注:このお話は『柏木耕一の事件簿』とは何の関係もありません──あしからず(笑)。
 
 
 
 

 柏木家、ちーちゃんぱにっく!
 
 
 
 

 チュン、チュン、チチチ……
「う、う〜ん……まだ早いぞ、鳥ぃ……」
 寝ぼけ眼に見える時計は、午前六時。今日は誰も何もないから、梓もまだ朝食の支度はしていまい。
 障子の隙間から陽光が差している。
 俺──柏木耕一は半ば夢の中から、我が安眠を妨げようとしている小鳥達に、しょうもない悪態をついていた。
 チチチ……チュン、チュン……
 当然の事ながら、朝っぱらの鳥がそれを聞き入れようはずもない。だって、朝だし。
 むう……今朝は、鳥に起こされる事になるのか……できれば初音ちゃんの可愛い声辺りが理想的なんだが、まあ、それも悪くは────

『──きゃああああああああああああああああああああああ〜〜〜〜っ!!??』

「のおわぁっ!?」
 柏木家のさわやかな早朝──それは小鳥の囀りではなく、時ならぬ悲鳴によって破られた。
 耳をつんざくその絶叫に、俺は慌てて布団から飛び起きる。
「……な、なんだなんだ! 敵襲か!?」
 何が敵なんだか知らないが、寝起きのぼんやりした頭のまま俺は廊下に飛び出し、悲鳴の聞こえた方へ走り出した。
「今の声……?」
 聞こえた悲鳴は女性の物だった。この家にいる女性というと、当然のことながら、俺の自慢の従姉妹たる柏木四姉妹しかいないのだが……
 一体、誰の悲鳴だ?
 千鶴さん──にしては声が幼かったような気がするし、梓はこんな女の子らしい悲鳴はあげんだろう。楓ちゃん……が叫ぶところは想像出来ん……
 とすると、消去法ならば悲鳴の主は柏木四姉妹の末っ子、初音ちゃんのはずだが……
 俺は縁側を一気に駆け抜け──寝ぼけていたせいか、ちょっぴり鬼の力が出ていたが──四姉妹の部屋が並んでいる廊下へ二輪ドリフトで飛び込む。
 うむ、見事なコーナリングだ。チャリンコでこれが出来れば敗北はないな。
 意味不明の自己満足を味わいつつ、俺が飛び込んだ廊下の先──人影が幾つか見える。
「あっ、耕一お兄ちゃん!」
 と、件の初音ちゃんが部屋のドアを開けた態勢のまま、こっちを振り向いた。ちなみにデフォルメされた狐のプリントのパジャマを着ている。
 ううっ、可愛い……って、いかんいかんっ。
「初音ちゃん、悲鳴が聞こえたけど……どうかしたの? なんかいた?」
 俺は内心に浮かんだ初音ちゃんを抱きしめたい衝動を振り払い、彼女の顔を覗き込んで尋ねた。
 しかし、初音ちゃんは困ったように眉を寄せ、首をこくんと傾けた。
「そ、それがね……あの悲鳴、わたしじゃないの」
「へっ?」
 初音ちゃんじゃない?
「そうなんだ耕一。今の、初音じゃないんだよ」
 声に顔を上げると、柏木家の次女にして料理の鉄人、柏木梓が腕を組んで立っていた。
 こいつもまだ寝間着姿だ。
「じゃあ、誰が……」
「……こっちです、耕一さん」
 静かで落ち着いた、第三の声が聞こえて廊下の奥に視線を向けると、三女の楓ちゃんが一つのドアの前にいた。薄いブルーのチェック地のパジャマがこれまた可愛らしい。
「楓ちゃん」
 珍しくも困惑した表情の楓ちゃんが立っているのは……四つ並んだ一番の奥のドア。
 あそこは……
「……千鶴、さん?」
「はい」
 楓ちゃんの前のドアは、柏木四姉妹長女、千鶴さんの部屋のドアだ。姉妹達が出てきている他の三つの部屋のドアと違い、そこだけはまだしっかりと閉じられている。
「あたし達も、さっきの悲鳴で飛び起きたんだよ。耕一のとこまで届いたってことは、こりゃ外まで聞こえたかな?」
 ぽりぽりと頭を掻きつつ、梓がぼやいた。
「千鶴姉さんの悲鳴だったみたいなんですけど……姉さん、出てこないんです」
 楓ちゃんがドアのノブに指を当て、困ったように俺を見る。
「は?」
 出てこない?
「お姉ちゃん、ドアを開けようとすると『来ないでっ!』って……」
 初音ちゃんも不安そうに俺の寝間着の裾を掴み、ドアを見つめている。
 来ないで、って……?
「どういうことだ?」
「さあ……?」
 視線が合った梓が、俺と一緒に首を傾げる。
「中にいるんだね?」
「はい」
 俺はドアの前まで行くと、楓ちゃんにどいてもらってドアをノックしてみた。
「千鶴さん? 何かあったの?」
 俺がドアを叩くと、
「こっ、耕一さんっ!?」
 中から、慌てたような千鶴さんの声。
 ……あれ?
 なんだか、いつもの声より可愛らしいような?
「どうしたの、千鶴さん?開けるよ?」
「だっ、駄目ですっ、開けないで──」
 かちゃっ
 開けないでと言いつつ、鍵はかかっていない。
 まだ頭が半分眠っていたのか、俺はその時、何気無しにドアノブを引いていた。後から考えてみれば、例えば彼女が着替えていたりした場合、その時は役得でも、その後にどんな目に遭うことか──
 まあ、この時はそんな事にはならなかったのだが。
「千鶴さん、一体何が────?」

 ピシッ!

 ドアから中に一歩踏み込んだ所で、俺は凍り付いた。足の先から頭の上まで、彫像の如く完全に固まる。
「耕一? どうしたのさ?」
「耕一さん?」
「お兄ちゃん?」
 ただならぬ俺の様子に、三姉妹が俺の背中越しに前を覗き込み──

 ビシィッ!!

 まったく同時に石化した。
 思考停止した俺達の視線の先には──
「こ、こぉいち、さぁん……あずさぁ……かえ、でぇ……は、つね……」
 ぐすぐすと涙混じりの声でしゃくりあげながら、千鶴さんのベッドの上にぺたんと座り込んだ、桁違いに可愛らしい『美少女』の姿があった…………
 
 






 
──しばらくお待ち下さい──



















「…………ち、ち、ち、ち、ち────千鶴姉ぇ〜〜〜〜っっっっっ!!??」
「はいぃ……」
 真っ先に金縛りから解けた、梓の素っ頓狂な大声が響き渡り──『彼女』の返事から一拍置いて、

『ぅえぇぇええぇえぇぇぇぇぇえぇぇぇぇえぇぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!!!???』

 さらに大きな、俺達全員の絶叫が屋敷全体を揺るがした。
 俺もこんな時でなければ、あの楓ちゃんが大きな声で驚愕の叫びをあげるのを見て、驚いていただろう。
 だが、現実の俺はそんな事にも気付かずに、目の前の『美少女』をぼけ〜〜〜〜っと見つめているだけだった。
 鴉の濡れ羽色の艶やかな長い髪、雫をぽろぽろと落とす潤んだ漆黒の瞳、あどけなさが抜けない可愛らしい顔立ち、華奢な肢体をややだふだぶの白いパジャマで包んでいるその少女は──
「ち、千鶴……姉ちゃん……?」
 思わずぽつりと、俺の口から言葉が漏れ出た。
 そう。そこにいたのは、八年前、まだ小学生だった俺が憧れた初恋の人──柏木千鶴、その人だった。
 今の、ではない。昔の──中学生当時の、『あの』千鶴さんである。
「な、な、なぁっ……!?」
「なんっ、でっ──!?」
「おっ、おねえっ、ちゃんっ……!?」
 妹三人の泡を食ったような吃り声の中、問題の千鶴さん(?)はえぐえぐしゃくりあげながら、途切れ途切れに言葉を絞り出した。
「わっ、わかりませぇんっ……さ、さっき、目が覚めて、何気なく鏡を見たら、こ、こんな風にぃっ……」
 ベッドの下に手鏡が落ちているのはそれか──って、いやいやそうじゃなくって!
 冷静になれ俺っ……そう、まずは心を落ち着かせて──
「と、とにかく──みんな、落ち着いてくれ」
 混乱した三人を後ろ手にドアの向こうへ押し戻しつつ、俺は姉妹全員に声をかける。
「と、とりあえず……みんな、話し合いは着替えてからにしよう」
 梓達に負けず劣らず動転していた俺は、そんなありきたりの言葉しか口から漏れてこなかった。
 
 

 十分後──
 俺達五人は、柏木家の居間で緊急家族会議を開いていた。
 議題はもちろん、突然成長退行を引き起こした千鶴さんである。御丁寧にも半紙と筆と墨汁を取り出し『千鶴姉中学生化事件緊急対策本部』などと議題を達筆し、居間の外に立て看板にして据え置いた梓(未だ錯乱気味)に対して、今回ばかりは突っ込むことが出来なかった。
 いつもの席に座り込んだ俺達の複雑極まりない視線が向いているのは、当然のことながら千鶴さん。
 今彼女は、楓ちゃんから借りた紺のスカートと白のブラウスの上に上着を羽織って──自分の服ではサイズが合わなかった──俺の向かいにちょこんと座り込んでいる。しょんぼりして肩を竦めて座っているその姿が、なんかむちゃくちゃ可愛いらしい。
「……で?」
 口火を切ったのは、当然梓。どう対処したものか、珍しくも思案に暮れた顔をしている。
「なんで千鶴姉が、その──」
 お、さすがに言い澱んでんな。まあ、無理もないが。
「──中学生くらいの年齢にまで、若返ってるのか、ですね」
 その後を、楓ちゃんが継いだ。
 さすがは万事冷静な彼女。混乱の極みにあった俺達の中で、一番最初に落ち着きを取り戻したのもこの子だった。
 頼りになるよな、楓ちゃんは。
「……千鶴姉さん」
「な、なぁに……楓……?」
 名前を呼ばれた千鶴さんが、びくっとして顔をあげた。今の状態だと楓ちゃんと同い年か、もう少し下に見えるくらいだから、端から見てるとなんだか姉と妹の立場が逆転してるようにしか思えない。
「昨夜何をしていたか、順を追って説明してもらえませんか? その間に、何か少しでも気にかかる事があったら、それが手がかりになるかもしれません」
 ……なるほど……
 昨日、俺の晩酌の付き合いをしていた時までは、少なくとも千鶴さんはいつもどおりの姿だった。それは、風呂上がりで側に居た他の三人も確認している。
 と、すると──
「昨晩、布団に入ってから、朝目が覚めるまでの間に、千鶴さんの身に何かが起こった……って事だね、楓ちゃん」
 俺の言葉に、こくんとおかっぱ頭を揺らして楓ちゃんは頷いた。
「何かって、何だよ?」
 じれったそうに梓が口を挟んだ。
 それに対して、初音ちゃんが宥めるように梓に苦笑してみせる。
「それを、これから調べるんでしょ? 梓お姉ちゃん」
「まったくだ。事を急ぎすぎだぞ、梓」
「だってさぁ……」
 まあ……急かしたくなるのも、わからんではないが。
「え、え〜っと……気にかかる事って言っても……」
 唇に人差し指を当て、千鶴さんは困ったように首を傾ける。こくんと倒したその動きに合わせ、さらさらと黒髪が流れ落ちる。その様はまさに極上のビロードのような──
 はっ……ち、ちょっと見とれてしまった……いかんいかん……
 う〜む……それにしても……
 彼女の服を着てるから、ってのもあるだろうが、こうしていると、ほんと楓ちゃんにそっくりだ。二人して並んで駅前にでも立ってたら、五秒と置かずにナンパ野郎どもが群がってくる事請け合いである。
 ……もし外に出る事になったら、一緒に行った方が良いかもしれん……すごく心配だし、万が一何かあったら──ああっ、悪い想像がぁっ!
 そんな俺の妄想はさておき、三姉妹達は千鶴さんの声に耳を傾けていた。
「えっと、夕御飯の後、初音と一緒にお風呂に入って……確か、お風呂でお湯が少なくなってたから、それを足して、初音と身体を洗いっこして……」
「うん、わたしも一緒に入ってたけど……その時は千鶴お姉ちゃん、まだなんともなってなかったと思うよ。別に小さくなってもいなかったし……」
「そうよねぇ……初音、私の身体、どこかおかしかった?」
「ううん、別に……」
 ぐふっ!?
 は、初音ちゃんと千鶴さんで、身体を洗いっこ……? ち、小さくって、一体、何が小さく……?
 
