オトナになる前に
〜初音のひ・み・つ after〜

















 
 

「よーし、準備はいいか〜」

 マッチの火を吹き消して立ち上がり、梓が蛍光灯のひもを握って言った。
 テーブルの上には梓が半日を掛けて作り上げた豪華な夕食と飲み物の他に、小さく火を灯す赤や青の可愛らしいキャンドルをのせた大きなケーキがある。楽しい晩餐を始める前に、誕生日恒例のちょっとした儀式をするためだ。

「初音ちゃん、準備はいい?」

 真向かいに座った俺がそう訊くと、初音ちゃんはロウソクの炎に目を落としたまま小さく堅くうなずいた。

「う、うん。なんだか、ちょっと緊張しちゃって」
「今年こそ、一息で消せるといいわね、初音」

 初音ちゃんの横に座った千鶴さんが、まるで母のように優しい目でそう言う。

「そうだったね。去年はたしか2回くらい息継ぎしたっけ」
「一度に強く吹くと駄目。ゆっくり長く吹いたほうがたくさん消せる」
「う、うん。ありがとう楓お姉ちゃん」
「そういえば昔、梓はロウソクを消して電気をつける一瞬の間にケーキを……」
「だあ! おしゃべりしてるとケーキにロウが垂れるって! 電気消すよっ」

 パチン

 ……
 ……
 ……

「ハッピバースディ トゥユー …」

 明かりが消えた部屋に、ちいさなキャンドルの炎で浮かび上がる5つの顔。
 抑えめな手拍子と共にこの歌を歌い始めたのは俺だった。17本の揺らめくキャンドルの前で、また一歩大人に近づいた少女は耳を澄ませるように目を閉じている。

「「ハッピバースディ トゥユー」」
 
 声の輪が広がった。ゆっくりとした暖かな手拍子に、思わず見合わせた俺達の顔もほころぶ。
 初音ちゃんは何かを堪えるかのように、ぎゅっと瞼に力を込めた。

「「「ハッピバースディ ディア 初音ちゃーん 」」」

 そのとき、初音ちゃんがぱちっと目を開けた。そして見渡す顔、顔、顔……

 千鶴さんは目を細めて柔らかく微笑んでいる。
 梓はちょっと照れくさそうに頬のはしっこを指で掻いた。
 楓ちゃんは初音ちゃんの目を見つめ返して、こっくりとうなずき返した。
 そして俺は――この日の為に鏡の前で特訓したウインクを披露した。

 初音ちゃんが全員からの無言の祝福を受け止め、キャンドルに目を戻した時――タイミングを合わせて俺達は、この歌の最後のフレーズを歌い上げた。

「……ハッピバースディ トゥユー!!」
 
 長く引き延ばした歌の最後が途切れる直前に、初音ちゃんは大きく息を吸って――

「ふぅ〜〜〜っ!」

 ポッ、ポッ、と音を立てて、次々とキャンドルは消えて行く。1つ、2つ、3つ……

「あと少し! 初音がんばって!」
「あと三本だ! そう、そう……あと1本!!」
「初音ちゃん!」
「初音……!」

 フッ……
 微かな音と共に最後の一つのキャンドルが消え、部屋が闇に包まれた。
 その途端、文字通り経過を息を飲んで見守っていた俺達の間から大きな拍手がわき起こった。
 そして惜しみない賛辞も。

「おめでとう、初音ちゃん!」
「おめでとさん、初音!」
「おめでとう、初音」
「もう17歳ね……本当におめでとう。初音」

 部屋の電気は消えたまま。
 互いの顔は見えないけれど、それでも伝わる思いがある。
 家族がみんなで心をそろえてその人を祝う、一年でただ一度の日。
 おめでとう、おめでとう。あなたが生まれて本当に良かった。
 ――こんなにいい日は、そうないのだ。

