いぬいあきらさん 超思いつき企画U  二十万アクセス記念SS

 

 二十万の夜を越えて 

 

 

「――また寝てる。おい、起きな。耕一」

 呆れたような声で目が覚めた。
 閉じた瞼の向こうで影が揺れて、それは俺の側に立った。

「そんなに寝てるとそのうち脳味噌にカビが生えるぞ」
「……なんだ、梓か」

 俺はゆっくりと目を開けて声の主の方を見やった。
 瞳に差し込む窓からの光はすでに茜色で、俺は昼寝が過ぎてしまったことに気が付いた。

「はっ、楓じゃなくて残念でございましたね」

 腰に手を当てて、梓が冷やかすように肩をすくめる。俺は苦笑だけ返して敢えて何も言わなかった。
 この帰省中、俺は毎朝楓ちゃんに起こしてもらっていた。
 もちろん楓ちゃんはこんな乱暴な口はきかないから間違えるはずもないんだけど……

「なんか言った? 耕一」
「いやなにも」

 まだ光に慣れない目を瞬かせながら上半身を起こす。
 旅行鞄を枕に畳の上にごろ寝していたので背中がすこしこわっている。
 胸を大きく広げて伸びをした俺の体から、がさりと音をたてて一冊の本が落ちた。
 思わず拾い上げて表紙を見る。

        「隆山の歴史@――古代から室町時代」   隆山市教育委員会 編・著

 少し日に灼けた厚表紙のその本を手にとって思い出した。
 寝てしまう前、俺はこの本を読んでいたのだ。

「なにこれ、まさかあんたの本?」 腰を折って本を覗き込みながら梓が言う。
「まさかってなんだよ」
「そのまんまの意味よ……あ、なんだ。これ叔父さんの本棚にあった奴だ」

 前半はともかく、後半は梓の言うとおりだった。
 部屋の片づけと荷造りが思ったより早く終わった俺は、暇つぶしになる物を探して親父の部屋に入り、そこでこの本を見つけたのだった。
 古びた本で、奥付けを見ると昭和50年発行とあった。柏木家蔵書、の朱印が鮮やかに押されているその本を俺は手に取り、そして読むために持ち出したのだった。

「あんたもたまにはまともな本読むんだねぇ」
「たまには、は余計だ」
「…まあ、寝てたみたいだけど」
「いちいちムカつく奴だなぁ。何しに来たんだよ」

 俺は本をぱたんと閉じて置きながら、軽く梓を睨む。
 すると梓は

「何しにとはまたご挨拶ね。晩御飯出来たから呼びに来たんじゃない」 

 …と、ちょっとむくれて言った。

「ああ、夕飯か。それならそうと早く――」
「まったく良いご身分だよな、大学生様は。こちとら学校で勉強して疲れて帰ってきて御飯まで造って、そいでもってわざわざ呼びに来てみたら「何しに来た」って言われてさ。嫌みのひとつも言いたくなるのが人情ってもんじゃありませんかねぇ、耕一先生」
「……すまん。悪かった」

 まくし立てられて俺は素直に謝った。これはどうも分が悪い。
 梓は俺が頭を下げるのをきっちり見届けてから、ふっと息を付いた。

「――ま、今日までだからね。大目に見てあげましょう」
「ははー、ありがたき幸せ」

 深々と頭を下げる俺。
 その向こうで軽く笑って、梓は身を翻した。

「もうあとは並べるだけだから、早くね」
「ああ、わかった」

 律動的な足音が廊下を遠ざかってゆくのを聞きながら、俺は大きく息を付き、そして夕空を見上げた。

 休みもついに終わりだ。
 明日の夜からはバイトが入っているので、お昼の列車で発つ。
 本当は今日にも帰るつもりだったのだが、みんなの好意に甘えて一日延ばしたのだ。
 それに、俺もすこしでも長くここにいたかった。
 そのわけは、楓ちゃんだった。

