夢で逢えたら

 

 

「――耕一、起きなさい耕一」

 懐かしい声がゆらゆらと肩を揺する。
 俺は布団にくるまるようにしがみつき極上の微睡みにたゆたいながら、毎朝恒例の返事を無意識にかえす。

「……あと…十分…」
「あと十分も寝てたら遅刻決定よあんた。ほら、起きなさい!」

 朝だというのに元気のいい声が耳元でしたかと思うと、突然がばりと布団がはぎとられる。
 俺はようやく半身を起こしながら寝ぼけた頭で文句を言おうとした。

「なにすんだよ母さ……」

 ――その瞬間、頭のどこかに違和感が閃いた。
 眠気が一瞬で吹っ飛び、たったいま自分の口から出た言葉の意味を何度も確かめようとする。

 母さん……
 ――おふくろ!?

「お袋?!」
「『おふくろ』? やめてよね耕一。なんかすっごい年寄りみたいじゃないその呼び方」

 くすくす笑いながら俺からはぎ取った布団をたたんでいるのは、紛れもなく俺の母親の姿だった。
 俺は訳が分からなかった。
 お袋がどうしてここにいるんだ?
 いや、それ以上に……この部屋は……!?

「……母さん……どうして……?」
「寝ぼけるのも大概にして、そろそろ学校行かないと本気で遅刻するわよ」

 俺の混乱も知らず涼しい顔でそういうお袋の声に、はっとして枕元の時計をひっつかむ。
 時計の針は八時をすでに回っていた。

「だあぁぁーーっ!! 何でこんな時間なんだ!?」
「現実から眼を背けないの。目覚ましちゃんと鳴ってたんだから」

 さっきまでの混乱が吹っ飛んだ。
 慌てて寝間着を脱ぎ捨て壁に掛けてある学生服に袖を通しているうちにだんだんと思い出してくる。
 俺は高校三年生の柏木耕一。母さんと二人暮らしを始めて6年がたつ。
 バイクのポスターが貼られたこの俺の部屋とも、もう6年のつき合いだ。
 三年間着続けたこの学生服もだいぶ丈が合わなくなってきたが、いまさら作り替えはしない。
 ……そうだった。どうしてすぐに思い出さなかったんだろう。
 あの日以来、ずっとこんな朝を迎えてきたのに。

「母さんももっと早く起こしてくれればいいのに」

 学生服のボタンをいい加減に止めながら俺がそんな軽口を叩くと、お袋はあきれ果てたような声で言った。

「あなた受験生でしょう? 朝ぐらい自分一人で起きれなくてどうするの」
「…昨日遅くまで勉強してたから…」
「嘘おっしゃい。母さん夜中にあんたの笑い声で目が覚めちゃったんだからね。なんの教科書読んだらあんなに笑えるものかしら」

 やばい、バレてら。
 休憩してたんだという苦しい言い訳に、しょうがないわねといった風にのどの奥で母さんは笑った。
 速攻で着替え終えると風向きの悪くなった話題を変えるべく、鞄を掴んで部屋から出ながら言った。

「朝飯ある?」
「あるけど、食べてく時間あるの?」
「一分で食う」

 そう言って、俺は狭い洗面台で顔を洗った。

 ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ……

 その後ろで、お袋が俺の背中を、眼を細めて見つめている。
 息子がいつの間にか自分より遙かに大きくたくましくなっていたことに、始めて気が付いたかのように。
 そしてそれとは対照的に、洗面台の鏡に映るお袋の姿はいかにも小さく細く見えた。

「……耕一」
「なに」

 タオルで顔を拭いながら俺は答えた。
 お袋は何かを言いかけて、しかし、小さなためいきをついてうつむいた。

「…耕一。あんたは、きっとお父さんを恨んでるんでしょうね」
「………」
「あんたがこの話するの嫌がるの、母さんだって知ってるわ。でもね……」
「母さん。俺は別に恨んじゃいないよ。ただ……もう死んでしまった人みたいに実感がないだけ」

 半分嘘で、半分本当だった。
 子供の頃夜中にトイレにいったとき、一人で泣いているお袋の声を聞いた時。
 衣替えの時ふとした弾みで親父の服を見つけてしまったとき、お袋が一瞬だけ表情を曇らせるのを見たとき。
 親父宛の郵便物が間違って届いたとき、親父の名を指でなぞるお袋の姿を見たとき。
 そんなとき、俺は親父を恨んだ。 お袋を泣かせ、悲しませ、寂しがらせる親父を、俺は憎んだ。
 しかし、別れて暮らすようになって6年も経つと、憎しみすらどこか醒めてしまう。
 6年間、姿を見もしなければ声も聞かない人物に対して、どんな感情を抱けるというのだろう。
 夢にさえ、もう出てこない。思い出すことさえ少なくなった。
 俺にとって、親父はもう死んでしまった人となんら変わりがない存在だった。

「……どうしたのさ。急に親父の話なんかして」

 洗面所から食卓へ足早に移動しつつ俺は出来るだけ明るい声を出すよう努めて言った。
 お袋は後ろをついてきながら俺の背中に言う。

「ちょっとね。あんたの後ろ姿がお父さんに似てきたから思い出しちゃったのよ」
「……飯、これ?」
「あっ、うん。御飯ついできたげるからお味噌汁は自分でつぎなさい。時間ないんでしょ」
「一分で食うってば」

 言いつつ中腰で卓袱台の中央におかれた鍋から味噌汁をすくう。
 味噌と出汁が程良くしみこんだタマネギと馬鈴薯――母さんの好きな具だ――を両頬に掻き込んで、盛大に咀嚼しながら俺は少しだけ考えた。
 俺が……親父に似てきた……?
 それはある意味仕方のないことだろう。
 離れて暮らしても、例え死んでしまっていても、血が繋がっているのはどうしようもない。
 俺が気になったのは、そのことではない。
 俺が顔を洗っているとき、お袋は何かを言いかけてそれを飲み込んだ。
 そして親父を恨んでいるかと聞いたり、親父に似てきたと言ったり……。

 ――お袋は、俺に何を言いたかったんだろう。

「ちゃんと噛んで食べなさいよ」

 その時、台所の奥からお袋が茶碗を持って帰ってきた。

「もっと早く起きればこんなに急いで食べなくてもいいのに……」
「おわっ、母さんなんでこんな山盛りついでくるのさ。時間無いって言ってんのに」
「このくらい食べないとお昼まで持たないでしょ」

 俺はもはや何も言わず、ただ黙って口の中に飯をかきこんだ。
 ばくばくばく
 かちゃかちゃ
 ずるずる……
 音を立てながら、ろくに噛まずに朝飯を詰め込んで行く。
 行儀が悪いと注意されるかな。そう思って上目遣いでお袋の方を見やる。
 するとそこには額を支えるように卓に肘をついているお袋の姿があった。