 
 

 耕一、妄想スタート!
 
 
 

『……どう、初音? このくらいでいい……?』
『あっ……お、お姉ちゃん……んふ……もうちょっ、と……やさしくぅ……っ』
『ふふふっ……かわいいわね、初音……』
『はぁ……おねぇ……ちゃぁん……わたし、も……』
『んっ……は、はつねぇ……っあ……』
 

 ────以下、鬼編集長検閲により削除(笑)。抗議はそちらにどうぞ(爆)────

「……っと、こう書いておけば、ぼくに抗議は来ないよな〜♪」
「せ〜い〜か〜い〜さ〜ん? な〜にを書いてるのかな〜?」
「ひ、ひゃいぃっ!? へ、へんしゅうちょおぉぉっ!?」
「ほほぉう……こぉんな事書いているのか」
「あ、あうあぅ……」
「そこなんだけどねぇ、書きたければ書いてもいいよ。ただし……」
「…………(冷や汗だらだら)」
「綺麗に書いてねー(にっこり)」
「すいません嘘ですごめんなさい僕には書けません無理です許してくださいぃぃっ!!」

 ……いい……なぁ……
 頭の片隅に届いた謎の会話はさておき、俺は思わずその場面を想像してしまい、鼻血が出そうになってしまった。
「……ん? なにやってんだ、耕一?」
 上を向いて首筋をとんとんやっている俺に、梓が不審の目を向ける。
「い、いや、なんでもないなんでもない」
 ちらりと見ると、他の三人もきょとんとして俺の仕草を眺めていた。
 ふう、やばいやばい……こんな事考えたのが知られたら、初音ちゃんはともかく、千鶴さんに半殺しにされかねん。
 ……続きは望むべくもないか。
「つ、続けて。千鶴さん」
「は、はあ……? えと、それから、お風呂上がりに耕一さんのお酒の晩酌をして、私もいくらか飲んで……」
 いくらか、じゃなく、結構飲んでたような気もするぞ。明日は休みだから、このぐらいなら大丈夫です、とか言って。
 んでもって、俺もそれに巻き込まれて……一升瓶二、三本空になってたよーな……
「で、そこであたしが『飲み過ぎだ』って言って、千鶴姉から酒瓶を取り上げた、と」
 梓の合いの手が入る。俺の左右で楓ちゃんと初音ちゃんがこくこく頷いた。
「ありゃ、明らかに飲み過ぎだぞ、千鶴姉」
「だ、だってぇ……せっかく耕一さんが薦めてくれたのに……」
 そ、そこで俺を引き合いに出さないで欲しいな。しかも、そんな上目遣いで潤んだ瞳を向けないでくれ……今の彼女だと、破壊力が段違いだ。
「う、う〜ん、千鶴さん。確かに、あの時はちょっと飲み過ぎだったよ……一緒に飲んでた俺も俺だけど……」
「まったく、あたしが酒取り上げて仕舞い込まなきゃ、まだ飲んでただろ?」
「ううっ……」
 返す言葉もないらしい。
「まあまあ、二人とも、そのくらいにしておこうよ」
 梓の追求に小さくなってしまった千鶴さんを見兼ねたのか、初音ちゃんが俺達の間に割って入った。『ね?』ってな感じに、俺を小首を傾げて見つめてくる。
 この攻撃に、俺はあっさりと陥落する。
「う、うん、そうだね……それで、そのあとはどうしたの、千鶴さん?」
「んっと……みんなに『おやすみなさい』を言ったあと……」

 ぴたっ。

「…………?」
「どうした、千鶴姉?」
「姉さん?」
「お姉ちゃん?」
 突然、虚空を見据えたまま凝固した千鶴さんに、俺や梓達から訝しげな声があがった。当の千鶴さんはというと、瞬きすら忘れたかのように、彫像の如く活動停止している。その頭には、でっかい冷や汗が……
 ……って、冷や汗?
「千鶴さん……なんか、思い当たる事でもあった……って、うおぅっ!?」
 俺が呟いた途端、居間の展示物と化していた千鶴さんが再起動。物凄い勢いで俺の方を振り向いた。
 そしてそのまま、真っ赤な顔でまくしたてる。
「い、いいえっ!! 全く、これっぽっちも心当たりなどありませんっ!!」
「は、はあ……?」
 力説。
 ただし、思いっきし不自然。
 怪しい。
 俺はちらりと梓や初音ちゃんと視線を交わした。

(なんか、あったな……)
(ああ……それも、話したくない事が、ね……)
(……今度は、何があったのかなぁ……?)

 アイコンタクト。
 こと千鶴さんに関する厄介事が発生した時、俺達家族の間に言葉は必要ないに等しい。
 視線を交わし合うだけで、鬼の精神感応が普段の数倍の力を発揮し、互いの意思を確認しあう。
 これなくしては、この戦場では生き残れないのだ。
 ……と、こういう時には頼りになる柏木家三女が、小さく、氷片を滑り込ませるように冷たく、姉の名を呼んだ。
「……千鶴姉さん……」
「っな、な、なっ……なにっ!?」
 千鶴さんの声音が一オクターブ跳ね上がった。なにやらキンと張り詰めたような声。
 おお……動揺してる動揺してる。これ以上ないって位に動揺している。
 さすがは楓ちゃん。名前呼んだだけでこれほどの効果を叩き出すとは……
 今度から、千鶴さんがなんか不審な動きを見せたら楓ちゃんに助けを求める事にしよう、うん。
「なにか、心当たりがあったんですね?」
「う゛っ……!」
 そんな俺の内心をよそに、楓ちゃんの言葉のナイフは容赦なく閃きを見せ、千鶴さんを追いつめていく。
 呻き声と共によろめく彼女は、せわしなく視線をあちこちにさ迷わせ、悪戯が見つかった子供のように慌てている。
 なんだか、昔を思い出すな……
 確か、八年前。俺が柏木家を訪れた際にも、千鶴さんが一回こんな表情をするのを見た事がある。たしかそん時は……
 ……犠牲者が、俺だったのだけは覚えている。
「そ、そ、そ、そ、そ、そんな……わ、わ、わ、わ、私はなにも……!」
 怪しい。怪しすぎる。
 これは絶対に、なにか隠しているな。
「千鶴姉……」
「千鶴姉さん……」
「千鶴お姉ちゃん……」
「あ゛う゛っ……」
 妹三人から冷ややかな視線を浴びせられ、千鶴さんは泣きそうに顔を歪めて俺の方に助けを──
 求められる直前、俺は危機を察してそっぽを向き、楓ちゃんの前に湯飲みを差し出した。
「あ、楓ちゃん、熱いの一杯ね」
「はい……」
 視線を姉に固定したまま、楓ちゃんが急須からお茶を注ぐのを俺は黙って見つめていた。
 なにやら視界の片隅で千鶴さんが半泣きになっているようだが、完全無視。でないと、あの潤んだ瞳(美少女バージョン)に抗うだけの自信がない。あれに見つめられたら、もうなんでもかんでも許してしまいそうだし。
 そして、そのままそっけなく一言。
「……それで?」
「…………」
「千鶴さん、心当たり」
「……ぅ……」
「そのまんま、ってわけにはいかないでしょ」
「…………………………は……い……………」
 千鶴さん、陥落。
 ふっ……事情聴取で成果をあげた刑事の気分だぜ……
 何を隠そう、俺は刑事ドラマが大好きなのだ。
 長瀬刑事、今度弟子入りしていいですか?

「……で? どんな心当たり?」
 弟子入りだかなんだか知らないが、妙な考えはとりあえずうっちゃって、俺はできる限り優しく、そっと千鶴さんに言葉を投げかけた。
 にやり。
 恫喝というものは、ただ単に相手の口を閉めるだけ。まずは丁寧に接するのが基本である。
 これぞ尋問の基本、アメとムチ。
「……あ、あの……えっと……」
「なんだよ千鶴姉、早く話しなって」
 梓、お前せっかちすぎ。それでは俺のアメの意味がないじゃないか。
 案の定、千鶴さんは全然先を口にしない。
「ええと……その……」
 なにやら手をぱたぱた動かし、俯き、かと思えば気まずそうに俺達四人に視線を注ぐ千鶴さん。おたおたしている様が初音ちゃんよりも子供っぽくって、めちゃめちゃ可愛い。
 余談だが、俺はこーゆー、かーいらしー子供の仕草とゆーやつにひっじょーに弱かったりする。だから、初音ちゃんがお気に入りなのだ。
 つまり、どーゆーことかというと……
 う、うおおぉっ……! だ、抱きしめてかいぐりしたい衝動があぁっ……!
 くっ……だが、ここは我慢だ……梓に半殺しにされたくなければ堪えるんだ、俺っ!
 しかしっ……なでなでしてやりたいぃ……!
 落ち着けぇっ! 死にたいのかぁぁっ……!
 俺が心の中で衝動との激戦を繰り広げている間も、千鶴さんは半分パニックに近い感じで、わたわたと忙しなく身体を動かすだけ。
「んと……そ、その……」
「千鶴姉さん? そんなに話しにくい事なの?」
「……ぁぅ……」
 図星を刺されたらしく、千鶴さんは口篭もって下を向いてしまった。
 まるで親や兄姉に怒られた子供だな……って、今の状態、そのまんまじゃんか。
 千鶴さんは、しばらくの間黙って自分の膝を見つめていた。その間、先を急かそうとする梓の口を、初音ちゃんがしっかりと塞いでいる。
 彼女はちゃんと自分の役目を理解しているらしい。えらいぞ初音ちゃん。先程からたまりまくった俺のリビドーの解放の為にも、後でたっぷりとなでなでしてあげよう。
 ……っと。それより千鶴さんは?
 彼女は未だ、視線を下に向けたまま──
 ややあってから、ぽつりと。
「……ね、ねえ、みんな……」
「何?」
「……えと……お、怒らない……?」

(なにがだあぁああぁぁぁあぁあぁぁあぁっ!?)

