小さな頃から、私のなかにその人はいた。
私より大人で、私より強くて、私とよく似た目をした人。彼女の見せる悲しい夢に、私は幾度涙で目を覚ましたことだろう。
彼女の語る切ない思いに、私は幾度あの人の名を呼んだことだろう。
いつから私は、彼女が自分の過去であったことを知ったのだろう。
――彼女の名は、エディフェル。彼女は、鬼の娘だった。
楓のひみつ
セーラー服の襟を舞い上げる風が、思いがけないほどの冷気を纏い始めている。
11月15日。隆山の秋はもはや探すまでもなく、空を染め上げんばかりの鮮やかさで辺りの山々を燃え立たせている。
約束の場所に着いた私は、腕時計で待ち合わせの時間にまだ余裕があることを確認してから、ようやく辺りの景色をぐるりと見渡した。
毎年毎年巡り来るこの季節――でも今日だけは、私にとって特別な一日。
私が産まれた18年前の今日も見事な秋晴れだったと、今は亡き父から聞いた。
――私の名前は、楓。私は、秋の娘。
待ち合わせの目印は、学校近くの赤いポスト。四角い頭の上に一枚の落ち葉が乗っていて、なんだかいまにも煙と共にドロンと化けてしまいそう。
鞄を足下に置いて、小走りで乱れた息をちいさな深呼吸で整えていると、隣の学校の制服を着た二人組の女の子が私の横を通り過ぎていった。片手に重そうに鞄を下げて、もう片方でカードリング式の単語帳をめくりながら、二人でいるのにおしゃべりもせず、私に気付いた様子も見せずに疲れたような顔でとぼとぼと歩いていく。
きっと、あの子達も受験生。これから塾に向かうのだろう。
ゆっくりと遠ざかっていくその後ろ姿をぼんやりと見送りながら、いつもの自分もあんな風に疲れて見えているのだろうかと考えた。自分の姿を客観視する機会など滅多にないから、そうでないと言い切れるほどの自信はない。
でも明日からは、生き生きした顔をして学校や塾に向かうことにしよう。大丈夫、きっと出来る。だって私たちが乗り越えたあの日々を思えば、なんだって辛くはない。
それに、七夕の日に耕一さんが掛けてくれたあのおまじないは今でも私の心の奥深くに宿っていて、落ち込みそうなとき、パニックになりそうなとき、私に自信と落ち着きと勇気をくれている。だから、私は誰よりもがんばれるはず。でも、それはとりあえず明日から。
今日の私はそんなことを考えなくても十分幸せ。それはただ単に、今日が私の誕生日だからというだけではない。
塾にも行かず、バス停でもないこんな道端に私がどうして立っているかというと…「楓お姉ちゃん、おまたせー」
音もなく走り寄ってきた大きな黒塗りのリムジンの窓から、初音の顔がぴょこんと飛び出た。
運転手の前田さんがやってきて白い手袋をはめた手でドアを開け、私にどうぞと一礼する。この大仰さが校門前で待ち合わせをしなかった最大の理由なのだけれど、前田さんは自分の仕事を生真面目に果たしているだけなので文句を言うわけにもいかない。私は小さく礼を言って、車に乗り込むために腰をかがめた。そこで目が合った。
私が今日、一番会いたかった人。
私の誕生日を祝うために、わざわざ都会から帰ってきてくれた人。「――耕一さん」
「お疲れさま、楓ちゃん。ほら早く中へ」三ヶ月ぶりに見る耕一さんは、なんだかまた逞しく、そして叔父様そっくりになっているような気がした。はい、と返事をしながら私は自分の頬が赤くなっていないか心配になる。
梓姉さんに鞄を渡して深い座席に腰を下ろし、スカートの裾を挟まないよう寄せ上げた所でドアが重い音を立てて閉められる。鶴来屋のVIP専用7人乗りリムジン――その広い車内には私の家族が勢揃いしていた。「お願いします、前田さん」
私の向かいに座った千鶴姉さんが、運転席に戻った前田さんにそう声を掛ける。
勤勉実直15年、会長専属ベテランドライバーの前田さんはそれに応えて静かに車を発進させた。