 ――その瞬間、再び俺の中に衝撃が走った。
 朝、目覚めたときお袋の姿を見たときと同じ……

「母さんっ」

 思わず、叫んでいた。
 ――俺は見たことがある。
 いや、経験したことがある。
 お袋のこんな姿を。見逃してしまいそうなほどささやかな異変を。
 俺は強い既視感に捕らわれていた。

「母さんっ!」
「……びっくりしたぁ。大きな声だして」

 人の気も知らず、お袋はぱっと顔を上げると眼をぱちくりとして驚いた風に言った。

「どうしたの」
「どうしたの…って……」

 俺は力が抜けて、ためいきをつきながら浮いていた腰を下ろした。

「……なんでもない」

 説明しようとして、言葉に詰まった。
 自分でも、今のが一体なんだったのかよく分からないのだ。

「変な子」

 お袋は眉をひょいと上げてふふっと笑った。
 笑われた俺は憮然とした表情を作り、黙々と食事に専念することにした。
 ったく。なんだってんだ。今日はどうかしてる。
 何でこんなに物事全てに違和感があるんだ。それにどうして目に映る全てに見覚えがあるんだ。
 朝から何となく感じていたけど、今の一事で一層それは強まったように思う。それはまるで……
 ――まるで夢でも見てるかのような……

「ごちそうさまっ!」

 茶碗についた米粒の最後の一粒までかきこんで、俺はよしない物思いを断つように乱暴に箸を置いた。
 目の前に置かれた湯飲みからぬるくなったお茶を飲み干し、席を立つ。
 壁の時計を見るとぎりぎりの時間だった。

「やべっ、マジで遅刻する」

 だだだっと居間から駆け出して玄関へ向かう。
 狭い玄関に腰掛けながら靴を履く。
 あらかじめ置いておいた通学鞄を小脇に抱える。

「いってきまーす!」

 いつもより大きな声で家の奥のお袋にそう言いながら、玄関のドアを開ける。
 敷居をまたいで半身を朝の光の中に晒す。
 いってらっしゃい。
 お袋のその声が俺の背中に届いた瞬間、俺は学校に向けてノンストップのマラソンを始めるだろう。
 よくあること。いつもの光景。いつも通りの何でもない朝――

「………」

 いってらっしゃいは、いつまでも聞こえなかった。

 ドアノブから手を離せないまま、俺は玄関に立ちすくんでいた。
 そして今度こそどうしようもないほどの既視感、いや、既知感の虜になっていた。
 俺は、何が起きたのかを、知っている。そしてこれから何が起きるかも知っている。
 母さんは…お袋は…―――

「嘘だっ!!」

 鞄を投げ捨てて家の中に駆け戻る。
 蹴飛ばすように靴を脱ぎ、叩きつけるようにふすまを開け、食卓のある奥の部屋に走る。
 空気が泥のように重い。母子二人暮らしの狭い家なのに、居間へ続くドアは目の前にあるのに、いつまでたってもそこへたどり着かないような気がした。
 ――まるで、そこへ行くなと誰かが邪魔をしてるかのように。
 引き戸に手をかける。居間はそこにあり、母さんはそこにいる。俺はそのことをなぜか知っていた。
 手に力をいれる。軽い材質の建付けもよい戸なのに、渾身の力を込めないと開かないほどそれは重かった。
 ――まるで、その向こうを見るなと誰かが邪魔をしてるかのように。

「母さんっ!!」

 ようやく開いた戸に身をねじりこむようにして俺はお袋を呼んだ。
 …ああ、覚えがある。
 俺は前にもこんな風にしてお袋を呼んだ覚えが……

「――!!」

 ああ、あのときと同じだ。
 俺は心のどこかでそう考えていた。

 開けた戸の向こうには
 血の気の失せた、真っ青な顔のお袋が
 不自然な格好で倒れていた。

 駆け寄って、抱き起こす。力無くぐったりとお袋は俺の腕の中に横たわる。
 その重み。その感触。そのぬくもり……その全てに、覚えがあった。

 ――俺は、獣のように、肺の中の空気全てを叫びに換えていた。

 

 

「……耕…くん……耕一くん……どうしたの」  

 ゆらゆらと肩を揺すられて、俺ははっと眼を覚ました。
 腕の下に固い感触がある。
 ――ここは…どこだ?

「耕一くん、どうしたの? 大丈夫?」

 心配げな声に振り向くと、懐かしい顔があった。

「七瀬の叔母さん……」
「こんなとこで寝てたら風邪ひくわよ」

 化粧っけの薄い、お袋によく似たその人はお袋の年の離れた妹、つまり俺の叔母にあたるひとだ。
 俺のいらえに、心配そうに顰められた眉を解き叔母さんは唇を小さく噛んだ。

「……うなされてたわよ。耕一くん……悪い夢でも見たの?」

 俺はまだ呆然としていた。
 何なんだ。どうして叔母さんがここにいるんだ?
 いや、それ以上に、ここはどこなんだ?

「俺、家で…お袋が……」

 俺は、さっきまで自分の家にいた。
 そして倒れたお袋を抱いて叫んでいた。
 あれは……夢……?

 俺のつぶやきを、叔母さんは違うように解釈したらしい。
 たちまち顔が歪み、涙が頬を伝い降りる。
 今日何度そうしたのか、震える口元に押し当てられたハンカチには口紅の跡がたくさんついていた。

「そう…姉さんの……夢、見て……」
「叔母さん……」

 座り込んですすり泣き始めた叔母さんの姿を見て、俺はゆっくりと思い出した。

 ここは葬儀場。そのロビーで俺は居眠りをしてしまったんだ。
 叔母さんの着ている服も、そう言えば喪服だ。
 ――そして、今は俺のお袋の葬儀の最中なのだ。

「……そうよね……お母さんが死んじゃったんだもんね……」

 嗚咽の合間に叔母さんはそんなことを言う。
 胸が貫かれたように痛んだ。
 お袋は、もういない……。
 さっきまで見ていた夢のせいか、現実感に薄かった。

「かわいそうに、耕ちゃん……かわいそうに……」
「叔母さん、俺大丈夫だから」

 俺の分まで涙を流している叔母さんの肩に手をおいてそう言った。

「大丈夫。俺は大丈夫だから」

 ほかに言葉も見あたらず、俺はただ、大丈夫だと繰り返した。

 …その時、ふと何かを思い出しそうになった。
 何だろう。何かがひっかかる。
 大丈夫。繰り返されるこの言葉。
 これに俺は……覚えがある……?

