名雪

 恐らくこれを読んでいる頃は、お前を悲しませていると思う

 ごめんな

 ずっと一緒に居るって約束、守れなくてごめんな

 こんなことを言う資格は、もう俺にはないかもしれないけれど

 俺はお前のことを誰よりも大切に想っているよ

 たとえ離れ離れになっとしても

 俺はお前のことが本当に好きだから

 この先逢えなくなったとしても

 俺はずっとお前のことを想い続ける

 だけど、名雪はそんなこと気にしなくていいぞ

 バカな男が、遠くからお前のことを想ってるだけだからな

 

 最後に

 秋子さんのことよろしくな

 秋子さんがどう思っていたとしても

 彼女は、俺の“お母さん”だったよ

 

 大好きな名雪へ
 祐一
 

 

 


もしも翼があったなら

−終章−

たとえ翼はなくとも

後編

2001/01/14 久慈光樹


 

 

 

PM14:40 水瀬名雪

 

 時計を見る。 14:40

 走る、走る、走る。

 

 バカッ! 祐一のバカッ!!

 謝っても許してあげない。

 絶対に。

 引っ叩いて。

 頬が真っ赤になるくらい引っ叩いて。

 手が真っ赤になるくらい引っ叩いて。

 そしてキスしてあげるんだから!

 

 

 時計を見る。 14:42

 走る、走る、走る。

 

 きっと間に合う。

 絶対に間に合う。

 だってこの為に、そう、この為に今まで走ってきたんだから。

 そういえば、わたしが走り始めたきっかけってなんだったっけ?

 

 

 時計を見る。 14:44

 走る、走る、走る。

 

 泣いてた。

 葬儀の時、祐一は泣いてた。

 涙を流さず泣いてた。

 わたしは見てることしかできなかった。

 恋人なのに。

 一番大事な人なのに。

 わたしは見ていることしかできなかった。

 

 

 時計を見る。 14:47

 走る、走る、走る

 

 ゆーくんは意地悪だった。

 小さなゆーくんは、小さななゆきのことを置いて、いつもずっと先を走っていた。

 遅いぞ、なゆ。

 早く走れ、なゆ。

 なゆ、なゆ、なゆ。

 なゆって呼んでくれなくなったのはいつからかな?

 

 

 時計を見る。 14:50

 走る、走る、走る

 

 口の中がカラカラで。

 喉がひりひりと痛くて。

 お腹がキリキリと痛んで。

 それでも、走る。

 祐一に逢うために走る。

 今は走ることが祐一との絆。

 絆。

 そうか、わたしは絆が欲しかったんだ。

 

 

 時計を見る。 14:52

 走る、走る、走る

 

 早く走らないと、学校に間に合わない。

 いっぱい走らないと間に合わないよ、祐一。

 早く走らないと、ゆーくんに追いつけない。

 なゆきを置いてかないで、ゆーくん。

 早く走らないと、祐一に追いつけない。

 わたしを置いていかないで、祐一。

 早く走らないと……。

 

 

 時計を見る。 14:54

 走る、走る、走る

 

 絆。

 わたしの欲しかったのは、翼なんかじゃない

 翼なんか無くたっていい

 祐一に逢うことができるなら

 祐一との絆を確かめることができるなら

 翼なんかいらない!

 

 

 時計を見る。 14:56

 走る、走る、走る

 

 翼がほしい、あの人の元に飛んでいける翼が……

 走る

 いいのよ、名雪。私のことはいいの……

 走る

 じゃあその気持、信じてあげなくちゃね……

 走る

 翼なんて無いから…… 俺達は、一歩一歩自分の足で前に進むしか無いんだよ!

 走る、走る、走る。

 

 

 時計を見る。 でも目が霞んでよく見えない。

 それでもわたしは走る

 

 あれ?

 わたし、なんで走ってるんだっけ?

 もうやめたら?

 喉が痛いでしょ?

 お腹が痛いでしょ?

 頭がぼんやりするでしょ?

 泣きながら走ってるなんてカッコ悪いよ?

 

 

 もう時計を見る余裕も無い。

 それでもわたしは走る、走る

 

 いつの間にか、駅の中を走ってる。

 どこ?

 祐一はどこ?

 

 

 大丈夫、時間はきっと大丈夫。

 祐一を探して、わたしは走る、走る、走る……。

 

 

 その時

 

 おっきな荷物を持って

 

 お父さまと一緒に

 

 改札を抜けようとしている

 

 祐一。

 

 

 行かないで

 

 わたしを置いて行かないで!

 

 ゆういちぃ!!

