最果ての地100万ヒット記念
二時間だけの贈り物 星海の
旅人さん
「やれやれ……今日もお勤めご苦労さん、っと……」
俺は鼻歌を口ずさみながら、一人、バイト帰りの家路についていた。
時刻は黄昏時。見上げた空は真っ赤な夕焼けで、東の方から蒼い薄闇に染まり始めている。滅多に見られない鮮やかなコントラスト。思わず、写真に収めたく
なるような夕刻の雲の群れを眺めて、俺はふと侘しげな気持ちになった。
何故だろう。今日は妙に、心が涼しい。ぽっかりと口を開けた空洞に、隙間風が入り込んでいるように。
急に寒気がして、俺はジャケットの裾を立てた。
寒くなんかないはずだ。今日は丸一日ちょうどいい天気で、気温も暑くもなく、寒くもなく、とても過ごしやすい陽気だったはず。
なのに……
「なんだか、寂しいな……」
ぽつりと呟いた俺の脳裏に浮かび上がるのは、従姉妹達の笑い顔。遠く、隆山にいる四人姉妹の、それぞれの性格を良く現わした、四者四様の笑顔。
暖かく、包み込んでくれるような慈母の微笑みは千鶴さん。
元気がはちきれんばかりの、明るさ一杯の笑顔は梓。
透き通るような、心に静かに染み渡る微笑は楓ちゃん。
そして、見ているだけで幸せになれる、天使の笑みは初音ちゃん。
その想い出の中の笑顔だけで、少しだけ空洞が埋まる気がした。
「……とっとと帰って、晩メシ食って寝るかな……」
明日も、朝から講義が詰まっている。こんな気分の日は気持ちを明日に引き摺らないように、さっさと布団の中に潜り込むべきかもしれない。
そう考えて、俺はマンションへの帰り道を急いだ。
「夕焼け、か……」
マンションの部屋に戻る途中、入口の階段に足をかけてふと振り返った俺は、だんだんと薄暗さを増してゆく西の空を再び眺める。
もう、あの茜色は空の彼方へと追いやられ、濃紺で形作られた闇のベールが一枚、また一枚と、時を刻むごとに空一面にかけられてゆく。わずかに残った朱染
めの雲が、鮮やかな命の炎のように揺らめき──
消えて、ゆく。
「…………」
ぼんやりとそれを見つめていた俺は、ふとどこからか聞こえた耳をくすぐる笑い声に、ようやくの事で正気を取り戻した。
やれやれ……今日はどうかしてるな……
何処から聞こえたとも、誰のものとも知れぬくすくす笑いが、初音ちゃんの可愛らしい声音に聞こえるなんて。
無意識のうちに家族を求めているのか……二十も過ぎた男が情けない。ホームシックか?
「ホント、どうしたんだか俺も……初音ちゃんの声が聞こえるなんて、望郷の念でも湧いたかな……?」
「……多分、違うと思うよ。お兄ちゃん」
「ああ、そうなの? じゃあ、一体なんだったのか──」
────!?
幻聴などではない軽やかな声に、俺は慌てて声のした方向を振り仰いだ。
「な……!」
視線が階段を昇る。まず赤いスニーカーが目に止まり、続いて雪のように白くほっそりとしたふくらはぎと太腿、青いミニスカートが映り、そこから白のサ
マーセーターとその前に垂れ下がる栗色の三つ編みが見え、そして──
大きくきらきらと宝石のように輝く瞳が、笑みを含んで俺を見下ろしていた。
「は、初音……ちゃん……?」
「お帰りなさい、耕一お兄ちゃんっ♪」
にぱっと、満面の天使の笑みが俺を出迎えた。破顔した初音ちゃんが、階段の一番上の段に腰掛けたまま、嬉しくて仕方がないとでも言うかのようににこにこ
しつつ、おかえりの挨拶を投げ渡してくる。俺は呆然と、そんな彼女を見上げるだけ。
「ど、どうして初音ちゃんが、ここに……?」
「あー、その言い方は……耕一お兄ちゃん、やっぱり忘れてたんだね」
「へっ?」
「あのね、お兄ちゃん。今日は、とってもとっても特別な日なんだよ。それを覚えてたら、わたしがここにいてもおかしくないかもって思うはずだもん」
特別な日……? なんだ? なにかあったっけ?
