「梓お姉ちゃんおめでとう!!」
声に振り向くと、控え室のドアの所に初音と楓が立って私を見ていた。
「みんな・・」
あたしは微笑もうとして、なぜか泣きそうになった。
今日が近づくにつれそんなことが多くなってた。気持ちと体がバラバラの反応をする。
今日は特に変だ。何でもないこと――たとえばカーテンが風に揺れたり、部屋の外を足音が通ったりするそんな何でもない事で、心が揺れる。怖くなる。泣きたくなる。
今日はあたしの結婚式。耕一とあたしの結婚の日。
世界一幸せなはずなのに、どこかでそれを信じられずにいる。恐れている。
「梓姉さん・・・綺麗」
相変わらず無表情な楓が、でもどこかしらうっとりとあたしの姿を見ながらそうつぶやくのが聞こえた。
「そ、そっかな」
「うん、お姉ちゃん素敵だよ。いいなぁ・・・」
初音も子犬みたいに頷きながら、楓と同じ物を見ている。夢見るようなうっとりとした目つき。
あたしは、ありがとと言いながら、あいつも同じ事を言ってくれるだろうかと思った。
光そのものを織り上げたような純白のドレス。シルクの長手袋。
手にはバラのつぼみの可憐なブーケ。涙を誘う甘い匂い。
カチューシャをはずした髪に輝くティアラ。身動きのひとつひとつに、怖いほど繊細なレースがさらさらと鳴る。
今の私に足りないものは、キスと指輪だけ・・・
そう、今日のあたしは綺麗。今までで一番、いや、一生の中でも一番綺麗。
長いこと、あたしには似合わないと思っていた。
――いや、いまでもそう思ってる。 だから今、こんなにあたしは怖いんだ。
「梓、入るわよ」
こんこん、というノックの音にいつの間にか床に落ちていた視線を上げると、そこには開いたドアに寄りかかるように立つ千鶴姉の姿が見えた。
「千鶴姉・・・」
「もうすぐね、用意はできた?」
そう言って千鶴姉は、チェックするように周りをゆっくりと歩きながらあたしの姿を眺めてきた。
初音や楓と違って、千鶴姉のそれは保護者としての優しいけれど現実的なまなざしだ。
あたしは千鶴姉がそうするままにして置いた。
「・・・うん。綺麗よ、梓」
しばらくして、千鶴姉はそう言って微笑んだ。
「・・・ほんとに?」
「ええ、本当に。・・・お父様もお母様も、そして叔父様も、今日の梓を見たかったでしょうね」
「・・・うん」
あたしも見せたかった。
そう思って、あたしが叔父さんの顔を思い出したその時、初音が言った。
「耕一お兄ちゃんも格好良かったよ」
いきなり心臓が飛び跳ねた。
「さっき楓お姉ちゃんと二人で行ってきたんだよ」
「そ・・・そう」
声が震える。頬をねじ曲げて微笑んで何でもないふりをしようとしたけれど、きっとものすごく不自然な顔をしてるに違いない。震えを止めるため腕に力を込めたけれど、それでもどうしようもなく震えてしまう。
楓と初音が、賓客の接待で忙しい千鶴姉に式場の様子を話している声もぜんぶ遠い所のことのように感じる。
・・・怖い。
あたしはおかしいのだろうか。
きっとそうだろう。普通の花嫁は式の直前に震えたりはしないのだろう。
でも、どうしようもない。あたしはおびえてる。
――でも、何に?
その時、礼服を着た係員が部屋に入ってきた。
「柏木様、お時間です。ご親族の方は式場の方へお願いいたします」
お時間です。
事務的な口調で発せられたその言葉が頭の中で反響する。
呼吸をするのも苦しいくらいに、あたしの動悸は高まっていた。
「あら、もうこんな時間。ほら、席に行きなさい、あなた達」
「うん。・・・梓お姉ちゃん、写真一杯撮ってあげるからね」
初音と楓が、そう言って控え室から出ていった。
部屋には千鶴姉が残った。
「ふふふ・・・騒がしい子たち」
「・・・・・・」
「さあ、梓。私達も行きましょう」
そう言って、千鶴姉は微笑みながら手をさしのべてきた。
あたしはその手を見つめた。
・・・この手はこれからあたしを引いて、式場の扉の前に導いていく。
そこには耕一があたしを待っていて――
耕一・・・
「・・・いや・・・」
「梓?」
「千鶴姉、あたし・・・行けないよ・・・!」
怖い。
どうしようもなく怖い。
耕一が怖い。千鶴姉が怖い。真っ白なウェディングドレスが怖い。
幸福が・・・怖い。
「耕一に会えない・・・」
いま耕一が目の前に現れたら、気を失ってしまうかも知れない。
陸上の試合の時にはあんなに頼りになる脚が、いまはまるでゼリーみたいに頼りない。
・・・どうして、こんなにあたしは怖いんだろう。
そのとき、千鶴姉が目の前に腰を下ろして手を握ってきた。
「怖いのね? 梓」
ふと目を向けると、千鶴姉が優しくあたしの目を見つめていた。
千鶴姉の表情は優しく、でもとても真剣な顔をしていた。
あたしはこくりと頷いた。
その拍子に、涙が数滴こぼれ落ちた。
あたしは自分が泣いていることにびっくりした。でも、もう止まらなかった。
千鶴姉の手にすがりつくようにして、せめて声だけは出すまいと必死に堪えた。