 

 

 

 

PM14:58 相沢祐一

 

「ゆういちぃ!!」

 

 空耳かと思った。

 名雪がここに居るはずがないと思った。

 だけど、その声を俺が聞き間違えるはずはない。名雪の声を俺が聞き間違えるはずがない。

 はたして、それは名雪だった。

 走ってきたのだろうか、ひどく苦しげで、膝をがくがくさせて。でも俺を真っ直ぐ見つめる瞳。

 

「列車は1本遅らせても大丈夫だ、父さんは切符を手配してくる」

 

 そう言って、親父は窓口に向かう。

 俺達が乗ろうとしていた列車は15:07発、次の列車は20分後だ。

 

「名雪ちゃんとしっかり話をするんだ。その上で一緒に行くかどうかもう一度考えろ。父さんは先にホームに出ているから」

「……わかった。ありがとう、親父」

「ああ」

 

 

 

「名雪……」

「ゆういちぃ!」

 

 俺の胸に飛び込んでくる名雪。

 そのまま泣き崩れる。

 

「ゆういち、ゆういちぃ……」

 

 うわ言のように俺の名を呼ぶ名雪。

 どうして名雪がここにいるのか? どうやってここまで来たのか? これからどうするつもりなのか?

 色々と聞きたい事はあったけれど、今はただ、こうして腕の中に名雪がいるだけで他のことはどうでも良かった。

 

「え、えへへ、ダメだね、祐一に会ったら引っ叩いてあげようと思ってたのに」

 

 やがて落ちついたのか、ちょっぴり恥ずかしそうに体を離す名雪。

 

「そりゃあおっかないな」

「じゃあ今から一発引っ叩くから」

「そうか、お手柔らかにな」

 

 そうだな、引っ叩かれても文句は言えないな。

 そして俺は目を瞑って歯を食いしばる。

 

「いい? 行くよ?」

「おう、ドンと来い」

「……」

 

 だが、覚悟していた衝撃は来ず、代わりに唇に柔かな感触。

 少し驚いて薄目を開けると、名雪の顔がすぐ近くにあった。

 唇を触れ合わせるだけのキス。閉じられた名雪の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

 

「えへへ、引っ叩いても手が痛いだけだもんね」

 

 唇を離した名雪は、少し顔を赤くして照れたように笑う。そして言った。

 

「だから、今回のことは貸しにしておくね。帰ってきたら…… 祐一が帰ってきたらその時に貸しは返してもらうから」

「名雪……」

「簡単には許してあげないよ。ずっとずっと一緒にいても返せないくらい、おっきな貸しだよ」

「ああ…… ああ」

「わたし、祐一を止めるつもりは無いよ。祐一が考えて決めた事だもん、それを止めることなんてできないよ。だけど約束して、絶対に帰ってくるって約束して」

「俺は……」

「わたし、待ってる、ずっと待ってる。止めたって無駄だよ、わたしだって決めたんだもん。祐一が決心したみたいに、わたしだって決心したんだもん。何年先でもいい、ずっと待ってるから、だから……」

 

 涙に声を詰まらせる名雪。

 だが、涙を拭って、笑顔になって、名雪は続けた。はっきりとしっかりと。

 

「だから、絶対に帰ってきてね、祐一!」

 

 俺は、なんてバカ野郎なんだろう。

 簡単なことだったんだ。

 なにも悩む事なんてなかったんだ。

 俺の望む結論は、俺の望む未来は、こんなにも近くにあって、こんなにも簡単に手に入るものだったのに。

 

「名雪!」

「うきゃ!」

 

 名雪をちょっと強引に抱き寄せる。

 初めはちょっとビックリしたらしい名雪だが、やがてまたぽろぽろと涙をこぼしながら、ぎゅと俺にしがみついてくる。

 

「名雪って結構泣き虫だよな」

「う、ぐす、ヒドイよ祐一、いじわるだよ」

「そうだな」

「ぐすっ」

「俺、絶対に戻ってくるよ。名雪の元に、絶対に戻ってくるよ」

「うん、待ってる、ずっと待ってる」

「手紙、書くよ」

「うん」

「電話、するよ」

「うん」

「たまには、帰ってくるからな」

「うん」

「名雪もたまには、遊びに来いよな」

「うん」

「だから、ずっと待っててくれよな」

「うん、うん!」

 

 しばらくそのまま抱き合っていたが、ふとあることを思いついてそっと体を離す。

 

「名雪、浩平さんに預けた指輪、受け取ってるか?」

「え? うん、これ」

「ちょっと貸してくれ」

「はい」

 

 受け取った指輪、母さんの指輪。

 俺は名雪の手を取り、彼女の左手薬指にそれをそっとはめる。

 

「あっ……」

 

 その指輪は、まるであつらえたかのように名雪の指にぴったりと収まった。

 

「ちょっと気が早い気もするけどな、売約済みの札の代わりだ」

「ゆういちぃ……」

「ほら、もう泣くな。じゃないとお前のこと思い出す時、泣き顔しか思い浮かべられなくなるぞ」

「ぐすっ、それはイヤ」

「だから、ほら、笑ってくれよ名雪。遠くでお前の事を思い出す時、いつも笑顔であるように」

「うん!」

 

 電車の時間が迫っていた。名雪とのしばしの別れの時間が。

 

「見送りはここまででいい」

「でも……」

「いいさ、少しの間のお別れだ」

「うん、そうだね」

「じゃあ、行くよ」

「うん、祐一、行ってらっしゃい」

「ああ、行ってきます」

 