 柏木、楓。
 そう言葉に出してつぶやいてみる。
 目を閉じなくてもその姿を想い描くことが出来る。
 肩までのさらさらの髪と日本人形のように端正な顔だち。ようやく微笑みを取り戻し始めた大きな瞳。
 彼女は俺の従姉妹であり、そして今では世界で一番愛する女性である。
 エディフェル。
 愛しい鬼の娘の名を呼んでみる。
 夢の中で幾度も出会い、そのたびに胸を引き裂かれんばかりに悲しい想いを募らせていた。
 彼女は遙か遠い昔にこの隆山で死に…そしていまは俺の側にいる。
 彼女が愛した次郎衛門の生まれ変わりである俺の側に、柏木楓として彼女もまた生まれ変わっていたのだ。
 ――俺が記憶を取り戻すまで、楓ちゃんはどんなに辛い思いをしただろう。
 俺は夢でエディフェルの事を思い出す度に飛び起きて、止まらない涙を拭わなければならなかった。一度など、近くにいた初音ちゃんを夢の辛さに耐えかねて抱き締めてしまった事もある。
 そんなに辛い切ない夢を、楓ちゃんはずっと子供のころから見ていたのだ。
 そして生まれ変わった相手である俺がすぐそばにいるのに、彼女は俺の鬼の為に敢えて俺に近寄らなかった。
 はじめその敬遠ぶりを勘違いした俺は、楓ちゃんは俺のことが嫌いなんだと思っていた。そしてそう尋ねることさえした。…今思うと、なんて残酷な事をしたのだろう。 彼女は俺を待っていてくれたというのに…。
 それを思うと、俺は一層楓ちゃんのことを愛しく思うのだった。
 俺をかばって楓ちゃんが胸を貫かれたとき、俺は何故死なないんだろうと思った。
 魂がこんなに深く繋がっているのに、彼女が死ぬときになぜ俺は生きているんだろう、と。
 目覚めた朝、生きていた楓ちゃんの姿を見たときの喜びを、誰が理解できるだろう。
 抱き締めて、頬寄せて、口づけた。もう二度と離さない。無くさない。失いたくない……!!

 しかし、現実には、俺はまだ学生で、楓ちゃんも高校生なのだ。
 いつも一緒にいるというわけにはいかなかった。俺にはあっちでの生活も学校もまだ残っている。
 だから、こうして一緒にいられるときは、出来るだけ楓ちゃんの側にいたかった。
 事実、この数日はそんな風に過ごしてきた。梓に嫌みを言われても仕方がないくらい、俺たちは一緒にいた。
 幸せだった。幸せすぎたのかも知れない。
 だから今、最後の夜に俺は一人でこんな繰り言をつぶやいているのだ。
 幸せの反動の寂しさと切なさをごまかす、自分への言い訳として。

 

 準備という準備もなかったが、とりあえず顔と手を洗って食卓のある居間に向かうと、廊下の途中で初音ちゃんに出会った。料理の乗った大きな皿を持ってお手伝いをしている。

「あ、お兄ちゃん。御飯だよ」

 俺を見つけてにっこりと笑うこの子の笑顔は、そのままこの子の純粋な心を映している。

「美味しそうだね、それはお刺身?」
「うん! 梓お姉ちゃんが市場に直接行って買ってきたお魚なんだよ。お兄ちゃんたくさん食べてね」

 梓の奴め。いいところあるじゃないか。
 いつもインスタントな食生活をおくっている俺にとって、こういうまともな「家庭の味」を口にする機会はきわめて貴重なのだ。こういうもてなしは素直に嬉しい。

 ぴょこぴょこ揺れる初音ちゃんのくせっ毛の後をついて居間に入ると、千鶴さんが少し困った顔をして座っていた。

「…どうしたの、千鶴さん」
「あ、耕一さん」

 俺が声を掛けると、千鶴さんは表情を隠してにこりと微笑んだ。

「ご準備はもうお済みになりました?」
「ご準備っていうほどの荷物は無いんだけどね…」

 俺は苦笑しながら自分の席に腰を下ろした。

「それはそうとして、千鶴さんいまなんだか困った顔してなかった? 何かあったの」

 俺がそう言うと、千鶴さんは首を横にかくんと倒してふうっと息をついた。

「それが…楓が、部屋から出てこないんです」
「楓ちゃんが?」
「はい…帰ってくるなり部屋に鍵を掛けて閉じこもってしまって、晩御飯だといってもいらないというんです」

 俺と千鶴さんが話していると、エプロンを外しながら梓が入ってきた。

「初音もう一皿お願い――って、どしたの、みんな」
「あ、梓お姉ちゃん。それがね…」

 初音ちゃんが梓に手短に説明するのを俺は耳の端で聞きながら、俺はどうしようかと考えていた。
 楓ちゃんが部屋に閉じこもった理由は理解できる。
 それは俺がさっき感じていたものと同じ感情を源にしているのだろう。
 ――離れることの苦しさ。 そしてどうしようもない不安。
 部屋に閉じこもってしまったのは、何より俺から自分を無理矢理に隔離してしまう為なんだろう。
 部屋にこもって、一人で泣いている楓ちゃんの顔が目に浮かんだ。
 俺が子供なばかりに、また楓ちゃんを泣かせている。
 俺は、楓ちゃんの為に何が出来るだろうか…