「だから叔母さん、そんなに泣かないで。俺本当に大丈夫だから」
「耕ちゃん……」

 物思いを振り払って、俺はそう言った。
 この人だって、実の姉を亡くした訳だし、泣く理由も権利も充分にある。
 しかし俺のためにそんな風に泣かれるのは、今の俺には辛かった。

「それに叔母さん、俺ももう高三だしさ。耕ちゃんはやめてよ」
「うん……ごめんね……耕…一くん」

 鼻をすすりながら、叔母さんはようやく気丈な表情を見せた。涙で濡れた頬でかすかに微笑んだ。
 母さんは気丈な人だった。ふとした隙に弱さを見せてしまうこともあったけど、強い人だった。
 だから叔母さんも、本当は強い人なんだと思う。

「なんか、小さかったころの耕一くんを思い出しちゃって、そしたら、赤ん坊だったあなたを大事そうにだっこしてた姉さんを思い出しちゃって……ごめんね……」

 叔母さんの目がまた一瞬潤む。しかし目を強く閉じて叔母さんはそれをこらえた。

「大丈夫?」

 俺がそう言うと、叔母さんは立ち上がって両手を広げ、大きく深呼吸をした。
 吸い込んだ息を体を折って大きく吐き出す。
 そして、ゆっくりと顔を上げた叔母さんは、もう泣いてはなかった。

「うん、大丈夫」

 ――やっぱり、母さんの妹だ。
 そう思った。

 

「ああ、そうそう。大事なことを忘れてたわ」

 叔母さんが急にそう言った。

「大事なこと?」
「あなたにそのこと伝えに来たのに、顔見たらつい泣けちゃって……ごめんね」
「俺にって……」

 つぶやきながら、俺にはもう、なんとなく解ってしまった。
 叔母さんの口からどんな言葉が出るのか、俺は解ってしまった。
 まるで以前一度聞いたことがあるかのように。
 まるで……さっきの夢のように……

 叔母さんはゆっくりと、俺の表情をうかがうように言った。

「――賢治さんが来られたわ。耕一くん……お父様よ」

 

「耕一」

 呼びかけられて振り向いた先に、親父が立っていた。
 長い葬儀が終わった後、一人になりたくて斎場の庭園の隅でぼんやりしていた俺を親父がいともあっさりと見つけたことに俺は驚かなかった。どうせ七瀬の叔母さんが教えたんだろう。

 叔母さんから親父が来たことを聞いた後も、俺は親父と会いたいとは思わなかった。
 会ったところで、互いに溝を深めあう以外の何にもならないと思ったからだ。
 だから、むしろ親父が俺に会いに来たということの方が俺には驚きだった。

「………」
「耕一……」

 振り向いたままの格好で、表情ひとつ変えず無言でその目を見返した俺を、親父はもう一度呼んだ。
 父さん、と言いそうになる唇をわずかに噛んで、俺は睨み付けるように親父と目をあわせ続けた。

 六年ぶりに会った親父は、俺の記憶の中の姿より随分と老けて見えた。
 紺の仕立ての良い背広に黒いネクタイを締め、わずかに痩せ気味の頬には俺の知らない間に刻まれた幾筋かの皺が走っている。六年前は真っ黒だった頭髪も、今では耳元や前髪にはっきりと白いものが見て取れた。
 六年の歳月は、大人でさえもこれほどに変化させずにはおかない。
 親父から見れば俺の方こそ見たこともない人間のように変わってしまっているはずだ。
 ……それなのに、お互いが解ってしまう。
 これが、親子というものなのかも知れない。

 長い歳月の後の、親子の再会――
 本来なら、普通なら、名を呼び合って駆け寄って、肩を抱き合ったりする場面なのだろう。
 しかし、俺達の間にあるのはそんな温かなつながりではないのだ。

 ざっ
 近づく親父の歩みに合わせ、俺は一歩後ろに引いた。
  親父は、そこで立ち止まった。目に哀しげな陰りが浮かぶのを俺は無視した。
 お互いが手を伸ばしても届かない距離。
 それが、俺と親父の六年目の距離だった。

「ずいぶん…大きくなったな」

 長い沈黙の後、親父は細い目をしてようやくそう言った。
 俺は黙ったまま何も答えなかった。

「…お前がここに行ったと洋子さんから聞いてな」

 親父はまるで言い訳をするかのように、わずかにうつむいてそう言った。
 俺はやはり何も応えず、親父の顔を見続けた。
 洋子というのは七瀬の叔母さんの事だ。やはり、教えたのは叔母さんだったようだ。

「母さんが倒れてからのことは洋子さんから聞いたよ。…大変だったろうな。すまない」
「別に」

 頭を下げる親父に、俺は短くそれだけ言った。
 恨み辛みも、グチも八つ当たりも言うつもりはなかった。
 ただただ、気持ちはどこまでも醒めて行く。

 ……しかし、心のどこかで気が付いていた。
 今の俺は、醒めたふりをしているだけだということに。
 本当は子供みたいにすねているのを、素直になれなくて自分で認められないだけだということに。

「……これから、どうするつもりだ」

 非友好的な俺の態度に話を長引かせる愚を悟ったのか、親父はいきなりそう言った。

「どうするって……関係ないだろ」
「関係なくはない。俺は、お前の…父親なんだからな」
「六年間も放っておいて今更何を言う!」

 赫ッ とそう言いかけて、俺は唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
 そして言うかわりに真っ正面から睨み付けてやる。
 時に、目は口よりも雄弁だ。
 俺が何をいわんとしているかは十分すぎるほど伝わったはずだ。

 しかし、親父はその視線から逃げることをしなかった。
 覚悟を決めた目と引き締められた頬で全てを受け止め、逆に俺を見返してきた。
 ――短い睨み合いから先に降りたのは、俺の方だった。

 …何だよ。
 なんでそんな目で俺を見るんだ。
 これじゃ、立場が逆じゃないかよ……

 逃げるように目を逸らし、下唇を強く噛む。
 そうでもしないと、泣いてしまいそうだった。

 風が吹いてきて、沈黙した人間達のかわりに木々が騒ぎ出す。
 遠い空に早い勢いで黒い雲が広がってゆくのが見えた。もうすぐ雨が降るのかも知れない、とそんな事を思った。
 雨雲を連れてきた風が庭木の合間でうなりを上げて行く。俺はその音に現実感を感じられなかった。
 弔問客たちが帰って行く斎場のざわめきさえ、どこか遠くのことのように感じられる。
 風がひときわ強く吹いた一瞬――感覚と思考が、現実から切り離された。
 目を閉じる俺の脳裏に、さっき見た夢の景色がよみがえった。