「よーし。じゃあ電気つけるよ」

 梓が脇で立ち上がる気配がした。さっきと同じ音がして蛍光灯の光が部屋に満ちる。
 闇に慣れ初めていた目を数回のまばたきで回復すると、俺達の視線は自然に初音ちゃんに集まった。
 初音ちゃんはその先で、ちょっと紅く染まった頬で天使のほほえみを浮かべていた。

「ありがとうお姉ちゃん達、それと耕一お兄ちゃん。私……ほんとに嬉しいよ!」

 何の屈託もなく、「嬉しい」という感情を素直に出すことができるのはこの子だけの特権だろう。その笑顔を見るだけで、俺達までが幸せになってしまう。
 その笑顔がなにより貴重なものに思えるのは、今日の昼の出来事のせいかもしれない。

 待ち合わせした駅前で、初音ちゃんは俺の胸にしがみついて泣いた。
 クラスメイトに、俺を「お兄ちゃん」と呼ぶのが子供っぽいと言われて「大人になること」に悩んでいたのだ。
 喫茶店で、そのことをぽつりぽつりとうち明ける初音ちゃんに俺は答えた。大人になる方法はひとつだけじゃないし、子供っぽいことをやめたからといって大人になるわけでもない。人を愛して人を許せる初音ちゃんは、いまでも立派に大人だし、あわてなくてもその時が来たらちゃんと大人になれる――そう答えた俺の言葉に偽りはない。
 でもその片方で、わずかな寂しさが胸を痛ませる。初音ちゃんにはいつまでも今のままでいて欲しいと思ってしまう。
 この天使のように純粋な笑顔が大人になることで失われていくのだとしたら、大人になどなって欲しくない。そう思うのは俺のエゴなのだろうか。

「んじゃあ、改めて乾杯といきますか」

 俺の物思いも知らず、梓がグラスを片手に脳天気な声で言った。
 こいつは子供の頃から全然変化のない奴だ。――体つきはだいぶ変わったが。
 
「そうだな、じゃあ初音ちゃんコップ持って。ジュースがいい?それとも烏龍茶?」
「あ、えっと……じゃあ烏龍茶がいいな」
「あたしはビールね、耕一」

 舌なめずりせんばかりの笑顔でコップをつきだしてくる梓。

「お前はまだ未成年だろうが。はい、はちみつレモン」
「はちみつレモンで酔えるかよ!」
「酔うのがダメだと言ってるんだ!まったく」
「耕一さん、ビールお注ぎします」
「千鶴姉さん、袖にソースが付きそう」

 全員にそれぞれの飲み物が行き渡ったところで、全員居住まいをただす。
 粘り強い交渉により結局ビールを手に入れた梓が、二重の喜びを面に出してわざとらしい咳払いをした。

「えー、コホン。 では改めてお祝いしましょう……耕一、乾杯やって」
「俺?」

 いつもながら突然言ってくる奴だ。ま、いいけど。他ならぬ初音ちゃんのためだしな。
 全員の視線を集めて、俺はグラスを掲げた。

「よし、じゃあみんなグラス持って。……初音ちゃん」

 真面目な顔をして目の前に座る初音ちゃんを見つめると、初音ちゃんはぱちくりと瞬きした。
 全員の視線が初音ちゃんに移ったところで、おれは微笑んで言った。

「17回目のお誕生日おめでとう――乾杯っ!!」
「「「「かんぱーい!」」」」

 テーブルの上を交差する五人の腕。ぶつかりあうグラスの澄んだ音が、夕食の始まりを告げた。
 俺達の誕生会は、いつもこんな感じで始まる。
 
 