 上目遣いに脅えたように、家族全員の顔をちらちらと伺う彼女の言葉に、俺達は揃って心の中で突っ込みを入れた。
「だ〜か〜ら〜! さっさと話せってば!」
 ……いや。一人、口に出して突っ込んだ奴がいた。
 梓の剣幕にぴくりと肩を揺らした千鶴さんだったが、やがて覚悟を決めたように、再びふっくらとした唇を開いた。
「……あの……あのね……く、倉の……中で……」
「倉の中?」
「倉の中で……キノコの、粉末を……」
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 ……はい?
「……千鶴姉……今……なんつった……?」
「う、あうぅ……だから、キノコを……その……栽培してて……」
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 ……なんですと?
「ねー……さん……?」
「あ、あのねっ……! だからっ……ち、ちょっと趣味で園芸の真似事を……」
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 …………
 ……えん……げい……って……?
「ち、ちづる……おねえ……ちゃん……ま、さか……」
「……え、えっと……ぇと……その……多分……」
 俺達の凝視に耐えられなくなったのだろう。千鶴さんは、決定的なそれを──
「……う……ん……」
 ──肯定した。

「なんて事すんですかああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーー!!!!」
 俺は絶叫した。
 梓は脱力してテーブルに突っ伏し、楓ちゃんは顔を引き攣らせまくっていた。初音ちゃんに至っては、壁際まで後ずさり、瞳に恐怖の色を浮かべている。
「あ、ああんっ! だってだってっ、せっかく──」
「だあああああっ! あんなもんを栽培すんじゃないっ! 千鶴姉にゃ学習能力ってもんがないのかっ!?」
「姉さん……どうしてそういうことするの……?」
「うぅっ……千鶴お姉ちゃぁん……やめてよぉ……」
 うがーっと声を張り上げる梓。非難と懇願が半々の楓ちゃん。半泣きの初音ちゃん……
 普段は場を諌める方に向かうはずの下の妹二人も、さすがに以前の被害があるせいか、珍しくも千鶴さんに突っ込んでいる。
 俺はというと、頭を抱えて床にへたり込んでいた。
「ま、またしてもキノコが原因か……」
「……まあ……被害者が千鶴姉だけだったのが、不幸中の幸いだね……」
「梓っ、被害者ってなによぅっ!?」
「そのまんまの意味に決まってるじゃないか。千鶴姉の場合、自業自得って奴のような気もするけどね」
「なんで自業自得なのよぉ!」
「……ど〜せ、栽培したキノコでまた何か得体の知れないモン作ろうとしてたんだろ?」
「あうっ……!」
「それを、あたし達に食わせようとでもしてたんだろ……?」
「う゛っ……」
「……図星か……」
「うぅぅううぅぅ〜〜〜〜…………」
 ことごとく梓の指摘が的を射ていたらしく、反論出来ずに千鶴さんは黙り込む。なんだか、半泣きで頬を膨らませているが……
 梓の言う通り、自業自得だよなぁ……
 しかし、あの悪戯が見つかって観念した子供みたいな表情……あまりにも今の容姿にマッチしている……可愛い、可愛すぎる……保護欲がぁっ……
 ……ナニヲボケットシテイル? コウイウトキハダキシメテ、アタマヲナデナデスルモノダゾ……
 うっ……俺の中のもう一人の鬼が……
 ……サア、ハヤクスルノダ……ナデナデシテシマエバ、ソノムスメハナンジノモノダ……
 うおぉぉぉっ! うるさい黙れ静かにしろぉっ!
 クックックックッ……ナンジノナシタイヨウニナスガヨイゾ……
 どっかの邪神の台詞を吐くなっ! お前はどこの何様だっ!?
 フッ……モンダイナイ……
 あるわぁぁぁぁぁっ!! っつーか、そんなとこからパクるなあぁぁぁぁっ!
 ……ナゼダ?
 ……お前、許可得るのに一体いくらかかるのかわかってるのか……?
 ヴッ……!?
 わかってるんだろーな……? お前、あそこがどんな所かわかって言ってるんだな……?
 ヴゥッ……ソ、ソンナコトハナイ……
 ほほぉ〜〜……じゃあ、お前が許可を得てこいよ。俺は知らんぞ。
 ヌゥ……イッシンドウタイノブンザイデナマイキナ……
 ふふん、貴様が汗ふきつつ電話応対している姿、ここから笑っててやるぜ……
 ……キサマノヘソクリ……ロウヒシテクレヨウカ……?
 な、なにぃっ!?
 フフフ……タタミノシタ、タンスノカゲ、コテンテキニモガクブチノウラ……
 きっ、貴様卑怯だぞっ! 俺を破産させる気かっ!?
 ククククク……ツイデニ、キサマガヒゾウシテイルアノアノシャシンノアリカヲ、ソコノヨンシマイタチニバラシテクレヨウ……イッタイドンナコトニナルカナ……?
 やっ、やぁめろおぉぉおうおぉぉぉおぉぉぉっ〜〜〜〜〜〜!! それだけはっ、それだけはやめてくれえぇぇぇぇえぇえぇぇぇぇ〜〜〜〜〜〜!!!!
 
 










 ──────────────しばらくお待ちください──────────────
















 だああぁぁぁぁぁっ! てめぇ、いいから静まれええぇぇぇっ!
 チッ……
 自我境界線を越えて暴走しかける意志を押しとどめ、自我を再構築する俺の試練は、その後七時間三十七分(俺の脳内実感時間)に渡って続き──
 はぁ……はぁ……
 俺はなんとか、鬼を押さえ込む事に成功した。
「……で、千鶴、さん……とりあえずは……もっと、詳しい、話を……」
「耕一おにいちゃん、どうして息が切れてるの?」
「……今、ちょっとした、試練が……あったん、だよ、初音、ちゃん……」
「???」
 初音ちゃんは疑問符を浮かべている。
 まさか、鬼と激烈な心理戦──最終的には、厄介事のなすりつけあいから先日提出した論文の誤字脱字の指摘にまで成り下がり、初音ちゃんに対する楓ちゃんをなでなでする割合の必然性にまで及んでいた──を繰り広げていたとは言えない……
 疲れたように溜め息を吐く俺の隣で、楓ちゃんがなにやら理解の色を示した瞳でこちらを見て、頬を赤く染めていた。
 どうやら、俺が何を苦しんでいたのか、伝わっていたようだ。
 楓ちゃん……便利なちからだね……
 俺は心の中で、真っ赤な顔で同情、期待、非難、羞恥が複雑に交じり合った視線をよこす楓ちゃんに呟いた。

 とりあえず、俺の内面での戦いを楓ちゃんに知られてしまった事についてはなかった事にして、話を再開する。
 ……だから楓ちゃん、そんな期待に満ちた潤んだ瞳で俺を見ないでくれ……なでなでは後でしてあげるから……
 そして、それからしばし。
 途切れ途切れに半分支離滅裂な事を言う千鶴さんの話を統合、想像で補足すると──
「……つまり、昨晩、千鶴さんが皆に内緒でこっそり倉の中で栽培していたキノコの粉末を、頭から引っ被ってしまった、と……?」
「……はい……」
 千鶴さんがそのちっちゃな頭をこくんとさげる。
「……で、その時はなんともなかったけど、今考えてみると、そのキノコの粉末が何らかの原因になっているんじゃないか、って……?」
「……は、い……」
 だんだん、声が小さくなってきてるな……
「……って事は、千鶴さん、一応自分が栽培してるもんがどれだけ奇妙奇っ怪極まりない代物なのか、自覚はあったわけだね?」
「……は……ぃ……」
 沈黙の後、頷き。
「自覚してんなら栽培すんなああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っ!!」
 梓、絶叫モード。
 今にも暴れ出しそうな妹の怒声を浴びて、千鶴さんはびくっと脅えたように肩を竦める。
「まあ梓、落ち着け。とりあえず問題は別の所にあるだろうが」
「だけどさ、耕一……」
「今回は自分が犠牲者になってるんだ。さすがに千鶴さんも、少しは懲りただろうって。それよりも、早急に危険地帯の徹底調査としかるべき処置をだな……」
 そう、今問題にすべきはこの件の追求じゃない。これ以上の被害を出さぬように、食い止める事だ。さもなくば、想像も出来ないような恐ろしい事が……
「起きるような気がする……」
「……そだね……」
 気持ちを切り替えた梓が、重々しく頷く。千鶴さんはしゅんとしたままへこんでいた。
 と、そこへ先程居間から出ていった柏木家の末妹がぱたぱたと駆け込んできた。珍しくもパンツルックに着替えている。
「耕一お兄ちゃ〜ん。倉の鍵、とってきたよ〜」
「お、ありがとう初音ちゃん……あれ? 楓ちゃんは?」
 見ると、いつのまにか彼女の姿がない。
「え、えっと……『なにがあるかわからないから』って、懐中電灯とか薬箱とか、なにか色々リュック持ってきて詰めてたけど……」
「……楓……」
「うむ、懸命な判断だな。さすがは楓ちゃん」
「千鶴姉の毒物培養施設……既に人外魔境の城に達してるからね……」
「バイオハザードだからなぁ」
「魔界にも等しいし」
「わたし達も何か用意した方がいいかなぁ……」
「そうだね。最低限、未開の地に足を踏み入れるつもりで用意しよう、初音ちゃん」
「うぅっ……みんな、ひどい……」
 この際、部屋の隅っこでのを字を書いていじけている千鶴さんは無視。というか、まともに視界に入れたが最後、いつも俺が初音ちゃんに感じるのと同等の保護欲が湧き上がって、どーにもならなくなってしまうし。
 さすがに、一日二回も鬼との心理戦を繰り広げたくはない。
 俺達は早速、装備を整えるために行動を開始した。
 
 

「……と、いうわけで、俺達はなにはともあれ、まずは問題の産廃処理施設……もとい、毒物研究所……もといっ、千鶴さんのキノコ栽培プラントを調査する為に探検隊を結成したのだっ!」
「お兄ちゃん、誰に向かってナレーションしてるの?」
 突然明後日の方向を向いて喋り出した俺に別段慌てる事もなく、心底不思議そうな顔をして尋ねる初音ちゃん。きょとんとして俺を見つめてくる。
 いや、そんな顔されても困るんだけど……
「まあまあ初音ちゃん、細かい事は放っておこうよ……それよりも、いざ行かん、伝説の魔境へ!」
「何言ってんだよ、耕一……」
「でも梓姉さん、耕一さんが何を言いたいのかはだいたいわかるような気がする」
「そうだな……わかるな……」
「ええ……わかってしまうもの……」
「しくしく……楓まで……」
 梓と初音ちゃん同様パンツルックになった楓ちゃんがなにやら話しているその向こうでは、一人普段着(スカート姿)のままの千鶴さんがいじけていた。
 それらを他所に、何故か頭にヘルメットを被り、どういうわけか伯父さんの書斎に仕舞われていた防弾ジャケットを着込んだ俺は、鍵をポケットから取り出した。
「じゃあみんな、とりあえず……開けるぞ……」
 こくん。
 緊張感からか、自然と声が小さくなってしまう俺の言葉に合わせて、三姉妹が頷く。
「そんなに緊張しなくても……」
 なにやらぶつぶつ言ってるのは、拗ねたように唇を尖らせた千鶴さん。
 ううむ、しかし……拗ねた姿も可愛いなんて……ほんとに卑怯な人だよなぁ。しかも、いつもの六割増し(当社比)だし。
 ……と、それはそれとして。
 目の前の観音開きの倉の扉。俺は盗賊さながらにそこのあちこちをぺたぺたと触り、ぶつぶつとチェック項目を呟く。
「扉の周囲……壁、床、天井……錠前に鍵穴……変なでっぱりも穴も見当たらないし……どこにも罠はないようだな……現在の所、異常はなし、と……」
「耕一さん……あの、罠って……?」
「念の為です」
 そう、あくまで念の為だ。断じて千鶴さんならトラップ仕掛けてるかも、なんて思っていません。ええ、そりゃもう!
 そんな内心の声はさておき、尚も俺は真剣な顔で扉のチェックに余念がない。
 てきぱき動く俺の様子を見て、背後から覗き込んできた梓が、不審げに声をかけてきた。
「耕一、妙に手慣れてないか……? あんた、もしかして泥棒でもやった事あんの……?」
 む、鋭い突っ込みだな。
「泥棒とは失礼な……遺跡荒らしぐらいしかした事はないぞ」
「やっぱりやってんじゃないか! ……まさか、鬼の力使ってんじゃないだろうね!?」
「壁をくり抜いて道を作ったり転がってくる岩を受け止めたりとかか?」
「いやに具体的に言うなっ! インディージョーンズかっ!?」
「ふっ……学者じゃない。俺を呼ぶなら怪盗と呼べ」
「誰が呼ぶかいっ! つーか、力押しのどこが怪盗なのさ!?」
「予告状出したりする辺り」
「予告状って、一体誰に!?」
 結論。
 梓はからかうと面白い。
 ちなみに、遺跡荒らしといってもゲームの中での事だが。いやほんと。
 そうこう言ってる間に入念な扉のチェックは終わり、俺は改めて鍵を携え、おそるおそる鍵穴に差し込んだ。
 かちゃり、かちっ……
 ゆっくりと回すと、さしたる抵抗もみせず、鍵が開く。
 錆びついていない……それはつまり、ここの鍵がよく使われているという事でもある。
 そう。千鶴さんが頻繁にここに出入りしている事の確かな証。
 ……なんで今まで気付かなかったんだろう?
 だが、今はその事を悔やんでいる時ではない。過ぎた過去よりも、未だ見ぬ未来への道を探す事の方が大事だ。常に道は前にしか開かれないのだ。
 と、いうことで。
「錠前解除……問題はなし。いくぞっ……!」
 叫び、俺はゆっくりと未知の扉を開け放った。
 ぎいぃぃぃ──
 軋んだ音を立てて扉が開いてゆく。ゆっくりと、だが、着実に──
 さあ──鬼が出るか、蛇が出るか……?
 いやまあ、鬼はこっち側に既にいるけど……
 そして──
『!!??』
 扉を完全に開け放った瞬間、そこに広がった光景に、俺達は息を呑んで絶句した。
 …………そこは、倉ではなかった。