 いつも元気で、やもめの寂しさなんて決して見せようとしなかったお袋。
 それだけに、時折ふっと見えてしまう弱さが哀しかった。
(……あんたは、きっとお父さんを恨んでるんでしょうね)
(あんたの後ろ姿がお父さんに似てきたから……)
 ――お袋は、親父を愛していたのだ。六年間も未亡人同然の生活を続けていても、愛していたのだ。
 俺はそのことを知っていた。だからこそ、俺は一層親父を恨んだのだ。
 恨んで、憎んで、許さないと心に誓い……でも、きっとそれは何かの裏返しだったのかも知れない。
 俺は親父が憎いのか、それとも――…

 時ならぬ風に騒ぐ木々の声に、心と思いは千々に乱れた。
 沈黙を埋めた追憶に血が出るほど噛みしめた唇が、ただ一つ、碇のように現実と俺をつなぎ止めていた。
 ――やがて風が止み、木の葉が静かに舞い落ちてくる。
 俺を襲った感情の嵐も同じように、微かな余韻を残しながら去っていった。

 沈黙を取り戻す庭園に立ちつくす親子二人。視線はすれ違ったまま。
 ……やはり、会うんじゃなかった。
 俺が心の中でそうつぶやいた時――その時、親父が言った。 

「……一緒に暮らさないか」

 俺は反射的に親父の方に顔を向けた。
 親父の顔からはさっきまでの厳しさと激しさが消え、慈しむように細められた目には万言に尽くせぬ思いが光となって宿っていた。

「一緒に、暮らさないか」

 親父はもう一度、ただそれだけを繰り返した。
 俺はその目を見つめ、親父が冗談を言っているのではないことを知った。

 一緒に暮らさないか。
 この言葉が意味するところは理解できた。
 それはつまり、隆山のお屋敷に来ないかということだ。

 六年近く前に会ったきりの従姉妹達の面影を思い出す。
 初音ちゃん、楓ちゃん、梓、そして千鶴さん。みんな大きくなったんだろうな。
 あのときは俺が小学校5年だったから、末っ子の初音ちゃんももう中学二年生か。
 楓ちゃんは中三、俺と同じ受験生。梓の奴は浪人してなければ高校一年のはずだ。
 千鶴さんは……大学三年生か。千鶴さんのことだから浪人とか留年というのは考えられなかった。
 不思議なことに、みんなの顔を俺はすぐに思い出すことが出来た。
 六年も前にたった一度会ったきりのみんなの顔を、俺は覚えていた。
 めくるめく過ぎ去った、あの短い夏の日々の思い出と共に。

 だから――
 『一緒に暮らさないか』
 親父の申し出が、一瞬心をくすぐる。
 親父は俺とお袋を捨てて隆山に行ったけれども、不思議と従姉妹のみんなを恨む気持ちは無かった。
 みんなとなら、上手くやっていけるかも。素直にそう思えた。
 そしてあの従姉妹達なら、俺を暖かく迎え入れてくれるだろう。
 新しい家族として。
 家族と…して……

「……何言ってんだよ」

 俺は思いを振りきるように、そう言葉を吐き捨てた。
 顔を上げて、目の前に立つ男の姿を見据える。
 俺によく似たその男は、俺の血の繋がった実の父親である。
 しかし……。
 ――その男は、俺の家族では無かった。

「そんなこと出来る訳無いじゃないか」

 俺は震えそうになる声を、言葉を吐き捨てるように刻んで隠した。
 親父は黙っていた。俺は無意識のうちに手に力を入れていた。

 さっきの夢の中で感じたような、居心地の悪い既知感が俺を包んでいる。
 全ての結末を知っていながら何も変化させることの出来ない無力感が、焦燥にも似た悲しみを増し加える。
 二人の自分がひとつの心の中でせめぎ合っているような、相反する二つの感情がぶつかり合って渦を巻いているような、そんな混乱した自我が俺を責め立てた。

 家族。
 きっかけはこの言葉だった。
 六年間俺たち母子を見捨てて田舎で安穏と暮らしていた男が、母の死の直後に、一緒に暮らさないかと言う。
 それは、なるほど親権者らしい責任の取りようであるかも知れない。
 しかし、今の俺の耳に、それはあまりに身勝手に響いた。

 お袋の立場はどうなる。俺は心の中でそう親父を糾弾した
 お袋はあんたを愛してたんだ。別れても、逢えなくても。六年間も。死ぬその時まで――。
 そのお袋が死んだ途端、一緒に暮らさないかだって……?

 ――どうして。
 どうして今頃そんなことを言うんだ。
 「一緒に暮らさないか」
 その言葉を、どうしてお袋に言ってやらなかったんだ。
 そしたら、そしたら……

 そうしたら俺達は、もう一度家族になれたかも知れないのに――!!

 ……しかしその時、俺はふと思い出した。
 倒れたあの朝、お袋が俺の背中に何かを言いかけてそして言葉を飲み込んだことを。
 あの朝、珍しくお袋が親父の話を俺に振ったことを。
 そして親父を恨んでいるかと聞いたり、親父に似てきたと言ったり……。

 語られることの無かった言葉と、お袋が聞くことの無かった言葉。
 全くつながりの無いはずの二つの出来事が、妙に鮮烈に意識の隅を同じ色に焦がしている。
 これも例の既知感と同じ感覚なのだろうか。
 それとも、ただの願望が生み出した妄想に過ぎないのだろうか。 

「…俺、受験生だぜ? この時期、転校とか引っ越しとかで環境がかわるのがどんなに致命的か知ってるだろ」

 結局――。
 俺は進学の事情を理由に親父の申し出を断った。
 自分の本当の気持ちがどこにあるのか、それすらも分からないまま。

 大学のことは確かに理由のひとつだった。
 でも、それは数ある理由のなかで一番わかりやすいものというだけだった。
 俺の心を本当に動かした理由は、上手く言葉に出来ないこの混沌とした気持ちなのかも知れない。
 「家族」 ――この言葉が俺の中に引き起こした混乱の結果が、これだったのだ。
 俺は、親父を家族とは思えない。六年という歳月の隔たりもそうだったが、お袋の死に際さえ見届けなかった男に対しての反抗心も大きかった。お袋を捨てた親父と「家族」になることは、死んだお袋への裏切りであるような気がした。せめて、俺だけでもお袋の「家族」でいてやりたかった。
 ――でも、そう思う片一方で、強く訴える声がある。
 お袋は、親父を愛していた。
 口に出したことは無かったけれど、お袋は俺達親子三人が再び家族に戻る日を待っていた、そんな気がする。
 あの日……お袋が倒れた朝、お袋が言いかけて飲み込んでしまった言葉は、それだったような気さえするのだ。
 だから、いま、親父のこの誘いに応じて、残された二人が家族になるのは、裏切りではなくむしろお袋の願いであるのかも知れない。

 ……俺は本当はどうしたいのか。
 親父を憎んでいるのか。それとも、許したいと思っているのか。
 こんな混乱が生じること自体が、以前の俺ならば想像も付かない事だった。
 揺れ動く気持ちのなかで、相手と自分を納得さえうる理由を探し、見つけた答えが進学のことだったのだ。

