―― 時間よ止まれ―― 

 

 

 

 今年の5月13日は、抜けるような青空で始まった。
 開け放った窓から流れ込んでくる風には、草の芽が薫るような確かな春の匂いが混ざっていて、それは私の頬に無意識の微笑みを浮かばせた。
 ふと振り仰いだ空を、数匹の小鳥たちがはしゃいだように横切って行く。
 私は洋服を畳んでいた手を止めて、風に揺れる庭木の梢を何とはなしに見上げた。

 ――良いお天気。

 きっと、今が一番良い季節。
 風も光もみな穏やかで、街角には色鮮やかな花たちが咲き乱れている。
 桜はもう散ってしまったけれど、ご近所の畑には菜の花も蓮華草もまだまだ咲いている。庭の海棠やツツジの花も今が一番綺麗。

 私が産まれたのも、こんな穏やかな春の日であったらしい。
 そのせいというわけじゃないけれど、私はこの季節が好き。

 五月十三日、晴れ。
 今日は私――柏木千鶴の誕生日なのだ。 

 

 働き詰めだったGWが終わってはじめての休日、私は耕一さんが帰ってこられる昼過ぎまでごろごろと寝て過ごすつもりだった。なのに朝から梓がみんなを集めて今日は衣替えをすると言い出したせいで、予定していたよりずいぶんと早起きすることになってしまった。

「もう、どうして今日するの? 明日でもいいじゃない」

 起き抜けでやや機嫌が悪い私がぶつぶつと文句を言うと、朝から元気な梓は腰に手を当てて言い返してきた。

「明日みんなで耕一とお出かけしようって言ったのは千鶴姉じゃないかさ」
「う。 じゃ、じゃあ!……」
「言っとくけど、来週ってのも却下だからね。来週は雨だって言ってるし、だいいち来週は千鶴姉仕事じゃん。自分のタンスの中、人に触られるの嫌だろ? なにか異論は?!」
「……ないわ」
「そんじゃあ決定。本日は耕一が帰ってくるまでに衣替えを完了させること。クリーニングに出すのがあったらまとめて部屋の前に置いておいて。後でお店の人呼ぶから――楓も初音も、わかった?」

 押し切られてしまったようでなんとなく釈然としないけれど、梓の言うことももっともだったので、私は妹たちと一緒に頷いた。

 

 そんな気乗りのしない始まり方だったけれど、やり始めるとだんだん楽しくなってきた。
 押入から大きな長持を運び出して蓋を開けると、樟脳の匂いが鼻を突いて思わず目を細める。大きな和紙にくるまれて冬の間眠っていた洋服たちは、きっと突然の陽の光に驚いているだろうと考えて私はちょっとだけおかしかった。
 ――なんだか、今日の私みたいね。
 起きなさい、もう春ですよ。 

 長持の中身をすっかり出してしまわないと冬物を入れることが出来ない。
 なので、冬物の整理は後回しにして分類しながら長持の中を出して行く。
 シャツはここに、スカートはここに、スーツはここに――
 ひとつづつ丁寧に、型くずれしているのは畳み直しながら確認するように出していると、時折 (あら、こんな服もあったのね) というようなものが出てくるのも衣替えの楽しみの一つだろう。でも、大抵の服たちには見覚えがあるし、久しぶりに見たそれら季節の服の姿は、それを着て過ごした過去の記憶を否応なしに呼び覚ますのだった。

 例えばこのワンピース。
 これは去年の夏、耕一さんと街へショッピングに行ったときに買った物。大きく開いた襟刳りが涼しげで一目で気に入ったデザインだったのだけど、困ったことに色柄違いで同じ物が三種類もあったのだ。試着を何度も繰り返して耕一さんに何度も意見を聞いてそれでも決めきれず……最後の方になると座り込んでしまった耕一さんに、店員さんが苦笑いでなにか言葉を掛けていたような記憶がある。

 くすっ。 

 懐かしいわ、まだ一年も経っていないのに。
 明日のお出かけはこれを着ていこうかしら。きっと耕一さんもその時のことを思い出して懐かしがってくれるだろう。

 次に手に取ったのは、薄手の白いブラウス。
 地味な品物だけど、これには強烈な思い出がある。
 これもやはり去年の今頃、鶴来屋を取材に来たテレビに出演したときに着ていたのがこれなのだ。
 強烈な思い出というのは、そのことではない。
 夕刻、そのテレビが放映される事となって姉妹四人で食卓を囲みながらテレビを見ていると……

「――げ」

 こわばった顔で、低く短くそう言ったのは梓だった。
 でも、何か言えただけ梓には余裕があったのかもしれない。私は呼吸をすることすら忘れて、信じられない思いでテレビの中の自分を見ていた。