きょとんとして思いつくことはないかと記憶をひっくり返してみるが、特に心当たりが浮かばない。うむむ……と唸るそんな俺を、初音ちゃんは面白そうに見
ている。
「あ、あのさ初音ちゃん、それはいったいどういう……」
「えっとね……教えてもいいんだけど、もうちょっとだけ待って欲しいな」
降参した俺の再度の問いかけをさらりと流し、初音ちゃんはぴょこんと立ち上がった。それからとんとんっと、ステップでも踏むかのように軽やかに階段を降
りて来る。
……立ち上がった瞬間と階段を降りて来る間、なにかを察知し急速に鋭くなった鬼の視力に、ふんわりふわふわと捲れるミニスカートの奥の水色ストライプの
布地がくっきり捉えられたのは、考えない事にした。
「♪」
上機嫌で俺の前に降りて来た四姉妹の末っ子さんは、二段上でちょうど俺の目線に並ぶ。彼女は再びにぱっと笑い、俺の手を取り引っ張った。
「さ、取り敢えずお兄ちゃんのお部屋に行こっ。そうすればすぐに分かるよ」
「え……あ、うん」
なんだか小さな子供にせがまれている気分で、俺は腕を引っ張る初音ちゃんに引き摺られて行った。
俺達はそのまま階を上に重ね、やがて我が家の扉の前に来る。
その間、初音ちゃんはずっと上機嫌。俺の顔を見上げてはにっこり。前を向いては足取りも軽い。嬉しそうな彼女の雰囲気に押されて、何故だか俺の足も自然
と軽くなっていった。
「あ、初音ちゃん鍵……へ?」
部屋の前につき、ふと気付いて鍵を取り出そうとした俺の前で、初音ちゃんは躊躇いなくドアノブを捻り、ドアを開ける。
……鍵、締め忘れてたっけか? 無用心だなー……って、俺がそうなのか?
間抜けな疑問を脳裏に浮かべている間に、小さな従妹殿は奥に顔を向け──
「おねーちゃーん。耕一お兄ちゃん、帰ったよー!」
──は?
まさか、他に誰かいるのか、と思う間も無く、すぐにとたたたっと軽い足音が聞こえてきた。そして、ドアを潜った俺は、初音ちゃんの頭越しにもう一人の姿
を視界に入れ、固まってしまう。
「耕一さん、お帰りなさい……」
ちょっぴり気恥ずかしげに微笑を浮かべて、柏木四姉妹が三女、楓ちゃんがぺこりと頭を下げる。何故か彼女はお玉を片手に携えて、しかもミントグリーンを
主体にしたチェック地のワンピースの上から、胸に黒猫のアップリケがくっついた紺色のエプロンを付けていた。
「か、楓ちゃん……それ、なに?」
「あ。これは今、お料理の途中で……」
恥ずかしそうに、うっすらと頬を染める楓ちゃん。そこらの美人など余裕で蹴散らす美少女のエプロン姿に、俺はかくんと顎を落とす。
……激・可愛い。
「初音、手伝ってくれる? 私一人じゃ時間がかかって……」
「うん、わたしも一緒にやるね。すぐに準備するから」
お玉片手にちょこんと首を傾げ、細い頤(おとがい)に指を当てる楓ちゃん。こくんと頷いた初音ちゃんは、何処から取り出したものやら何時の間にかお揃い
の赤いエプロンをいそいそと身に付けている。ちなみに胸のアップリケは白い子犬。
姉妹のてきぱきとしたやりとりが、俺を蚊帳の外に置いたまま繰り広げられていた。
…………………………
はっ!? ぼうっとしてる場合じゃないっ?
再起動した俺は半ば混乱状態で、なにやら料理のレシピを口の端に昇らせている二人に問い質そうと口を開いた。
「ふ、二人とも、なんでここに……!? 今日はどうしたの、いったいなんでまた……」
俺の問いにきょとんと目を瞬かせた二人は、視線を見合わせ、やがて悪戯っぽく笑って問い返して来た。
「耕一さん……今日が何の日か、わかりませんか?」
「お兄ちゃん……まだ思い出せない? ほんとに忘れちゃった?」
「え……? 今日って、なにかあった……? さっき初音ちゃんも言ってたけど……」
……やっぱし、思いつかない。この二人がここに来るようななにか、あったか?