「――だから…一緒には、暮らせない」
「………」 

 親父は黙っていた。
 目を合わせることも出来ず、言い訳するようにそう言った俺を、親父はただ黙って見つめていた。
 心の内の全てを見透かされているようで、俺はその視線から走って逃げたい衝動を抑えるので必死になった。
 染みのように広がる雨雲はもはや中天にさしかかっていて、陽を遮っている。
 再び、微かな湿った風が西から流れてきた。
 …沈黙は、どれほど続いたのだろう。

「――そうか」

 まるでためいきのように、親父が言った。

「お前も、もう大人だからな。お前が自分でそう決めたのなら、無理強いは出来ない。こっちで一人で暮らすというなら、それもいいだろう。――ただ、これだけは覚えておいて欲しい」

 親父はまっすぐに俺の目を捉えた。

「俺は、お前の父親だ。そしてお前は俺のたった一人の息子だ。お前には俺と同じ血が流れている。お前が俺をどう思っていようと、たとえ俺が死んでしまったとしても、俺達は親子なんだ。――親子なんだ」

 訴えかけるような親父の言葉を、俺はそっぽを向いて聞いていた。
 目を閉じて何も見えなくするように、耳もふさいで何も聞こえないようにできたらと思った。
 親父の言葉を無視できたら良いのにと思った。親父が大嘘つきだったら良いのにと思った。
 親父の言葉をこれ以上何も聞きたくないと思った。
 でないと、親父をこれから憎みつづけてゆくことが出来そうになかった。
 ――しかし、そう思ったときにはもう親父の言葉は俺の心の一番奥にまで沁みこんでしまっていた。
 

 『親子』 
 親父はこの言葉にどんな意味を込めたのだろう。
 それはさっき俺の思いの中に閃いた『家族』という言葉とどう違うのだろう。
 俺は気付く。俺自身、すでに分かっていたことだ。
 俺は親父のことを『家族』とは思えない。しかし、それでも『親子』ではあるのだ。
 一緒に暮らさないか、という親父の申し出は俺達がまた『家族』になろうという提案だった。
 しかし俺はそれを拒んだ。だから親父は、残された最後の絆――親子という血の繋がりを「覚えておいて欲しい」と言ったのだ。

 (…家族にはなれなかった)
 (家族の絆を取り戻すには、もうすべてが遅すぎた)
 (でも、俺達は親子なんだ)
 (親子なんだ―――)

 親父の悲痛な想いが直接胸の中に響いてきた。
 俺は胸元をかきむしり、歯を食いしばって溢れ出す叫びをこらえた。
 ――何だ。
 この気持ちは何なんだ!
 俺は、親父を、憎んでいるのに――!!

「……耕一、どうした」
「近づくな!!」

 俺は思わず声を荒げてしまった。
 胸元を握りしめたまま手負いの獣のように残された手で大きく辺りを払う。
 親父は俺に向かって一歩踏み出したままの格好で立ち止まり、心配そうに言った。

「なんだか苦しそうだが、大丈夫か」
「心配される筋合いはないよ」
「………」

 親父はさしのべた手をゆっくりと下ろしながら、哀しそうな目をした。
 その目を見るとまた胸の奥が切られるように痛んだ。
 ――俺は心にもないことを言って親父を傷つけている。そしてそれは同時に俺自身を傷つけている。
 そんなことは自分でも分かっていた。
 こんな事が言いたかったんじゃない。
 本当は、親父に話したいことがいっぱいあった。傷つき傷つけあう会話ではなく、失ったものを取り返し、新しいものを築き上げる、そんな言葉を交わしたかった。
 だけど……だけど……

「ほかに話すことがないんならあっち行ってくれ。……一人になりたいんだ」

 …俺の唇はまたナイフのような言葉を紡ぎ出す。
 俺は情けなさに絶望したくなった。

 ――ぱたっ

 その時、ついに空を覆い尽くしてしまった雨雲が最初の一滴を俺の頬に落としてきた。
 ぱたぱたぱたぱたたたた…―――さーーーーっ……
 木の葉や砂利を叩く雨音が散発的なものから連続的なものに変わるのはあっと言う間だった。
 冷たい雨はうつむいた俺の頭と首筋を濡らし、鼻先から初め雫となってしたたり落ち、たちまちそれはひとつらなりの水流と変わった。
 自分の髪と服が次第に重く濡れて行くのを、俺は無感慨に観察していた。
 さっき見た夢の中の感覚と似た気分が俺を包んでいた。
 ―――全て夢の中の出来事のような…―――
 微かに首を傾けて、親父の立っていた方向に目を向ける。
 そこには、もう親父の影はなく、ただその足跡に雨粒だけが白く跳ねていた。
 遠く、斎場の入り口へ向かう親父の後ろ姿が見えた。背広は滴るほど濡れて色が変わってしまっている。
 親父は振り返ることなく歩んで、やがて建物の角を曲がって見えなくなった。

 なぜだろう。
 俺は顔を向けるより先に知っていた。
 親父がすでにそこから去ってしまっていることを。
 そして、今見た後ろ姿が、生きた親父を見た最後の姿になったことを……

 目を開けたまま空に目を向ける。
 厚い灰色の雲で覆われた空から、まっすぐな軌跡を描いて雨の滴が落ちてくる。
 それは俺の頬を濡らし、額を濡らし、唇を濡らし……そして俺の目を濡らした。
 ――俺は泣いてなどいない。
 ただ、今は心を閉ざして、何も考えないでいられたらと思った。
 この雨に溶けて、この地上からいなくなってしまえたらいいのにと思った。
 そして俺は目を閉じて、雨に打たれるままにいつまでも立ちつくしていた……
 ………
 ………

 

 

「……耕一、起きろ耕一……」

 ゆらゆらと肩を揺する大きな手。永遠に失ったはずの懐かしい声。
 俺はある種の予感を感じながら、寝たふりをした。
 すると、もう一つの足音が階段を上がってきて枕元で止まった。

「耕一はまだ起きないんですか?」
「だめだよ。死んだように寝てる。…さっきまで鼾かいてたから死んじゃいないと思うけどね」

 苦笑しながらそう言ったのは男の声。そしてそれに呆れたようなためいきをついたのは女の声――。
 どちらも聞き覚えのある声だった。

「まったく、似た者親子ですこと」
「母さんのいびきもうるさいからなぁ」
「私じゃありません。あなたに似たんです!」

 憤然として言う声と、どこかを踏まれたか摘まれたかしたのかイタタと悲鳴を上げる声。
 そして、二人同時に小さく笑う声がした。
 ……仲の良い夫婦の、こんなさりげない会話。
 しかし、それはもう現実にはあり得ないもののはずだった。