 にこやかに微笑みながら、リポーターの質問に受け答えする私。
 最後に自社のPRをしながらお辞儀をする私。
 それはいい。 私の立ち居振る舞いには問題はない。ただ……

 ――時折、薄手のブラウスが光に透けてしまっている事を除けば。
 白いレースのブラのラインが、透けつ霞みつブラウン管のなかで踊る。

「千鶴姉さん……大胆」

 呆然としているうちに放送が終わり画面が切り替わると、楓がとんでもないことを言った。

「わざとじゃないわっ!……あーっもう恥ずかしい……」
「ラインも色もくっきり見えてたなー」
「梓ッ! そんなに何度も言わないで!!」

 私が真っ赤になっておろおろしていると、テーブルの隅からさらにおろおろしている声がした。
 初音だった。

「あっ、あの……あのね……」
「なに? 初音。 言ってごらん」
「その……千鶴お姉ちゃんごめんなさいっ!」

 突然初音は謝った。
 わけが分からず、どうしたのかと問うと、初音はさらにとんでもないことを言った。

「耕一お兄ちゃんに、千鶴お姉ちゃんが今日テレビに出るよって電話しちゃったの……!!」

 ほとんど泣き出しそうな声でそう言った初音に、優しい言葉を掛けてあげられるだけの余裕はその時の私にはなかった。
 もちろん、怒る事もできない。私自身電話しようかと思って、でもそんなに大騒ぎするのもみっともないかなと思ってしなかっただけなのだから。
 ――しかし、よりにもよって。
 姉妹四人、血の気がさあっと引いて行く感覚を共有する。

「ち、千鶴姉……」
「千鶴姉さん……」
「ごめんなさいっ、こんなことになってるって知らなかったから……!!」

 当たり前だ。 とみんなが思ったその時……

  RRRRRR  RRRRRR!
  RRRRRR  RRRRRR!

 ――電話が鳴った。
 まるで運命のように。 

「ひっ!?」
「か、楓出て。お願い」
「千鶴姉さん、ずるい……」
「おねえちゃぁん……」

 鬼の血を引く地上最強の四人姉妹が電話機一台に震え上がっていると、やがてコールが一定数を超えて自動的に留守番電話に切り替わった。
 流れ出す固定メッセージを、これほど真剣に聞いたことはそれまでなく、おそらくこれからも無いだろう。
 ぴーという発信音が鳴ったとき、私たちは一斉に喉を鳴らした。
 メッセージの入力が始まるまでの沈黙が、まるで永遠の様に長かった。

 (ああもしも魔法が使えたら――)
 私は青ざめた脳裏でそんなことを考えた。
 (時間よ、今止まれ……!!) 

 ……ぴー

「――あ、こちら隆山郵便局保険課の八代と申します。柏木楓様の学資保険の満期が近づいておりましたのでご連絡差し上げました。近日中にお伺いさせていただきますので、よろしくお願い致します」

 がちゃ。

 受話器が置かれ、通話が切れる音に。
 ――私たちは思いっきり脱力したのだった。

 

 結局、耕一さんはその時間帯丁度アルバイトだったとかで放送を見ることが出来なかったらしい。夜に、おそるおそるこちらからかけた電話の中で耕一さんはしきりに悔しがっていた。

「俺もテレビの千鶴さん見たかったなぁ」

 そう言って残念がる耕一さんに、ほんのちょっとでしたからとかなんとか答えながら大きく胸をなで下ろしたのを、私はよーく覚えている。
 それが、このブラウスなのだ。

 これは封印しておこう。 あの時のことは思い出すのも恥ずかしい。
 封印決定。期間無期限。 
 そう心の中で判決を下して、長持の一番底へと手を滑り込ませる。そこはサイズが合わなくなったりデザインが古くなったりしてしばらく着ることのない服を入れておくスペースだった。
 手を動かして、畳み直したブラウスを差し入れる。
 と、その時。
 私の指は重なった衣装の底にある、懐かしい手触りを見つけた。

 この感じ……
 もしかして?