行き先は、もう告げてあるらしい。車は迷うことなくあの場所へと向かって進んでいった。
この成り行きを説明するには、昨夜の出来事から語らなければいけない。
明日隆山に帰るよ、と電話してきた耕一さんが、ふと思い出したように言ったのだった。『そう言えば、秋の隆山って俺見たことないんだよね。綺麗なんだろうなあ』
その発言はすこし意外な感じがしたけれど、私はすぐにそれが確かに耕一さんの言うとおりであることを悟った。去年の秋はあの事件の直後で、大学を予定よりずいぶん長く休んでいた耕一さんは結局その後お正月まで帰って来られなかったのだった。
「はい、とっても」
『あ、でもさ。ということはひょっとして鶴来屋忙しいんじゃないの?行楽シーズンだしさ。俺、お邪魔していいのかな』
「そんなことないですっ」思わず声が大きくなった。居間で聞き耳を立てていた姉さん達がなんだなんだとすり寄って来る。
私は受話器を持ち替えて気持ちを落ち着けながら、一呼吸おいて続けた。「あ、その――耕一さんは邪魔なんかじゃありませんから。それに、行楽で忙しいのは千鶴姉さんだけです」
『あっはは、それもそうか。じゃあ遠慮なく――プレゼント、あんまり大したのじゃないけど一応準備してるからね。楽しみにしてて』耕一さんが帰ってきてくれるのが一番のプレゼントです、と言えるほどの勇気はまだ無い。私の思いは、初音のように無邪気に伝えられるものではないから。
「耕一さんも、秋の隆山、楽しみに来てください」
そんな無難な言葉を返した瞬間――。
私のなかで、突然なにかが弾けたような気がした。フラッシュのように閃いて、私の心に焼き付けられた風景。それは私のよく知っている場所であり、同時にまったく知らない場所でもあった。
でも、私はその意味をすぐに理解した。
私と、私のなかのあの人は行きたがっている。
耕一さんと、あの場所へ――!『もしもし、楓ちゃん? どうしたの』
「耕一さん…本当にわがままなんですけど、私のお願いを聞いてもらえませんか?』そうして、私は今日のこの計画を立てたのだった。
最初は耕一さんと二人で行くつもりだったのに、私もわたしもあたしもと止める間もなく賛同の手が上がり、いつの間にやら鶴来屋の車まで出す行楽イベントになっていたのは……もはや運命だとあきらめるしかなかった。
「それにしても、久しぶりだよな」
動き出した車内で、梓姉さんがなんだか照れくさそうに言った。
焦げ茶色の長袖シャツにインディゴブルーのジーンズ。スポーツブランドのロゴの入ったパーカーを羽織ったその楽そうな姿が、今だ制服姿の私には憎い。「何がだよ」
「こんな風に、みんなで一台の車でお出かけっていうのがさ」
「お弁当持ってくればよかったね」初音がにっこりと笑ってそう言うと、千鶴姉さんもにっこり笑った。
「そうね――でも、今日はもう夕方だし、それに今夜は楓のお誕生会があるのよ?」
「あっ、そうだった」きょとんとした顔で驚く初音の可愛い仕草に、車内は明るい笑いに包まれた。
「でも本当、今日はよく晴れたわね。耕一さんがもっとゆっくりして行かれるなら、初音の言うようにお弁当持っていろんな所にご案内できるんですけど」
「うん、実際に来てやっと実感したけど、本当にここの秋は綺麗だね。びっくりしたよ。だから俺もいろんな所見て回りたいけど……ごめんね、楓ちゃん」耕一さんは、明日にはもう帰ってしまう。学部の大事な試験が重なっているということでとても忙しいらしく、今日もかなり無理をして来てくれている。
本当にすまなそうにそう言う耕一さんに、わたしは小さく、でも強く首を振った。「私こそ、忙しいのに私の誕生日の為なんかにわざわざ帰ってきてもらってしまって……ごめんなさい耕一さん」
「ああ、俺のほうは全然気にしないでよ。ノートは見せてもらえるよう頼んできたし、どうせいまさら付け焼き刃で勉強したって変わらないだろうしね。それに――」そこで耕一さんは、悪戯小僧のようににっと笑った。