 気が付くと、部屋にいる三人の視線が俺に集中していた。
 ――俺が行くしかない。
 言うまでもない。そして言われるまでもない。
 俺はみんなの視線を受け止めて頷いて立ち上がり、居間を出た。

 

「楓ちゃん。入ってもいいかな」

 ノックをしてそう言うと、部屋の奥で人が動いた気配がした。
 ノブを握ってもがちゃがちゃと鳴って回らない。やはり鍵が掛かっている。
 鬼の力を使えばこんな鍵などドアごと片手で外してしまえるのだが、それは最低の行為だ。
 楓ちゃんが鍵を掛けた。それは物理的な物だけではない。楓ちゃんの心がそうしたのだ。
 この鍵は楓ちゃんの心の鍵。楓ちゃんがそれをあけてくれない限り、俺はその中に入れない。

「楓ちゃん、鍵を開けて。君の顔を見たい」

 かちゃり…
 鍵が回る音がして、静かにドアが開いた。

「耕一…さん…」
「よかった、開けてもらえなかったらどうしようかと思ってた」

 半分笑って俺がそう言うと、楓ちゃんはノブから手を離してうつむいた。

「耕一さん…ごめんなさい…」
「謝らなくていいよ。俺も楓ちゃんと同じ気持ちだし、よく分かるよ」

 俺は楓ちゃんの顎を包むように手で軽く上げ、うつむいた顔を覗き込んだ。
 やはり泣いていたのか、目の端が赤い。
 それを見ると、胸が疼いた。

 楓ちゃんは、鍵を開けてくれた。
 俺に会うことを拒否しなかった。
 でも、そのことに安心してはいけない。楓ちゃんを泣かせた原因は無くなってはいないのだ。
 俺がここにいる間は大丈夫かも知れない。
 でも、俺は明日帰ってしまうのだ。
 俺がいなくなってしまったら、楓ちゃんはきっとまた…

 そう思ったとき、俺は楓ちゃんの手を握っていた。

「楓ちゃん、ちょっと出かけないか?」

 えっ? と驚いた顔をする楓ちゃんに俺は続けて言った。

「晩御飯食べたくないなら、ちょっと俺と散歩に行こう。楓ちゃんを連れていきたいところがあるんだ」
「耕一さん…」
「千鶴さんたちには、俺から言っておくから」

 ね、と目で誘う。
 すると楓ちゃんはすこし迷った後、

「…はい」

 と頷いた。

「うん、じゃあちょっとみんなに言って来るから、玄関のところで待ってて」
「あ、あの…耕一さん」

 呼び止められて振りむくと、楓ちゃんが言葉未満の疑問を顔に浮かべて俺を見つめていた。
 俺は笑って頷いた。

「分かってる。でもそれは行ってのお楽しみということにしておいてくれないか。ヒントを出すなら…」

 俺は少し考えるふりをしてこう言った。

「…二人の、想いでの場所だよ」

 そして今度こそ、俺は駆け出したのだった。

 

 

 …自動販売機の電子音が予想以上に響いて、すこしぼうっとしていた私は思わずはっとした。
 音のした方を見ると耕一さんがポケットに財布をしまいながら、取り出し口からジュースの缶を取り出している。

 ――耕一さんに連れられるまま家を出て、歩き始めてもう十数分経つ。
 家を出たころにはまだ夕焼けが残っていたのに、いまではもう振り向いたそこには夜の闇がある。耕一さんと来た川沿いの道は街灯も少なく、星と月の光が鮮やかに輝いて見える。そう言えば今日は満月の日だった。
 目的地までまだあるのか、耕一さんは道沿いの公園に寄って一休みしようと言ってくれた。
 だからいま、私はベンチに腰掛けて耕一さんの後ろ姿を見つめている。

「ホットでよかったんだっけ」

 私の視線の中、耕一さんが両手に缶を持って小走りでやってきた。
 頷いて応えると、耕一さんは缶を開けて渡してくれた。

「熱いから、気をつけて」
「ありがとう…ございます」

 両手で受け取って、そっと口を付ける。
 その隣で耕一さんが立ったまま自分の缶を開ける音がした。
 甘い、熱い、缶コーヒーの匂い。持っている掌が熱くなって手の中で回すように持ち替える。