千鶴姉は黙ってあたしの手を握り返してくれた。
「・・・変だよね。あたし・・・怖いなんて・・・おかしいよね」
「ううん、変じゃないわ。梓」
「嘘だ・・・あたしはおかしいんだ。耕一に・・・会いたくないんだよ・・・」
すると、千鶴姉は片手を抜いて、まるで子供の頃みたいにあたしの頭を抱いてくれた。
千鶴姉の匂い。柔らかい髪の感触。触れる耳の形。頬の暖かさ。
「梓は、耕一さんが本当に好きなのね・・・」
千鶴姉はそんなことを言った。
子守歌みたいな声だった。
「だからあなたは怖がっているのよ。大好きな耕一さんだから・・・」
「それってやっぱり変だよ、千鶴姉・・・好きなのに、どうして怖いのさ」
「・・・あなたが本当に恐れてるのは耕一さんじゃないわ。梓、あなた自身よ」
千鶴姉はあたしの顔を指先で支え、鼻の頭がくっつきそうなほど近くからあたしの目を覗き込んできた。
「自分にもっと自信を持ちなさい。あなたは今でも自分で良いのかって思ってる。それがあなたを恐れさせてるの。だからもっと自信を持って。耕一さんが、初音でも楓でも私でもなく、梓、あなたを選んだと言うことを思い出して」
「千鶴姉――」
「・・・幸せに、なりなさい」
千鶴姉はそう言って目を合わせたままゆっくり頷いた。
あたしもそれにあわせて、小さく頷いた。千鶴姉はそれを見てにこっと微笑んだ。
どこかで鐘が鳴っている。
たくさんの拍手が聞こえる。
千鶴姉に引かれて着いた大きなドアの前には、耕一の大きな背中が見えた。
耕一はまだあたし達に気が付いてない。腰に片腕を組んでまっすぐ立っている。
角のところで、千鶴姉はあたしの背をそっと押して姿を消した。
式場のドアまで続く長い絨毯の上を、あたしは一人で歩いた。
あと10メートル。
耕一はまだ気が付かない。
あと7メートル。
心臓の音が全ての音を隠してしまう。
あと5メートル。
足が止まる。動けない。
・・・やっぱりだめだよ、千鶴姉。
あたし・・・怖い・・・
――その時。
耕一が、振り向いた。
斜めから差し込む柔らかな陽が、耕一の動きをまるで映画のワンシーンみたいに現実感を失わせて見せた。
その瞬間、あたしの心臓は止まっていた様に思う。
音さえも、時間さえも、何もかも静止した光のなかで、耕一だけが動いているみたいだった。
あたしは、ブーケを握りしめたまま耕一の後ろ5メートルの所に立ちすくんでいる。
耕一はあたしの姿を認めると少し驚いた顔をして、そして大きく微笑んだ。
「きてたのか。気が付かなかった」
「・・・・・・」
「一人か? 千鶴さんと一緒じゃなかったのか」
「・・・そこまで、一緒だった・・・」
あたしは急にまた自分の心臓が激しく動き出したことに気が付いた。
耕一の顔を見ていられない。
あたしはうつむいて、そっぽを向いた。
そして、そんな自分に自己嫌悪する。
あたしはなんて弱いんだろう。
なんてイヤな女なんだろう。
幸福におびえ、耕一から目をそらす。何もかも捨てて逃げ出したいと思っている。
千鶴姉は自信を持てと言ったけど、一体私のどこに自信を持てと言うんだろう。
こんなんで、幸せになんかなれるはずがない・・・
暗い物思いに沈んでしまった私を、耕一はただじっと見つめていた。
耕一はきっと怒っているんだと、そう思った。目をそらし、黙りこくった花嫁に腹を立てているに違いない。
――いやだ。
あたしは目を強く閉じた。
いやだ。耕一に嫌われたくない。
結婚式場のドアの前で、ドレスまで着て、こんな風にうつむいたまま終わりたくない。
せめて・・・せめてちゃんと耕一を見つめ返して上げたい。
顔を上げるんだ。目を向けるんだ。
そして、あたしを見てもらおう。
あたしは大きく息を吸い込んで、目を閉じて顔を正面に向けた。
そして、永い眠りから覚めた人のようにゆっくりと目を開けた。
耕一はそこにいた。
あたしの目の前で、腰に手を当てて、少し首を傾げて。
・・・耕一は微笑んでいた。
「梓」
目が合うと、耕一が言った。
「綺麗だ」
「・・・うん」
照れながらではない。冗談っぽくでもない。お世辞なんかじゃ絶対ない。
真摯な耕一の言葉はあたしの中にすんなり吸い込まれていった。
・・・そして、それは涙に変わった。
耕一を見つめたままぽろぽろと涙をこぼしだしたあたしに、耕一はすこしあわてたみたいにして近づいてきた。
胸ポケットのチーフを抜いて、あたしの顔を拭ってくれる。
あたしはそれを止めなかった。目を閉じもしなかった。
耕一を見つめていたかった。
「変な奴だな。泣くなよ」
「・・・変な奴で悪かったわね」
泣いて素直になれたかと思いきや、あたしは反射的にそんなことを言い返していた。
すこし情けない気もするけど、でも、あたしらしい。
長い間、耕一の弟みたいな立場だったんだから。急に素直で可愛い女にはなれない。
そのことに気付いたとき、あたしは訊かずにはいられなかった。
「・・・こんな変な奴でいいの?」
・・・あたしで、いいの?