「それにしてもすごいな今日は」

 俺はとりあえずビールを飲みながら、目の前に並んだ手の込んだ料理の数々を見て思わず声を上げた。
 鯛の刺身に剥きエビのあんかけ、鶏唐揚げのマリネにちらし寿司。ごまと大根の酢の物にお吸い物、肉じゃがまである。他にもいろいろあるけれど、どれもこれもいつになく豪華で、ひとつひとつに気合いが入っている。
 一匹丸のまま捌いた鯛の刺身は下に松葉を敷く心憎い演出。マリネには刻みショウガと刻みニンニクが山ほど入れられている。ちらし寿司は蟹身が混ぜてあり、ちぎって散らした山椒の緑が美しい。吸い物には湯通しした鯛皮が沈み、薄く削った柚子が薫るこだわりぶり。
 梓の料理はいつも旨いけど、今日のは店で出せるほどの出来映えだ。

「こんだけ作るの時間かかっただろう。お前いい奴だよ…」
「へへっ。まぁどっかの欠食大学生も帰ってくることだし、たまにはいいモン食わせてやろうかなってね」

 照れたように鼻の下をこすりながら言う梓が、一瞬だけ菩薩に見える。いつもは修羅だけど。

「耕一さん、何か取りましょうか?」
「あ、サンキュ楓ちゃん。じゃあ、美味しそうなのを適当にお願い」
「最近、食事はどうされてるんですか?耕一さん」

 楓ちゃんから料理の載った取り皿を受け取っていると、千鶴さんが恒例の質問をしてきた。帰ってくる度に訊かれるというのはなんだろうなぁ、よほど俺の食習慣は不安視されているらしい。
 確かに、自分でも健全な食習慣を持っているとは冗談でも言えないけれど。

「うーん、相変わらず定食屋とかバイト先のコンビニ弁当とかが多いかな。あ、でも最近はインスタントは食べなくなったよ」
「コンビニ弁当だって毒みたいなもんだ。店屋物も塩分や油が多すぎる。自炊しなよ耕一。そんなんばっか食べてたらそのうち体壊すよ?」
「んなこと言われてもなぁ。あっそうそう、こないだ久しぶりに米を炊こうと思って炊飯器を開けたらさ……」
「言うな! それから先は言うな!」

 なにやら察しが付いたらしく、耳を塞いで梓がわめいた。

「くっくっく、臆病者め」
「耕一……あんたどんな生活してるんだ?」
「一人暮らしの男子大学生の生活なんて、どれも似たようなもんだろ」

 これは偏見かもしれないけれど自信はある。いや、むしろ俺はまだましな方だ。ゴミはきちんと捨ててるし、台所に食器は溜まってないからな。――ゴミを捨てないと足の踏み場が無くなるからとか、コップ以外の食器を使うことが滅多にないからということはさておき。
 そんな事を考えて俺が変な優越感に浸っていると、初音ちゃんがにっこりと言った。

「私、一度耕一お兄ちゃんのお部屋に行ってみたいなあ。春休みになったら遊びにいってもいい? お兄ちゃん」
「初音〜、今の話聞いてよくそんな事思うなぁ。絶対なんか未知の生物がいるぞ」
「梓、お前なぁ」
「私も、受験終わったら行ってもいいですか?」
「楓も行くのか? ――しょうがないねぇ、あたしも行ってやるよ。片づけに、さ」
 
 楓ちゃんに続いて梓までそんなことを言い出した。行ってやる、なんて偉そうなこと言ってる割には顔が笑ってるぞ梓。
 しかし本当にみんな来るのかな……と思っていると、千鶴さんが言った。

「あなたたち、勝手にそんなことを言って耕一さんにご迷惑かけたらだめよ。耕一さんには耕一さんの、あちらでの生活があるんですから」

 顔は微笑んでるけど、ぴしりと筋の通ったその言葉遣いは、千鶴さんがこの家の長女として親代わりをつとめてきた年月の長さを思わせるものがあった。
 はぁいt……と、しゅんとしてしまったみんな越しに、俺と千鶴さんの目が合う。
 千鶴さんの心の中はわかっていた。
 だから俺は目で頷き返すと、千鶴さんの言葉を受けるように言った。

