どすっ
「おぶっ……」
腹にずしんとくる衝撃。
久しぶりに食らったタックルは、それなりに強烈だった。
「きゃはははははは、なーいすタックルー」
「お、おう都古。以前より破壊力が増したな」
体重が増えたせいだろう。とはとりあえず言わないでおく。
女性というのは自分の目方を気にするものなのだ。たとえ都古が気にしなくても今そばにいる約二名ほどが黙っていないだろう。この二人を敵に……
「失礼ですが、都古さま、体が大きくなられたのですから、勢いもほどほどにされたほうがよろしいかと」
「あらあら、翡翠さんは相変わらず堅いわねぇ。『重くなったんだから少しは遠慮しなさい』でいいのよ」
「ふーんだ、私は大きくなっただけだもーん」
問題なかったようだ。
いつもは人気すらあまり感じられない遠野家のロビーにやたらとにぎやかな声があふれている。
有間の文臣さんと啓子さん、その娘の都古が来ているのだ。
とはいっても取り立てて用があるわけじゃない。有間の人たちが遊びにきているだけだ。
「やれやれ、女三人寄ればかしましいとは言うが、本当だな。お邪魔するよ、志貴」
「いらっしゃい。文臣さん」
文臣さんが遅れて入ってきた。
勝気な啓子さんに比べると文臣さんはどこかのんびりとした印象を受ける。普通は啓子さんに尻にしかれているなと思うところだ。が、
「それより啓子、台所に行ったほうがいいんじゃないのか?あんまり時間のかからないメニューって言っていたが、来るのがちょと遅くなったからな」
「あ、はい。そうでしたね」
啓子さんがごく自然に文臣さんに付き従っているのを見ると、あれは悠然としていると言うのだろう。締めるところは締めるが、窮屈さを感じさせないところに懐の深さを感じる。
「それじゃぁ、早速お料理を始めますけど、志貴さん、都古と遊んであげてくれる?」
「いいですけど、都古、ぴゅーっとどっかに走っていってしまいましたよ」
「ああ、たんけんだーとか言っていたな」
いつものことだが、都古はやたらと元気がいい。
俺も小さいころは屋敷の中といわず敷地中を探検しまわった記憶がある。
住んでいても子供心にはこの屋敷は無限に広がっていると思えていた。
たまに訪れる都古にとってはまだまだ未知の領域があるに違いない。
「仕方ないわねぇ。ま、おなかがすいたら戻ってくるでしょ。翡翠さん、お台所へ行きましょう」
「よろしくおねがいいたします」
「大丈夫、今日は難しくはないわよ」
腕力はいるけどね。と、よくわからない会話をしながら持ってきた食材を持って翡翠と啓子さんは台所に向かっていった。
二人は親子と師弟を足して二で割ったような間柄になっている。
翡翠からすれば啓子さんは「師匠」で、啓子さんから見れば翡翠は「娘のようなもの」といったほうが正しいかもしれない。
そう、翡翠は啓子さんに料理を教わっているのだ。
啓子さんは家事の名人で、翡翠と琥珀さんの得意分野を併せ持って更にその上をいっているような腕前の持ち主だったが、それでも翡翠の前衛芸術的な腕前には相当苦労したらしい。
とはいえ、師弟そろっての粘り強さのおかげか、翡翠の腕前もそれなりに上達している。少なくとも、料理が凶器になるような事態からは脱却しつつあった。
「志貴さま」
「どわっ!!なんだ、どうした翡翠?」
気が付いたら目の前に翡翠が立っていた。
あいも変わらず気配を感じさせない挙動をする。
「言い忘れておりました。お食事までには時間がかかりますので、志貴さまは文臣さまとリビングのほうでおくつろぎください」
ふかぶかーと一礼する。
やばい、なんだか知らないけど、怒らせてしまったようだ。
「ええと、あの、翡翠さん?」
「それでは、失礼致します」
こちらの問いかけに耳を貸さずに翡翠は再び一礼して、台所へ向かってしまった。
まずい、かなりまずい。
「翡翠君を怒らせてしまったようだな」
「そ、そうですね……」
二人きりになってしまってから、俺と翡翠の関係は確実に変わっていた。
俺は相変わらずだが、翡翠の性格が変わってきたのが大きい。必要以外のことは自発的に行動しなかったのが、ずいぶん活発になり、俺を引っ張りまわすようになった。
他に誰かいるときでもない限りは翡翠もかなり砕けた言葉遣いになるし、俺をからかうような行動をとることもある。
ただ、拗ねたり怒ったりすると、とたんに単なる使用人としてしか行動しなくなり、俺をやり込めてくるのだ。
こちらに心当たりがあるときはいいが、わからないと絶対に教えてくれないのでたびたびあたふたさせられている。
しかし、今回はなんでだ?