 ホームに向かう俺を、名雪はずっと見送ってくれていた。

 

 

 

 ホームのベンチに座っていた親父は、俺を見ると少し意外そうな顔をした。

 

「なんだ、ガキみたいにわんわん泣きながら来るか、頬に手形をつけて来るかと思ってたんだがな」

「ふん、残念だったな親父。名雪はそんなことしないんだよ」

 

 されそうにはなったけどな。

 

「ふん、そりゃ残念だ」

「早く電車に乗ろうぜ、これ乗り過ごすと飛行機の時間に間に合わないだろ」

「……」

「なんだよ親父、人の顔じっと見て」

「口紅がついてるぞ」

「えっ!」

 

 慌てて唇を手で拭う。

 だが、そこには口紅なんてついていなかった。

 親父を見ると、にやにやと笑ってこちらを見ている。

 謀られた……。

 

「古典的な引っ掛けにこうも反応してくれると、引っ掛け甲斐があるな」

「親父、てめぇ!」

「自分の恋人が化粧しているかどうかくらい把握しておけ、バカもん」

「くっ……!」

 

 言い返す言葉も無い。

 やがて親父はにやにや笑いを引っ込めると、何か眩しい物でも見るような目で、俺を見た。

 

「祐一、ちょっと見ない間に男らしい面構えになったもんだな」

「……何言ってんだか」

「ふふふ、さて、乗り込むとするか」

「ああ」

 

 親父はそれっきり何も聞かなかった。

 多分、全て分かっているのだろう。だてに17年間俺の父親やってないという事か。

 やがて俺達を乗せた列車は、ゆっくりと加速しながらホームを出る。

 俺の住んでいた街。

 そして俺の帰ってくるべき街。

 少しの間、お別れだ。

 恐らくはどこかでこの列車を見送ってくれているであろう名雪に、心の中でもう一度、そっと呟く。

 

 

 

行ってきます、名雪

 

 

 

 

 

エピローグ 水瀬名雪

 

「おかーさーん、早く早くー!」

「あらあら」

「おいおい、名雪ちゃん、そんなに急がなくてもカメラは逃げないぞ」

「だって浩平さん」

「バカね、少しでも早く自分の姿を愛しい人に見てもらいたい乙女心がわからないの?」

「ふん、留美が言うと説得力無いな」

「うっさい!」

 

 

 

祐一と会えないのは、やっぱり寂しい

 

 

 

 

「でもいい天気、もう祐一が日本を発ってから1年近くになるんですもんね」

「そうだな、桜がいい頃合だ」

「祐一くんは元気でやってる?」

「ええ、昨日の電話では嫌いな英語もだいぶ使えるようになったって言ってました」

「そうだな、必要は発明の母って言うもんな」

「あんたその引用なんか違うわよ……」

 

 

 

 

もしも翼があったなら

今でもふと、そう思うときがある

 

 

 

 

「はい、お待たせしました」

「あ、お母さんはこっちに立って、わたしはこっち」

「はいはい」

「杖無しでもだいぶ自然に歩けるようになりましたね」

「先生のおかげですわ」

「秋子さんの頑張りがあったからこそですよ」

 

 

 

 

だけどわたしはもう平気

 

 

 

 

「ごめんなさいね、折原先生、ご夫婦で休日にお呼びたてしてしまって」

「あらいいんですよ、秋子さん。こいつなんてどうせ家でごろごろしてるだけなんですから」

「ぐっ」

「今日は晩御飯食べていって下さいね」

「あ、嬉しい! 秋子さんのお料理、とっても美味しいですから。今度私にコツを教えて下さいね」

「はい、喜んで」

 

 

 

 

たとえ翼はなくとも

わたしはもう自分の足で歩いていけるから

未来へと歩いていけるから

 

 

 

 

「もう、お母さん、留美さん、はやくはやく!」

「あ、ごめんごめん、はい名雪ちゃん、秋子さん、家の前に立って」

「お母さんとわたしが撮ったら、次は4人で撮りましょうね」

「そうね、セルフタイマーにして撮ればいいわね」

 

 

 

 

だから、わたしはもう平気

 

 

 

 

「よし、もうちょっと寄って、はいそう」

「あっ、名雪ちゃんその指輪、もっと写真に写るように掲げて」

「え?」

「ほら、祐一くんが浮気なんかしないように、しっかりとアピールしとかないと」

「うふふ、はいこんな感じでいいですか?」

 

 

 

 

今度祐一と会うときは

笑顔でこう言おう

 

 

 

 

「お母さん、わたしね」

「なに? 名雪」

「この写真と一緒に、手紙を書くの」

「あらあら、いつも書いているでしょう?」

「うん、そうなんだけどね。でも書いても書いても、祐一に伝えたいことがいっぱい出てくるの。何から書いていいのか悩むくらいいっぱい」

「うふふ、そうでしょうね」

「だけどね、書き初めの台詞はもう決まってるの」

「はーいとりますよー。笑って笑ってー」

「それはね……」

 

 

 

 

 

祐一、わたし、元気だよ!

 

 

 

 

<FIN>
 

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