「……それにしても、そろそろ起こさないと遅くなりますよ。急行に乗ったって二時間はかかるんですから。それにあちらにもご予定がおありでしょうし……」
「それもそうだな。おい、どんないい夢見てるのか知らんが、いい加減起きろ!」

 ゆらゆらがぐらぐらに変わる。
 それでも俺はシーツにしがみつき寝たふりをした。
 すると、お袋がしびれを切らしたように言った。

「甘いんですよ。この子を起こすには……はっ!!」

 ――がばっ!!
 いきなり布団をはぎとられてしまった。

「うわっ?!」

 お袋の荒技に、それ以上寝たふりを続けることも出来ず俺は目を覚ますことにした。

「何すんだよ、お袋!」
「起きなさいって何度言っても起きないから、実力行使に出たまでよ」

 平然として息子の抗議を受け流すお袋の横で、親父がその鮮やかな手並みに小さく拍手を送っている。

「……おはよう、親父」
「おはよう。ずいぶんいい夢見てたみたいじゃないか」
「そうでも……ないよ」

 気楽な親父の声に俺は苦笑いを浮かべる。
 そう。お世辞にもいい夢では無かった。
 今の俺はもちろん雨に濡れてもいなければ、力を失ったお袋を抱きかかえてもいない。
 目をしばたたかせながら、ゆっくりと自分を取り巻く環境を眺め渡す。
 小さな窓とガラス戸。白いベランダには壊れたスケボーがひっくり返っている。
 日に灼けた壁紙には無数の落書きと傷が残っている。その一つひとつに思い出があった。
 ……なんてことだ。
 俺は懐かしさと驚きのあまり呼吸すら止めてしまった。
 ここは、親父が隆山に行く前に三人で住んでいたあの家じゃないか……!!
 都会の小さな一戸建て。俺が小学校時代を過ごした二階のあの部屋。
 いまはもう思い出すこともなくなったこの家に、親父とお袋――俺たち家族がいる。
 三回目に目覚めた世界は目眩がするほど懐かしく、そして、あり得ない世界だった。

「どうした。びっくりした顔して」
「寝ぼけてないで、早く支度しないと置いて行くわよ耕一」
「あ、うん……」

 十分に驚きから回復しないまま俺はのろのろと起き出そうとした。
 その時。

『――耕一ッ』

 耳鳴りのように俺を呼ぶ声がした。

「――ッ!」
「どうした」
「いま……なんか誰かに呼ばれたような……」
「空耳ですよ。それより早く起きなさい。お母さん達もう準備できてるんだから」

 耳を澄ませてみる。しかし何も聞こえなかった。
 やはり空耳だったのだろうか。

「…そういえば、行くってどこに行くの」

 起こされた時から親父達は家族で一緒にどこかに出かける用意をしていたようだけれど、どこに行こうとしているのかどうしても思い出せなかった。
 親父は笑って答えた。

「おいおい耕一。お前あんなに楽しみにしてたじゃないか」
「こう言うところもあなた譲りよね」

 責任を親父になすりつけながらお袋まで笑っている。

「……思い出せないんだ。笑ってないで教えてよ。俺達はどこに行こうとしてるの?」
「………」
「………」

 親父とお袋が黙った。
 少し寂しそうな笑顔を浮かべたまま、二人並んで俺の方を向いている。
 さらに何か言おうと俺が口を開いた瞬間――

『――耕一さん』

「――ッ! ま、また…」

 耳鳴りがした。さっきよりも鮮明な声で、俺の名を呼んだ。
 聞き覚えのある若い女性のこの声は……

「隆山だよ」
「えっ……」

 突然親父が言った。物思いに耽っていた俺ははっと振り返る。
 親父は隣のお袋と一瞬視線を交わし、そして俺に静かに告げた。

「隆山、俺のふるさとさ。お前も小さい頃行ったことがあるだろう」
「あ、ああ……」

 ぎこちなく相槌を打つ俺の前で、お袋が微笑んで言う。

「懐かしいわよねぇ。あの頃は家族でよく旅行もしてたわね」
「そうだな。俺のせいでずっと一緒に出かけることもなかったな。すまなかった」
「いいんですよ。これからまたたくさんすれば良いことですし」
「……おやじ、おふくろ……」 

 その時また耳鳴りがした。

『――お兄ちゃん!』
『――耕一さんっ!』

 俺を呼ぶ声に世界が揺れた。
 感覚が遠ざかり、目の前の世界とのつながりが急速に薄れて行く。
 頭の奥で、止まっていた何かがゆっくりと回り始めた。

「なんだい、耕一」

 母さんの肩を優しく抱いて親父が言う。

「なあに、耕一」

 肩に乗った父さんの手に自分のをそっと重ねて母さんが微笑む。

「これも――」

 俺は、二人のように上手く微笑みを浮かべられなかった。
 並んで立つ二人の前で、俺は一人、声を震わせた。

「これも、夢なんだね……」

 その瞬間、世界が消え去った。

 まるで、映写機の電源を落としたときのように。
 まるで、アルバムをばたんと閉じたときのように。
 そして、まるで――

 ――長い夢から覚めたときのように。

 

 世界が消え去っても、親父とお袋はそこにいた。
 懐かしい家も、思い出で一杯のあの部屋も、何もかも消えてしまった空間の中、ただ俺と親父達だけが存在として向かい合っていた。
 俺はいま、夢と現実の境目にいるようだ。
 俺を呼ぶ千鶴さんや梓の声は、もはや肉体的なレベルで聞こえて来るようになっている。
 みんな――目を覚まそうと願えば、俺は今すぐにでもそうできる。
 しかし、俺はあと少しだけ目覚めを引き延ばそうと思っていた。
 もう少しだけ、親父達と話をしたかった。

「…耕一」

 親父が、静かに俺を呼んだ。

「どの辺りから気付いていた?」
「……三回目に目が覚めたとき、何となくそうじゃないかって…」

 しかし、今考えてみると最初から違和感はあったのだ。
 最初の夢でお袋に起こされたときに俺はひどく驚いた。
 それは「お袋がいない世界」の記憶、つまり現実の記憶を夢の中でも引きずっていたからに違いない。
 初めの夢、そして二番目の夢で感じた強烈な既知感もまたそのせいだろう。
 そして三回目の目覚め。夢は現実のリフレインを一歩踏み越え、実際にはあり得ない世界を造り上げた。
 それがあの昔の家。仲良くそろった家族――たったいま、俺の言葉で消え去っていった夢の世界だったのだ。

「……すまなかった。お前には辛い夢を見せてしまったな」
「最後の夢は、いい夢だったよ。自分で壊してしまったけど……」
「それは違う」

 苦く笑う俺の言葉を親父は真面目な顔で否定した。

「夢は覚めるものさ。どんな悪夢であろうと朝が来れば覚めるものだ。むしろお前が、居心地の良い夢に溺れないで現実の声に耳を傾けたことを、父さんは嬉しく思う」
「親父……」
「しかし、目を覚ます前に少しだけ話をさせてくれ」