あたしは初音みたいに可愛くも、楓みたいにおしとやかでも、千鶴姉みたいに女らしくもない。
素直じゃなくて、可愛くなくて、考え無しで、乱暴で、いつもあんたと喧嘩してる、そんなあたしでいいの?
あたしは千鶴姉の言葉を思い出した。
――耕一さんがあなたを選んだと言うことを思い出して・・・
耕一、どうしてあたしなの。
その理由を教えてよ。
・・・ううん。教えてくれなくてもいい。ただ頷いてくれるだけでもいい。
「あたし」でいいって、「あたし」がいいって、そう言ってくれるだけでいい。
答えて、耕一・・・!!
「梓・・・実はさ」
耕一の声に、あたしははっと身構える。
あたしの涙を拭いてよれよれになったチーフを不器用に胸ポケットに押し込みながら、耕一はつぶやくように言った。
「ここに一人で立ってお前を待ってた時な、俺正直な話震えてたんだ。凄く怖くて不安で、逃げ出したい位だった」
耕一はポケットに両手を突っ込んで、肩をすくめて天井を見上げながら続けた。
「どうしてそんなに怖いのか、何がそんなに不安なのか、最初はわからなかった。でも、すぐに気が付いた。俺はつまり・・・自分におびえてたんだ」
あたしははっとして耕一を見つめ直す。
耕一それは・・・
「お前を幸せにしてやれるのか。これまでみたいに仲良くやっていけるのか。結婚する事でなにか大事なものが無くなってしまうんじゃないか・・・そんなことを考えてた。自信のない自分が怖かった。――でも」
耕一はまっすぐあたしを見て続けた。
「振り向いてそこに立ってるお前を見た時、俺の中から怖さとか不安とかそう言うのがすっと消えてしまったんだ。本当に、それまでのは何だったんだろう、と思うぐらい、あっけなくな。――自信がでた訳じゃない。正直、今でも自信はない。お前を絶対に幸せにしてやれる自信はない。でも、お前の姿を見たとき、その、何というか・・・」
耕一は言葉を探すように少しうつむいた。
息を止めて続きを待つあたしの目の前で、耕一はゆっくりと微笑んだ。
「予感・・・と言うのかな。お前となら幸せになれそうな、うまくやっていけそうな、そんな気がしたんだ」
「耕一・・・」
「俺は、お前がいいよ。みんな大好きだけど、梓以外にそんな予感はしないんだ」
・・・あたしはきっと忘れない。この瞬間の、この世界を。
耕一が、あたしでいいって言ってくれたこの瞬間を。
――そして耕一は真面目な顔でこう言った。
「・・・お前は、俺でいいのか」
どうしよう、耕一。
胸がいっぱいで、声が出ないよ。
耕一、あたしあんたがいい。
耕一じゃないとだめ。・・・耕一、耕一、耕一!!
叫びたいけど、声が出ないよ・・・!!
想いはあふれて涙に変わる。
あたしは首を縦に振る。
強く。強く。何度も頷いて、耕一に言葉にできない答えを伝えようとする。
首が壊れるぐらい強く振っても、伝わらないかも知れないけれど。
耕一は、あたしに頷き返してくれた。
そしてあたしの頬に手を添えて、優しい手つきであたしの涙を拭ってくれた。
「・・・変な奴」
苦笑いを浮かべてそう言う耕一に、あたしは何も言い返さなかった。
そうよ、あたしは変な奴。
これまでは、それがいやだった。みんなみたいになりたかった。
でも、これからはこんな自分に自信を持とう。
だって・・・耕一が選んだんだ。あたしは「あたし」。それでいいんだってあなたが言ってくれた。
チーフを胸に納めると、耕一はあたしの腰に手を回して支えた。
入場の体勢だ。思えば時間をだいぶ過ぎてる。
「梓、いこう」
「・・・うん」
あたしは頷いて、耕一の手をぎゅっと握った。
並んで歩く耕一の横顔を見て思う。
あたしはどうしてこの顔を恐れたりしたんだろう。
それはきっと千鶴姉の言うとうり、自分に自信がなかったからだろう。あたしでいいのか不安だったからだろう。
その不安が、恐れを産んだんだ。
・・・今でも自信は無い。でも、それはもう怖くない。
あたしの横を歩く、あたしによく似た、あたしが一番愛するひとが、あたしを選んでくれたから。
二人並んで赤い絨毯の上を歩む。
その一歩一歩が、きっと幸せの予感。
耕一が信じたそれを――私も信じよう。
by inui akira
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