「楓ちゃんの言う「一緒に見て欲しいもの」っていうのがなんなのか、昨日から気になって仕方ないんだよね。みんな「景色の綺麗な公園」としか教えてくれないし」
そう言われると、私は黙ってうつむくしかない。
昨日の電話では「耕一さんに是非見て欲しいものがあるので、学校の帰りに一緒に見に行きませんか」としか言わなかったのだ。
でも、やっぱりまだ言えない。何も言わずにいきなり耕一さんにあれを見せて、耕一さんがどう反応するのかを、私と私のなかのあのひとは見たいと思っている。
――いや、正確には、耕一さんの中でなにが起きるのか、を……「見てのお楽しみだよ、お兄ちゃん」
「そんなに凄いの?」
「まー、駅前から見える景色見て驚いてるような奴には刺激が強すぎるかもね、ひひ」
「有名な所ですから、隆山の観光ガイドなどを見られれば必ず紹介されていると思いますけど……やはり、どんなに写真が良く撮れていても本物にはかなわないです」
「へええ、そりゃますます楽しみになってきたなあ」みんなの大絶賛を聞いて目を丸くした耕一さんはそんなふうに漏らして、それから急に私の方を向いて微笑んだ。
「良いところに案内してくれて、ありがとう」
……そんな微笑み方が本当に叔父様そっくりで、私はすこし胸が痛んだ。
そう言えば昔、叔父様ともそこに行ったことがある。もっともその時は、「もう一人の私」は連れていかなかったけれど。ねえ、エディフェル。
胸の中で囁いてみる。
事件が終わったあの日以来、私はあなたの夢を見ることが少なくなった。
でも、貴方はまだ確かにここにいる。そして、あの場所であの人と再会するのを静かに待っている。そうでしょう?
今のあなたはどんな顔をしているかしら。
昔見た夢のように、切ない悲しそうな顔?
あの人と一緒に暮らした短い日々に覚えた、儚げな笑み?
それとも今の私と同じ様な――期待と緊張と嬉しさを必死で隠して繕った、ぎこちない澄まし顔?「もうすぐだよ、お兄ちゃん」
外を見ていた初音が、ふと振り向いてそう告げた。
思わず見やった窓のむこうでは太陽がゆっくりと傾いて、世界の影が少しづつ長く伸び始めているところだった。
「すっ……ごいなぁ……」
入場料を支払って踏み込んだ園内は、その入り口のところから、見る者の目を奪う秋の色彩の乱舞だった。
イチョウ、エゴノキ、ヤマボウシ。ウチワカエデにヤマモミジ。
赤や黄色や橙の鮮やかな落葉たちはひと風ごとに舞い上がり、庭園の奥へと伸びる石畳の上に錦の絨毯を敷いている。池の側にある竹林のその青い姿の一群に、舞い散る紅葉が重なる様子はもはや綺麗というより幻想的な眺めで、その絢爛たる秋の偉容に地元育ちの私たちでさえ声を呑んでただ立ちつくす。
耕一さんはと見れば、これはもう当然ながら目を丸くして、半ば呆然と庭園の遠く近くを見渡しているところだった。
「お気に召しました?耕一さん」公園の管理人らしいおじさんと挨拶していた千鶴姉さんが、なんだか得意げな顔をしてこちらにやってくる。
「でも、ここはまだまだ入り口なんですから。奥はもっと綺麗ですよ」
「いやー……なんていうんだろう。俺もうこの時点でもの凄いショック受けてるなあ」ブルゾンのポケットに両手を突っ込んだままの耕一さんは、口を半開きに顔を中空に向け、紅葉に燃える園内の風景のさらにその向こうにある何かを見つめているような表情をしている。少し強く吹いた風がその短い髪にいたずらをしても、その眼差しは変わらない。
耕一さんが今見つめているその「何か」を知りたい、と私はその時強く思った。「ショック、ですか?」
緩やかに歩き出した耕一さんと歩調を合わせるように並びながら、千鶴姉さんが耕一さんの横顔に問う。
「うん。今まで俺が見てきた「秋の景色」は一体何だったんだろう、ってね。秋ってこんなに凄い季節だったんだ……」
