わってくる。
 

「……イテッ……っつ〜……ん? あ、いや、何でもないよ。なんか梓が夕飯の用意してるみたいでさ、それで俺の後ろ通って足踏んでいっただけだから……うん? ハハハ、いや、そんなことないよ、さすがに。そんなこと言ったら梓に悪いよ」

 ふん。鼻の下伸ばしてデレデレしちゃってさ。
 これだからこの男は。

 あたしがこっちで住むようになってからというもの、殆ど毎日と言っていいほど、この時間帯に千鶴姉たちは電話をかけてくる。

 名目はあたしの様子を知るため、らしいのだが実際の目的は推して知るべし、だ。

 まあ、何にしろ、あたしの姉妹達は揃いも揃って、このどうしようもない程ずぼらで救いようがないほどお気楽ご気楽なこの男に、べた惚れだというのは間違いない。

 

 ……そして、多分……耕一にとっては、みんなは『お姫様』なんだ。
 

「おい、梓! 千鶴さんが替われって!」

「……はいよ、別に叫ばなくたって聞こえてるよ」

 ジトっと一睨みしてやってから、あたしは受話器を受け取る。

「なにさ、千鶴姉?」

『んもう、なにさ、じゃないわよ、梓。耕一さんの足なんか踏んで。ホントに相変わらずがさつなんだから……』

「しょうがないだろ? 千鶴姉は来たことないからわからないだろうけど、この部屋はそっちと違って狭いんだ。そういうこともあるさ」

 わざと『千鶴姉は来たことない』の部分を強調してやる。

『むう……だ、だからもっと広いお部屋を借りなさい、って言ったのに……』

「はん、それを断ったのは耕一だろ? あたしに愚痴るのはお門違いってもんだよ、ったく……」

『も、もう! ああ言えばこう言う! とにかく、何にしろ、あんまり耕一さんにご迷惑かけるんじゃありませんよ?』

 この後、更に変わった楓と初音も、さすがに初音は遠回しにだけど、それでも口を揃えて言う。

『梓姉さん……耕一さんにあまりご迷惑かけないようにね……?』

『耕一お兄ちゃんも色々大変だろうから……ね? 梓お姉ちゃん』

 ふん、耕一と一緒に住んでるからってそろいも揃って目の敵にしてくれちゃって。
 むしろ、四六時中ご迷惑かけられてるのはあたしだろ? まったく。

 

 

「そうカリカリすんなよ、梓」

 夕食の席、早速愚痴をこぼすあたしに、対面に座った耕一がそう言って苦笑いする。

「だってさあ……そうだろ? 確かにアンタが保護者ってことでこっちに居るわけではあるけどさ。飯の世話から掃除洗濯、どう考えてもあたしがあんたを保護してるって感じじゃないか?」

「ハハ、そのことについては反論の余地もないし、ありがたく思ってるよ、実際。去年までの食生活の貧しさが嘘みたいに思えてくるしな。でもな、梓。みんな口ではいろいろ言うだろうけどさ、お前のこと心配してるんだよ。離れて生活するなんて勿論初めてだし、なんてったって4人きりの家族なんだからな」

 

 ……4人じゃなくて、5人だろ?
 