「そりゃ、消し炭からの脱却とか命の危機とかぶつぶつ言われれば、気分も害するだろうさ。結構気にしているようだからな」
「……おれ、そんな事いっていました?」
しまった。
また考えていたことを口に出していたようだ。って
「文臣さん、何で俺が考えていたことがわかるんですか?」
「おまえが自分で言っているからな」
おっしゃる通りです。はい。
男二人でロビーで立ち話もなんなんで、俺と文臣さんはリビングに移動した。
あらかじめリビングに用意しておいた急須にお湯を入れてお茶を注ぐ。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ずずずず〜っと二人でお茶をすする。
ここからはわからないが、食堂では翡翠と啓子さんが料理をしている。
窓からは早春の日差しが入ってきて、暖房もさほどきかさなくてもいいくらいに部屋を暖めている。
都古は屋敷の中を行ったり来たりしているのだろう。
う〜ん、平和だなぁ……
「何現実逃避しているんだ?」
「……言わないでください」
文臣さんの一言で俺は直面している危機に目を向けた。
翡翠が拗ねるのはそんなに珍しいことではない(おかげで自分が朴念仁であることを否定できなくなってしまっている)が、今回はタイミングが悪すぎる。
何せ料理の前だ。下手をすると故意に失敗したものを食わせられかねない。
しかも、翡翠はまだまだ発展途上の腕前。故意かどうかの判別すらつかないから機嫌が直ったかどうかを見分けることさえ簡単じゃない。
つくづく遠野志貴の命は翡翠に握られているのだ。
「早いところ機嫌を直してもらったほうがいいんじゃないか?厨房を制する者が家庭を制するからな。実力者に逆らうとろくなことがないぞ」
しみじみと語る文臣さん。
人生の先達の言葉はいつだって重い。
「どう言えばいいんですか?」
「それは自分で考えるんだな。この程度で他人に頼ってたら、この先どうにもならないぞ」
しかも、深かった。
ドンドンドンドンドンドンドンドン
と、台所のほうから何かを叩きまくっているような鈍い音が聞こえてきた。
「な、なんだ?」
「さて?自分の目で確かめてきたらどうだ?」
思わずびびってしまった俺を文臣さんは面白そうな顔をして見ている。
「文臣さんは何をしているかわかるんですか?」
何か余裕のある文臣さんに聞いてみる。すると、自信たっぷりの答えが返ってきた。
「決まっている。料理だ」
「……自分で見てきます」
間違ってはいないだろうが、回答になっていない返事を聞いて、俺は腹をくくることにした。
どっちにしたって翡翠の機嫌は早めに取っておくに越したことはないわけで、そのために台所に行く口実になる。
「あ、志貴」
「はい?」
「骨は拾ってやるから安心しろ」
なんとも場違いに心強い声援を受けて遠野志貴は台所へ向かった。
ドンドンドンドンドンドンドンドン
台所に入ると音はいっそう大きくなった。
テーブルの上には結構な量と種類の食材が置かれていて、翡翠はこちらに背を向けて何か作業をしていた。
音は翡翠が腕を動かすたびに発している。どうやら、本当に何かを叩いているらしい。
「あら、志貴さんどうしたんです?」
翡翠に気づかれる前に、啓子さんに気づかれた。
「いえ、なんかすごい音が聞こえたので、どうしたのかと思って」
「そんなの決まっているじゃない。お料理の音よ」
啓子さんの答えは文臣さんのそれと同じだった。
さすが夫婦。
「そういうことです。志貴さま。啓子さまもいらっしゃるのですから、どうか志貴さまは安心して文臣さまとお待ちください」