 ギャア、ギャア……
 シャアアァ……
 クワァ……クワァ……

 どこからか、得体の知れない生物の鳴き声が聞こえる。
 目の前に、生い茂る草木がうっそうとした茂みを幾つも作りあげている。
 何故か、水の流れる音まで聞こえてきやがる。
 そこは──
「…………な──なっ──なんじゃこりゃあああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
 そこは、ジャングルだった。

「な、なぁ、梓……」
「な、なにさ……耕一……?」
「俺……目がおかしくなったみたいだ……」
「き、奇遇だね……あたしも、そうみたいでさ……」
「…………」
「…………」
「は、初音ちゃん……」
「な、なぁに……耕一おにいちゃん……?」
「……俺、熱でもあんのかな……妙な幻覚が……」
「……あ、はは……わたしも、あるかもしれないの……」
「…………」
「…………」
「楓ちゃん……」
「はぃ……なんですか、耕一さん……?」
「俺が言いたい事……」
「……ええ……わかって、います……」
「じ、じゃあ、ついでに答えて欲しいんだけど……今、目の前にあるの……」
「現実……みたい、です、ね……」
「…………」
「…………」
「千鶴さん!!」
「千鶴姉!!」
「千鶴姉さん!!」
「千鶴お姉ちゃん!!」
「なっ、何っ? みんな、怖い……」
『いったいなにをした(の)!?』

 ──時々、思う。
 柏木家って、一体なんなのだろうかと。
 この家には、およそ人間の住む場所には存在しないと思われる、摩訶不思議なスポットが幾つも存在するのだ。
 得体の知れない菌類が生える庭だの、怪しげな物体の詳細が載っている図鑑が置いてある書庫だの、わけのわからんものが転がりまくった倉だの……そして今度は、当主が怪しげなキノコを栽培している倉と、その中に何故か広がる謎のジャングル……
 ……って、大半キノコ絡みなのが、一体誰が原因なのかを暗に指し示しているよーな気もするが……
 それにしたって、なんでこの家にはこうも妙なものが多いんだ!?
 これが人間の住む家か!?
 ……いや、まあ……ここに住んでるのは鬼だけどさぁ……
 しかし、なんだか異次元に繋がってるような、空間が歪んでいるような、そんな場所がここのどっかに絶対あるような気がする。
 目の前の光景は正に、俺が一時期抱いていたそんな印象を裏付けるものだった。
 恐るべし、柏木家!
 自然と、俺達の目は一人の人物に集中した。
「わ、私、なにもしていないわよ!」
「……千鶴姉さんの仕業じゃ、ないと……?」
「そ、そうよっ、幾ら私でも、こんな密林を倉の中に作ったりなんかできないわよっ!」
 いや、ひょっとしたら千鶴さんなら出来るかもしんない。
 今回に限っては違うみたいだが。
 だが、しかし──
 なんで倉の中に鬱蒼とした密林が広がっているんだ?
「耕一さん……ここに生えているの、シダやソテツですよ……」
 古生代?
「おいおい……なんでムカシトンボが飛んでるのさ?」
 絶滅種?
「あ……おっきなカブト虫……見た事ない……」
 新種発見?
 下の三姉妹が口々にどこか呆れを通り越して感心すら感じさせる言葉を紡ぐ中、俺は一人、達観したような領域に到達できずに苦悩していた。
「ぬあぁ〜っ……」
 完全にジャングルと化してやがる。あんまり遠くまで見渡せないが……
「ここは一体どこなんだ……」
 なんか、倉の中とは思えないほど広いような気がする。
 その証拠に──
「どうしてせせらぎの音が聞こえるんだ……?」
 せせらぎの音が聞こえるってー事は、つまり水の流れがあるっつー事で……なんだ、簡単な事じゃないか。
 つまり、川があるから。
「はっはっはっはっ。そーだそーだ。川か。なんだ、謎は全て解けたぞ」
 ……いや待て。なんか根本的に見落としてるもんがある。
 川がある。音が聞こえるから。
 それは間違いない。確かに川があるからに違いないが、だとすると問題は……そう──
 ──どーして倉ん中に川が……?

 深すぎる思考の海に沈没していた俺をサルベージしてくれたのは、初音ちゃんだった。
「ねえ、耕一お兄ちゃん……いつまでもこうしてても仕方がないよ」
 その言葉に、俺ははっと正気に戻る。
「は……た、たしかに、ここでじっとしてても何の解決にもならん……」
「そうですね……とりあえず、中に入ってみましょうか、耕一さん」
 楓ちゃんも同意し、年長組(片方はそう見えない)の二人も頷く。
「よし……じゃあ、まずは隊列を決めよう」
「隊列?」
 突拍子もない発言に、楓ちゃんが怪訝そうな顔をする。どこかきょとんとした表情が、あまり見慣れていないだけに可愛らしい。
「楓ちゃん、ダンジョンではいつ何時何が起こるかわからない。罠にかかったり敵に遭遇しても大丈夫なように、きちんと隊列をだな……」
「罠……ですか?」
「あるような気がするし」
「お兄ちゃん、敵って……?」
「いてもおかしくないし」
「それよりもダンジョンってなんだよ?」
「言葉のあやだ」
「耕一さん、なんだか遠回しに私の事非難してません?」
「気のせいです、絶対」
 ふっ……こんな所でダンジョンシナリオとは……ゲーマーの血が騒ぐぜ……
 こうみえても俺は、RPGが大好きなのだ。大学の仲間うちで集まって、夜通しテーブルトークRPGのセッションしっぱなし、なんてのも珍しくはない。
 そこで得た格言その一。
『得体の知れない場所=ダンジョン』
 その二。
『ダンジョンとは潜るもの』
 ついでに言うなら、
『ダンジョンの三大原則。罠、敵、宝物』
 ……と、言うことで、罠(まだ未確認)と敵(なんか本気でいそう)と宝(千鶴さんを元に戻す為のアイテム)があれば、それはもー立派なダンジョンといえるわけで……
 ……俺、結構馬鹿な事考えてないか……?

「じゃあ、先頭は俺。楓ちゃんがその後ろ、真ん中に……千鶴さん挟んで初音ちゃん、そんでもって最後尾が梓な」
「なんであたしが……」
 決まっている。
「攻撃力の高い戦士が前後を固め、魔法使いや僧侶を間に挟むのは基本だぞ」
 梓よ、お前は絶対最前列か最後尾だ。全国一億跳んで七百三十八万人のゲームマニア達にアンケートとってもいいぞ。
 何故アンケートなのか、自分の思考経路が理解出来ないが、俺のそんな疑問など蹴散らして、柏木四姉妹の下二人が不思議そうに問い掛けてきた。
「私、魔法使いですか……?」
「えっ? じゃあわたしが僧侶なの?」
 う〜ん、確かに雰囲気からいうと、楓ちゃんが魔法使い系で初音ちゃんが僧侶系だな。
 梓はまごう事無き戦士系。
「え〜っと、じゃあ私は一体……」
 千鶴さんは……普段なら魔法戦士とか、そんな感じではある。あるんだが……
「千鶴さんはとりあえず一般人。今の状態じゃ鬼の力も発揮できないようだし」
「えぇ〜っ……! 私、一般人ですかぁ……?」
 不満そうな声をあげる千鶴さん。
 だがしかし、この状態じゃねぇ……
 ここに来る前に試したが、どうやら千鶴さん、力が使えなくなっているらしい。原因は……外見から推して知るべし。
「今の千鶴さんじゃあ、魔法戦士にはなれないよ」
 鬼の力を使えるようなる為には、クラスチェンジが必要です、はい。
 そうでなきゃ、経験点貯めてレベル上げてください。
「どのみち、イベントクリアしなきゃ経験点はたんないよなぁ……」
「なにが経験点なんですか……?」
「千鶴さんのレベルアップ方法です」
 しかし敵がいても、俺達で倒したら千鶴さんの経験にはならんだろうし、困ったもんだよ、ほんと……
 
 

「……でも、なんでこんなジャングルが倉の中にできてるんだろ……?」
「さあ……得体の知れない事が起きたのだけはわかるけど……」
「変な鳴き声まで聞こえるんだから、生き物もいるんだよね、やっぱり……」
「そうね……いるね、きっと……」
 物置から持ってきた、妙に大ぶりな鉈で道を作る俺の後ろで、初音ちゃんの疑問に楓ちゃんが相槌を返している。振り返ると梓はうっとおしそうに張り出していた枝をかき分け、千鶴さんは……
「…………」
 ……なんだか、心なしかきらきらした目で周囲を見回しているような……
 可憐な美少女のそういう姿は、世の男どもにとっては至上の宝石のようにも見えるのだろうが……俺はその宝石がとてつもない力を秘めた呪いの魔石である事を知っているだけに、なんか素直に堪能出来ない。
 まあ、そこをさっぴいても絶世の美少女である事は疑いようもないし、他の姉妹達も──一人、性格的に納得いかないのがいるような気もするが──そうなんだが、見慣れていないだけに、彼女が際立って見える。
 と、その『納得いかない一人』が口を開いた。
「どうせ、千鶴姉の栽培キノコん中に怪しげなもんがあったんじゃないの? いや、絶対そーに違いない!」
「梓……この家で起きてる異常事態は全て私の仕業だとでも言うの……?」
「……さすがにわざとやったとは言わないけどさ、原因である事は十中八九間違いないとあたしは思うね。っつーか、それ以外の原因なんて考えたくないよ」
 むう、一理ある。
「確かに、今更何があっても不思議じゃないが……」
「幻覚キノコなんてレベルじゃないですよね、これは……」
「どー見ても本物だもんなぁ」
「千鶴お姉ちゃんって、凄いねぇ……」
「しくしく……私って一体……」
 暗に決め付けて言う俺達の言葉に、千鶴さんは泣き真似をして身体を捩って見せた。きらきらと雫が飛び、ふわりと舞い上がった髪の奥に潤んだ瞳が隠れ──
 うっ……男の本能に訴えかけてくる仕草だ……
 千鶴さん、もしかしてわかってやってる……?
 ある意味凄く煩悩をそそられる光景に、俺はただ黙して前を向くしかなかった。
 
 

 俺達は今、光が射し込む密林の中を、一歩一歩進んでいた。かれこれ十分はさ迷い続けている。
 色々不可解だが──どうして倉の壁にぶち当たらないのかとか、なんで倉の中なのに上空から陽射しがとか──もう、気にしない事にした。
 それにしても広いな……どう考えても、外から見た倉の大きさより中の方がでっかいぞ。
 この中は異次元なのか? 空間ダブラーなのか? ドラ○もんのポケットなのか?
「それにしても広いですねぇ、耕一さん」
「そうですねぇ、千鶴さん」
 ぽーっとした口調で話を振る千鶴さん。俺もぼけらっとしたまんま生返事を返す。
「良い景色ですねぇ」
「……ええっと……まあ、そうかもしれませんねぇ」
 怪しげな蔦が絡み付きまくっている巨木を見て言う言葉だろうか?
「梓や初音なんか、あんなにはしゃいで……」
「ええ、はしゃい……って、え……?」
 はしゃぐ?
 ……そーいえば、なんか辺りがざわざわうるさいような……
 まさか……!?
「梓、初音ちゃ……うおおおっ!?」
「どわああぁぁぁぁっ!? こ、耕一ぃっ、助けてくれぇっ!」
「きゃああああっ! お、お兄ちゃあ〜んっ!」
「梓姉さん! 初音っ!」
「梓、初音ちゃん!」
 嫌な予感──そう、冒険者の勘ってやつだ──にかられて振り返って見ると、最後尾の梓とその前を歩いていた初音ちゃんが、巨木から伸びた蔦に絡み付かれて宙に釣り上げら
れていた。
「ひ、ひぇぇ〜〜ん……おにいちゃんたすけてぇっ!」
「あらあら、初音ったら……そんなにはしゃがなくても……」
「千鶴さん、あれははしゃいでんじゃなくって、悲鳴あげてんの!」
「え、ええっ!? い、言われてみればそんな気も……」
 ……千鶴さん、中学生バージョンになってから天然がパワーアップしてないか?
「ああもうっ、いいから下がっててくださいっ」
 ようやく慌て始めた千鶴さんに伸びてきた蔦を鉈を振るって叩き伏せ、俺は彼女の前に出た。
 と、楓ちゃんが俺の服の裾を引っ張る。
「こ、耕一さんっ! あれっ!」
「なに、楓ちゃ……な、なんじゃありゃあっ!?」
 楓ちゃんが指差す先、巨木の中腹に毒々しい花弁が大きく口を開けている。その中央からどろどろとした液体が……
「食虫植物ですっ!」
「な、なんであんなもんが……」
「ひいぃぃ〜! い、いいから早く助けてよぉ〜!」
 徐々にその花弁に近づけられていく梓が情けない悲鳴をあげる。
 あいつ、動転して鬼の力を発動するのも忘れてやがる……
 いくら異様とはいえ、たかが図体でかいだけの食虫植物に食われる鬼……
「……なかなかシュールな光景だな……」
 そんなもんは見たくない。
 しょうがない……
「ふぅぅぅぅ……」
 鉈を楓ちゃんに渡し、俺は慎重に力を解放し始めた。
 そして、肉体が変貌しない程度に鬼の力を解放すると、勢いよく地を蹴る。

 だんっ!