「そうですね。植林された杉山に紅葉はありませんし、耕一さんだけじゃなく多くの人たちが秋の本当の姿を忘れはじめているのかもしれませんね」
「都会っ子は可哀想だねえ。テレビじゃ絶対わかんないだろうさ」こちらも腰に手を当てて、何故やら得意げな梓姉さん。ふふん、なんて鼻で笑うその横で、初音がまるきり小学生のはしゃぎようで拾ったドングリを耕一さんに見せている。
私はみんなの一歩前を歩きながら、これから耕一さんを連れていこうとしているその場所に思いを馳せた。それは、この公園の一番奥にひっそりとある。
隠れてなどいない。むしろそれはこの公園一番の見所で、この公園にやってくる観光客のほとんど全てがその歴史と美しさにため息をつく。しかし、その周囲がそれほど変化しようと、どれほど多くの人の目に触れようとも、それは神々しいまでの静謐さをもって凛としたそのたたずまいを崩さない。
私の人生と、それは二つの大きな点で結ばれている。
私の姉妹たちみんなは、そのうち一つしか知らない。
そして私はこれから、そのもう一つを耕一さんに見せようとしている。
誰にも秘密の――私の中の「あの人」との繋がりを。私はふと立ち止まり、いつの間にかずいぶんと後ろに離れてしまったみんなの姿を振り返り見る。
いろんな形をしたドングリを手に、仲の良い本当の兄妹のように談笑しながらゆっくりと歩いてくる初音と耕一さん。その横で両手を組んで伸ばし深呼吸をしながら歩いている梓姉さん。その様子を半歩後ろから見守り、穏やかな微笑みを浮かべている千鶴姉さん。
何の不安も恐れもなく、穏やかに笑いながら肩を並べて歩む私の「家族」。その幸福そうな姿に、私は思わず目を細める。
そして胸の中にあの想い――きっと、これから死ぬまで事あるごとに思い出さずにはいられないだろうあの想いが、ひたひたと満ち寄せて来るのを感じた。――ああ、もうあの日々は終わったのだ。
こんな日が本当に来るとは、あの頃の私には信じられなかった。世界中の不幸を一身に背負ったかのように勘違いして、悲しい夢と抗えぬ過酷な運命に表情を無くして過ごした日々。
きっとそのころの私は、あの可哀想な鬼の娘――エディフェルと同じ貌をしていたに違いない。ずっと夢で見てきた、遠い昔の私。彼女の辿った哀しい運命に今の自分を重ね見て、「何もしないことしかできない」などときれい事を口にしながら、結局は現実と戦うことから逃げていた日々。
その歪んだ日々の全てを、耕一さんが壊してくれた。
私たちが勝てなかった、戦うことすらあきらめていた運命に耕一さんは勝利した。
それはなんて偉大な勝利だったことだろう!
その勝利は耕一さん本人のみならず、私たち姉妹みんなをも救ったのだから。
……本当に、こんな日が来るとは思わなかった。いま改めてそう思う。
悲しい夢。
悲しい記憶。
悲しい日々。
悲しい過去――でも、それはもう過去なのだ。今日はとても良い日。
なぜなら、今日は私の誕生日。生まれ変わるにはとても良い日――あなたもそう思ったのでしょう?
エディフェル……「耕一さん、あっちです」
さあ、ピリオドを打ちに行こう。わたしは手を差し伸べあの人を招く。
その場所で何が起こるか誰も知らない。でも、必ず何かが起きる。そんな予感で胸がざわめく。
耕一さんは期待のこもった表情で頷いて、私の招きに応じてくれた。「いよいよ真打ち登場、か。なんなんだろうなあ」
「あ、じゃあ私たちは他を回ってますね。――楓、耕一さんにご迷惑かけないようにね」
「わかってます、姉さん」
「いってらっしゃい、耕一お兄ちゃん、楓お姉ちゃん」
「おっ、甘味茶屋がまだ開いてるぞ初音。耕一達が行ってる間に団子でも食べるか」それぞれの言葉に見送られ、私と耕一さんは二人だけで公園の奥へと向かう。
気を利かせて別行動に移ってくれた(というか、昨夜の電話のあと同行の条件として要求したのだけれど)姉さん達に感謝しながら、私は耕一さんの横に並んだ。「ちょっと、寒くなってきたね」