困惑してハテナマークに埋もれるしかない俺を見て、仕方ないなぁ、とばかりに二人は柔らかく微笑んだ。それから姉妹間で視線を交わし合い、言葉を舌に乗
せて送り出す。
「あのね、今日はね……」
「耕一さん、あなたの……」
『誕生日だよ(です)!』
──────!?
瞬間、頭が真っ白になった。
「あ、ぅ……え……? ぁ、あの……ええっ!?」
誕生日。
ハッピーバースディ。
今日──
「ち、ちょっ……ちょっと待った! 誕生日? 俺の……」
「はい、そうです」
「今日、耕一お兄ちゃんのお誕生日でしょ」
「あ──」
言葉に、詰まった。
今日。確かに今日だ。今の今まで忘れていた。全く覚えていなかった。母さんが亡くなってから、思い出すことなどなかった──
じゃあ……じゃあ、まさか……
「二人、とも……まさか、祝いに来てくれたのかい……?」
半ば自失状態で聞いてみる。返事は間髪入れず、満面の笑顔と同時にこくんと頷きで返された。
俺の、誕生日。俺自身が忘れていた、誕生日。昔、一度だけしか教えた事がないその日。
それを、この従妹達が覚えていて……
こんな所まで、わざわざ祝いに来て、くれた──
胸が、熱くなった。気がつけば、こみ上げて来る不思議な温かみがそこに宿っている。そしていつのまにか、二人は母性溢れる穏やかな優しい顔で、俺に眼差
しを向けていた。
「あ……ありが、とう……」
口から自然と零れたお礼の言葉に、二人の笑みが深くなった。
しばし後。
テーブルについた俺の左右に、最後の料理を運んで来た二人が腰を降ろす。
「じゃあ、千鶴さんと梓は来てないのか」
「うん……ごめんね」
「千鶴姉さんも、来たがっていたんですけど……あいにくと、仕事が立て込んでいてどうしても抜け出せなくって……」
「梓お姉ちゃんはホントは来るはずだったんだけど、隆山駅で、その……かおりさんに捕まっちゃって……連れ戻されちゃったの」
二人とも、本当に悔しそうにしていたよ、と、しゅんとしつつ申し訳なさそうに言う初音ちゃん。でも、と、楓ちゃんは部屋の片隅に置いた包みを示してにこ
り、と笑い、面差しに射した陰を払う。
「そのかわり、プレゼントはちゃんと預かってきましたから」
「お姉ちゃん達の分も、わたし達ちゃんと気持ちを届けに来たよ」
姉達の祝う気持ちも運んで来たという、二人の言葉は、俺の心に柔らかく染み込んだ。
胸の中の灯火が、またぬくもりを増す。元々無理なことなのに気遣ってくれる二人が愛おしい。
これだけ、想われてたんだな……
俺って、かなりの幸せ者だよな、うん。
「……って、あれ? だけど、今日は平日だよね。二人とも学校はどうしたの?」
ふと浮かんだ疑問を口の端に乗せると、顔を見合わせた楓ちゃんと初音ちゃん、姉妹揃ってそっくりな悪戯っぽい笑顔になり、
『さぼっちゃいました(った)♪』
「……はい?」
素行不良の生徒なら容易く使うが、この二人にすればまず使おうはずもない言葉を聞いて、俺は間抜け面になった。
「さぼった、って……」
「ほんとはいけないことだけど……」
「学校よりも、耕一さんの方が大切です」
ぺろっと可愛らしく舌を出して、罰が悪そうにえへへっと頬を掻いて誤魔化す初音ちゃん。楓ちゃんは頬に朱を散らしながらもつんと済ましてそっぽを向き、
聞いてる方も恥ずかしい台詞をさらっと口にした。
それから視線を俺に戻し、
「……普段は勿論、私も初音もこんな事しません。でも、今日だけは……今日だけは特別です。耕一さんの為なら、このくらい当然ですから」
それに、いつもはちゃんと『優等生』してますから、一度くらいは多めに見てもらえますよ。