翡翠も手を止めてそんなことを言ってきた。
言葉遣いが丁寧な上に、妙に「安心して」の部分を強調しているあたりまだ機嫌が直っていないのがわかる。
「いや、ちょっとびっくりしただけだから。別に問題ないみたいだし、すぐ戻るよ」
「はい。申し訳ありませんが、出来上がるまでにもう少し時間がかかりますので、今しばらくお待ちください」
取り付くしまもない。
これ以上いても状況が悪化するだけなので、ここは撤退するしかないだろう。
「わかった。じゃぁ、期待して待っているよ。翡翠の料理」
おれはそそくさと台所を立ち去った。
どすっ
「……ぐお」
台所から食堂に戻ってきたところでまたもやタックルされた。
フォローに失敗して敵前逃亡してきた俺への制裁はそれなりに腹に響く。
「イエス、クリーンヒット!!」
きゃはははははーと都古は笑いながら走り去っていった。
「お、お前、なあ……」
追いかけるだけの元気は、俺にはなかった。
足取り重く、俺はリビングに向かった。
「成果はどうだって、聞くまでもなさそうだな」
「すいません」
「いや、俺に謝られてもしょうがないがな。しかし、フォローに失敗したとなると、行動で示すしかないか」
ミッションに失敗した俺に文臣さんは更なるアドバイスをくれる。
「どうするんですか?」
「そりゃぁ、出されたものは全て食べるしかないだろう」
やっぱり、それしかないよな。
「啓子もいるからそんなに変なものは出さないだろう。それよりもちゃんと美味いって言うんだぞ」
「はい」
そう言った後、文臣さんはふっと笑みをこぼした。
「しかし、こんな会話ができるようなったんだな」
「ええ、おかげさまで」
5ヶ月前の一連の事件、いや、琥珀さんの描いたシナリオの終劇で遠野宗家の血筋は途絶えた。
遠野はその身勝手さを親子、兄妹で殺しあうことで贖ったともいえる。
自分自身をなくしかけた少女によってもたらされた終末はある意味滑稽とさえ感じられるだろう。
しかし、そんなこととは関係なく俺と翡翠の心にはやりきれなさが残った。
8年間、何も知らずにのうのうと過ごしてきた俺。
8年間、知っていても人形のように自分を保つことしかできなかった翡翠。
止められたはずという後悔と大切な人たちを失った喪失感は決して消えることはない。
おそらくは一生背負い続けるものになるのだろう。
だからといって、気落ちしたままで生きていくなんてことはできなかった。
翡翠に聞かされた琥珀さんの「夢」と秋葉の「願い」。
――窓の外にいた男の子と恋をする。
外に出られなかったころ、窓から見える青い空に描き、その後、「翡翠」と入れ替わることによって具体性を持った「夢」。
――兄さんと一緒に暮らしたい。
幼いころから思い続け、偽っても、親類を敵に回してもかなえたかった「願い」。
そして、
――二人の「夢」と「願い」を、自分の気持ちに乗せてかなえたいと思います。
その想いを全て引き受けるといった翡翠。
悲壮になるでなく、笑顔でそう告げた翡翠と俺は約束をした。
幸せに暮らそう、死んでしまった二人がうらやましがるくらいに。と。
もしかしたらただのピエロかもしれない。
死んだ二人に引きずられているのかもしれない。
でも、生きていられるんだから、うれしいことは多いほうがいい。
「いまは幸せですから。俺も翡翠も」
だから、大切な人と一緒に暮らせる喜びを遠慮なく味わえるようにがんばっている。
「そうか、そうだよな」
文臣さんはそんな俺に納得以外の何かが混ざった声で答えた。
「文臣さん?」