 そんなあたしの不満そうな表情に勘違いしたのか、耕一は穏やかに微笑って続ける。

「だからさ、わかってやれよ? ああやって電話でいつもみたいなコミュニケーションをとってさ、確認しようとしてるんだろ? みんな。お前が元気でいるってのをさ」

「……はいはい、耕一は何でもお見通しだね、ったく」

「ハハ……まあそう言うなよ……。あ、っと、えっとな、梓?」

 急に耕一が、なにやら言いにくそうに口篭もる。

「ん? 何さ?」

「ん〜……あのさ、明日の夕飯、俺要らないわ」

 耕一はどことなく落ちつかなげに、手元に置いてあった新聞に手をかけて、それからあたしをちらっと見る。

「うん? なにさ、バイトか? 明日は入れてないだろ?」

その耕一の「なあ、新聞広げていいか?」のお伺いに視線だけで不許可を与えつつ、あたしは訊き返す。

「ん……じゃなくてさ。えっと、飲み会、うん、ゼミの連中と飲み会なんだ」

「ゼミ?」

「ま、まあな」

 決まり悪そうに、耕一は鼻の頭をかく。

「? ふ〜ん……ああ、わかったよ」

「……悪いな」

「別にあんたが謝るようなことじゃないだろ?」

「あ。うん。そりゃそうだな、ハハハ」

「何だよ、ヘンナ奴。あ、じゃ、あたしも明日は前から友達に誘われてた飲み会にでも行くかな?」

「あ、うん。そりゃいい。そうしろよ。友達は大事にしないとな」

「はん、なにいってんだか」

「ハハハ……」

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 

「おお〜!! いい飲みっぷりだねえ〜、梓ちゃん!!」

「え? やだな、そんなことないですよ」

「またまたぁ、結構いけるクチでしょ? ささ、もう一杯っ」

「もう、あたしを酔わせてどうしようって言うんですか……?」

 ちょっと調子に乗ったあたしは、薄っすらとした笑みを浮かべて流し目で言ってみる。
 そんなあたしを見て、隣に座ったこの――名前は、何だっけ?――男が一瞬惚けたような表情をするのが可笑しくて、目を伏せて「フフ……」と微笑ってしまう。

「あ、梓ちゃん、綺麗だねえ……」

「え?」

「いや、だってまだ19でしょ? なんか大人っぽいね?」

 男の視線が、一瞬あたしの全身をなぞったのを感じたけれど、嫌悪感を感じるまでには至らない。

「――やだな、からかって。上手いんですね?」

 だから、そう言ってまた微笑って見せる。

 ぽーっとした感じが、たまらなく心地よい。
 さっきまで不快だったはずの喧騒や店内に流れるアップテンポの曲も今は、上向きなあたしの気分を更に盛り上げてくれる。
 

 唯一不快なものは……。
 

 あたしから少し離れたところに座って、あたしの友人達に囲まれてる耕一が、時折投げかけてくる視線。

 
 ……いったいなんだってんだ?
 

 女の子らしい言葉づかいだって、やろうと思えば出来るんだ。
 女の子らしい仕種だって、その気になれば結構板についたもんだろ?

 さっきからベタベタあたしの身体を触わりたがるこの男だって、うまくあしらってるだろ?

 だから!

 そんな、心配そうな目で見るのはやめろ!!

 あたしは、平気だ!
 あたしは、もう子供じゃないんだ!!
 あたしは、あんたの『弟』じゃないんだ!!

 あたしだって、千鶴姉や楓や初音と一緒なんだ!!

 あたしだって……!!

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 

 耕一はあたしの『王子様』だ。

 

 もしこんなことを千鶴姉や耕一本人にでも言ったら、きっと腹が捩れるほど笑われるだろう。
勿論、もとから口に出す気はさらさらないけれど。でも、耕一という存在は、あたしにとっては子供の頃から変わらずそんな存在なんだ、とそう想う。
 ――時々疑問に思うことはあるけど。

 耕一と初めて会った時のことは、正直あまり良く憶えていない。
 あたしの頭の中に漠然と存在してるあたし達の初対面の場面は、初音からの聞きかじりのものだ。
 だから、特に感慨深いものはない。

 ただその初対面の後、一緒に過ごした何十日間、どんなことをして、どんな感じで仲良くなって、どんな風に感じていたかは、今でもはっきり憶えてる。

 いかにも都会の子らしく、見るもの全てが珍しいというように目を輝かせる耕一をあちこち連れ回し、教えてやること全部にいちいち感心する耕一の姿を見るのは、なぜかすごく心踊った。

 今でも、思い出すたびに、どこまでも失礼な奴! と思うし、もちろんその時も思いっきりぶん殴ってやったんだけど、耕一の奴は初めて逢ったその日の夜、一緒にお風呂に入るまであたしが女だと言うことに気づかなかったらしい。

 まあ、その頃のあたしはといえば……。素っ気無いTシャツにこれまた素っ気無い半ズボン。こんがりキツネ色に日焼けした肌。それに加えて、初対面である上どう考えてみても年上の耕一をいきなり呼び捨てる程の思いっきり生意気な言葉遣い。
 そのどれをとっても、いわゆる『女の子らしさ』とはおよそ無縁の存在だったのは紛れもない事実だったのだけれど。