「…ちょっと、疲れた?」

 声がして振り仰ぐと、耕一さんが私の大好きな優しい顔をして気遣うように微笑んでいる。

「いえ…大丈夫です」
「そう、でも疲れたら遠慮なくいってね」

 耕一さんはそう言って、私の隣に腰掛けた。
 肩がすこし触れて、ふと横を見る。耕一さんは夜空を見上げていた。
 その横顔をみつめたまま、私はこの夜の散歩の事を考えた。

 耕一さんは、私をどこに連れて行くつもりなんだろう。
 「二人の想いでの場所」と耕一さんは言った。
 でも、耕一さんとこんな所に来たのはこれが初めて。多分これから先の場所にもそんな場所はない。
 じゃあ、耕一さんは一体私をどこに連れてゆくつもりなんだろう。
 もしかして…と、考えがよぎる。
 耕一さんはただ単に、ふさぎ込んでいた私を部屋から連れ出す方便としてあんな事を言ったのかも知れない。
 もしそうだったとしても、私は耕一さんに感謝しなければいけないと思う。
 あのまま部屋にこもっていたら私はおかしくなってしまったかも知れない。耕一さんが帰ってしまうことが、逢えなくなることが、側にいられなくなることが、理性では分かっても感情がどうしても納得しなかった。

 私のことなんか忘れられてしまうかも知れない。向こうで別の女の人が出来るかも知れない。感情が冷めてしまうかも知れない。私がいないことに慣れてしまうかも知れない……
 こんなに醜い思いが私の中に潜んでいたなんて、と驚き、そしてまた深い自己嫌悪の沼に沈んでゆく。
 そんな悪循環を私は閉じた部屋の中で繰り返していた。
 ――そのドアを、耕一さんが開けてくれるまで。

 思えばいつもそうだった。私が閉じたドアを開けてくれるのはいつも耕一さんだった。
 子供の頃、人見知りでなかなか遊びの輪に入れないでいた私を引っ張って連れだしてくれたのも。顔を合わせるのを避けていた時、近づいて来てもっと話をしようと言ってくれたのも。好きだと気持ちを告白してくれたのも…。
 私はいつも逃げている。そして、耕一さんの優しさに甘えすぎているんじゃないかと思う。

「…顔に何かついてる?」

 私の視線に気付いた耕一さんがそう言った。
 なんでもないです、と首を振る。そして思った。――変わらなきゃ。
 もう逃げたりしない。部屋で一人で泣いたりしない。もっと強い柏木楓になろう。
 そしてもっと耕一さんのことを信じよう。耕一さんの手が私をどこへ導こうとも、それについてゆこう。
 たとえば今夜、この不思議な散歩の終着点がどこだったとしても――…。

 ――ありがとう、耕一さん――

「楓ちゃん…」

 その時、耕一さんがにこりと微笑んだ。叔父様そっくりの、私の大好きな笑顔。
 きっと、思いが伝わったんだ。
 不思議な鬼のちからで、でも愛するものの間ではよく起きる、あの奇跡で。

「そろそろ行こうか」
「はい」

 耕一さんに負けないくらい大きく微笑んで、私もそう言った。

 缶を捨てて歩き出す。
 横を歩く耕一さんの手を、そっと握ってみる。
 大きな手に指を絡め、上目遣いで耕一さんの顔を見る。
 耕一さんはすこし照れたような顔をして、それからしっかりと握り返してくれた。
 虫たちがささやく夜道、満月の下、互いの手のひらのぬくもりを感じながら私達は進んだ。
 それからどのくらい歩いただろう。広い河原のそばで耕一さんは急に立ち止まった。

 そして言った。

「――着いたよ、楓ちゃん。ここが…想いでの場所さ」

 

 

 目を閉じて、記憶を引き出す。
 遠くの山の形、…間違いない、ここだ。
 鮮明によみがえる記憶の映像の中心には、愛しい鬼の娘の姿がある。

「ここは俺たち二人が出会った場所なんだ。500年以上も昔、次郎衛門とエディフェルとして…」

 目を大きく見開いた楓ちゃんの肩を後ろから抱き、耳の側で言った。

「思い出した? …やっぱりこんな、月の綺麗な夜だったね」
「耕一さん…!」
「…抱きしめても、いいかな」

 楓ちゃんの答えを待たず、俺は楓ちゃんの華奢な体を背中から抱きしめた。
 目を閉じて、胸の中のぬくもりに全ての感覚を集中する。
 抱きしめる腕にそっと楓ちゃんの手が掛かり、そしてそれは俺をさらに強く俺を引いた。
 500年前出会った場所で、俺たち二人はただ抱きしめ合っていた。

 