耕一さんはそう言って、茜色に染まり始めた空から私の顔へ視線を落とした。
「楓ちゃん、寒くない?」
「……いえ、平気です」こんな時、私の口は呪わしいほどに不器用だと思う。せっかく優しい言葉をかけてもらったのだから、初音みたいに素直で可愛い返事を返せば良いものを、いざとなるとどうしてこんなにぶっきらぼうな響きになってしまうのだろう。
そんな自分にすこしがっかりするけれど、私の方を見る耕一さんの眼差しは暖かいままで、それがとてもとても嬉しかったりする。元の山並を活かした雑木林風の一角を抜けると、古池を囲むよく手入れされた和庭園の清雅な眺めが姿を現した。
東屋、築山、石灯籠。京風の朱橋が映える池の水面に一匹の錦鯉が現れ、舞い落ちた紅葉をぱくりとくわえて再びひらりと姿を隠す。庭園を取り囲む樹木の幹にはすでに菰(こも)が巻いてあり、一足先に冬支度が進んでいる様子が見て取れた。ゆったりとしたカーブを描く池端の道を行きながら、私は少しずつ今日の計画の種明かしを始めることにした。
この道を過ぎれば、もうすぐそこにそれは待っているから。「耕一さんの『耕一』というお名前は、たしか叔父様がお付けになられたんですよね」
「うん。一族最初の男児ということで、爺さんの名前から一文字取って「耕一」。……安直だよな」くっくっく、と耕一さんは笑うけれど、それは自嘲の響きを帯びてはいない。
そんな名前を付けた背景にある痛いほどの祈りと願い――耕平お祖父様は鬼化を制御する事ができた――を知る故に、安直に思えるその名前が愛おしくてならない、そんな笑い方だった。
だから私は、それを否定も肯定もしない。ただ、そうかもしれませんね、と短く言うだけに止めた。「でも、それがどうかしたの? ……ひょっとして、もしかして俺達が今向かってる場所となんか関係があったりするのかな」
「当たりです。でも、残念ながら耕一さんの名前とは関係ないです」ここまで言ってしまったら、勘の良い人ならもうわかってしまうだろう。
はたして耕一さんは、一瞬眉根に目を寄せたあとそれをぱっと開いて声を上げた。「あ、もしかして楓ちゃんの『見せたいもの』っていうのは――」
「はい…」庭園の道はすでに過ぎていた。せせらぎと共に池にそそぎ込む小川を、古い石組みの平橋を踏んで渡る。
そこに漆喰と古木で組まれた大きな門がある。
ここから先は俗世とは切り離された特別な場所であることを、来る者に諭すような門構え。
その向こうに、私が見せたかったものが立っている。「耕一さん、紹介します」
門をくぐると、突然それは視界に飛び込んでくる。
息を呑む荘厳。茜さす夕空よりなお紅い、それは見事な――「国指定天然記念物、隆山の大楓――私の名前の由来です」
それは年経てなお鮮やかに燃える楓の古木。
黒々と伸びた幹と枝を飾るのはまるで緋色の群雲のような紅葉で、根本に立てられた碑には、樹齢七百年を越す日本有数の銘木であると説明されている。
隆山に楓多しといえども「大楓」といえばこれを指す。私が産まれた朝に見事な紅葉を見せたために私の名前の由来となったというのは、姉妹の間では秘密でもなんでもない。
耕一さんにも秘密にするつもりなどなかった。聞かれればいつでも教えるつもりだった。
――しかし。「………」
耕一さんは言葉を失ったように立ちつくし、その炎の滝の如き大楓の姿を見つめ続けている。夕照りを受け、緋色に黄金を加えはじめたその樹影の凄まじさは、どのような表現をさえ陳腐なものに感じさせる。
しかし私は紅葉には目もくれず、耕一さんの上に現れるどんな小さな変化をさえも見落とすまいとその横顔を見つめた。胸の鼓動が痛いほど高鳴る。私が秘密にしたのは、私の名前の由来のことではない。