「いや、秋葉君がいなくなってはお前はここにいてもつらいだけだと思ってな。翡翠君ともどもこっちに来ないかって言おうとしていたんだ」
切り出すきっかけを見るためにも訪れるようにしていたんだが、余計な事だったな。と文臣さんはちょっと決まり悪そうに話した。
「……文臣さん」
養子になれ。
有間に世話になっていたころ何度となくいわれたこと。
ただでさえ良くしてもらっているのにありがた過ぎてとても受けられなかった申し出。
「それは、ありがたいんですけれど……」
「わかっている。お前はこっちにいるほうが以前よりも伸び伸びしているからな。無理に来いなんて言うつもりもない」
言いよどんだ俺にあっさりと返す文臣さん。
「……すみません」
「謝らなくていい。お前が大丈夫ならそれでいいんだからな。ただな、お前も、翡翠君も、ここ以外にもまだ居場所があるってことだけは覚えておいてくれ」
「はい、ありがとうございます」
立ち上がってお礼を言う。
高校を出れば働いてもいいだろうし、その後ならここを追い出されたとしても何とかなるだろうとは思っていた。
けど、屋敷にかろうじて住めるだけの、遠野に打ち捨てられたような俺たちに居場所を用意してくれていた文臣さんたちの気持ちはとても嬉しかった。
「だから、そんなにかしこまらなくていいって」
文臣さんは決まり悪そうだった。
「あら、志貴さん、立ち上がってどうしたんです?」
啓子さんが台所から出てきた。
どうやら食事の準備が出来たらしい。
「いや、ちょっと男同士の会話をな。で、準備はできたのか?」
俺の代わりに文臣さんがそう答える。
「ええ、今さっき。今日は翡翠さんも会心の出来ですよ」
「そうか、それは楽しみだな」
にやりと笑いながらこっちを見る文臣さんと啓子さん。
夫婦で以心伝心してくれるのはかまわないが、その笑いは止めてほしい。
食堂に入るのが怖くなってしまう。
「ありがとうございます。じゃぁ、俺は都古を……」
どすっ
「イエイ、ハットトリック!!」
「……タックルは得点じゃないぞ」
探すまでもなく戻ってきていた。
今日のメニューはとんかつらしい。
一口大に揚げられたカツが大皿に盛られていた。
揚げたてだし、いかにも香ばしそうで本当においしそうだ。
ただし、
「あのー、翡翠さん。つかぬ事を伺いますが」
「はい、何でしょう?志貴さま」
「これはいったいなんでしょうか?」
俺の目の前だけにはなにかしら真っ黒い物体が積まれていた。
「もちろんとんかつです」
翡翠の答えは単純明快。一点の曇りもない。
大きさは他の一口カツに比べて多少大きいくらいだ。
しかし、黒い。
真っ黒である。
しかも、やたらと薄く、パン粉がついているようにすら見えない。
「なんで、俺の目の前にだけあるんでしょうか?」
「私が作ったからです。先ほど志貴さまは私の料理を楽しみにしていると言ってくださいましたから、私が作った分だけを食べていただこうかと思いまして」
きっぱりすっぱり、「私の」とか「私が」とか「だけ」あたりを強調して言ってくる。
俺のジャブをことごとく打ち返す理想的な受け答えだった。
翡翠の鉄壁を突き崩すことは難しい。ここはひとまず転進を……
「嬉しいことを言ってもらっているじゃないか。志貴」
「翡翠さんがんばったんですから、残さず食べないとだめですよ」
「しきー、『あいさいりょうり』だぞ。ありがたくいただけー」
進むしか、俺に道は残されていなかった。
文臣さん、本当に骨は拾ってください。
心の中で文臣さんに後のことを託しつつ、おれは覚悟を決めて1つ、取り皿に取った。