 はっと閃いた予感に打たれた私は、かき分ける手ももどかしく長持の底からそれを引き出す。肩を掴んで広げた一枚の洋服は、五月の日差しの中であまりにも懐かしい姿を目に映した。

 半袖、吸汗性の高い純綿の生地。
 オーソドックスな紺のセーラー襟。潔い白さで入った二本のライン。
 胸ポケットには赤いスカーフが畳んで入れてあった。
 色もデザインも涼しげなそれは、間違いなく母校指定の夏服に違いなかった。

 ――これを着ていたのは、もう何年前の事だろうか。
 素直に認めるのは悔しいけれど、セーラー服を着て高校に通っていた頃が遙かな昔に思える。

 あの頃は、ひとつひとつ歳を取るのが楽しみだった。
 今朝私に「ケーキには何本キャンドルを立てるんだっけ?」なんて憎たらしいことを言ってきた性悪な妹も、あの頃はまだ子供で可愛いかった。
 暑い日差し、足下の影。家に続く坂道が辛くて、いつも途中の物陰で休んでいた。
 あの頃はまだ叔父様が元気で、すぐに夏バテしてしまう私を叔父様が逆にいつも心配してくれていた。

 純白の制服は、思い出のスクリーン。
 陽にすかすその姿には、今はもう還らぬ少女だった日々が逃げ水のように遠く滲んでいる。
 卒業してからン年ぶりに目の当たりにしたなつかしいシルエットに、私はしばらく惚けたように見入っていた。 ――そこで、はっとする。

 どうしてこれがここに?

 当然の疑問が私の胸中にわき上がる。
 私の昔の制服などは、処分するか他の高校時代の思い出の品とまとめて別の箱に入れ、蔵の中にしまっているかのどちらかなのに。
 高校はバラバラだから、妹たちの誰かのものということはない。
 始末のし忘れだろうか、と思う。私が高校を卒業したときは、6つ下の楓も小学校卒業ということもあり、家中が何となくばたばたしていた時期でもあった。
 そんな風に考えながら、でもなんとなく頭の隅にひっかかるものを覚えながら制服をの裏表をひらひらと眺めていると、――ふいにそれが目に入った。
 ちょうど、着て言うならば右脇の辺り。
 そこに茶色くうすい染みが広がっている。
 光の加減では見えなくなるくらい薄い染みだけれども、気をつけてみるとたしかに色が周りと違う。
 これは……
 言葉もなく見入るうちに、よみがえってくる思い出があった。
 それは一瞬ごとに鮮やかに強さを増して行き、ついには私の意識を一杯に占領してしまった。
 目を閉じれば、その時空に身も心も戻ってしまえるほどの濃密で細やかな記憶。

 どうして今まで忘れてしまっていたのだろう。
 この制服の小さな染み。
 薄い夏服と、腕を抱いて震える私。
 叔父様の笑顔とあの偉大な魔法……
 津波のように迫る思い出はたちまち私の胸をいっぱいに満たして、私からためいきすらも奪ってしまった。
 思わず、制服を抱きしめて顔を埋める。制服越しに吸った空気は樟脳の強い匂いがしたけれどなぜかどこか甘く、そしてかすかに叔父様の煙草の匂いさえ残っているような気がした。
 五月のよく晴れた日差しの中、思い出に心を埋めたまま私はしばらくそうしていた。

 今日この服とふたたび出会ったのは、偶然ではない気がする。
 この服を私にとって特別なものにしたその日は、今日と同じ、私の誕生日だったのだから。

 あれは、高校に入学してすぐの五月。
 その頃も今年のように連日快晴が続いていて、暖かいというよりもむしろ一足とびに夏が来たような気候だった。
 私の誕生日の朝も例外ではなく、長袖の中間服で通い毎日汗だくになってしまったこの数日の経験から、今日こそは半袖に切り替えようと心に決めていた。買ったばかりでまだ一度も袖を通していない夏服を早く着てみたい心理もそれを後押しした。

 その日、学校の帰りに私は鶴来屋に向かった。
 基本的に私たちは、叔父様のお仕事の邪魔にならないようむやみにお店には顔を出さないようにしている。しかしその日は、今日が私の誕生日だということを思い出された叔父様自身が「帰りにおいで」とおっしゃった。

「実はなぁ」

 と、叔父様は照れくさそうに言った。鶴来屋系列の店舗として若い女性をターゲットにしたおしゃれな喫茶店をオープンさせる企画があるが、そのためにすでに市内で成功している喫茶店の様子を観察し情報を集める必要がある、と叔父様は言う。

「しかし、あれだ。ああいう華やかな店はどうも俺みたいな中年が一人で入るとどうにも目立ってね。それで、千鶴に協力して欲しいんだ」
「協力……ですか?」
「うん、一緒に来て欲しいんだ。事務所の女の子を連れていくと、なんだか不倫カップルの密会みたいになってどんな噂を立てられるかわかんないしねぇ」

