23万ヒット記念SS
風鈴 樹さん
 
 

 強い陽射しを眩しく跳ね返す白いシャツがジットリと肌にまとまり付く。
 楓はジワジワと身体から滲み出る汗の不快感に急がせていた足を止めた。
 色の白い額に浮いた汗を白いハンカチで押さえ、細めた目で空を仰いだ。
 八月の夏空はどこまでも高く透き通るような蒼が澄み渡り、中天に浮かぶ太陽は容赦なく強い熱く光を投げかけている。

 高校三年になった楓にとって、この夏は大学受験を控えた正念場。
 貴重な夏休みも補習や夏期講習で休む暇もない忙しさの中で流れていた。

 汗を含んで張り付いた制服のシャツの胸元をそっと指先でつまみ上げた楓は、微かに空いた胸の隙間に滑り込んだ微風に小さな息を吐くと再び足を急がせ、家を囲む長い塀を横目に小走りに駆け門の前で立ち止った。
 早くなった息を整え、蝉時雨が聞こえる木戸を通り抜けて扉を開ける。と、ヒンヤリとした空気が汗で濡れた身体を心地よくすり抜けていく。
 僅かな涼風に擽られた楓の頬に、思わず微笑が浮かぶ。
 家が純和風の屋敷で良かったと思う一瞬だった。
 現代の家とは比べものにならない広い間口と高い天井の間を風が吹き向け、軒下を流れる風が余熱を残さず払う家の中は、今を盛りと照りつける外の暑さが嘘のようだ。
 広い庭に作られた鹿威しを備えた池、植えられた様々な木々が清涼さを更に高めてくれている。
 蝉時雨を聞きながら廊下を進んだ楓は、着いた居間に誰もいないのに小さく息を吐き、台所で麦茶を一杯、コクコクと飲み干した。
 乾いた喉を癒す冷たい感触に吐息を漏らし、少し考え足を客間に向ける。
 広く障子が開けられたままの客間を覗き込んだ楓の表情に僅かに落胆の影が落ちた。

(急いで帰ってきたのに……)

 僅かな不満と寂しさを感じた胸を拳で押さえ、楓はクセのない真っ直ぐな黒髪を自嘲気味に肩の上で揺らす。

「…散歩かしら?」

 聞く相手もいない小さなつぶやきを漏らし、誰もいない客間を何度も覗いてから、楓は諦めきれないのか周囲を伺いつつ自分の部屋に向かった。
 道々部屋を覗きながら付いた自室に籠もっていた熱気に、楓は僅かだが苛ただしげに端正な眉をしかめて急いで窓を開けた。
 クローゼットから着替えを取り出す間にも、またジワリと額に汗が浮いてくる。
 後から建て増しされた楓達の部屋は、母屋ほど通気性が良くなかった。
 扉の横の掛けた鏡を覗いた楓は、タオルで額の汗を拭いながら、出掛けていてくれて良かったのかも。と思い直した。
 汗を含んだ白いシャツはうっすらと下着の線を透かし、肩の辺りで切り揃えられた黒髪も心なしか重そうに見える。

(汗だくでぺっとり張り付いた制服では、ちょっと……かなり恥ずかしいかも…それに…少し…汗くさいかも……)

 急いで着替えをまとめ、そのまま風呂場へ向う。
 脱衣所で汗の染み付いた制服を脱ぐと、二の腕が半袖シャツの跡を残し微かに赤く染まっている。
 強い陽射しにも仄かに赤みを帯びただけの二の腕。
 制服に隠されていた透き通るように白く細い手足、僅かばかり膨らんだ胸。
 未発達な腰のライン、細すぎるウエスト。
 姿見に映った自分の華奢な体躯を見やりながら、楓の口元からは微かな寂しげな溜息が洩れていた。
 白いブラと同色のショーツを脱ぐと、ぬるめのシャワーで汗を洗い流す。
 一年前までは、それ程気にならなかった中性的な身体のラインに添わせ、ボディソープをたっぷり含ませたスポンジを丁寧に動かしていく。
 同年代の少女達より貧弱に思える自分の身体を確かめるように、ゆっくりと。
 熱いお湯でソープを流すと瑞々しい十代の張りのある肌の上で弾かれた水滴が玉となって滑り落ちていく。
 胸の僅かな膨らみを伝う水滴を見ながら、楓はまた小さな吐息を吐いた。

(…大きな方がいいのかな?)

 考えても仕方がないのに考えてしまう。
 ふるふると頭を振り、考えを流そうとするように髪で流れ落ちる水を受け止める。
 髪を濡らす透明な流れは、細い肩を滑り落ち静かに足下へと流れていく。
 滞ることない時の流れのままに。
 

 木々に熱を奪われた風が山肌を滑り落ち、楓の元へ辿り着く頃には爽やかな微風となってさらさらの髪をそよがせる。
 楓は客間の前の廊下で庭を眺めていた。
 高い塀の向こうには、青々と葉を茂らす低い山が見える。
 山から吹き下ろす風が庭を横切り、涼やかに髪を揺らす。
 絹糸の如きさらさらの髪が風に揺れ、微かに上気した白い肩の上で踊る。
 微風に目を細めながらも、楓は微かな溜息を洩らした。
 本当は勉強でもすればいいのだろうが、楓はそんな気にもなれずに山を眺めている。
 遠い遠い昔、待ち人と出会った山を。

(私は、少しでも長く一緒に居たいのに……)

 耕一は違うのだろうかと、ふと頭の隅を掠め、肩の上で髪がまたゆっくりと揺れる。
 楓が昼過ぎには帰るのを、耕一も知っているはずだった。
 長女の千鶴は仕事。
 次女の梓も大学生になって、遊ぶお金ぐらいはとバイトを始めていた。
 この夏休み、昼間、屋敷にいるのは楓と妹の初音だけ。
 
(でも、初音と遊びに行くなら鍵を掛けて行く筈だし……)

 淡く開いた口元から小さなあくびが一つ漏れ。コクンと横に倒した首と一緒に体がスッと横に傾ぐ。
 磨き込まれた廊下にぺたんと横たわると風呂上がりの肌にヒンヤリした冷たさが気持ちよく伝わってくる。

(…どこに行ったのかな)

 ひやりとした板張りの冷たさと微風の心地よさに誘われ、長いまつげが瞬きを繰り返し。
 瞼が薄く閉じられると、楓はうとうとと微睡みに落ちていった。
 

 キン…カラン。
 何かのぶつかる硬質な音が響く。
 透明な硝子を封じた音。

 キン……キン…カン。

 響く音に誘われ、楓は瞼を静かに上げた。
 隣でスースーと規則正しい息を立てる横顔をぼんやりとした瞳に映した楓の唇が、ゆっくりと綻ぶ。
 半分寝ぼけたままの楓は、スリスリと耕一の懐に潜り込むと、シャツの胸元を握りしめて寝息を漏らし始めた。
 軒に吊られた風鈴が吹き下ろす風に揺れ、透明な音を奏でる。
 静かに響く硝子の音、強い陽射しに輝き揺れる。
 真夏の気怠い午後は、風鈴の音に乗って静かに過ぎていった。
 

              終わり
 
 

後書き

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