と、楓ちゃんは苦笑しつつ初音ちゃんに水を向け、姉に習って初音ちゃんも曖昧な笑みで頷いた。
俺はと言えば、普段大人しい二人の行動力に、驚くやら申し訳ないやら……とにかく、言葉も出ずに少し赤くなった頬を掻いていた。
「それじゃあ、お祝いしようよ耕一お兄ちゃん」
「私達、残念ですけどあまり長くはいられませんから……」
「うん、そうだね」
テーブルの真ん中に、梓が作って持たせてくれたという大きなケーキがどんと鎮座ましましている。その周囲に並べられたポテトや唐揚げ、スパゲッティなど
を始めとする色々な料理は、楓ちゃんと初音ちゃんの合作。
そして、わざわざ持ってきたらしいシャンパングラスに、千鶴さんが取り寄せ妹達に託した、値の張るであろう透明感のある泡立つ液体を注いで。
『……乾杯♪』
チンとグラスが打ち合わされ、並々と注がれたシャンパンが、涼やかな音を立てた。
「耕一お兄ちゃん、お誕生日おめでとう!」
「おめでとうございます、耕一さん」
「ありがと、二人とも」
俺は物凄く晴れやかな気分になっていた。身体の疲れも、心の奥の重い澱みも、全て溶けて消えてしまったかのように身が軽い。自然と笑みも零れ出て、取り
止めも無い会話がひどく弾む。大して意味もない話題にころころと反応してくれる可愛らしい二種の笑い声に、ますます顔も綻んだ。
遠路はるばる、可愛い従妹達が今日この日だけ、俺の為だけにやってきて、料理を作り準備を行い、祝いの言葉を運んで待っていてくれたのだ。こんなに嬉し
い事はない。男なら泣いて喜ぶシチュエーションだろう。
おまけに楓ちゃんも初音ちゃんも、そこらのテレビや雑誌の中のアイドルをも軽くあしらえる程の美少女と来てる。こんな娘達が俺の為に……
千鶴さんや梓が来れなかったのは残念だけど、姉二人の想いも妹達はちゃんと運んで来てくれた。ケーキの上のチョコプレートにホワイトチョコで書かれた
『耕一、おめでと』の文字や、シャンパンの瓶に貼り付けられていた『耕一さんのために』というメッセージカードを見れば、二人が遠くからでも祝ってくれて
いるのがはっきりわかる。
ああ……俺は、幸せ者だな……
母さんが死んでから、初めて誰かに祝ってもらえた誕生日。初めて誰かと過ごす誕生日。ここに帰ってくるまでに感じていた寂寥感は、今や影も形も見当たら
なかった──
幸せな時間は、瞬く間に過ぎてゆく。
パーティーの途中で電話が鳴り、俺の「はい、柏木です」の第一声に、聞き覚えのある綺麗な音色が、『ふふっ、私も柏木です』と返してきた。
「千鶴さん?」
『はい、そうです。耕一さん、しばらくですね。あの子達、来てますか?』
千鶴さんの温かみのある言葉が、耳に心地良い。優しい問いかけは、俺の声音からちゃんと『プレゼント』が届いている事を確信したからだろうか? 笑みを
含んで転がっていた。
「うん、久しぶり。……楓ちゃんと初音ちゃん、ちゃんと来てるよ。それに、お祝いも……千鶴さんが最初に言い出したんだって? ありがとう」
『いえ、私こそ始めに提案しておきながらそちらに行けなくて……ごめんなさい』
「ううん、プレゼントも受け取ったし、こうして電話もしてくれたじゃない。俺はそれだけで充分過ぎるほど嬉しいよ」
『本当にごめんなさいね、耕一さん……誕生日、おめでとうございます』
もう一度、重ねるように謝って、それから千鶴さんのお祝いの言葉を聞く。その後少し話をして、『梓に替わります』と言い残し千鶴さんの声は途切れた。
……? そういや、なんか千鶴さんの後ろが騒がしかったな……梓以外にも、なんか聞き覚えのある声がしてるよーな……
と、何処か慌てたような声が俺を呼んだ。
『も、もしもし耕一!?』