 このあたり苦い経験でもあるのか、しみじみと叔父様は言った。

「だから、千鶴も制服のまんま来て欲しい。それだと端からみれば親子だし、そんなに違和感は無いと思うんだよ」

 その当時、援助交際という単語は無かった。思えばまだしも平和で健全な時代だったのだろう。
 しかし考えてみれば、この叔父様の申し出はあまりにも不合理だ。
 なにも会長自ら危険を冒して敵地に潜入せずとも、目端の利いた女性事務員を数名行かせれば済むことなのだから。
 だからこれは、仕事で忙しい叔父様が私の誕生日を祝うためにスケジュールを割くのに必要な大義名分だったのだろう。そして照れ隠しに、それをそのまま私に言ったのだ。それが解ったから、私もまた叔父様の申し出を条件付きで承認することにした。

「経費はそちら持ちですか?」
「もちろん、好きな物を好きなだけ注文してよろしい。――ただし、体重およびサイズの変化までは責任を負いかねますぞ、お嬢様」

 にやりと笑ってそう答えた叔父様を、私はぷーっと頬を膨らませて睨む。しかし次第に頬がゆるんで、そのうち私も笑い出してしまった。 
 そういう成り行きで、私は叔父様と放課後に鶴来屋で待ち合わせをした。迎えに行ってやりたいがどうしても午後まで体が空かないとすまながる叔父様に私は手を振った。少しでも歩いて、カロリーを減らさなきゃ。

 ところが、道の途中から雨が降り出した。
 6時限目の授業が始まる頃から曇りだしていた空が、ついに泣き出したのだ。
 街路樹の葉をたたく雨粒のぱらぱらという音が、やがてノイズのように絶え間なく辺りを包み出すのに時間はかからなかった。つい数時間前まではあんなに晴れていた空がいまは灰色の厚い雲に覆われて、大地を同じ色に染め上げようと大粒の雨を滴らせている。
 当然の事ながら私は傘を持ってきておらず、急に雨に降られた私は通学鞄を頭上に構えて小走りに走り、通りに面した小さなタバコ屋さんの軒先に駆け込んだ。お店はどうやら定休日らしく金属色のシャッターが降りてはいたけれど、ちょこんと小さく張り出した緑の天蓋が私一人分くらいなら充分雨をしのげるだけの空間を造っていた。

 雨はすぐ止むだろうと思っていた。さっきまであんなにいい天気だったのだし、朝の天気予報では一日中晴れの予報だったのだから。
 私は、少し濡れた体をハンカチで拭きながら雨が上がるのを待つことにした。
 ……しかし、雨はなかなか止む気配を見せなかった。むしろ一刻一刻激しさを増して行っているように思える。 

 どうしよう、とこのときはじめて思った。
 叔父様と特に待ち合わせの時間を決めていたわけではないけれど、遅くなっては心配を掛けてしまうだろう。
 せめて電話をかけて事情を伝えよう。そうすれば、叔父様が来るのは無理でも迎えの車を回してもらえるかも知れないし。
 そう考えて、公衆電話を探した。とりあえずこのお店の軒先には無い。
 頭上の天蓋を伝って滝のように流れ落ちる雨の合間から、私は首を左右に巡らして辺りをうかがう。ここに駆け込んだ時は雨に追われるようにして足下だけ見て走っていたので、辺りに電話ボックスがあったかまで見ていなかった。
 でもたしかこの辺りには一つ……
 ――あった。雨で霞む視界の向こうに電話ボックスがあるのを見つけた。
 直線距離にして約30メートル。雨の激しさからして全く濡れない訳にはいかないけれど、全速力で走ればずぶぬれにはならずに済みそうな、そんな微妙な距離。
 行こう。私は黒い通学鞄をせめてもの雨よけになるよう、もう一度構えた。
 そして、まるで潜水するときのように大きく深呼吸をして一気に駆け出す。
 軒下を飛び出した途端、無数の雨粒が容赦なく私の体を打擲するのを感じた。革の鞄が水を弾くぱたぱたという音が耳の側で大きく聞こえる。
 はあっ、はあっ。
 休み無く足を動かしながら、前傾姿勢で一直線に公衆電話の方へ走る。
 まだかしら。まだつかないのかしら。
 時間にすれば数秒のことなのだろうけれど、雨の中を濡れながら走る私の感覚ではもうずいぶんと長い距離を走っているような気がしていた。まさか通り過ぎてしまったなんて間抜けな事はないわよね、と思い、走りながら鞄で塞いだ視線をちらりと上げて進路を確かめる。公衆電話は、もうそこだった。
 よかった、まだそう酷くは濡れていない。
 そう思って、ラストスパートをかけたその時――

 ガーーーーーーーーッ…
 バシャバシャバシャバシャッ!!