「…帰る前に、楓ちゃんとここに来たかった」

 しばらくして、腕に込めた力を抜きながら俺は言った。

「ここに来ればもっと思い出せると思ったんだ。俺と楓ちゃんの絆を…」
「絆、ですか?」
「そう。距離にも、時間にも、死にすらも断ちえなかった、あの二人の絆をね。だって考えてごらん。俺たちがいまここにいるということの不思議さを――」

 俺は目を閉じて、そして今日読んでいた本の内容をゆっくりと思い出した。

「…今日、親父の部屋でこの隆山の郷土史の本を見つけたんだ。その本には、隆山の鬼の伝説についても少し書かれていたよ。まあ、おとぎ話扱いされていたけど…」

 俺は少し笑って、そこで調べた結果をかいつまんで楓ちゃんに話しだした。。
 楓ちゃんは俺が何のためにそんなことを言っているのか分からない風だったが、黙って聞いている。

「…でもね、おとぎ話にも出てくる当時の領主、天城忠義という人が山地に巣くった山賊を討伐するため三度に渡って兵を召集したという記録は残ってるんだ。――都であの有名な応仁の乱が起こる少し前、今からおよそ550年前の事らしい」

 郷土史の本にはもう少し詳しく書いてあったけれど、いまはそれは重要ではない。

「そう、550年前――日になおすとおよそ二十万日前に、俺たちはここで出会ったんだ」

 その日のことを思い出す。
 異国の服をまとった少女の姿を思い出す。月が今よりもっと近くにあったあのころ。
 言葉が分からないらしいその娘に、俺はあれこれと話しかけた。

    「…お前は美しいな」
    「ウツクシ…ナ?」
    「ああ、お前は美しい」

 ――思い出す。
 二十万も昔の夜に、ここで起きた奇跡を。
 そして今、俺たちがその場所に立っている不思議を思う。

「あれから…そんなに経つんですね」

 肩越しに振り向いてそう言った楓ちゃんの目には、一滴の涙の跡があった。
 きっと楓ちゃんも俺と同じ風景を見ていたのだろう。
 共有する過去の記憶の、一番底にあるものを。二十万も昔のあの夜のことを。
 俺はうなずいてそれに応えた。

「今日それを知ってから、帰る前にどうしてもここに君と来たかった」

 自然と俺と楓ちゃんは向かい合うように立っていた。
 白い顔を月の光に晒して俺を仰ぎ見る楓ちゃんは、少しまぶしそうな顔をしている。

「楓ちゃんが部屋に閉じこもったと聞いたとき、すぐに理由が分かったよ。さっき部屋の所でも言ったと思うけど、俺も同じだったんだ。楓ちゃんと離れることが苦しくて仕方がなかった。少しでも側から離れたら君がいなくなっていそうで、不安で仕方がなかったんだ」

 …きゅっ、と楓ちゃんが俺の手を握ってきた。
 ――私はどこにも行きません。
 そう言っているかのようだった。
 俺はその手を柔らかく握り返して続ける。

「だからここに君を連れてきた。ここに来て、確かめたかったんだ。俺たちの絆を…」
「……」
「遠い昔にここで出会った二人は、引き離され、運命に弄ばれ、たくさんの悲しいことや辛いことを味わわなければならなかった。長い長い時間が街も人もみんな変えてしまった。けれど、ひとつだけ変わらなかったものがある。それは俺たちを結ぶ絆だ。――この場所は、そのことを思い出させてくれる」

 ふと見渡すと、辺りは満月の光の底に沈んでいた。
 川のせせらぎが遠くに聞こえ、緩やかな夜の風が草木を揺らしている。
 時が戻ったかのようだった。まるで目に見えない何かの力が働いて、俺たちを祝福してくれたかのように。 

「…大切なのはそばにいることじゃない。信じることだと思う。二十万の夜を越えて、俺たちをまた結び逢わせてくれたこの絆を信じることだと思う」
「耕一さん…」
「だから心配しないで、楓ちゃん。俺は明日帰るけど、必ず楓ちゃんの所に戻ってくる。距離は離れても、時間が離れても、心が離れてしまうことは無い。それを、信じて欲しい」

 絆そのもののように手を固く握りあって、誓うように俺は言った。
 楓ちゃんはこくりと深く頷いて、そして俺を見上げたまま瞼を閉じた。
 わずかに震えるその唇に、俺はそっと自らを寄せ…

 ――満月はただ静かに二十万の夜を経てもなお変わらぬ白い光を放っていた。
 
 

 

                                      最果ての地 20万HIT記念
                                             by   inui akira
                                            1999.08.07

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