「おっ、梓か。ケーキ、手間暇かけて作ってくれたんだって? ほんとにありがとうな、美味かったよ」
『へ、へへっ。そう?』
照れくさそうな梓の声だった。赤くなって、鼻を擦る姿までが浮かんできそうな。きっと電話の向こうでは、照れ笑いしながらも嬉しそうな梓を見て、千鶴さ
んがくすくす笑っていることだろう。
「ああ、わざわざ手作りしてくれたんだろ? 悪いな、そこまでしてくれて、さ」
『いや、いいよ。あたしがしたかったんだし……耕一、誕生日おめでとっ』
「……その言葉、ありがたく受け取っとくよ。ところで梓? さっきからなんだか後ろが騒がしく……」
『わ、わわっ!? なにすんだよかおりっ! おい、やめろって!』
「……あ?」
なんだかいきなり、梓の声が必死に切羽詰まったものに変わった。
『ち、ちょっと……っ、邪魔するなっ! あたしは耕一と話が……』
「…………」
耳をよーく澄ませると、受話器の向こうから『梓せんぱぁ〜い、そんなのほっときましょうよぉ〜』とか、『浮気はダメですぅ、あたしがいるじゃないです
かぁ』とか、聞いた事のある声が聞こえてきた。
……梓の天敵……
状況を200%把握してしまった俺が、これはどうしたものかとそのまま声を掛けあぐねていると、
『こ、こらっ! よせ、引っ張るなってばっ! かおり離せっ、はぁぁぁなぁぁぁせぇぇぇえっ! ち、ちくしょおおおっ、助けてくれこぉいちぃ
〜〜〜〜〜…………!!』
電話口から飛び出る程の梓の悲鳴と、ずるずる何かを引き摺ってゆく音を最後に、柏木四姉妹次女との連絡はぷっつりと途絶えてしまった。
「…………」
「今の……」
「……たぶん、そう」
表情の選択に困って固まる俺。その横で、さっきまで姉達と俺の会話に微笑ましそうな表情を向けていた楓ちゃん、初音ちゃんが、揃って沈痛な顔を見合わ
せ、おもむろに下の姉の冥福を祈って手を合わせる。
『あ、あの耕一さん……梓はもう駄目みたいですので、これで……』
「あ、ああ……うん……」
『私も、残念ですけどもう切りますね。梓を助けないと……さすがに、女の子に義姉呼ばわりはされたくないですから』
「うん……頼むよ、千鶴さん」
「千鶴お姉ちゃん……梓お姉ちゃん、助けてあげて」
「手遅れにならないうちに、お願い千鶴姉さん」
『ええ。楓も初音も、帰りは気をつけてね。それじゃ』
なんだか慌しそうな千鶴さんの早口に、どことなく疲れが滲んでいた。
それでぷつりと切れた電話を前に、なんとなく顔を見合わせた俺達三人は、最悪の事態にならない事を天と千鶴さんに祈る事にした。
……頼むから、負けないでくれよ梓……
たった二時間。楽しい時は、すぐに過ぎ去った。
耕一お兄ちゃんに、と、初音ちゃんがプレゼントを差し出した。姉妹全員で選んだのだと、横で楓ちゃんも笑っていた。
上等な生地で作られた薄手のジャケットとコート。かなり高い物なのだろう、ブランドなどにはさっぱり興味がなく疎い俺だが、とても良い物である事ははっ
きりわかった。
隆山に帰って来る時は、着て来て欲しいって事かな。
俺は貰ったばかりのそれを着込み、とんぼ帰りで隆山に戻る二人を駅まで送る事にした。
駅への道程が、帰宅途中と同じ風景とは思えないほどに輝いて見えた。心境の変化だけでここまで変わるものなのかと、現金な自分に苦笑する。
まさか、東京でこんな暖かい気持ちになれるなんてな……
感慨深く思いながら、両腕にくっつく従妹達をちらりと見る。
右腕をきゅっと抱え込み、幸せそうに頬を染めているのは楓ちゃん。
左腕にぶら下がるようにしがみ付き、満面の笑顔を見せるのは初音ちゃん。