 跳躍音。
「うぉらあっ!」
 気合一閃! 飛来した俺の爪が蔦を容易く引き千切り、いもとあっさり二人を解放する。
 よっしゃあ! たかが植物、弱い!
 心の中でガッツポーズをしつつ、俺はそのまま手を伸ばし──
「よっと……」
「あっ……!」
 手の届いた小さな少女を、腕の中に抱え込んだ。
「だあっ!」
 初音ちゃんを抱えて降りると、すぐ側に梓が尻餅をついて落下した。
「い、いててて……」
「情けないぞ梓、空中三回転して着地くらい出来ないのか?」
「出来るかそんなのっ! あたしは陸上選手であっても体操選手じゃない! ……だいたい、なんで初音を助け上げて、あたしだけ落っことす!?」
「お前は頑丈だろーが。落っことしても割れないから問題ない。それより、初音ちゃんの方が心配だ」
「あたしゃプラスチックの食器かなにかかっ!」
「いや、鉄(くろがね)の城だな。鉄壁かければ装甲二倍だ」
「なんの話さっ!」
「あ、あの……お兄ちゃん……わたし、そろそろ降ろして欲しいな……」
 俺に抱き抱えられたままの初音ちゃんが、恥ずかしそうに呟く。
 ……初音ちゃん、そんなに可愛らしい表情されると、おにーちゃんは君を離したくなくなってしまうんだが……
 とゆーか、梓の目がなければこのまま頬擦りしたい。
 ちなみにその頃、問題の食虫植物は、楓ちゃんが一閃した鉈の一撃で切り倒した巨木の倒壊に巻き込まれて、哀れにも押し潰されていた。
 鬼に挑んだものの末路。
 合掌。
 
 

 ……西暦一九九×年某月某日、探検家コウイチ・カシワギここに記す……
『……もう、だいぶ奥地にまで分け入ったような気がする。だが、問題の暗黒の秘境はいまだ見えてこない。魔王の城までの道程とは、これほどまでに遠いものなのか……』
「一体、ここはどうなってるんだ……?」
「暗黒の秘境って……魔王の城って……耕一さん、酷い……」
 うるうると目を潤ませた千鶴さんの声が、俺の背中に突き刺さる。
「……って、聞こえてたんですかっ!?」
「思いっきりな」
「というか、途中から口に出していましたよ」
「ちなみに、『問題の〜』辺りからだけど」
 ぬう、不覚っ!
 ……いや、それよりも千鶴さん……お願いですから、俺の背中に縋り付いてそこを指でぐりぐりするのはやめて下さい。そんな事されたら、俺の理性が保ちません。
「ま、まあ、そんなことはいいからとっとと先へ行きましょう」
 俺は理性の糸がぶち切れる前に、さっさと先頭に立って歩き出した。
「耕一さん……誤魔化してるでしょ……」
「いえ、全く──……ん? 今、なにか……動かなかったか?」
「え? いや、別に……」
 あれ? なんか細長いもんが視界の隅をよぎったような……

 刹那──

「……っ……」
「へっ?」
「……っきゃああああぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜っ!!」
 絶叫。
「千鶴姉!?」
「千鶴お姉ちゃ……ひっ!?」
 今朝方のものに匹敵するような、千鶴さんの悲鳴。慌てて振り返った俺の目に映ったの
は──
「へ、蛇ぃ!?」
 ──体長五メートルはあろうかという巨大な大蛇が、千鶴さんの足元から腰へと這いあがっている光景だった。
「……ぁ……」
 くてっと、金切り声をあげていた千鶴さんが意識を失い、気絶する。力が抜けたその身体を、大蛇がその胴体で締め上げるようにして樹上に逃れようとする。
「待てぃっ、そこなアナコンダ! 千鶴さんを離せっ!」
「こらぁっ! うちの姉貴に何しやがる!」
 俺と梓が蛇を追いかけて跳び上がった。
 鬼の力で数メートルを容易く舞い、樹上を這い上がる蛇の更に上から、俺は覆い被さるように手を伸ばす。
「この……っどわっ!?」
 シャアアアッ!
 胴体に手をかけようとした途端、蛇の頭が噛み付こうと牙を剥く。目の前で、
 ぐばん!
 と勢い良く閉じられた顎に、俺は冷や汗をたらした。
 あ、あっぶね〜……しゃれにならん……
「なにやってんだこうい、っだああぁっ!?」
 怒声をあげた梓も、太い枝に着地した瞬間に尻尾で足を払われかけて、わたわたとバランスを取るのに必死だ。
 その間に、蛇は更に逃亡を──

 ひゅっ……

 風切り音。
「はっ!」

 ごがっ!

 その隙を狙って、重力を感じさせない跳躍で飛翔した楓ちゃんの踵落としが、蛇の頭を捉えた。スニーカーの踵が鼻先に食い込む。
 突然の攻撃を食らって、蛇がよろめいた。
 おおぅっ、かっこいいぞ楓ちゃん!
 俺は思わず、心のアルバムに今のシーンを加えていた。
 シ……シャアアッ!
 そんな俺の心境を知る由も無く、激怒? した蛇は鎌首をもたげ、弓なりに身体を反ら
せ──

 がぎん!

 空中で複雑な軌道を描いた楓ちゃんの左足が跳ね上がり、右足が振り抜かれ──今度は飛来した爪先が、したたかに蛇の顔面を蹴り飛ばした。
 下顎を打ちつけられ、悶絶する蛇。
 ……なんだか楓ちゃん、重力を半分位無視して凄い動きをしたよーな気もするが、今がチャンス!
 俺はその瞬間、素早く接近して蛇の顎をがっしりと鷲掴みにした。続いて梓が尻尾に取りつき、蛇を地面に引きずり下ろす。暴れる蛇。
 ぐぐぐぐぐ……
「こんのおおっ! 蛇の分際で人間様に敵うとでも思ってんのかぁっ!?」
 ……いや、この場合は鬼だけど……
 くだらない突っ込みを頭の中でほざきつつも、顎を押さえつける俺の力は緩まない。
 千鶴さんの華奢な身体の上を這い回るとは……うらやま……いや、許すまじ爬虫類!!
 ぎりぎりぎり……と、俺の指は徐々に蛇の頭に食い込み始める。
「梓っ! 早く千鶴さんを助けろっ!」
「わかってるって! こんにゃろおおぉっ!」
 俺が声をかけるまでもなく、梓が蛇の胴体を千鶴さんから引っぺがそうと四苦八苦していた。胴体が長いんで上手くいかないみたいだが、なんとか締め付けられている千鶴さんから長い身体を引き離す事ができそうだ。
「ぬりゃあぁぁっ……! ……よしっ、楓、初音っ! 早いとこ千鶴姉を!」
「はい!」
「う、うん!」
 二人がかりで千鶴さんを抱き抱え、楓ちゃんと初音ちゃんが離れたのを見計らって、俺と梓は同時に凶悪な笑みを閃かせた。
「さぁ〜って……よくもやってくれたなぁ……」
「爬虫類の分際で、あたしの姉貴に手ぇ出そうとはいい度胸してんねぇ……」
 その時俺達は、蛇が全身を震え上がらせたのが見えた気がした。

 背中にふわふわとした柔らかいものが押し付けられている。心地よい重さが歩く歩調に合わせ揺れ動き、彼女の長い髪の毛がさらさらと首筋をくすぐる。
 ──柏木耕一は今、ある意味至福の一時を過ごしていた──
 むう。思わずモノローグしてしまう程、俺の背中に当たる感触は気持ちが良い。この大きさは、楓ちゃんよりは上か……しかし、今このくらいという事は、千鶴さんはこの頃からほとんど成長していないのではないだろうか?
「……ぅ……ぅん……」
「おっ、千鶴さん気が付いた?」
「こういちさん……? わたし……?」
 背中から小さな声があがり、俺がひょいと首を巡らすと、眠れるお姫様がうっすらと瞼を開いて、霞がかった瞳を見せる所だった。
 ふるふると頭を揺らし、周囲をゆっくりと見回す。
 可愛い……
「大丈夫、千鶴さん? どこかおかしなところはない?」
「はい…平気です……」
 どことなくぼんやりした表情で、千鶴さんは俺を見る。
「あれ……私、一体……?」
「千鶴さん、蛇に巻き付かれて気絶してたんだよ」
「あ……」
 かあっと、千鶴さんの顔が朱に染まった。
「それにしても、千鶴さんがあんな悲鳴を出すとはね」
「えっ……ぁ……ぅ……」
「意外だったなぁ」
「あ、あの……私、蛇とか、ああいうものが苦手で……」
 千鶴さんは真っ赤になった顔を隠すように俯き、俺の背中に顔を伏せてしまった。
 か、可愛いなぁ……
 俺の背中でまだ幼さを残した美少女が、頬を桜色に染めて俯いている。その華奢な手は、俺の服の裾をきゅっと掴んだまま離さない。
 自爆してしまいそうに脳髄に来るシチュエーションである。
「……と、とりあえず千鶴さん、歩ける?」
「えっ!? ……あ……は、はい……」
 はっと頭を上げた千鶴さんは、何故だかより一層頬を染め、まるで林檎のようになってしまう。その瞳には、微かに残念そうな色が──
 ぐはぁっ……やばいな、そろそろ限界が近いぞ、俺……
「あ、歩けます……から……お、降ろして……」
「うん……」
 そっと背中から千鶴さんを降ろし、向き直る。
「梓達はちょっと先行しているよ。もうすぐ戻ってくると思うけど……」
「は、はい……」
 千鶴さん、顔をあげてくれないな?
 ……うぅっ……しかし、この天使の輪は……
 今、俺の目の前には、俯いたままの千鶴さんの髪に輝く天使の輪が控えているのだ。しかもその持ち主は、そこらのアイドルなんか歯牙にもかけぬ程の超美少女! おまけに俺の従姉妹で、普段は優しいお姉さんで、今は可愛らしくなってしまった中学生の女の子で、あ〜、えーっと──……
 ……なんだか、妙に萌える設定じゃないか、おい?
 そー思ってしまうと、激しく歯止めが利かなくなる。
 天使の輪。こ、これは抗いがたい魅力が……!
 ……ああっ! なんかもーだめだぁっ!
 ち……ちょっとくらい……いいよな?
 俺は思わず手を伸ばし、そっと千鶴さんの髪を撫でてしまった。
「あっ……」
 そのままゆっくりと髪の毛を梳ってあげると、千鶴さんは気持ち良さそうに、はふぅ、と息を吐いて目を閉じた。ほぅ……と、可憐な唇から小さな小さな溜め息が洩れる。
 ……姉妹だからかな? 楓ちゃんや初音ちゃんの仕草とよく似てるな……
 しかし……この髪の感触がなんともいえず心地良い……このまま浸ってしまいそうだ……
 そのままなでなでし続ける事、しばし。
「あ、あの……耕一さん……」
「ん? なに?」
「も、もういいです……あの……その……ごにょごにょ……」
 くすっ。
 最後の方は小さくなってしまって聞き取れなかったが、そのあまりにも可愛らしい仕草が微笑を誘った。この綺麗な髪から手を離すのは残念な気もするが、俺はそんな気持ちを
おくびにも出さず、軽口を叩く。
「はいはい、続きはまた今度ね……ちーちゃん」
「は、はい……ぁっ……」
 それは千鶴さんの幼い容姿に昔を思い出し、思わず口からこぼれ落ちてしまった言葉。
 そして、その破壊力は──