 俺は頷いた。
 親父はありがとうと言って、軽く微笑んだ。
 子供の頃、俺が大好きだった親父の笑み方そのままだった。

「お前に今日この夢を見せたのは、父さんと母さんのわがままだ。お前に思いださせて、そして、覚えておいて欲しかったんだ。お前に、俺と母さんという家族がいたことを。……俺達が家族だということを」

 ……思い出さなくても、覚えていたよ。
 忘れた事なんて無かった。本当は……

「現実には、俺達が家族でいられたのはほんの短い間だけだった。すべて、俺の弱さが原因だった。お前達の許を去り姪達と暮らしながらも、俺はいつもお前達のことを考えていたよ。お前が生まれながらに背負ってしまった苦しみや悲しみは全て俺のせいだ。……しかしお前は、父さんに出来なかったことをやってのけた。お前は俺の誇りだ。俺がお前のように強ければ、俺達は家族でいられたのにな……。本当にすまなかった」

 親父はそう言うと、奥歯を噛みしめたような苦い微笑みを浮かべた。

 家族の夢。
 最後に親父が見せた夢は、親父の懺悔であるような気がした。
 柏木の呪われた血に翻弄されながら、ただ俺達家族のことだけを思って生き、そして死んだ親父の、それはあまりに哀しい夢であるように思えた。

「……親父は悪くないよ。二年前のあのとき、家族を捨てたのは俺の方だっただろ」
「そうかも知れない。しかし、その前に六年間もお前達を捨てて置いたのは俺の方だ」
「でもそれは……!」
「どう言い訳しても、許されることじゃない。でも、お前が俺達を家族と言ってくれて、本当に嬉しいよ」

 …なんて皮肉なことだろう。
 お互いの大切さに気が付いたとき、それはすでに失われているのだ。
 俺達はなんて馬鹿なんだろう。
 死んでしまった後になって、夢の中で家族の絆を取り戻すなんて…

 苦い、あまりにも苦い涙が、夢の中であるにもかかわらず俺の頬を伝って落ちた。

「……家族だろ……俺達……」
「ああ、家族だ。俺と、母さんと、耕一。俺達はいつまでも家族だ」
「あら、嬉しいわ。私も仲間に入れてくれて」

 その時、お袋が混ぜっ返した。

「忘れられてるのかと思っちゃった」
「母さん……」

 俺と親父が苦笑いを浮かべる。
 それを見て母さんはふふふと悪戯っぽく笑い、そして穏やかな声と表情で言った。

「耕一。二年前のあのとき、私はお父さんの所に一緒に行かないか尋ねるつもりだったの」

 あの時、とは、顔を洗う俺にお袋が何かを言いかけてやめた、最初の夢での事だろう。

「…母さんとお父さんは、あなたに見つからないように連絡を取り合っていたの。それでお父さんの鬼がだんだんひどくなってるって知ってね……耕一を連れてお父さんに何も言わずに押し掛けて、一緒に暮らそうかと一瞬思ってしまった。でも……だめね、ここまで来ておきながら、言葉にする勇気がなかったのよ」

 お袋は喉元に手を当てるジェスチャーをした。
 冗談めかして言っているが、お袋はそのせいでどれだけ見えない涙を流したことだろう。

「お父さんが隆山に行ってから六年、私たち二人きりの家族だったわね。複雑な家庭環境にもかかわらず、あなたは強くまっすぐに育ってくれた。あなたは哀しいことや辛いことを乗り越えて、柏木の血を克服する事さえできた。…おめでとう、耕一。あなたは私の自慢の息子よ。あなたを愛してる……」

 不意に言葉に詰まったお袋の肩を、親父がしっかりと支えた。

「……ごめんね……耕一。母さん、あなたを残して…先に……ひとりぼっちにさせて……ごめんね……」
「……母さん」

 親父の腕にすがるようにしてお袋は静かに嗚咽した。
 その声を聞きながら、俺は七瀬の叔母さんの姿を思い出していた。
 あのとき、お袋を亡くした俺を思って叔母さんは泣いた。
 そして今、自分が死んでひとりぼっちになった俺のためにお袋が泣いている。
 ……自分のために泣けばいいのに、どうして叔母さんも母さんも俺のために泣くんだろう。
 そんな風に問いながら、俺はそれを少しも不思議に思ってはいなかった。
 人は誰も、自分のためには泣けないのだ。

 お袋の涙がこんなにも胸に沁みるのは、俺のために流れた涙だから。
 凍えた掌を温かい湯につけたときのように、お袋の涙が微かな痛みと共に俺の心をぬくもりで満たして行く。

「……泣かないでよ、母さん。そして謝らないでくれよ。俺……恨んでなんかないから。母さんのこと嫌いになんてなってないから。寂しいと思ったことはあるけど、哀しいと思ったこともあるけど、それも全部過去になったんじゃないか。……俺達やっと、家族に戻れたんだからさ……」
「耕一の言う通りだ。今は泣くより喜ぶときだろう。……でもな耕一。忘れるな。俺達は…夢の家族だ」

 あきらめでも自嘲でもなく、優しく諭すように親父が言った。

「お前はやがて目覚め、俺達は朝の光と共に消える。どうあがいても、それは変えようのない事実だ。俺達はすでに死んでこの世におらず、ただお前の夢の中にしか存在しない家族だ。そんな幻のような家族を、愛しすぎてはいけない。お前がこれからの長い人生を共に歩み、互いに支え愛し合ってゆく家族は――ご覧、もうお前のそばにいて、お前の目覚めを待っている」

 親父はそう言うと遙かな天空を仰ぐように顔を上げ、そして風を読むときのように目をそっと閉じた。
 目を閉じなくても、耳をすまさなくても、俺には聞こえていた。
 俺の新しい家族――大切な絆で結ばれた四人の従姉妹たちの声が。

 千鶴さんの柔らかい声が――

 梓の元気のいい声が――

 楓ちゃんの可憐な声が――

 初音ちゃんの可愛い声が――

 みんなの声が俺を呼んでいる。
 「目を覚まして」 と。
 そして、「帰ってきて」 と……。

 ――俺は、迷いを捨てた。
 俺の一挙一動をまぶしそうに見つめていた親父達に、俺はただ黙って深く頷いた。
 それだけで、親父達は分かってくれた。
 とてもとても誇らしそうな表情で、親父達は頷き返してくれた。

「……夢はこれで終わりだ。夢と現実と、俺達家族はまた別れてゆかなくてはならない。でも、それは悲しむべき事じゃない。俺達は家族だ。今日、お前が見たものは夢だけれども嘘じゃない。そのことを、忘れないでくれ」