道ゆく人々が思わず振り返り、ぼうっと見惚れてしまいそうな美少女姉妹の極上の微笑み。実際、男のみならず時には女性までもが足を止めて魅入っている。
そんな彼女らを一人占めにしている俺に、男どもの嫉妬の視線が矢のように突き刺さるが、そんなのはどこ吹く風とばかりに無視をした。
今日の俺は、とんでもなく寛大な勝利者なのだ。
大きな駅まで一緒に付いてゆき、その中まで二人を見送る事にする。もう時間も遅いから、変な虫に纏わり付かれないよう俺が守らなくちゃならないしな。
東京駅のホームで、俺達は向かい合った。後ろには、二人が乗る列車が既に到着していた。
「それじゃ、耕一さん。私達はここで……」
「お兄ちゃん、またね」
「ああ、今日はありがとう、二人とも。次の休みの時にはまた帰るから」
俺の言葉に、楽しみに待ってます、帰って来たら遊んでね、と心底嬉しそうににっこり微笑を残して、二人は車両に乗り込み……
「あ……そう言えば、忘れ物がありました」
「え……? あっ。そうだね、楓お姉ちゃん」
「へ?」
ふと気付いたように、ぱたぱたと駆け戻って来る。そのまま俺の左右に寄ると、楓ちゃんがくいっと腕を引っ張った。
耳を貸してくれ、と言ってるのかな?
ちょいちょいと同じように服を引く初音ちゃん。その様子から何か内緒話でもあるのかと腰を屈める俺。
「二人とも、なに……っ!?」
息を呑んだ。
両頬に触れる、柔らかい感触。暖かなぬくもりをそこに残して、さっと彼女達は飛び退いた。
呆然とする俺を尻目に、従妹達は微かに頬を染めて、恥ずかしそうに微笑んで列車に飛び乗る。
その瞬間を見計らったかのように、ベルが鳴り響いた。
「今夜、耕一さんが良い夢を見れるように、おまじないです」
「ハッピーバースディ、耕一お兄ちゃん!」
そして、その台詞を最後に、ドアは閉まり……
走り出す列車の窓、その向こうから手を振る二人を見つめながら、俺はゆっくりと笑顔になっていった。
「やれやれ、かなわないな。俺の可愛いお姫様達には……」
今夜は、本当に良い夢が見れそうだ。
夕方、胸にぽっかりと空いていた空洞は、もう跡形も残っていなかった。
おまけ
柏木家玄関にて・花瓶の生け花達が聞いた姉妹の会話(音声のみ)
「ただいまー」
「今帰りました、千鶴姉さん」
「おかえりなさい、楓、初音」
「千鶴お姉ちゃん、ちゃんとお勤め果たして来たよ」
「耕一さん、喜んでくれたかしら?」
「ええ、凄く嬉しそうでした」
「そう、良かったわ……貴女達もご苦労様」
「耕一お兄ちゃん、喜んでくれて良かったよー」
「今度は皆で行きましょうね」
「耕一さん、次のお休みには来てくれるって言ってましたし……みんなでピクニックなんてどうですか、姉さん?」
「ああ。いいわね、それ」
「あれ……? 梓お姉ちゃ、ん……は……」
『……(イタい沈黙)……』
「ち、ちづる……ねえ、さん……?」
「……最悪の事態だけは免れたわ……」
『……(再び微妙にイタい沈黙)……』
「なんとか追い返したけど……梓、熱出して寝込んじゃって……」
「……あ、梓お姉ちゃーんっ!」
「あ、初音待って! 私も一緒に行くからっ!」
「本気で対策が必要になって来たわね……耕一さんにも相談しておいた方が良いかしら?」
(姉妹三人の足音が遠ざかってゆく……)
──フェードアウト
星海の旅人さんのコメント
最果ての地百万ヒットの記念作品として、急遽総計二十四時間で書き上げました。一応、事件簿の外伝的なも
の……ですかね(苦笑)
カワウソのコメント
100万ヒット一番乗りでしたが、編集の都合上、アップはおいらのに少し遅れました。
星海の旅人さん、ありがとうございました。(深々)
目次へ
|