「いやあ、迷惑なんてことはないよ千鶴さん。ただ、女の子を上げるにはちょっと自信の無い部屋だからさ、それでも良かったら、大歓迎だよ」
「本当!? お兄ちゃん」
「耕一さん……」
「よかったわね、みんな」

 千鶴さんがお吸い物の椀を手ににっこりと笑った。そして俺に「すみません、ありがとうございます」というふうに目で礼をした。
 みんなを思いとどまらせるようなことを言ったけれど、優しい千鶴さんはその願いを叶えてあげたいと思っていたのだ。ただみんなが、なにかを決めるときに相手のことを思いやることを学ぶように、あえて厳しいことを言ったのだ。
 
「あれ、千鶴姉は行かないの?」
「まさか」

 梓の言葉に千鶴さんは目を動かして、俺の方を向いて嫣然と微笑んだ。

「春休み、みんなで押し掛けますけどよろしくお願いしますね。耕一さん」
「は、はは……」

 不吉な予感に汗が流れた。
 こりゃあ、帰ったらすぐ掃除始めないといかんなぁ……。
 
 
 

 そんなこんなで食事は進み、あれほどあった料理はいつのまにやら綺麗に消え去っていた。
 テーブルの上を片づけて、お茶やお菓子を出し始める頃にはもう夜10時。でも明日は日曜日だし初音ちゃんも今日で試験は終わったから少々の夜更かしはOKだ。

 今、みんなで食事をした居間にいるのは俺一人だ。食器を台所に持っていき、お菓子やケーキを持って来たあとみんなどこかに行ってしまった。湯飲みは全員分あるからまだ寝るつもりではないようだけど、なんだか部屋がしん、としてしまった。
 話相手がいなくなった俺は、お茶をすすりながら後ろ手をついてふと外に目をやった。ガラス戸の向こうに夜の庭が見える。
 柏木家で夜を迎えるといつも感じるのは、夜の静かさだ。
 敷地の広さと、山に近いという立地のためにか、外からの物音は風の音くらいしか聞こえない。夏は虫の声でうるさいくらいだけれど、人工の音は車の音すら聞こえない。雑音に満ちた都会での生活に慣れた俺にとって、この静かな夜というのは、隆山の家に帰ってきたことをなにより強く実感させるものだ。
 月のない空。濃い闇のわだかまる庭に長く伸びる、窓からの光……ここの夜は静かなだけでなく、とても深い。俺達以外の人間がこの世に存在していることを忘れてしまいそうなほど、自然のままの夜がこの家を包んでいる。
 都会育ちの俺が、それを懐かしいと思ってしまうのは、ずっと子供の頃この家に一度だけ遊びに来たあの夏の日々のことが思い出されるからだろうか。それとも……

「何を見てらっしゃるんですか」

 声に振り向くと、千鶴さんがおかきの入った菓子盆を片手に部屋に入ってくるところだった。

「外をね、ぼうっと見てた。……いつも思うけど、静かだよね。ここ」
「そうですね。私たちはこれが普通なんですけど、耕一さんは都会から来られてるから特にそう感じられるでしょうね」
「うん、来たらわかると思うけど俺の部屋なんて、みんなにはうるさくて寝れたもんじゃないと思うよ」

 みんなが遊びに来ることになった春のことを想像する。梓が文句言いそうだな、と考えておもわず苦笑した。

「――ところで、みんなは?」
「お手洗いとか、耕一さんのお布団の準備とか……あと、梓と楓は部屋にプレゼントを取りに行ってます」
「あ、そっか。プレゼントがまだだったね。千鶴さんはもう持ってきたの?」
「はい、一応……腕時計を。安物ですけど」
 