「あ、志貴さん。何もつけないほうがいいわよ」
しょうゆ(俺はカツにしょうゆをかけるのだ)に手を伸ばした俺に啓子さんはストップをかける。
最後の望み、味覚ごまかしも絶たれてしまった。
こんどこそ、本当に道は絶たれた。
そして俺はその物体を口へ運び……
さくっ
「――え?」
苦く、ない。
いや、ちょっと焦げ臭い感じもしなくはないし、少々しつこめだが、これはこれで悪くない。
むしろ、
「……美味しい」
肉が薄いのですこしパリパリしている部分もあるが、なんというか、下戸の割に酒のつまみの類が好きな俺には好みの味だった。
「ふふふ、翡翠さん。大成功ね」
「はい。ありがとうございました」
思わず続けてぱくついている俺を見ながら翡翠と啓子さんが笑みを交わしている。
どうやらひっかけられたらしい。
「翡翠、これっていったい?」
「はい。ころもにパン粉を使わずにすった黒ごまを使ったんです」
ゴマか。この独特の風味は確かにそうだ。
しかし、まだ疑問は残る。
「肉がやたらと薄いのは?」
「ゴマって熱を通しやすいの。だから、薄くしてすぐに火が通るようにしたのよ。豚肉はちゃんと火を通さないと食べられないですからね」
「それじゃ、さっきの音は?」
「肉を薄くするのに切るだけでなく、叩いて伸ばしたんです。そのほうがお肉もやわらかくなりますから」
俺の質問に啓子さんと翡翠がかわるがわる答えてくれる。
ううむ、ただ作るだけでなく、こんなひっかけまで出来るようになったとは、やるな、翡翠。
「しかし、本当に美味そうだな」
「ええ、酒のつまみみたいな感じでいいですよ。これ」
酒のつまみと聞いて文臣さんがほう、と身を乗り出してきた。
「なるほど、これだとビールかな?」
「だめですよ。今日は持ってきていないんですから」
啓子さんの電光石火のカウンター。
「さては、読んでいたな」
「当然です。あなたはすぐに飲みたがるんですから」
「いいじゃないか、こんなときくらい」
少し食い下がる文臣さん。
有彦もそうだが、酒飲みはきっかけを逃そうとしない。
まあ、俺は全然飲めないが味は少しだけわかるので、これを目の前にした文臣さんの気持ちもわからなくはない。
「あの、差し出がましいようですが、普通のお酒なら用意させていただきますが……」
文臣さんの粘り腰を見かねたのか翡翠がそんなことを言い出した。
「いいのよ、今日は飲まなくて。それよりも本当に上達したわね。この作り方だと結構焦がしてしまうんだけど、ほとんどないみたいだし」
「ええ、ちょっと焦げ臭いところもありますけど、気にならないですよ。むしろ味として食べられます」
「ありがとうございます。志貴さま」
ちょっと誉めすぎかな?と思わなくもないが、実際に美味しいんだからと素直に誉めると翡翠の顔が赤くなった。
「翡翠さん、今日はすっごくはりきっていたもの。誉めてもらえてよかったわ」
啓子さんの暴露に翡翠がますます赤くなる。
「そうだったんだ、ありがとう。翡翠」
「いえ……」
湯気が立ちそうなほど真っ赤になる翡翠。
「ふふふ、いいわね。ところで志貴さん。お料理が上達する要素ってなんだと思います?」
俺たちのやり取りを楽しそうに見ていた(一部ちゃちゃ入れしていた)啓子さんがそんなことを言ってきた。
「ええと、あきらめない努力とか?」
味覚だのセンスだのでは翡翠の説明がつかないのでそう答える。
事実。翡翠のがんばりはすごかったのだから間違いないと思う。