本当に秘密だったのは、もう一つの私との繋がり……それは同時にこの大楓と耕一さんの繋がりのことだった。耕一さんは真横から向けられる私の視線に気が付かない。ただただ、言葉もなく食い入るように大楓を見つめている。それは自然の美を鑑賞している人のする目つきではなかった。身じろぎも、まばたきも、呼吸すら止めて耕一さんは正面に立つ楓の古木と対峙している。
耕一さんは今、目の前のこの大楓を見てはいない。
…そのことが、私にはわかる。
私にだけは、わかる。
耕一さんが今見ているものは、私が昨夜電話口で思い出したあの記憶と同じ風景。
私は大楓の根本に立つ石碑の一文を思い浮かべた。『この大楓は戦国期の書物にも領主縁の銘木として登場し、樹齢はおよそ七百年を越えるものと――』
樹齢、七百年。
百年も生きずに土に還る儚い人の身からすれば、それは永劫にも等しい時間。
しかし、今ここに、この大楓の古の姿を知る者が二人いる。
それはおよそ五百年前――エディフェルと次郎衛門は、この紅葉を、共に見た。
私は目を大楓に向けた。
今と昔、同じ樹の二つの姿が重なるようで、私は眩しいものを見るときのように目を細めた。
記憶が静かに蘇る。
それは、私が産まれる前の記憶。遙か昔、私が私ではなく、エディフェルという名の哀しい目をした鬼の娘だった頃の記憶。鬼の娘でありながら、彼女は人を愛した。傷ついたその人を救うために、自らの血を分け与えることまでして。
その人の名は次郎衛門。
今も隆山に昔話として伝わる鬼退治の主人公――なんて滑稽な話なんだろう。鬼の娘に愛され、また愛したその人が、鬼を滅ぼしたことで今もなおその名を語り継がれていくなんて。
エディフェルと次郎衛門は本当に本当に愛し合っていた。言葉も、種族も、掟も越えて結びついた二人の絆は固いものだった。その出自ゆえに人並みの祝言すらあげられず夫婦となった二人は、よく山歩きをした。人里へ降りるには、彼女の姿は目立ちすぎたのだ。
彼らは手を繋ぎ、肩を寄せ、小川を渡り峠を越えた。出会うのは小鳥、鹿、狸、イタチ……優しい生き物たちは、それは人であろうと鬼であろうと等しく迎えてくれた。そんな中で、二人が見つけたのがこの大楓だった。
記憶の中のその姿は、今よりも小さく、勢いに満ち、鬱蒼とした木立に紛れて山の一角を燃やす、美しく激しい秋のたいまつだった。エディフェルは覚えている。
次郎衛門と肩を並べ、この楓を見上げた時のことを。
その時、次郎衛門とエディフェルは二人だけの祝言を上げたのだ。燦々と夕陽の欠片のような紅葉をこぼす大楓を仲人に、二人は誓い合ったのだ。これから幾久しく、この紅葉を共に見ることが叶うように、と。
エディフェルの生涯で、それはもっとも幸福な日々だった。……しかし、エディフェルの目は哀しいままだった。
なぜなら、彼女は次郎衛門と同じくらい、自分の姉妹を愛していたから。次郎衛門を愛すれば愛するほど、彼女は哀しいのだった。
彼女の姉妹達は優しく賢かったが、人を愛するようにはまだなっていなかった。
自分が人を愛し人と共に暮らすという鬼の掟を破った生き方をしている事で、自分の姉妹達が部族のなかで辛い立場に立たされていることを、彼女は知っていた。
そしてまた、それ故に――彼女の愛する長姉は、家長として掟をただすために、自分をその手で殺めるであろうことも知っていた。――蜜月の刻はあまりに短かった。
誓いは守られることなく、エディフェルは紅葉と共に散った。
死の間際、掻き抱く次郎衛門の腕の中で、エディフェルはようやくその目に微笑みを浮かべた。
次郎衛門、私は死にます。
死は哀しくありません。哀しいのは、誓いを守れなかったこと。
もう一度、せめてもう一度だけ、貴方とあの美しい楓を見に行きたかった。
……ああ、見えます。私、遠い未来で貴方ときっと……ああ――
なんて、綺麗な、紅…葉……
隣で何かが動く気配がして、私は蘇った過去の記憶から引き戻された。