 千鶴さんはテーブルの下に隠してあった小さな箱をカタカタと振った。

「腕時計か、いいね。――そうか、そういうテもあったか。うーん…」
「耕一さんはなにを買われたんですか?」
「いや、実はさ……」

 俺は頭をぼりぼりと掻いて言った。

「なにか買って上げようと思って街に行ったんだけど、なんかいまいち「これ」と思えるのが無くて。女の子の流行とかわかんないしね」
「あの子は、流行とか気にしてないと思いますけど」
「うん、それも思った。だからさ、俺からのプレゼントはそういう形のあるものじゃなくて、なんていうか「お願い事を聞いて上げる」みたいなやつにしようかな、と思ってさ。子供の頃、肩たたき券を作って母さんにあげたの思い出してね、一回だけなんでも言うことを聞く券、みたいなのもいいかなと思って……でも、やっぱりプレゼントはプレゼントでなにか用意したほうが良かったかなぁ」

 すると千鶴さんは小さく頭を振った。

「いえ、きっと初音は喜ぶと思います。――5月の私の誕生日の時も、同じプレゼントおねだりしようかしら?」
「そりゃいいけど……なんか怖いなぁ。千鶴さん、俺になにを頼むつもりなの」
「ふふふ、秘密です」

 そんな事を話していると、梓たちの足音が聞こえてきた。廊下を歩きながら梓と楓ちゃんが何かしゃべっている声が、この部屋を包み込んでいた静かな夜気をやわらかく震わせ、あたたかく溶かして行く。

「あー、なんかまた寒くなってきた」

 ぶつぶつとつぶやきながら、リボンのかかったなにやら大きな袋包みを片手に梓が部屋に入ってきた。その後ろから、これまたプレゼントらしい箱を手に楓ちゃんが入ってくる。
 みんなはなにを用意したんだろう。そう思って二人の手元をのぞき込んでいると、梓が俺を見て言った。
 
「……あれ、耕一お茶なんか飲んでんの? お酒、燗つけようか?」
「いいねぇ。ケーキに熱燗っていうのも胸焼けしそうな組み合わせだけど」
「梓、初音は?」

 千鶴さんが部屋の入り口に立った二人の背後を伺うように首を伸ばしていると、梓のかわりに楓ちゃんが答えた。

「まだ、部屋にいると思う。電気ついてたから」
「今夜の主役はおめかし中……かな」
「夜の10時におめかしもなんも無いと思うけどね。日本酒、お銚子二本でいい? 耕一」
「どうせお前のが入るんだろ、三本つけとけ」
「へへっ、ラッキ! 5分でできるから」

 足取りも軽く台所に消える梓。そのあまりに嬉しそうな後ろ姿に俺は苦笑する。まったく、こいつの酒好きにも呆れたもんだ。
 一体誰に似たのやら、と思いながらお茶の残りを飲み干していると、隣に座った楓ちゃんと目があった。おれが目で微笑むと、楓ちゃんもちょっと照れたように微笑んだ。首が傾いて髪が流れ、白いうなじが露わになる。
 楓ちゃんって昔から大人びた所のある子だったけど、最近特に大人っぽくなりつつあると思う。今の仕草にしてもそうだ。
 でも、それも仕方が無いのかもしれない。なぜなら……

「あさってはもう、卒業式だね」
「はい」

 そうなのだ。俺が今回帰ってきたのは初音ちゃんの誕生日の為だけじゃない。三月一日の楓ちゃんの卒業式に父兄として参列するためでもある。

「どう? 卒業を控えた気分は。今日は学校でリハーサルだったんだよね」
「はい。私たちが講堂で練習をしている横で、校舎のほうでは下級生たちの期末試験があってて、ちょっと不思議な気分でした。……でも」
「でも?」
「まだ受験が残ってますから……卒業といわれてもまだなんとなく」
「そりゃそうか。浮かれてはいられないよね」