「……ぁ、ぁぅぅ……」

 ──抜群。
 千鶴さんは、ぷしゅうぅ〜っと顔から湯気を出し、固まってしまった。そして、硬直から解けた直後、彼女は羞恥で真っ赤になった顔をあげ、頬をふくらませた。
「……こ、耕一さんっ! ちーちゃんって……そ、その呼び方やめてくださいっ!」
「どうしてさ、ちーちゃん? 可愛いのに……」
 おたおたと手足を振り乱し叫ぶその可愛さに、俺は尚も彼女を『ちーちゃん』と呼ぶ。
「は、恥ずかしいんですよっ!」
「ふっ……そーかそーか、恥ずかしいのか……ちーちゃんの弱点めっけ♪」
「こぉいちさあぁんっ!」
 千鶴さんが涙目で俺を見上げた。うるうると潤んだ漆黒の瞳に、歪んだ俺の顔が映る。
 うっ……や、やばい……!?
「ひどいぃ……」
 案の定、千鶴さんはぽろぽろと涙を零しはじめた。
「っえぐ……こぉいちさんの……っく……いぢわるぅ……」
「うっ……い、いや冗談だよ千鶴さんっ! ほ、ほらほら、涙拭いて!」
「知りません!」
「ちづるさぁ〜ん……」
 俺がその直後、戻ってきた梓に張り倒されたのはいうまでもない。
 
 

 川が見える……
 大きく、向こう岸がぼやけて見えるほどの幅の川だ……
 それなのに、何故か俺の目には、向こう岸の様子がはっきりとわかった。
 そこには、お花畑が広がっていた。名も知らぬ白い花が咲き乱れる、美しい花畑だ。
 俺はそこに、見知った人物を見つけた。
「耕一……」
「耕一……」
 親父……母さん……
 そうか……お迎えに来たんだね……
「違うわ! 全く……何を馬鹿な事言っている……」
 酷いな、親父……
「あなたは、まだやらなければならないことがあるでしょう……?」
 母さん……やらなきゃいけないことって……?
「耕一、あの四人を頼む。今度はお前が、あの四人を守っていく番なのだ……」
 親父……守るって、楓ちゃんや初音ちゃんはともかく、千鶴さんや梓にはそんなの必要ないよーな気がするぞ。
「そういうことではないわ、馬鹿者」
 ?
 じゃあ、どういうことだよ?
「耕一……あなたが頑張って、止めるのよ……あの子達を……」
 止め……って、まさか……?
「そうだ……あの四人……特に上の二人が巻き起こす騒動を、お前が身体を張って止めるのだ」
 む……無茶だっ!!
 今回だって、こんな異常事態になってんだぞ! それを俺一人でどーにかしろと!?
「そうだ……なせばなる」
 なるかぁぁぁぁっ!!
「耕一……頑張れ……」
「耕一……あの子達の力になってあげてね……」
 ま、待ってくれ、親父、母さん!
 俺一人であの四人の本気を止めろとゆーのか!?
 まってくれえぇぇぇっ!
 
 

「う〜ん……う〜ん……う〜ん……」
「……さん……」
「……いち……さん……」
「……耕一さん!」
「はっ!」
 呼びかける声に俺が目を開くと、すぐ側に千鶴さんの顔があった。
「耕一さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫…………親父と母さんに逢ってきたけど」
 ぼそりと呟いた俺の言葉に、初音ちゃんが頭にでっかい汗を浮かべた。
「耕一お兄ちゃん……それって、臨死体験なんじゃ……?」
「なんですってぇ!? 耕一さん、頭は大丈夫なんですか!? 身体は!? 早く病院に……!」
「千鶴姉さん、落ち着いて……」
「これが落ち着いていられますか! もうちょっとで耕一さんがあっちへ行っちゃうところだったのよ、もしそーなったらどーするつもりだったの、梓!」
「あ、あたしの責任かぁ!?」
「あなたが耕一さん張り倒したんでしょーが!」
「それ言ったら、最初耕一がそんな目に遭う原因つくったの千鶴姉だろ!」
「直接の原因はあなたよっ!」
「お、お姉ちゃん達……落ち着いて……」
 ああ……またやってるよ……
 言い争う姉二人と、それを止めるのが自分の役目とばかりに、必死になって二人を宥める初音ちゃん。健気だなぁ………
 喧嘩をはじめた姉妹をぼんやりと見つめながら、俺は青い空を振り仰いで、決意した。
 俺は努力して見せる……俺自身の平穏と身の安全の為に……だから、助けてくれ、親父!

(……死ぬなよ……耕一……)

 おやぢいぃぃぃっ!
 へるぷみぃぃぃぃぃぃぃぃ!!
「お兄ちゃん、だいじょうぶ……?」
「耕一さん……」
 最初空に向かって握り拳をつくり、続いてなにやら悲痛な顔から手の届かぬものを見つめるような顔へと百面相を繰り返す俺を、楓ちゃんと初音ちゃんが心配そうに見守っていた。
 
 

 それからしばし。
 姉妹喧嘩も一段落し、先に進み始めた俺達は──
 川に当たった。
 幅三十メートル程の川にぶち当たった。
 ちなみに今更だが、本来、この倉はせいぜい十坪程度の大きさのはずである。つまり、実質的には二十メートル四方の大きさもないわけで……
 ……まあ、もはや気にすまい。
 そんなわけで今、俺はその川の中に足を踏み入れている。勿論、安全確認の為だ……加えて言わせてもらうなら、優しくない従妹に
『かよわいあたし達の為に、安全を確保しろ!』
 と、先行偵察を命じられたからだが。
 ……俺にはどこがか弱いのか、甚だ疑問の残る所なのだが……
 しかし一旦偵察に出てしまうと、真面目に順応してしまう自分が悲しい。まあ、梓はともかく、他の三人が酷い目に遭うのは避けたいから、慎重になるのも当然か。
「ん〜……別に深い所はなさそうだな……」
 ゆっくりと川底を見やりつつ、俺は一人ごちた。
 川の深さは、深い所で初音ちゃんの膝程度だ。流れも緩いし、この位なら簡単に越えられるだろう。
 余談だが、嫌味なくらいに澄んでいる。そりゃもう、思いっきり澄んでいる。今も川底の砂地がはっきり見えて、俺の足がそれを踏む度に、砂が流れる。
 ……これだけ澄んでいて魚影が見えないのが妙に気になるが。
「おにいちゃ〜ん、だいじょ〜ぶぅ?」
「ああ、大丈夫だよ初音ちゃん。思ったより浅いみたい。皆、来ても平気……」

 ずぶっ……

「……へ……?」
 足元の異様な感触に、俺は思わず間抜けな声をあげてしまった。
「な、なんだぁっ!?」
 ずぶ、ずぶ……
 足がどんどん沈んでゆく。浅い川底だと思ったら、砂の下に泥がたまっていて──って、ま、まさかこれは底無し沼!?
「し、しまった、罠か!?」
 じょ、冗談じゃないぞ!
「どわあああっ! た、助けてくれぇぇ!」
「うわっ、耕一が沈んでいくっ!?」
「た、大変っ、お兄ちゃんを助けなきゃっ!」
「ま、待って初音っ、そのまま行ったらあなたも沈むわよっ。何かロープみたいなものを探さないと……!」
 慌てて俺の方に走りだそうとした初音ちゃんの肩を千鶴さんが掴み、代わって梓が川面のぎりぎりまで駆け寄ってくる。と、その梓に向かい、楓ちゃんが何かを投げ渡した。
「梓姉さん、これ!」
「ん? ロ、ロープ……!? でかした楓っ!」
「耕一さん、今ロープを投げます。しっかり掴まって……!」
「な、なんでもいいから早く助けてくれぇ〜〜!」
 俺は今、それどころじゃない。既に太腿まで埋まっている。

「はー……はー……」
「ぜぇっ、ぜぇ……」
「ふう……ふぅ……」
 数分後。
 俺は川岸の岩の上に大の字になってぶっ倒れていた。
「はーっ……助かったよ、楓ちゃん……」
「いえ……耕一さんが無事でよかったです……」
「でも、楓。どうしてロープなんか持っていたの?」
 そーいやそーだな。
「リュックに詰めてきたの……もしかしたら使うかもしれないと思って……」
「…………」
「へぇ……」
 俺は感心した。冒険にロープは基本装備だが、俺はうっかり忘れていたぞ。
 梓と初音ちゃんも、楓ちゃんの用意の良さに感心している。
「楓お姉ちゃん、さすがだねぇ〜」
「準備万端、ってやつだな」
 楓ちゃん、深い読みだ……とゆーか、鋭すぎるぞ……
 楓ちゃんの前で嘘をつくのは、至難の技になりそうだ。浮気は駄目です、とかいって。
 ……最も、そのお陰で俺は魚の餌にならなくて済んだんだが……
「そう……? 今回の騒動を考えると、この位の用意は必要かと思って……」
「楓……それは私がなにかしでかすと、ロープをリュックに忍ばせる程の大事になるとでも言ってるのかしら……?」
「自覚ないのか、千鶴姉」
「きぃぃっ……梓ぁっ……」
「へっへ〜ん。今なら全然怖くないもんね〜」
「あーもう……元に戻ったら覚えてらっしゃいっ……!」
 知恵が足りんぞ梓。今からかっても、絶対後で仕返しされるってのに……
 千鶴さん、こういう事は根に持ってしっかり覚えてるからなぁ……せめてとばっちり食らわんようにしよ……
 
 

 そして、その後。
 鰐に襲われつつも川を越え、崖をよじ登る途中で奇怪な鳥と取っ組み合い、更に食虫植物と激戦を繰り広げること三回を数え。
 数時間にも及ぶ探索の末、俺達の目の前には、想像を絶する光景が広がっていた。
「今、長き旅路の果てに! 遂に来た! ここが魔王の城……我々が倒すべき敵がいる所なの……ぶおっ!?」
「なぁにが魔王の城だっ! いい加減ファンタジー世界から帰ってこい!」
「い……いきなり張り倒すな梓っ! うっかり足元にあるキノコに顔を埋めるところだっ
たじゃないかっ! なんか変な影響受けたらどうするっ!」
「あんたは少しくらい影響受けろっ! もしかしたらいい影響で真人間になるかもしれないだろーが!」
「俺は昔から真人間だぁぁぁぁっ!」
「嘘付けぇっ! そんな事言うのはこの口かっ、この口かぁっ!?」
「ふ、ふぁずひゃ、ひゃめりょぉぉぉ!」
 俺と梓の口論をよそに、初音ちゃんが足元を見て後ずさる。
「うわぁ……ほんとに変なキノコがいっぱい生えてる……楓お姉ちゃん、なんだか気持ち悪いよぅ……」
「初音、気をつけて……そこにあるの、セイカクハンテンタケ……」
「ひぃっ!? お、お姉ちゃぁん……」
「よしよし……お互い酷い目に遭ったものね……」
 脅えてすぐ上の姉にしがみつく末の妹。彼女を抱いて、よしよしと頭を撫でてやるその姉。二人ともそこはかとなく顔が青褪め、細かく肩が震えているような気がする。
 楓ちゃん……初音ちゃん……
 あの様子だと、トラウマになってるんだなぁ……
 無理もない。特に、このおどろおどろしい雰囲気の漂う場所にいては……
「それにしても……まるでキノコの森だな。ここいらだけが……」
「どこをどーすりゃ人の身長ほどもあるキノコが生えるんだよ?」
「というか……あの辺のマッシュルームみたいなのなんか、家になりそうだぞ、おい……」
「童話の世界だね……凄まじくメルヘンとはかけ離れたベクトルでだけど……」
 そう。まるで童話だ。
 なにせ、そこかしこから奇怪な気配漂うキノコどもが生えまくり、しかもその大きさは千差万別、巨大なものでは大木にも匹敵しているのだ。
「正にキノコの森、あるいは山……」
 念の為言っておくが、森○や◇治のお菓子じゃないぞ。
 そして、童話との差異をあげるなら、それがメルヘンチックなものでは決してなく、むしろホラー的な雰囲気を湛えているところだろう。鬼の本能が危険を訴えてばりばりである。
 題名を敢えてつけるなら……