こんなにも深くエディフェルの記憶と同調したのは初めてのことだった。私は夢から急に目覚めたときのような意識の混乱を覚え、そしてすぐに思い出す。
私は柏木楓。エディフェルの記憶と共に、今この大楓の前で――そして私は振り返る。
横に立つあの人の顔を見る。
私は息を飲んだ。
隣に並んだ耕一さんの肩の上。その頬を、一筋の涙が濡らしていた。
耕一さん自身はその涙に気が付いていないのか、遠いものを見るような表情のまま、次第に暮色を増していく空の下でいよいよ紅く鮮やかに散る大楓と今も向き合っていた。
私はその横顔から目が離せない。
待ち続けていた時がきたのだから。耕一さんは今、何を見て、何に涙し、何を想っているのだろう。
耕一さんの中のあの人は、私の中のエディフェルを覚えているだろうか。
いえ、いえ――次郎衛門が目覚めなくてもかまわない。エディフェルももうすぐ長い眠りにつくだろう。長い時を越え私の中にだけ目覚めた彼女の記憶は、ただあと一つの願いを叶えさえすれば、あるべき場所へ還って行く。だから、耕一さん。
彼女の願いを、どうか……「どうしてなんだろう」
その時、ぽつりと耕一さんが言った。
見つめ続けていた大楓から私の方へにゆっくりと視線を移しながら、耕一さんはさらに続けた。「この樹、初めて見るはずなのに……ここに来たのも初めてなのに、どうしてなんだろうね……」
言いながら、耕一さんの目は吸い寄せられるように大楓に戻っていく。
そして、きっぱりと言った。「俺は、この樹を見たことがある。今じゃない、ずっとずっと昔。大事な誰かと二人で……」
新たな涙が耕一さんの頬を流れていった。私は呼吸することすら忘れて耳を澄ます。
「いつなんだろう。誰なんだろう。――大事な約束があったはずなのに。この大楓に関わる、とても大事な約束があったはずなのに」
大楓から目を落とし、耕一さんはうめくように言った。
「それが、思い出せない」
痛みを堪えるように瞑目する耕一さんを、そのとき私はどれだけ抱きしめたいと思ったことだろう。きつく抱いて、何もかも打ち明けて、泣き叫びたかった。
ああ、耕一さん。次郎衛門。
エディフェルはここにいます。この私の中にいます。
貴方は約束を守ってくれました。長い時間は経ったけれども、たくさんの悲しい日々を越えなければならなかったけれども、貴方と私、いまこうしてあの大楓の下にいます。しかしその強い衝動の裏で、私は同時に理解していた。
その思いはエディフェルのものではなく、その名を楓という私自身の願いだと言うことを。
私の中に誰も知らず在り、そして今また、誰にも知られずに消えようとしている彼女のことを不憫だと思う、私の心がそう願っているのだと。エディフェルはもう、今はただ静かにその時を待っている。
時間も、罪も、悲しみも、我執も過去も彼女は超えて、穏やかに消えていけることを感謝し喜び、祈っている。
だから私は、彼女の言葉を口に上せた。「思い出さなくて、いいですよ」
「…楓ちゃん?」
「きっとその人は、耕一さんを悲しませるためにその約束をした訳じゃないと思います。あなたがその人のことを大事に思っていたのと同じように、その人も、あなたのことを誰よりも大切に思っていたでしょうから」耕一さんと、瞳を合わせる。
まっすぐに見つめ合い、胸の中に満ちる万感の想いをのせて、私は微笑む。「だから耕一さん、どうか泣かないで下さい。ほら、こんなに綺麗な紅葉なんですから。…きっとその人も、耕一さんがこの楓を見て笑ってくれるほうが嬉しいと思います。それになにより――」
…ああ、エディフェル。優しい女(ひと)。
こころのどこかで、彼女の存在がゆっくりと輪郭を失っていくのを感じながら。
私は、言った。「――今日は、私の誕生日なんですから」
そう。
18年前の今日、彼女の過去を抱いて私は産まれ――そして今、彼女は消えていこうとしている。
消える?