 ……私の横を、側溝の水を盛大に跳ね上げながら一台の乗用車が凄い勢いで駆け抜けて行った。 
 後ろから迫る水音に危険を感じて、はっと身をひねった時にはもう遅く。
 今も側溝を川のように流れる泥水は、おろし立ての夏服に悲惨な模様を描いてしまっていた。 

 ぱしゃぱしゃ……ぱしゃ……

 私の足は、急に速度を失った。
 頭上に構えていた鞄をゆっくりと降ろし、体の横に力無く下げる。
 目的地だった公衆電話をほんの数歩前にしながら、私のうつむいた視線はそれをすでに見てはいなかった。

 足下で、白く跳ねる雨粒たち。
 動きを止めた黒い製靴のまわりに、たちまちできる透明の水たまり。
 水を吸い込んで色を変えて行く紺色のスカート。
 そして、夏服の純白を冒す、跳ね水の無惨な泥色……

 長い髪が雨に重く濡れていくのを、どこか他人事のように感じていた。
 うつむいて、前を見ないままそっと手を上げて、泥で汚された右脇の辺りを指先でそっと触れる。じゃりっ…と、布地を転がる小さな砂の感触がした。
 ふっ と、私はこの時笑った。
 雨に降られて、おろし立ての制服を泥水で汚されて、髪の芯まで雨を含んで惨めな濡れねずみになりながら、私はたしかに小さく笑った。

 ――悲しくなんかない。
 この程度のことは、不幸でもなんでもありはしない。私や妹たちが経験した、あの辛い日々に比べれば。
 父と母を同時に失い、遺された財産を狙って近づいてくる薄汚い大人たちに心を凍らせ続けたあの日々に比べれば、何事も悲しんだり嘆いたりするには価しないのだ。
 だから、私は笑う。泣いたりなんか絶対しない。
 ただ……寒い。 どうしようもなく身体が震え出すのを、抑えることが出来ない。
 雨が、大地と身体から熱を奪う。それに抵抗するには、半袖の夏服はあまりにも薄すぎた。
 まるで、この雨が肉体を沁み通って心まで濡らしてしまったかのように、身体の芯から発する震えはどうにも止めようがなかった。

 (叔父様……)

 私はつぶやいていた。
 降りしきる雨の中傘も差さずに立ちつくし、寒さに震える身体を両手で抱きながら、私は叔父様の事を考えていた。
 きっと、叔父様は心配しておられるだろう。
 時計を見ながら、きっとそわそわとあの会長室で受付からの電話を待っているに違いない。まるで初めてのデートを控えた純情な高校生みたいに。
 デート? そう言えば、そうかも知れない。
 今朝、叔父様から今日の話をいただいたときから胸のどこかで踊り続けている思いを私は否定しない。今日の計画を誰よりも楽しみにしていたのは、この私なのだ。
 叔父様と二人きりで喫茶店に行って、焼きたてのケーキを食べ、美味しい紅茶を飲みながら、ちょっとしたスパイ気分を味わう、そんな素敵な誕生日……

 でも、それももう夢。
 こんな格好じゃ、もうどこにも行けやしない。
 せっかく時間を割いてくれた叔父様に、なんといって謝ろう。
 私は、小さく唇をかんでこぼれ出そうな感情を堪えた。
 ……叔父様とデート、行きたかったなぁ……

 その時だった。

「――千鶴!?」

 叔父様の声がした。
 うつむいていた私は突然の声に驚いて、声のした方に視線を振り向ける。
 そこには、いつの間にやってきたのか一台の黒塗りのセダンが停まっていて、開いた後部ドアから今まさに叔父様が降り立とうとしているところだった。
 パチン、と大きな傘を開き、叔父様は私をその中に入れた。

「どうしたんだ、こんな所で立って……」

 言いながら、叔父様は気が付いたらしい。
 私の右脇に雨に滲んで広がる、茶色い染みの存在に。

「ごめんなさい。叔父様」

 私は再び足下に視線を落としながら、自分を抱いてつぶやくように謝った。

「喫茶店には行けそうもありません。せっかく私のためにお時間を取って下さってたのに……」
「いや、それは気にするな、千鶴。喫茶店にはまた行こう」

 叔父様は、ふうっとためいきをついて言った。

「しかし驚いた。出先での用事が遅くなって急いで戻っていたら、道端に千鶴が傘もささずに立ってるんだからなぁ。何か具合でも悪くなったのかと思ったぞ」
「……すいません」
「謝ることはない。災難だったなぁ。非道い車もいるもんだ」

 叔父様はあくまで明るく、私を元気付けるように言って傘を持ち直した。

「ともかく、車に乗りなさい。ここじゃ濡れるばかりだ。――前田さん、タオルを取ってもらえますか」

 叔父様は運転席にいる痩せた男性に声を掛け、厚手のタオルを一枚受け取るとそれを私に手渡した。

「とりあえず、シートに当たる所だけをここで拭きなさい。あとは車内で拭くといい」

 私は頷いて、タオルを首にかけてスカートを絞った。
 驚くほど大量の雨水が出てきて、叔父様はすこしびっくりしたようだった。
 背中とお尻の辺りをもらったタオルで拭いていると、わずかな風が雨の中を吹いてきた。それが、濡れた私の全身からさらに熱を奪った。
 ぶるっ と身震いが走る。タオルを動かす手が早くなる。
 その時、叔父様が傘の柄を私につきだして来た。