「そうだけど、そのがんばる原因。普通は二つ。自分が食いしん坊か。食べてもらいたい人がいるか。翡翠さんがどちらかは言うまでもないわね。志貴さんに『美味しい』って言ってもらいたっからこそ、ちょっとの間にこれだけ上手になったんだから、これからも心していただくようにしてくださいよ」
「はい」
ぼっ
横を見ると翡翠の顔が火を噴いている。
これ以上この話題を続けると、のぼせて倒れかねない。
「そうだ翡翠。翡翠の揚げた普通のカツはある?」
「え?あ、あ、はい。もちろんあります」
「どれかな?これも美味しいけど、普通のも食べたいから教えてよ」
「い、いえ、わ、私がお取りします」
俺のお願いにあたふたと大皿から取り分ける翡翠。
「お、いい雰囲気じゃないか」
「だめですよ。邪魔をしちゃ。こういうときは黙って観察しないと」
「らぶらぶだー。しきとひすいはらぶらぶだー」
「ちょ、ちょっと三人とも!!」
笑い声があふれる。
午後遅くのちょっとした会食はこうして過ぎていった。
「それじゃぁ、また今度」
「はい、よろしくお願いいたします」
「ごちそう様、志貴」
「いいえ、こちらこそ。文臣さん」
「ばいばーい」
片づけを終えた後有間の三人は帰っていった。
俺と翡翠は門まで出てそれを見送る。
三人が見えなくなるころ、どちらからともなく向いあってお辞儀をした。
「お疲れ様でした。翡翠」
「お疲れ様でした。志貴さま」
頭を上げて笑いあう。
ここからは二人だけの時間。
「しかし、あの真っ黒なとんかつは驚いたよ。本当にケシズミかと思った」
「あー、ひどいですよ志貴さま。いくらなんだって失敗作を出したりするはずないじゃないですか」
翡翠がちょっと拗ねたように笑う。
「うん。そうだね。翡翠が拗ねたまんまだと思ってたからちょっとびっくりしたよ」
「そんなことないです。だって志貴さまわざわざ台所にまで来てくれたじゃないですか。嬉しかったんですよ」
そんなもんですか。
俺としてはフォローに失敗したと思ったんだけどな。
首をかしげる俺に翡翠はちょっと困ったような笑顔を向けてきた。
「もう、志貴さまっていっっっっっっつも鈍いのにときおりさらっとこっちが嬉しくなるようなことを言ったりするんですから。そんなんじゃ誤解されちゃいますよ」
「……気をつけます」
翡翠の指摘は妙に力というか実感がこもっていた。
おれ、本当に朴念仁ってやつなんだなぁ……
「本当、誰にでも優しいんですから。でも、それが志貴さまらしいんですけどね」
しかめっ面になった俺にぴょんと一歩離れて屈託のない笑みを浮かべる。
そのしぐさの明るさが幼いころ一緒に遊んだ女の子と一致した。
翡翠に8年前の面影が重なることが多くなった。
けど、俺のことを「志貴さま」と呼ぶし、時おり琥珀さんを思い起こさせるしゃべり方もする。そして、照れ屋なところは再会してから全然変わっていない。
翡翠は今までの自分を統合しようとしているのだろう。
無口な翡翠も翡翠なのだから。新しい自分になろうとする翡翠はとても好ましかった。
「どうしたんですか?志貴さま」
「なんでもないよ。それより家に入ろう。もう夕方だから寒くなってきたしね」
「はい」
並んで門をくぐる。
この洋館は二人だけで住むにはあまりに広すぎる。
けど、翡翠がいる。
秋葉と琥珀さんの想いをいっしょに背負い、ともに歩む大切な人がいる。
この先、ずっとここにいられるかはわからない。
けど、いまはここが二人の居場所。
早春のいまだ寒い風を受けながら、ドアを開けた。
了
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