 自分でもそれを自覚してたし、別にその手のことを言われてもその時までは何とも思ってなかったはずなんだけど……。何でか、耕一にそう思われてたと知ったら、子供心にもどうしようもないほどの怒りがふつふつとこみ上げてきたのを憶えてる。

 女ばかりの姉妹に辟易してた、とまでは言わないけど、あたし以外は皆『女の子らしい』姉妹達だったから、正直物足りなく感じることが多かった。
  そんな時にひょっこり現れた、耕一はあたしのお気に入りの『兄貴』だった。

でも、今にして思えば、あたしはその時からもう既に、この『兄貴』に恋をしていたのかもしれない。

 朝同じ布団で目覚めてから、夜同じ布団で寝つくまで。何処に行くにも、何をするにも一緒で、思ったことは何でも話せる。どこか頼りないところがあるんだけど、ホントはすごく頼りになる。

 そんな『兄貴』に、あたしは自分でも気づかないうちに、もう恋に落ちていたのかもしれない。

 

 ……そして。

 

 耕一が都会に帰る日も近くなった、あの日。
 涙でぼやけた夕焼けの目が痛くなるくらいの赤と、かなかなかな……と切なく胸に響く蝉の声。
 そこにあった空気の匂いさえ、鮮明に思い出すことの出来る、あの日。

 いつもと同じように、朝一番に目覚めたあたしは、隣に寝てる楓と初音を優しく起こし、これまた隣に寝てる耕一を蹴り起こす。

 耕一のぼやきを聞き流しつつ食べた、まだ生きていた母さんが用意してくれた朝御飯は、炊き立ての白い御飯と、なめこのお味噌汁。おかずは、鮭の塩焼きと甘い卵焼き。そういえば、あの頃からもう楓は御飯を食べ終えるのが人一倍早かった。

 その日は、釣りに行く約束だった。

 家の裏手にある、川沿いの山道を登ったところにある水門。

 あたし達はそこで一日中、水遊びを交えながら釣りをした。

 背にした深い森から聞こえてくる小鳥の囀り。
 大空を舞う鳶の笛の音のような鳴き声。
 波打つ水面に乱反射する、陽光。

 ゆっくりと、穏やかに流れる時間。

 そして、耕一とあたしが魚を釣り揚げるたびに、大喜びする楓と初音。

 

 楽しかった。

 

 そんな一時を壊したのは、あたしだった。

 そろそろ西日もオレンジ色に染まりかけ、そろそろ家路につこうかという頃。

 調子に乗ったあたしが、耕一達が止めるのも聞かずに水門に登って、結果足を滑らせて川に落ちた。咄嗟のことだったし、水門付近の深さがかなりあったこともあって、あたしは気が動転してしまって訳も分からずじたばたしているうちに、足をつって溺れてしまった。

 
  ごぽごぽごぽ、と鈍く耳元で響く水音。
 冷たく、重苦しく、そして息苦しい水の中。

 

 孤独。

 

 絶望的な気分になりながら、光の射す方へそれこそ必死に手を伸ばす。
 ホントに、ああ……あたしはここで死ぬのか……って思った。

 

 でも、次の瞬間。

 

 伸ばしたあたしの手は、耕一の手にがっしりと捉まれ力強く引き上げられた。
 一瞬何が起こったのか、全然わからなくて、水面に出て川岸まで耕一に抱かれて運ばれて……そして楓や初音の泣き声が聞こえて、ハッとしたら耕一があたしの肩を掴んで心配そうに顔を覗き込んでて……。

 その顔を見たら鼻のおくがツンとして、目が熱くなって、そこであたしはやっと泣くことが出来た。
 耕一にしがみついて、わんわん泣いた。

 でも、意地っ張りでバカなあたしは、助かって安心したあまりに泣いてるだなんてことを耕一に知られたくなくて、溺れた時に脱げてしまった靴がないことを、中々思い通りに動かない口を不器用に動かして、それを理由にして泣いた。