 次第に親父の姿が揺れてゆく。
 湖の底へ沈んで行く水晶の珠のようにゆっくりとその存在を幽けくしながら、親父の声だけが、柔らかく耳の奥に響いていた。

「……耕一、お前をいつでも見守っているよ。……あの子達と、幸せに暮らしなさい……」

 洞窟の奥からの声のようにたっぷりと響いて届いた親父の声を、俺は胸に刻み込んだ。
 それは、俺の心の中で神聖な痕となって永遠に残るだろう。
 愛しさと、感謝と、懐かしさと、あこがれと、悲しみと……

「……また、夢で逢おう!」

 ――そして、希望とを。
 今日見た夢で、親父が俺に伝えたことを忘れないように。

 

 ……そして。
 俺は薄明の扉を、そっと開けた。

 

 

「耕一ッ! 耕一ッ!!」
「耕一さん、目を覚まして! お願いだから…!」
「お兄ちゃん。耕一お兄ちゃん!」
「耕一さん……耕一さん!!」

 頬に当たる温かな雫。
 繰り返し呼ばれる俺の名。
 そして、固く握りあわされた手と俺の頭を抱きかかえる誰かの柔らかな腕。

 俺はゆっくりと目を開いた。
 涙に歪む視界に最初に映ったのは、みんなの必死な顔だった。
 彼女たちは一体いつからこうして俺のそばにいて俺を呼んでくれていたのだろう。

「……みん…な……?」
「耕一さんっ! 気が付いたんですね!?」

 いつもの冷静さをかなぐり捨てて、千鶴さんが俺の顔を覗き込みながら言った。
 俺の頭を斜めに抱きかかえ、頬をなぜていたこの柔らかな手のひらは千鶴さんのものだったようだ。

 目をさらに遠くに向けると、わずかに開いた障子の向こうの薄明の空に白い満月が浮かんでいるのが見えた。
 吸い寄せられるようにそれを見つめているうちに、ゆっくりと記憶が蘇ってきた。
 俺が夢を見る前のことを俺は思いだした。
 俺は、まさしく今夜、自らの鬼と対決し、そしてみんなのおかげで俺は制御に成功したのだ。
 直後、現れたもう一匹の鬼と壮絶な戦いを繰り広げ勝利した後……どうやら俺は意識を失ってしまったらしい。
 気が付けば、場所はすでに水門ではなく柏木邸の一室……いつも寝室で使っている部屋の布団の上に俺は横になっていた。身には、誰が着替えさせてくれたのか、洗い晒しのシャツと浴衣のようなものを纏っている。

 俺が目を覚ましたことに安心したのか、初音ちゃんと楓ちゃんが俺の腕にすがって泣き始めた。
 俺は千鶴さんの助けを借りながら半身を起こし、二人の頭をなでてあげた。

「……心配かけたね。ごめん……そして、ありがとう」

 心優しいこの子達は、目を覚まさない俺にどれほど心配し、心を痛めたことだろう。
 また俺のために流される涙がある。
 俺はそれをこの上もなく美しく温かなものだと思った。

「耕一……大丈夫?」
「ああ、梓も怪我はないか」

 梓は目を大きく開いたままこっくりと頷くと、堪えかねたように子供のように涙を擦った。

「そして千鶴さんも……ありがとう。俺は、鬼を制御できたんだね……」
「そうです。耕一さん、そうです……!! お父様にも、叔父様にも出来なかったことを、耕一さんはされたんです」
「みんなのおかげだよ。みんながいてくれなかったら、きっと俺は鬼に呑まれていた」
「ああ……耕一さん。私がいまどんなに嬉しいか分かってもらえますか? まるで夢みたい……!」

 涙に濡れた千鶴さんの声は今まで聞いたどの声よりも感情にあふれていて、俺は千鶴さんが長い間ひたすらに押し殺してきた素顔をかいま見る思いだった。

「……夢じゃないよ。俺と、千鶴さん、梓、楓ちゃん、初音ちゃん……みんなが一緒にいるこの世界が現実なんだ。みんなと家族になるために、俺は夢から帰ってきたんだ」

 みんな、と俺は言った。
 泣いていた初音ちゃんと楓ちゃんも、ゆっくりと顔を上げ俺を見上げた。
 俺はその顔と瞳をひとつずつゆっくりと見回して、そして話し始めた。

「……夢を見ていたよ。俺の親父とお袋が出てくる夢だ。最初に見た夢はお袋が倒れたときの夢で、つぎに見た夢が親父と最後にあったときの夢だった。悲しくて、辛い夢だったよ。でも、最後に見た夢は俺と親父とお袋が、昔の家で家族をやっている夢だった。涙が出るくらい懐かしい、幸福な夢だったよ。でも……それは夢なんだ」

 みんなは静かに俺の言葉を聞いている。
 俺は、親父のように微笑めているだろうか。

「最後の夢が終わった後に、親父たちと話をした。俺が見た夢は、鬼を克服した俺に親父達が見せた夢だったんだ。親父はそうやって、俺に何が一番大切なのかを教えてくれたんだと思う。それは家族だ。家族の絆なんだ。夢の中で俺達は家族になって、一瞬だったけどとても幸せだった。でも、夢のままじゃだめなんだ」

 俺は今も耳に残る親父の声を思い出しながら言った。

「……だから、これからは俺達五人で家族になろう。親も兄弟も亡くした俺達だからこそ、お互いにかけがえのない者同志だからこそ、何にも負けない、何があっても離れない、強い絆を培おう。いきなりにとは言わない。みんなで力を合わせて、少しずつ幸せになっていこう。夢じゃなく、本当に……」

 みんなの目を見る。
 無言で返ってくる大きな同意のサイン。
 そっと俺は片手を差し出した。
 ゆっくりと、おずおずと、元気よく、そして、きっぱりと。
 五つの手のひらと心が重なり合った。

「みんな……ありがとう」
「耕一さん……」
「耕一……」

 そして俺達は固く抱きしめあった。
 窓の向こうには、ようやく朝日がその力強い姿を表しはじめていた。

 夜が終わり、夢はうたかたと消えた。
 しかし、今夜見た夢が残していったものは、永遠に消えることはないだろう。
 俺達がこうして新しい家族になった。
 それだけは、夢ではない。

 だから、また夢で逢えたら、俺は親父にありがとうと言おうと思う。
 そしてまた夜が明けるまで、家族に戻ろう。
 そのときは、無粋な言葉で夢を壊すような事はしないよ。
 甘えて、困らせて、こんな息子は知らないと言わせてやる。
 夢でもいい、幻でもいい。だから……
 ――また、夢で逢えたら。
 

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                                            1999.11.30 
                                           akira inui