「?」

 なんだろう、と思いながら私はそれを受け取った。
 すると、叔父様は無言で自分の背広の上着を脱いで、それを私の肩にふわりと掛けた。

「さぁ、車に乗って。そのまんまじゃ風邪を引いてしまう」

 私の手から傘を取り返しながら、優しく叔父様はそう言った。
 はい、と私はまたしてもうつむいて答えた。ただしさっきまでとは違い、今度は赤くなった頬を隠すために。

 叔父様の大きな背広は、大きくて、あたたかくて、煙草の匂いがした。
 そっと、胸の前でクロスした手で裾を引きよせる。 すると、まるで叔父様に抱きしめられているような気持ちになった。

 車に乗り込むと、叔父様は運転席の前田さんに何事かを耳打ちし、頷いた前田さんは静かに車を発進させた。
 私はきっと、このまま家に帰るのだろうと思っていた。
 この濡れねずみの格好ではそれ以外に選択肢はないと思えた。
 しかし、車は家への進路から外れ、市のはずれの峠を登り始めた。

「叔父様、どこへ?」

 窓の外から目を戻しながら私がそう問うと、同じように窓に目をやっていた叔父様はよくぞ聞いてくれた、と言わんばかりの笑顔で言った。

「隆山とっておきの場所だよ」
「でも……」

 この峠の先に、なにがあるというのだろう。
 こんな雨の日に、しかもずぶぬれの私を連れて。
 すると、叔父様はますます大きく微笑んで言った。

「千鶴。誕生日祝いに、俺の魔法を見せてやろう」

 ――叔父様は、こういったもったいぶった言い方を時折された。
 そしてそのたびに、私たちはその意味が知りたくて身もだえしたものだ。

 やがて、車は峠を登りきり平らかな場所に出た。左手は崖になっていて、雨で霞んではいるが隆山の街と海が一望できた。
 山の上だからかこの辺りはすでに雨が止んでいるようだったけれど、視界は暗く、側溝を流れて行く濁流の激しさは街の比ではなかった。とても観光を楽しめるような状態ではない。
 しかし、運転手の前田さんはもう何度かここに来たことがあるのか、叔父様がなにも言う前から、道の膨らんだ場所に車を寄せてハザードを点滅させた。

「ここ……ですか?」
「ああ、もう少しだ」

 叔父様は、車の中から空を見上げてそう言った。
 私も同じ物を見ようと空を見上げたけれど、取り立てて変わったものは見えなかった。ただ雲が蠢いている。

「千鶴。目を閉じて」

 私は言われるとおり目を閉じた。
 すると叔父様はがちゃりと車のドアを開け、私の手を引いて車の外に連れだした。
 雨は止んでいる。私は叔父様が手をひくままに歩いた。
 車から数歩離れて曲がり、私は崖の方――隆山の海が見渡せる方に身体を向けたのが解った。

「叔父様?」
「まだ、まだ目を開けちゃだめだぞ――俺が合図したら、1.2.3で目を開けるんだ」

 まるで自分の仕掛けたイタズラを自慢する悪童のような、そんな楽しげな叔父様の声だった。
 目を閉じてしばしたたずむ。
 瞬間、強い風が私の後ろから吹いてきた。半乾きの髪が重たげに揺れる。
 風はびゅうびゅうと吹き続け、私は肩にかかった叔父様の背広が飛んでいかないように、その裾を強く握りしめた。

「――来た」

 その時、叔父様が言った。

「さあいくぞ、いち、にの……」

 さん!!
 私は、ぱっと目を開けた。
 そこに見えた風景。動いて行く景色。
 ――それはたしかに、偉大な魔法が放たれた瞬間だった。

 私は見た。
 隆山の空を覆っていた雲が風に追い払われて、その向こう側から眩しいばかりの太陽が姿を表すのを。
 モーゼが紅海を割ったという奇蹟も、こんな眺めだったのだろう。
 割れた雲間から青空が現れ、暗い影で満ちていた隆山の街に陽の光がオーロラのように射し込んで行く。
 雲が陸地の上を明け渡し海に去った時、私は隆山の海が青空を映し無数のきらめきを発するのを見た。
 その眺めはまるで、天地を操る強力な魔法が奇蹟を起こしたようだった。