 結果、耕一の命が危険に晒されることになるとは知らずに。

 今思えば、ホントに、嫌になるくらいバカな子供だった……。あたしは。

 あたしがそんな風に泣いているなら。あの性格の耕一がどういう行動にでるかなんて、考えるまでもないほど簡単にわかるのに。

 案の定、耕一はあたしの頭をぽんぽんと叩いて、「ちょっと待ってろよ」、と声をかけてから、きょとんとするあたしには構わずに、あの冷たくて重くて息苦しい水底にとって返した。

 

 虚しく過ぎていく時間。変わらず流れ続け、波打つ川。

 

 そして、絹を引き裂くような楓の悲鳴。

 あたしは何がなんだかわからなくなった。一体耕一が潜ってからどれくらいったのか、5分? 10分?
 泣き出してしまった楓と初音を抱きしめながら、あたしは殆ど気も狂わんばかりに考えた。

 あたしには何が出来る? 何をすべき?

 

 刹那。

 

 水面が盛り上がったかと思うと、爆発する。

 そして、雨のように降りそそぐ水飛沫の向こうで立ち尽くす耕一。
 鮮やかな朱色に染まった足首が、すごく痛々しかった。
 
 駆け寄ろうとする初音を、どこか哀しそうな瞳で止める楓。
 あたしの泣き声を含んだ呼び掛けにも応えようとしない、耕一。
 紅に染まった瞳と、獣を思わせる縦に裂けた瞳孔。

 その時はそれと気づかなかったけど、あの時の耕一は「鬼」に目覚めていた。

 

 やがて、ゆっくりと近づいてくる耕一。

 

 それでもあたしは、涙をぼろぼろ流しながら、バカみたいに耕一の名を呼び続けた。
 哀しいのか、それとも嬉しいのか。
 それさえわからず、ただ爆発した感情の赴くまま、涙で滲む視界の中近づいてくる耕一の名を、ただただ延々と呼び続けた。

 

 そんなあたしの頭を。

 

 間近まで近寄ってきていた耕一は、ぽんぽんと優しく叩いてくれて。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げてみると。
 耕一がいつも通りのにかっとした笑顔で笑って。
 あたしの靴を掲げて見せて「ほら、これだろ?」って。

 帰り道、真っ赤な夕焼けに照らされた川沿いの山道。耕一の名を延々と口にしながらぐしぐしとぐずるあたしを耕一はおぶってくれた。
 自分の足首だって酷い状態なのに、優しくあたしを宥めながら、おぶってくれた。

 あの背中を、あたしは忘れない。
 水でびしょびしょに濡れてしまっているのに、とてもとても温かかったあの背中を。

  あたしは忘れない。

 

 その日から、耕一はあたしの王子様になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢見心地に、薄っすらと開けた目でふと空を見上げると、雲一つない深い闇色の夜空に散りばめられた星達の中心で、月が蒼く淡い輝きを放っていた。

 その、定期的にあたしを揺する振動は、どこかゆりかごを連想させてとてもゆったりとした気持ちにさせてくれた。
 涼しげな夜風がすうっと吹き抜けていき、それが火照った頬に気持ちいい。

 そんな心地よさにもう一度じっくり浸ろうと、いままでもたれかかっていた少し硬くて、けれどとても温かいものにもう一度頬を押し付けようとした瞬間、ジンという鈍い痛みがあたしの頭を襲う。

 

 ……って……あれ? なんだっけ?
 ……あたし……なにしてるんだろ?
 

 ぼうっとする頭で、何とか思考を纏め上げようとすると、途端に再び頭痛があたしを襲う。

「っつ……」

 

……たたた……えっと……飲み会に行って、そしたらコンパで……。
 

「なんだ、起きたのか?」

 

 ……耕一? あ、そう、耕一が居て……。
 

「なにブツブツ言ってんだよ?」

「え? あ! 耕一!!…ってあたたた…」

「ったく、飲みすぎだぞ、梓」

 