『キノコの森の鬼姉妹』

 …………嫌な感じにマッチしていて怖い…………
 未だ震えている年少組二人を横目で見てから、俺と梓は呆れ果てたように、疲れたように溜め息を吐いた。その横では、千鶴さんが口元に手を当てて、困ったように眉を寄せている。
 そして彼女は、聞き捨てならない言葉を呟いた。
「あらら……一晩でこんなに成長するなんて……やっぱりあの時うっかりこぼしちゃったあれが……」
『ちょっと待ったぁ!』
「え……? どうしたの、みんな?」
 どうしたもこうしたもない。
「千鶴姉……今なんか、ものすっっっごく不穏当な台詞吐かなかったか?」
「え? え……?」
「なんか、一晩でどーのこーのとか……」
「なにをうっかりこぼしたって……?」
「え……? あれ? 私、そんな事言いました?」
 言った。はっきりと。
「千鶴さん……」
「お姉ちゃん、何したの……?」
「千鶴姉さん……一体何をこぼしたんですか?」
「え、え〜っと……」

 じと〜〜〜〜……

 俺達の冷たい視線に耐え切れなくなったのか、千鶴さんはどこか虚ろな笑顔で、空々しくも笑いかける。
「……つ、通販で買った『植物異常成長促進剤』ってものを、ちょっと……てへっ♪」

「てへっ、じゃなあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあいっ!!」
「そ、そんなもんを……」
 だいたい、『異常』ってなんだ『異常』って。
「じゃあ、これって……それが原因なの?」
「考えたくないけど……」
「……他に考えられないですね」
 楓ちゃんが重々しく話を括る。
 今、確信したぞ……
 千鶴さんとキノコが絡んだ事件は、闇に葬った方がいいと。
「……全てが片付いたら、この倉は封印してしまおう……」
「そうだね……」
「その前にさ、ここのキノコの群れだけは、焼き払ってしまった方がよいと思うけど……」
 梓、その意見承認……いや、ちょっと待て。
「梓姉さん……そんな事して、もし毒ガスとか発生したらどうするの?」
「はっ……!?」
「そんな可能性もあるな……」
「じゃあ、そのままにしておく?」
「ううん……倉自体を埋めてしまうなり、コンクリートか何かで周囲を覆うなりしてしまった方が、安全だと思うの」
「あ、いいかも……」
「ついでに護符とか周囲に貼っとくか」
「魔除けか」
「外側内側両方に対する……ね」
 よし、そっちの意見を承認だ。
「みんな……やっぱり私の事、遠回しに非難してるでしょ?」
 俺達が話し合う中、一人蚊帳の外に置かれた千鶴さんは、指を咥えて拗ねたようにこちらを睨んでいた。
 
 

「……ん……それじゃ、対策はこのぐらいで良いとして……とっとと千鶴さんを元に戻す手がかりを探してしまおうか」
「そーいやそれが目的だったっけ……ここまで来るのに色々あって、すっかり忘れてたよ」
「私も忘れてました」
「わたしも……」
「みんな……私がこのままでもいいって言うの……? ひどい……」
 千鶴さん、再び拗ねる。
「耕一さんは覚えててくださってたんですね……耕一さんは私を見捨てませんよね?」
「あー、その…………あははは……」
 ……俺も今の今まで忘れていた。
 ぢつはちょっぴり、冒険に浸りきっていたとも言えなくもない気がしないでもない。
 画面の外の諸君、薄情というなかれ。
 日常に入り込んだ非日常、摩訶不思議な事件、未知の存在、血沸き肉踊る冒険、困難な試練、そして、謎、謎、謎!
 ……男って、こーいうシチュエーションになると燃えるんだよなぁ……

 俺が自己完結している間に、既に姉妹達の間では話が進んでいる。
「じゃ、どーやって手がかりを探す?」
「んー、こういう時って、まずは事件現場から、なんだよね」
「そうね……定番ね」
「と、いうことは、この場合は千鶴姉が事故った場所、か」
「千鶴姉さん……姉さんがキノコの胞子を被ったのって、どこ?」
「んと……確か……」
 
 

 しばし後、俺達はキノコの森の一角に何故か残っていた、本棚やら薬品棚が並んでいる場所に着いていた。
「えっと……ここがそうです。私は昨日、ここで転んで薬品棚の一つを崩して……そこにあった幾つかの粉末をまとめてどばっと……あら? みんなどうしたの?」
『……………………』
「……実験設備……?」
 あの初音ちゃんが、顔を引きつらせて呟いたのもさもありなん。俺達には、そこは得体の知れない何者かが住み着いた、邪悪な実験の行われている場所にしか見えなかった。
 いや……もしかすると、ほんとに悪の魔道士の研究室なのかもしんない。今もどこからか、俺達を罠にかけようと最後の大ボスが手ぐすね引いて……」
「耕一さん、また口に出ています」
「はっ!?」
 楓ちゃんに突っ込まれ、俺は意識を現実空間へと復帰させた。
 慌ててきょろきょろと見回すと、楓ちゃんだけが側で苦笑を浮かべて俺を見ている。
「大丈夫です。姉さんには聞こえていません」
「そ、そう……よかった……」
 ふぃ〜っ、危ないところだった……つい口に出てしまったか。
「それに、多分最後のボスはいないと思いますから……」
「そ、そうだね。何を馬鹿な事言ってんだか俺も、あははは……」
「最後のボスは千鶴姉さんです」
「………………」
 俺はこの時、なんだかいやにきっぱりと言い放つ楓ちゃんが、とてつもなく恐ろしい鬼姫に見えた。

「さ、さて……とりあえず、そこらの棚から調べてみようか。なにか、千鶴さんを元に戻す為の手がかりがあるかもしれない」
 忘れよう。さっきの楓ちゃんの台詞は……
 既にあの台詞は、俺の心の奥から数えて三番目の部屋の中の右端のタンスの上においてある小箱の中に放り込み、部屋の隅に転がっていた空っぽの金庫の中に入れて七桁のキーロックと四つの南京錠をかけ、左手前の棚の中央に放り上げている。
 厳重過ぎる? アレにはこの位の対処は絶対必要だと思うぞ。
「じゃ、あたしはあっちの薬品棚を……」
「私はそこの本棚を見てみます」
「それなら、私はこちら側の棚にしましょうか」
「あ、じゃあ、わたしも千鶴お姉ちゃんと同じ所を探してみるね」
「OK。そんじゃ、俺は……と。こっちからまわってみるかな。みんな、なんかめぼしいもの見つけたら、呼んでくれ」
『了解』
 俺の言葉を合図に、ばらばらに散らばって行く柏木四姉妹。かくいう俺も、手近な棚を調べ始めた。
「ん〜……ここの本棚は……」
 貴方が選ぶ、激辛料理百選……世界の珍しい昆虫……切れる柳刃……今夜の夕食の献立……変な効能のあるキノコ図鑑・完全版……ゲテモノ調味料……完全毒物マニュアル……

「むう……これは……」
「ほほう、変わった本だな……」
「げ……なんだこりゃ」

 そのまま五分ほど、妙にでかい本棚を隅から隅まで眺めてみる。
 幾つかそれっぽい物を取り出してめくってみるも、該当物は見当たらない。所々になにやら別の意味で気になる題名もあったりしたが、目的のものに関係ありそうな本はない。
 にしても、この本の取り合わせって一体?
「調理関係……にしては節操のない……ん?」
 本棚の中に一冊だけ、なにやら日記帳のようなものがある。
 何気なしに取り出して、ぺらぺらとページをめくってみる。

 ……蜥蜴の尻尾、蛇の抜け殻、セイカクハンテンタケ、ラフレシアの花弁、ツチノコ……

「…………」

 ぱたん。

 ……なんだ、これは?
「まるでどこぞのお嬢様の魔術薬品の調合書みたいだな……題名は……?」
 ひょいっとひっくり返す。
 

『ちーちゃんの耕一さん絶対撃墜レシピ』
 

「…………………………」
 俺は一瞬で視線を空へと向け、今見たモノがなんだったのか、考えようとした。

 ……考え付かない……

 もう一度読み返す。
 

『ちーちゃんの耕一さん絶対撃墜レシピ』
 

「……………………………………」
 ……レシピ……?
「……まぢ……?」
 
 

 ほわいとあうと。
 
 





──ロボ、パンチだ!!──
 間”っ!!
(ま”っ!!)
















 ぶらっくあうと。
 
 

「……まぢ……ですか……?」
 この時の俺の表情は、世にも情けないほど恐怖と絶望感に満ち溢れたものだったに違いない。
 俺はささっと辺りを見回し、誰もこちらに注意を払っていない事を確認した。
「…………よし…………」
 見なかった事にしよう。そしてこれは燃やしてしまおう。
 堅く堅く心に誓い、さりげなく自分のリュックの中に仕舞い込む。
「い、いいよな……別に……俺は自分の命を守っただけだよな……」
 そう……当然の事だ。俺は自己防衛本能を発揮したに過ぎない、はずだ。
 ……なのになんで、こんなに怯えなければならないんだろうか……?
 俺はそれから十分近くの間、得体の知れない恐怖と格闘を続ける羽目になった。

 と、ところで……千鶴さんを元に戻す為のアイテムは見つかったのかな?
 十分後、復活した俺は、ふと他のみんなが何をしているのか気になってきた。
 四姉妹達に視線を向けると──
「ん〜っとぉ……セイカクギャクテンタケ……セイカクハンテンタケ……セイカクテンカンタケ……これ、どう違うのかな……?」
「……セイシンフンサイタケ……ニクタイカイゾウタケ……セイカクキョウボウタケ……セイカクヘンボウタケ……ま、麻薬の貯蔵庫か、ここは……」
「効能……性格反転……肉体変換……精神交換……老化停止……違う、そんなのじゃなくって……これだけあって、どうして成長退行ってないの……?」
 三姉妹がなにやら必死になってあちこちの戸棚を覗いたり、置いてあった図鑑や辞典をめくっているが……問題のものは未だ見つかってないようだな。
 ……ん? 三人?
「あれ? みんな、千鶴さんは?」
『え?』
 きょろきょろと辺りを見回しても、現在最年少の長女(?)の姿が見えない。
「あ、あれれ……さっきまでわたしの横にいたよ……?」
 初音ちゃんが戸惑ったように呟く。
 さっきまでいたって事は、一人でどっか行ったのかな?
「千鶴姉さん……一人で出歩いちゃ危ないのに……」
「あのでかい鳥だの食虫植物だのに遭遇したらどうするつもりだよ……?」
「むう……危険だな。ここは何が出てもおかしくないからな。まだ出くわしてないだけで、恐竜とか首狩り族とかキノコ怪人とか……」
 俺がそう言った、まさにその時──

『きゃあああぁあああぁぁあぁぁぁあああああぁぁあああっ!!??』

 今朝方も聞いた、千鶴さんの凄まじい悲鳴が届いた。
「な、なにっ!?」
「千鶴お姉ちゃん!?」
「まさか……なんかやばいもんに襲われたんじゃ……?」
「本当にキノコ怪人とか……?」
「と、とにかく行ってみよう!」
 俺達は、悲鳴の聞こえた方に駆け出した。

「千鶴さん!?」
「ふ、ふえぇぇ〜〜……こぅいちさぁ〜ん……」
「うっ……!?」
 地面にぺたんと座り込んだ千鶴さんが、半泣きで俺を呼ぶ。潤みきった瞳と見上げる上目遣いの視線、きゅっと何かをこらえるように噛み締められた口元……
 俺は一撃で、その攻撃に粉砕された。

(ぐはぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜っ!)

 な、なんつー破壊力だっ! これは核に匹敵するっ!
(ソロモンよ、私は還って来た!!)
 おお、ガトー少佐あぁっ、ソロモンは、ソロモンはっ……!

 宇宙世紀へと意識が弾け飛んだ俺はさておき、楓ちゃんが千鶴さんの肩を揺する。
「ど、どうしたの千鶴姉さん?」
「うぅぅ……けほっけほっ……」
 ん? なんか、咳き込んでるぞ?
「けほけほ……キノコが……いきなり胞子を……こほっ……」
「……ほーし……?」
「お兄ちゃん、胞子だよ、胞子。キノコの傘から吹き出る……」
「ああっ。そうか、あれか」
 なるほど、千鶴さんを良く見てみると、髪の毛やら服やらに花粉のようなものがぱらぱらとくっついてる。

 ……ん……?

「あの〜……千鶴さん……」
「はい?」
「つかぬ事をお聞きしますが……その足元の割れた硝子瓶は一体……?」
「あっ、これは……」
 ……やな予感がする。
「これは?」
「えっと、その……」
「千鶴姉さん……『また』なにか……?」
「うっ……」
 ぐっとつまる千鶴さんはさておき、さっと真っ二つに割れた硝子瓶の欠片を拾い上げ、楓ちゃんは目を刃のように細くした。
「……耕一さん、この硝子瓶、さっき戸棚にあったものと同じてす」
「え?」
 ……なるほど。たしかに……良く見るとラベルも貼って……
 ……って、千鶴さんっ!? 一体何をするつもりで……
「ねーさん……これをどーするつもりだったの……?」
 いやに平坦で、その癖じとっとしたものを混ぜ込んだ視線と声音。楓ちゃんの眼が紅く光を放っているような……
 俺は先程の言葉を脳裏に浮かべかけ、速攻で記憶を封印した。
「……ねー……さん……?」
「……ぅ……」
「……持ち帰って、こっそり料理に使おうとでもしてたんでしょ……?」

『なぁにいいぃぃぃぃいぃいぃぃぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜っっ!?』
「あぅっ……」

 そっ、そーだったのか……危ない所だった……
「で、でも、割れちゃって良かったね……あ、あははは……」
 初音ちゃん、口元が引きつっているよ……
「……千鶴姉……いいかげんに……」
 梓が切れかけた、その時だった。

 とくん……

「あっ……?」
 千鶴さんが突然胸の辺りを押さえ、動きを止めた。
「千鶴さん……? どうしたの?」
「ぁ……む、胸……が……」
「え?」

 どくん……!

「うあっ!」
 びくんっと、千鶴さんの華奢な肢体が跳ね上がった。
「千鶴姉さん!?」
「お姉ちゃん?」
「……く、くる……し……」
「なんだ千鶴姉? 誤魔化そうったってそーは……」
「ち、ちが……」
 弱々しく首を振り、自分の身体を押さえつけるように肩を掻き抱く千鶴さん。何か、身体の中から溢れ出すものを押し留めようとしているようにも見える。
「はいはい、わかったわかった。いいから下手な芝居はやめろってば」
「梓……演技には見えないぞ?」
「んなわけないだろ。どーせこの場をあやふやにしようと……」

 どくん!

「っ……ぅ……ぁ……ぁあ……っ……!」
「……ほんとか、おい?」
「……あ、あれ……?」

 どくんっ!!

「……っ……っうぁあっ、あぁああぁぁああぁあぁぁぁーーーーーーーーーーーっ!!」
 
 
 
 
 
 

 ────閃光!
 
 
 
 
 
 

 千鶴さんが一際甲高い悲鳴と共に弓なりに身体を反らした瞬間、何かが爆発するような音が響き走り、続いてぶわっとどこからともなく吹き出した白いもやが、俺達を巻き込んで周囲を包み込んだ。
「どわあっ!?」
「きゃっ!?」
「な、なにこれ、煙っ!?」
「け、けほけほっ……な、何が……?」
「なんだなんだ!? 煙幕か? こら千鶴姉、往生際が悪いぞっ!」
「……っ……ちっ、違う、わ……よっ……! わ……私っ、は……なに、も────こほっ、けほけほっ……」
 その白い霧が晴れた時──
「え?」
「へっ?」
「あっ……」
「いっ!?」
 俺達は息を呑んだ。
 俺達の視線の先、そこには────

「……ぁ、あれ……わた、し……?」
 元の姿に戻った千鶴さんが、苦しそうに胸を押さえた態勢のまま、きょとんとして座り込んでいた。
 
 

「い、一体何が……?」
 何が起きたのかさっぱりわからない。
 そんな顔をしていた千鶴さんを、俺達四人はぽかんとして見つめていた。
 俺達だって訳がわからない。
「も、元に戻った……?」
 梓がぽつりと呟く。
「でも、一体どうして……?」

 きゅぴーーん!(古典的)

 初音ちゃんが戸惑いつつも首を傾げた瞬間、俺の灰色の脳細胞(IQ測定未検査)に凄まじいまでの閃きが走った!
 シナプスが悲鳴を上げる程の、しかし一瞬の閃光の後、俺は進路反転してダッシュ、呆気に取られたままの従姉妹達を置いて本棚の一つに駆け寄り、目的のそれを引き抜いた。 そして再び皆の所に戻ると、その本を高々と掲げ、独特の抑揚をつけて叫ぶ!
「──変な効能のあるキ〜ノ〜コ〜ず〜か〜ん〜、か〜ん〜ぜ〜ん〜ば〜ん〜〜〜〜!!」
「お前は未来から来た猫型ロボットかっ!」
 うむ、梓。見事な突っ込みだ。だが、この際反撃はしないでおこう。
 俺は梓の突っ込みを軽く流し、図鑑を開く。
 ぱらぱらぱら……
 速読法のような速さでページをめくる。
 ──あった!
「みんな、これだ! この千鶴さんに胞子を吹きかけたキノコ! こいつが原因だ!」
「どれどれ……?」

 ──ヤッコウチュウワタケ。

「やっこうちゅうわ……?」
「やっこうちゅうわ……薬効中和?」
「いろんな薬とか、毒とかの効果を中和……打ち消すキノコって事らしい。毒キノコとか、毒蛇に噛まれた時とかに使うようだな」
「そのまんまか……」
 確かに。安易なネーミングだ。
 ……だけど、セイカクハンテンタケを始めとして、ここいらにある無茶苦茶なキノコは全て安易な名前の気がするのは、俺だけか?
 初音ちゃんが、わかったようなわからないような顔をして、俺に尋ねる。
「えっと……つまり、解毒のキノコ、って事?」
「だね。さっきこいつを読んだ時は見逃してたけど、よく考えてみりゃ原因が原因なだけに、こいつでも効果があったってわけだ」
 キノコの毒──というかどうかは微妙なところだが──が影響しているのは間違いないからな。
 と、楓ちゃんが真剣な表情で俺の顔を見つめてきた。
「……耕一さん……もしもの時の為、これだけ持って帰りませんか?」
「むう……確かに、これさえあれば千鶴さんの料理も七割がた怖くないな。万が一の事があっても、これ食えば病院までは命も持つだろうし」
「よし、持って帰ろうぜ耕一! こいつがあれば一安心だよ!」
「そうだな……」
 正にこいつはお宝だ。
 罠(底無し沼)があって、敵(食虫植物、蛇、他)がいて、宝(ヤッコウチュウワタケ)がある。まさしくこれは冒険だ。ダンジョンシナリオだ。
「今回の冒険はお宝を手に入れることが出来て、ひとまずは成功というわけか」
「ああ……これでタマの命も助かるぞ」
「まだぐったりしていたから……」
「そんじゃあ、ここいらから抜いていこう。楓ちゃん、そっち持ってて」
「はい……こうですか?」
「うん。そのまま押さえて……あとは、梓。ほら、鉈かなんかを……」
「OK! すぐに持ってくる」
「手早くなぁ」

 そして──
「……しくしくしくしく……」
「ち、千鶴お姉ちゃん……元気出して、ね?」
 極めて真剣にヤッコウチュウワタケの取り扱いを模索している俺と梓と楓ちゃんの後ろで、拗ねて地面にのの字を書いている千鶴さんを、初音ちゃんが慰めていた。
 
 

「なにはともあれ……これで一件落着だな」
「ああ。あとはここをおん出て倉を封印しちまえばいいわけだ」
「はやく出ましょう。何が起こるか知れないし、危険は避けるに限ります」
「キノコ怪人とか出てくるかもしれないもんね……」
「そんなのは序の口さ。それよりティラノサウルスにでも出られたら、さすがのあたし達でもかなり苦戦するだろうし」
「ジュラシックパーク……怖かった……」
「首狩り族くらいならなんとかなるけど……」
「実際にいたら怖いな」
「そうだね」
「……みんな、私の事遠まわしに非難してるでしょ……」
 今ばかりは、千鶴さんの恨みがましい視線も俺達になんら影響を及ぼさなかった。こんな得体の知れない場所、用がなければ一秒たりとて留まっていたい所ではない。
 というわけで、俺達は僅かな遅滞も見せず倉を後にし、倉の入口は楓ちゃんがこれでもかというくらいに鍵をかけまくった上、俺と梓とで周囲に土砂を積み上げ、コンクリ固めにして封印してしまった。
 こうして、柏木家を襲った第二次キノコ災害は終焉を迎えたのだった────
 が…………
 
 

「……ん……あふ……」
 ごそごそと暖かい布団から這い出ると、千鶴はこしこしと潤んだ目元をこすった。可愛らしい小さなあくびを一つ、だぶだぶのパジャマを引きずりながら部屋を出て、洗面所へと歩き出す。とてとてと歩みを進める度にボタンが外れかけた上着がずれて、白く眩しい
素肌と肩が半ば剥き出しになるが、彼女は気付きもせずに涙が浮かんだ目尻を払う。
 どこかしら可愛く見えてしまう寝ぼけ眼のまま洗面所のドアを開け、上二つ外れかけた白い上着のボタンをもぞもぞと掻き抱き、千鶴は姿鏡を覗き込み……
「全く……一時はどうなる事かと────え゛…………!?」
 昨日の騒動を思い起こし、そう呟いた彼女の台詞は、しかし途中でぷつりと切れた。
 硬直。
 洗面所の鏡の中──唖然とした彼女を見返しているのは────

「…………っ……っきゃあぁぁぁああぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁああぁぁぁぁ〜〜〜〜!!??」

「ど、どわあぁっ!? ……なんだなんだぁ!?」
「な……なに、今の? え? 千鶴お姉ちゃん?」
「千鶴姉、今度はどーしたっ!?」
「姉さん……朝からまた……一体なんですか……?」
 叩き起こされ、驚かされた家族達がばたばたと向かってくる足音を耳にしながら、千鶴
は意識が急速に弾け飛ぶのを感じていた────

 柏木家、居間。
 朝食の準備中だった梓と初音が姉の声に慌てて飛び出していったそこで、何故か部屋の角に投げ出されたままだった例の本が、開け放したままの襖から伸びる風の悪戯に、ぱらぱらとめくられる。
 そして、止まったページには────
『──の為、体質によっては効能は不完全。一時的な抑制効果しかもたらさない。その場
合、十数時間前後の潜伏期間をおいたのち、症状が再発。以後、再度の投薬は無効化──』

 これも、神様の意地悪なのだろうか?
 
 
 
 

 柏木千鶴、二十三歳。
 柏木四姉妹の長女。天然の入った頼りになるお姉さん。
 ただし、現在は──
 ちょっと泣き虫で拗ねた顔も可愛らしい、中学生の女の子。
 どうも、そういうことらしい。
 
 

                                     <終>

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