いえ、彼女は消えていなくなってしまうのではない。彼女は今ようやく生まれ変わろうとしているのだ。私の産まれた日に
私の名前の元になった
約束の楓の樹の下で
……あの人に見送られながら。「…そうだね。楓ちゃんの言うとおりだ」
耕一さんは小さくため息を付いて、掌で頬と目元の涙をぬぐった。
それから、耕一さんは照れくさそうに頭を掻いて。
私が大好きな、叔父様そっくりのあの微笑みを浮かべて――
「誕生日、おめでとう。楓ちゃん」生まれ変わる私たちに、祝福の言葉をくれた。
それは、消えゆく彼女が最後に望んだものだった。
…小さな頃から、私の中にいたあのひとの夢。
鬼として産まれ、人を愛し、悲しい運命に従い死んだ、彼女の夢。
誰も知らず、彼も知らず……ただ、私のなかに夢となって残った彼女の想い。
それは、彼女と彼女の愛する大切な人々皆が、争うことなく、憎み合うことなく、共に幸せに暮らすそんなあたたかな日々の姿――。エディフェル。あなたはそれを耕一さんの姿の上に見たのね。
ええ、その通り。
悲しみの日々を終わらせて、あなたが望んだとおりの日々を私たちにもたらしてくれたのは、耕一さん。
あなたの姉妹たちは、私の姉妹たちに生まれ変わって。
あなたの愛した人たちはいま、愛し合う家族になって。
――幸福な未来を共に生きようとしている。よかったわね、エディフェル。
これからあなたは私と一つになって、あなたが夢見た日々を過ごして行くでしょう。だから、もう、おやすみ――。
「楓ちゃん!? ど、どうかしたの?」
「え?」うろたえたような耕一さんの声で、私ははっと気が付いた。
辺りはすでに夕闇に包まれ始めている。私を見つめている耕一さんの顔にも、深い影が差しはじめている。
風が、吹いた。大楓の枝が揺れて、火の粉のような紅葉を散らす。
その風で気が付いた。
私の頬に冷たい線を引いた、一筋の涙に。「あ、その……ごめん。さっき変なこと言っちゃって」
耕一さんが慌てたように謝るのを、私は半分呆然と聞いていた。
「せっかくの誕生日に、大事な想い出の樹の前でさ。……本当に、ごめん」
そう言って、耕一さんは悪くもないのに頭を下げた。
どうやら耕一さんは、自分がさっき「思い出せない約束」の為に涙を流したことが、私を悲しませたと考えたらしい。
私はおかしくなって、指先で涙の跡を消しながら首を横に振った。「違います、耕一さん。私、そんなんで泣いたんじゃないです」
どうしようもなく、微笑みが浮かんでくる。
――耕一さん、私は今日産まれたんですよ。「嬉しくて……気が付いたら、流れてました」
赤ん坊は泣きながら産まれてくる。
それは厳しく辛く死に向かう人生を始めなければならないのが悲しくて、それで泣きながら産まれてくるのだと言う人もいる。
でも、それはきっと違う。少なくとも、私は違う。私はこれから、長い長い間待ち続けた、幸せな人生を始めるのだから。
耕一さんから祝福されて、そのスタートを切ったのだから。
……涙を流すとしたら、それは喜びの涙しかありえない。「そ、そっか。よかった……」
耕一さんが心底ほっとした表情で息を付いた。
「でも、千鶴さんたち驚くだろうね。二人して涙目で戻ったら、なにがあったんだあ!って梓あたりが騒ぎそうだ」
「ふふっ、そうですね。――でも、とりあえずその理由は」
「うん。俺達だけの秘密、とでも答えようか」いたずらっ子の笑みで、耕一さんがウインクをする。私は、はい、と深くうなずいて共犯になる。顔を見合わせて、私たちはさっきまで泣いていたことすら忘れて、しばしの間くすくす笑いを忍ばせあった。
秋の夕暮れは早い。降り仰いだ東の空に一番星が光り始めているのが見えた。
わずかに吹く風が冷たい。もうじき、夜が来るだろう。足もとの玉砂利を鳴らして、耕一さんが出口へときびすを返した。
「行こう、楓ちゃん。みんなが待ってるよ」
それはなにか象徴的なことのように思えた。
今日は私の誕生日。そのことはみんな知っている。
でも、私が今日生まれ変わったことを、誰が知るだろう。私たちが家族になって、幸せに暮らしていくことが、遠い昔から決まっていたことだなんて、誰が知るだろう。
――誰にも知られなくていい。それは私だけの秘密。「はいっ」
私は大きく返事をして、耕一さんの隣に並んだ。
そして、二人同じペースで歩き出す。私の家族が待つ場所へ。
なにもかもが、産まれて初めてのように新鮮に感じられる。――そう、未来はこれから。
期待と決意と喜びに、私の胸は高鳴る。
歩き去る私たちの後ろ姿を、夕闇に溶け行く大楓は笑うように枝を揺らしながら、いつまでもいつまでも見送ってくれていた。
「楓のひみつ」
FIN
01/11/21