 あ、そっか……飲みすぎて……寝ちゃったんだ……。
 おぶってくれてんるんだ、耕一が。
 

「おい、聞いてるかよ? 梓?」

「ん……聞いてるからあんまりおっきな声出さないでよ、響くから……」

「あ、ああ、悪い……」

 何となくいい気分になって、あたしはゆっくりと瞼を閉じて、耕一のごつごつした肩にちょん、と顎をのせてみる。

「……みんなは?」

「ん? 二次会でカラオケに行ったみたいだな……」

 こうしていると、耕一の落ち着いた少し低めの声が耳に心地よく響く。

「……いいの?」

「なにが?」

 真横にあるあたしの顔を、耕一は横目でちらっと窺うようにする。

「……耕一は行かなくて」

「……あのな」

 耕一のこういう呆れたような表情は、なんだかすごくらしい気がして好きだ。自然、あたしの頬は緩む。

「んふふ……こんな状態の従妹を放っていけるわけない……って?」

「当たり前だろ……ったく……酒は飲んでも飲まれるな、だ」

「ん……ゴメン……」

「いつもあんな無茶な飲み方してんのか?」

「……そんなわけないだろ……今回は特別……耕一だって悪いんだ」

 少しかすれた声で囁くようにそう言うあたしに、耕一はちょっとばつのわるそうな表情をする。

「う……そ、それは……まあ……うん、すまん」

「……なにが?」

「ん?」

「なにが、すまん、なの?」

「何がって……お前に嘘ついてまでコンパに行ったこと……だろ?」

「……違うよ」

「違うって……おまえ……」

「そう、外れ」

「……どう違うんだよ?」

 

「ん〜……」

 まだずきずき痛む頭をゆっくり働かせて考えを纏めるあたしを、耕一は優しい沈黙で待ってくれる。
 その沈黙に甘えて、ちょっと考えを纏めようと努力してみてから、あたしは口を開く。

 

「だってさ、そりゃ耕一があたしに嘘ついてコンパ行って、オンナといちゃつくってのはムカつくけどさ……。でも、違うよ。そうじゃない。だってさ、あたしは別に耕一の彼女ってわけじゃないだろ?耕一が浮気してるとかってんじゃないだろ? それじゃ、あたしに耕一を怒る資格はないと思うんだ。……そうじゃなくてさ、えっと……なにを言いたかったんだっけ……?」

 

 まだ酔いが醒めてないのかな? あたし。
 なんか、とんでもないこと言ってるような気がするけど……。

 ま、いっか……月も綺麗だし……。
 この際だ、言ってやれ……。

 

「えっと……ああ、そう。だからさ、耕一が悪いってのはそういうことじゃないんだよ。そういうんじゃなくてさ……、ん……あたしはさ、あたしは、あんたの『お姫様』になりたいんだよ……。あんたにとっての、千鶴姉や楓や初音みたいな……。昔からさ、あんたは知らないだろうけど、あんたはあたしの『王子様』なんだよ、ずっと、ずっと前から……。だからさ、あんたの隣に立ちたいから、あたしは『お姫様』になりたいんだ……。 でも、この性格だろ……? せめて家事とかそういんで、って思って頑張ってみたけどさ、あんま効果ないみたいなんだよな……。 難しいよな……。でもさ、努力はしてるんだ…… なのにあんたはさ……」

「そう言えばさ……」

 自分で言ってる内になんだか感情が昂ぶって、殆ど涙声になってしまっていたあたしの言葉を、耕一がやんわりと遮る。

「そう言えば、昔これと同じようなこと……あったよな……?」

「……同じ……って?」

「やっぱり俺が梓を泣かせちゃってさ、こうやってぐずる梓をおぶって家に帰るっての」

「…………」

「憶えてないか? ほら、水門のところでさ、お前が足を滑らせて川に落っこちて溺れて……。必死になってそれを助けてみたら今度は買ったばっかの靴がないって泣き出してさ……。俺は泣きやんで欲しくてもう一回潜って……それで、今度は俺が溺れかけたのはご愛敬だったけどな」