「千鶴は運がいい」

 目の前で繰り広げられる天地の奇蹟に言葉もなく見とれる私の横で、叔父様が言った。

「高校の頃、友達に教えられてこの場所とこの現象を知って、帰ってきてからも何度かこういう劇的な風景を見たことがある。でも、今日みたいに凄いのは俺も初めて見たよ」 

 それは、私に語って聞かせるというよりも、なんだか叔父様の独り言のようだった。
 びゅうびゅうと、風は峠にいまだ強く吹いている。でも、いまの私にはそれすらも快かった。

「後ろを見てごらん」

 叔父様がそう言ったので、私は体ごと振り返った。
 するとそこには大きな虹が、山々に橋を架けるように浮かんでいるのが見えた。
 私は思わず声を上げて、七色の光のいたずらに見入った。私の横で叔父様も、眩しそうな目をしながら同じ物を見上げていた。

「――なぁ、千鶴」

 虹を見上げたまま、叔父様がぽつりと言った。
 私も虹を見上げたまま、はい、と返事をした。
 すると叔父様は、風に耳を澄ませるような間の後に

「……凄いなぁ」

 と、一言だけ言った。そしてそれきりなにも言わなかった。
 だから私も一言、はいと答えて、それきり口を閉ざした。

 ただ、心の中でふと願った。
 叔父様と二人、風を受けて虹を見上げているこの瞬間がいつまでも続けば良いのに、と。
 私に叔父様のような魔法の力があれば、私はこの瞬間、きっと時を止めていただろう。
 服も髪もまだ乾いていなかったけれど、私はこのとき確かに――幸せだった。

 やがて風がゆるみ、虹は消え、雲が地平線のそばにまで去っていった頃に、私たちは再び車に乗り込んだ。
 今度こそ、家へ帰るために。

 その時ついた制服の汚れは、漂白してもクリーニングに出しても、結局完全には落ちなかった。幸い夏服は三着作っていたので、代わりのが出来てくるまでそれで持たせることが出来た。
 普通なら、着れもしない制服は捨ててしまう所なのだけれど、私はこれを記念に取っておこうと考えた。
 いつかまたそれを手に取るときに、あの日の出来事を思い出せるように。
 ――それが、今日だったのだ。 

 叔父様はあの時、教訓めいたことはなにも言わなかった。
 何のために雨でずぶぬれになった私をここまで連れてきたのか、その説明すらもされなかった。
 叔父様亡き今となっては、もはやその真意を確かめる術はない。
 もしかするとなんの底意もなく、ただ単に特別で凄い景色を見せてやろうと思っていただけなのかもしれないし、それならそれで私は一向にかまわない。
 でも今、その時のことを振り返るとき、私はその日の出来事と私たちの運命の類似性に思いを馳せずにはいられない。

 いつまでも、空は晴れていると思っていた。人生の行途に冷たい雨が待ち受けているなど考えもせず、私は薄着で歩いていた。
 しかし、突然の雨。悲劇は突然で、しかも急だった。
 大切な物を失い、全身を冷たい雨に打たれ、なすすべもなくただ寒さに震えていた私の前に――その時、叔父様がやってきてくれたのだ。
 叔父様は、傘を差して雨から私を護ってくれ、凍えていた私を暖めてくれた。
 「魔法を見せてやる」と叔父様は言った。 そして私は確かにそれを見た。
 雨を降らせていた雲が遠くに吹き飛ばされ、光が祝福のように射し込んで行く様を。
 雨は止んだのだ。

 

 回想から戻り、私はもう一度手の中の思い出深いその制服を見つめ直した。
 あれから、もう何年経ったのだろう。
 多くの月日が流れ、いろんな事があって、私はすっかりこの服のことを忘れてしまっていた。
 それでも、あの日叔父様が見せたあの偉大な魔法は私の中に消えずに残っていた。
 今日、私がこの服を手に取ったのも、きっと叔父様がかけた魔法が私を導いたのだろう。

 ――叔父様。
 私は夏服にすかした空の光にそっと語りかける。
 私は今日、また一つ歳をとります。
 また一歩、貴方に近づいて行きます。もう永遠に歳を取ることのない貴方。
 いつの日か貴方と同じ歳になったとき、私もあんな魔法を使えるようになるのでしょうか?
 だったらいい。
 私は思う。 それだったら、歳を取ることは怖いことではないと思える。
 でも、出来れば魔女ではなくて、良い魔法使いになりたい。
 だから……どうか叔父様、これからも私たちを見守ってください。

 穏やかな春の陽のなか、私は敬虔にそう祈った。

 

千鶴さん誕生日記念ss
akira inui  00/05/15
「時間よ止まれ」  完
 お題 「魔法 薄着 衣替え」

 