 そんなことを話していると、初音ちゃんがようやくやってきた。
 暗い廊下から現れたその姿に、俺は思わず目を吸い寄せられた。

「あれ?、初音ちゃんその格好……」
「えへへ、お兄ちゃんに見せたくって。先週買ったんだよ、このパジャマ」

 初音ちゃんはそう言って、ファッションモデルのように……というには余りにも子供っぽい仕草でくるりと一回転した。
 初音ちゃんご自慢のおNEWパジャマは、「ひよこ色」とでもいうのだろうか淡い黄色の無地で、袖と裾に折り返しのような白いラインが入っている。
 俺の記憶によれば、初音ちゃんの前のパジャマはクマのプリント柄だった。サイズが大きめで、袖口からは指先がのぞくくらいなのは同じだけど。

「なんか大人っぽくなったね。似合ってるよ」
「そう? ありがとうお兄ちゃん」

 にこにこと笑ってテーブルに着く初音ちゃん。うーん、かわいい。
 俺をお兄ちゃんと呼んで、新しいパジャマを自慢してくれる子がほかにどこにいるだろうか。
 ――やっぱり初音ちゃんには、いつまでもこのままでいて欲しい。
 ついついそう思ってしまうのは、やはり俺のわがままなのだろうか。

「おーっし、耕一。熱燗できたぞー……ってあれ?初音、もう着替えちゃったの?」

 脳天気な声を出して最後に部屋に入ってきたのは、お銚子と盃を載せたお盆を持った梓だった。
 ……こいつに悩みなんてあるんだろうか。
 お前はもうすこし成長しろ、と胸の中で突っ込む俺だった。
 

「はい、初音。大事につかってね」 

 梓がケーキを切り分けみんなに配っている横で、千鶴さんが最初にプレゼントを手渡した。
 初音ちゃんがお礼を言っている横から、今度は楓ちゃんが可愛らしい箱を差し出す。

「これ、前に初音が欲しがってた」
「ありがとう、楓お姉ちゃん。でも何だろう、……開けてもいい?」

 こくりとうなずく楓ちゃん。
 嬉しそうな顔でリボンをしゅるしゅると解く初音ちゃん。楓ちゃんのプレゼントがなにか俺も気になる。
 初音ちゃんが欲しがってたのってどんなのだろう?

「あっ、もしかしてこれ……!」

 箱を開けた途端、初音ちゃんが表情を輝かせた。
 集まる視線のもと、中から出てきたのは――

「……印籠?!」

 大ぶりのジッポライターのようなフォルム。艶のある漆塗り地に金箔彫り込みの葵紋。紫色の編紐がいまは飾り結びになっている。
 それはどうみても時代劇でおなじみの、あの天下の副将軍の身分証明書だ。

「うわあ、すごい! 楓お姉ちゃん、どうしたのこれ」
「入手経路は秘密。でも非合法じゃないわ、安心して」

 誕生日の会話とも思えない。
 しかしなんで初音ちゃんに印籠? というより、なぜこの場に印籠?

「初音ちゃん、そういうの好きなんだ」
「うん、これ欲しかったんだぁ……。楓お姉ちゃんよく覚えてたね」
「本当は、弥七の風車を手に入れたかったんだけど、駄目だった。ごめんね、初音」
「ううん、ありがとう楓お姉ちゃん! 大切にするね」

 本当に嬉しそうに言う初音ちゃん。
 うーん、初音ちゃんが時代劇好きというのは聞いてはいたけど……まさか印籠を欲しがるほどとは。
 お兄ちゃんは君のことがちょっとだけわからなくなってしまったよ……。
 