 そこで耕一は言いにくそうに口をつぐむ。耕一の苦笑が、少し歪む。

「……あん時さ……俺、多分お前達の事」
「知ってる……」

 あたしがそう言って遮ると、耕一はちょっと驚いたような表情をして、やがて微苦笑を浮かべる。

「……そうか」

「うん」

だから、あたしも少し微笑う。

「ん……でさ、その帰りさ……」

「うん……憶えてる……忘れてないよ……」

「……そうか。……あん時……そういや軽かったな、お前。それで俺、少しビックリしたんだ」

「……今は?」

「ん? 今は……そうだな、ハハ、重い……かな?」

「む……」

「ハハハ、あの時はぺったんこだったしな?」

「……スケベ」

「まあな」

 
 そこで、耕一はちょっと立ち止まって「っしょ」とあたしを担ぎなおす。
 それからまた、ゆっくりと歩き出す。
 

「初めて会った時さ、お前のこと男の子だと思った」

「……風呂に入るまで気づかなかったんだよな、ホント失礼な奴」

「あの時お前、ぐうで殴ったろ? かなりイタかったぞ?」

「……知るか」

「で、さ……。ま、めでたくお前が女の子だってわかったわけではあるけど、それで何が変わる訳でもなかったんだ、俺は」

「……あたしだって……そうだった」

「お前とはさ、何をするのも一緒、何処に行くのも一緒、何でも話せて、とにかく気が合ったよな……」

「……うん」

「俺はさ、一人っ子だったから念願の弟が出来て、ホント嬉しかったんだ……。だからさ、俺はお前とのそんな関係が気に入っていたし、いつまでも続くと……いや、続いて欲しいと思ってたんだ……」

 

「……うん。知ってる」

 

 独白を続ける耕一の横顔がハッとする。

 

「……そうか。 うん、そうだろうな」

 

 耕一の顔が、少し苦しそうに歪んだ。

 

「だからさ、月日が経って、会うたびに『女の子らしく』なっていくお前を見てさ。俺は無性に寂しくなっていったんだ……。 梓が、俺の知らない梓になってしまうようで……。 だから……だからさ、俺は出来るだけ昔の、初めて会った頃の俺を演じるようにした。そうすればお前も昔のままのお前で居てくれるような気がして……」

 

「……うん」

 

 こくん、と頷くあたしに、耕一はちょっと無理があるけど、でも優しい笑顔を見せてくれる。

 

「でもさ、違うんだ……そうじゃない……。もう、あの頃のお前は……いや、あの頃の俺達はもう居ないんだ。当たり前のことだけどな……。この半年一緒に暮らしてみて、それが良くわかったんだ。……あの頃の、浅黒い肌をして生意気だった弟はもう居なくて、ここにいるのはこんな風に華奢でしなやかな身体つきの女の子で……あの頃従妹に弟であることを望んでいた『兄貴』は……」

 

 そこで耕一は言葉を切って、空を仰ぎ、遠くを見るような瞳で蒼く淡く輝く月を見つめる。

 

 ……なにを……考えてるんだろう?
 

 あたしはそんな耕一の横顔に、自分の頬をぴとっと押し付ける。

 

「ね……耕一……」

「ん……?」

「『由美子』さんって……?」

「ん……なんでそんな名前……あ、さっき誰かが言ってたっけ?」

「……うん……でも、元から知ってる。電話とったことあるから」

「……うん?」

「……電話……あんたに取り次がなかった」

「……知ってる、あとで由美子さんに思いっきりからかわれた」

「ふうん……」

「……そんなとこだ」

 

 緩やかな、優しい時間があたしたちの間を流れる。

 

「うん……ね、あたしさ……」

「うん……?」

「あたし、あんたの『お姫様』になれるかな……?」

 

「…………」
「…………」

 

 そっと耕一の目を覗きこむ。
 耕一はそれを受け止めて、口を開こうとする。

「あ……」
「やっぱ言わなくていいや!」

 動き出した耕一の口を、勢いよく両手で塞いでやる。

 

 それからあたしは、ゆっくり耕一の頬に口づけして耳元で唄うような調子で囁く。

「取り敢えず……今は、千鶴姉達と横に並んだことでよしとしとくよ……」

 

 困惑顔で、深く溜息を吐く耕一を、大好きだと思える。

 

 きっと、今日の耕一の背中もあたしにとって忘れられないものになる。

 

 それが、たまらなく嬉しい。

 

 



初出   :1999年3月
加筆修正:2000年6月

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