  ↓ おまけ(真のラスト)

 

 

 祈りを捧げたあと、ふと思い出して私はもう一度長持の中に手を差し入れた。

 ごそごそ……

 しばらくもしないうちに、私の指は確かにそれを探り当てた。
 私の記憶は確かだった。

 衣服の底からそっと私はそれを引き出す。
 それは、さっき見つけた制服のスカートだった。
 汚れた上着を仕舞うとき、一緒にスカートも入れたことを思い出したのだ。

「やっぱり……懐かしいわ〜」

 私は思わず立ち上がって、上着の時と同じようにくるくると回してそれを眺める。
 夏ものの、通気性の良い生地。色は襟と同じ紺で、細かく入ったヒダがいかにも女学生らしくて可愛らしい。
 そのとき、ふと好奇心が蠢いた。

 このスカート、今でも履けるかしら……?

思った途端、結果を知りたくなってうずうずしてきた。

 もう、何年前のスカートだと思ってるの? 入るわけないじゃない。落ち込むだけよ、千鶴!

 ……そう主張する声が片方であがる。
 しかしもう片方では正反対の主張が上がる。

 やってみなけりゃわからないわよ。最近こっそり続けたダイエットで、ずいぶんスリムになったじゃない。それにこんな機会、年に一回しかないのよ?

 ……
 ……
 ……数分後、鏡の前にはスカートのホックを閉めようと奮闘する私の姿があった。

 かちり

「――入った!!」

 信じられない。高校一年生の時の制服が、キツキツだけど今でも入った。
 私はなにかしら(勝った!)という思いに駆られ、鏡の中の自分に勝利のポーズを決めた。
 ――なるべく腹筋に力を入れないようにして。

 しかし、スカートが入ったとなると欲が湧く。
 バランスの問題からも、私はさっき見つけた上着も着てみることにした。
 ……こっちは、なるべくなら胸がつかえて入らないというのが良いんだけど……

「……入っちゃった」

 なんだか嬉しくない。
 もちろん、随分ときつくて制服の裾が持ち上がっているくらいなんだけれど、入らないというほどでもなかった。

 改めて、鏡の中の自分を見る。
 セーラー服に身を包んだ私。
 うふふふ。まだまだ私もいけるじゃない。
 いっそのこと、高校生を騙ってアイドルにデビューとかしてみようかしら?
 そういえば、ちょっと前にあったわね。こんなの……
 世界的に有名なあの決めゼリフを思い出しながら、私はポーズを決めていた。

「○に変わって、おしおきよっ!!」 

 決まった……。
 オリジナル以上の完成度だわ。

 ――なーんちゃってね。
 お遊びはこの辺にしないと、梓たちにこんな姿見られたらなんて言われるか…… 

「千鶴姉……」

 ――ハッ!!!!!!!!!!!

 鏡の前で悦に入っていた私の動きが、ぴしりと停まった。
 ぎぎぎぎぎ……と音を立てそうなほど力を込めて、私はそおっと後ろを振り返る。
 するとそこには……

「………」
「………」
「………」

 なぜか青ざめた顔の妹たち。

「み……見てたの?」

 この時の私をマンガに描くなら、顔には縦線が入り目は点目。
 口元には引きつったような笑みが浮かんでいることだろう。
 梓たちも似たような表情をして、こくんと頷いた。
 見てはいけないものを見てしまった者特有の、喜怒哀楽が抜け落ちたような血の気のない表情。 

 気まずい沈黙が放射能のように漂う。
 その時だった。

「ただいまー」

 遠くで声がした。
 玄関のドアが開く音と、聞き覚えのある若い男性の声。

 ――耕一さんだ!

「あれ? だれもいないの? おーいあずさー、千鶴さーん」

 どすどすどす。

 足音が近づいてくる。
 その時になって、ようやく私の意識と体が繋がった。

「わっ、あああっ、あずさっ、閉めてっ!」
「でっ、どっ、ここ耕一っ!? なんでっ? まだ早…」
「姉さん、人生諦めが肝心」
「おねえちゃぁん!!」

 どすどすどすどす!!

 私たちのパニックをよそに、耕一さんの足音は着実にこちらへ近づいてくる。
 そして足音は最後の角を曲がった。

「あ、なんだみんなそこにいたのかぁ。何してるの?」
「だぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「お兄ちゃん来ちゃだめぇッ!」

 梓の絶叫と初音の制止が響く中、私は半ば思考を停止した脳細胞の隅でどうしてこんな事になったのかをぐるぐると考えていた。
 そして、そっと魔法の呪文をつぶやく。

 ――ああ、お願い。
 時間よ、止まれ……

 

 

こんどこそ本当に 
   

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