「そして、これがあたしから――はい、初音」

 大切そうに印籠を箱にしまう初音ちゃんの前に、今度は梓が大きな袋で包まれたプレゼントを差し出した。
 こっちは中身は見えないけど、でも大体形や重さで予想は付く。
 
「あっ、テディベア!」

 リボンを解いて取り出した焦げ茶色のスタンダードなテディベアを、初音ちゃんはぎゅっと抱きしめた。

「可愛い……ありがとう梓お姉ちゃん。でも、高かったでしょ、こんないいの……」
「ま、バイトしてるからね。そのくらいなんてことないよ」

 へへへと笑う梓が、妙にかっこよく見えたりする。 
 しかし、やはりぬいぐるみだったか。でもまさかこんなまともなやつとは思わなかった。
 プレゼントとしては定番なのかもしれないけれど、さっきの印籠ショックがあったせいか意外な感じがする。
 そしてそれ以上に、これを贈ったのが梓だということがもっと意外だ。

「なんか言った? 耕一」
「いやなにも」

 俺は白っとぼけて梓の視線を無視し、初音ちゃんの前に並ぶ三つのプレゼントを改めて見渡す。
 腕時計、テディベア、印籠。
 ダウト! と叫びたくなる不一致感があるけれど、初音ちゃんへの思いが詰まっているという一点でその三つは完璧に一致している。
 初音ちゃんの三人の姉たちからのプレゼントは終わった。最後は「お兄ちゃん」からだ。

「んで、耕一は何プレゼントすんの?」
「ああ、俺は――」

 梓に促され、そこまで言った時に。
 俺の中でちょっとした思いつきがひらめいた。
 今日の昼の出来事を、プレゼントに含められないだろうか。
 大人になることで、今持っているなにかを無くしてしまうのではないかと怯えていた今日の初音ちゃん。
 ゆっくり大人になればいい、と答えておきながら、初音ちゃんにはいつまでもこのままでいて欲しいと思っている俺。
 そんな初音ちゃんの思いと俺の密かな願いを、俺からのプレゼントにできないだろうか。
 そう考えたとき、ほとんど考えることもなく俺の口からするりと言葉が出た。

「大人になる前に……」
「え?」

 俺の言葉に初音ちゃんが小首を傾げたのを見て、俺は会話がつながっていないことに気が付いて、すこし頭を整理してから言い直した。

「俺からのプレゼントはね、初音ちゃんのお願い事をなんでも一つ聞いて上げようと思ってたんだ。――でも、それはちょっと変えることにした」

 千鶴さんが少し驚いた顔をしている。
 先に俺からのプレゼントの内容を聞いていたから、俺の考えの変化にびっくりしているんだろう。
 俺はかまわず続けた。

「今日で、初音ちゃんは17歳になったね。また一つ、大人になったわけだ。誕生日っていうのは、本当はその事をお祝いするものなんだろうけど……俺はあえて逆のことをするよ」

 大人の階段を、おっかなびっくり上って行く小さな女の子へ。
 それを複雑な気持ちで見守るお兄ちゃんからの――ささやかなプレゼント。

「――大人になる前に、しておきたいことが何かあるかな。小さかった頃はなんでもなかった事が、大きくなるにつれてだんだんとするのがためらわれてくる事ってあると思うんだ。俺もあったしね、そういうの。母さんと手をつなぐこととか、頭をなでてもらうことことか……いまはもうあまりしてもらわなくなったけど、これからもっとしなくなるだろうけど、本当はまだ心残り……そういうのがなにかあるなら、俺に聞かせてくれないかな。俺にできる事ならそれをしてあげたいと思う。俺が初音ちゃんに――「お兄ちゃん」と呼ばれてるうちに」

 最後の言葉に、初音ちゃんがはっと目を見開いた。
 『「お兄ちゃん」と呼ばれているうちに』――この言葉の意味は、俺と初音ちゃんにしかわからないだろう。
 今日の昼、喫茶店で初音ちゃんと話したことを思い出す。
 
    「……もうちょっと、今のままでいいよね?」
    「もうちょっとだけ、耕一お兄ちゃんのこと『お兄ちゃん』って呼んでいてもいいよね?」

 ああ、そうか。俺はたぶん無意識のうちにこの言葉を思い出していたんだ。俺はふとそう思った。
 もうちょっと、今のままで。
 もうちょっと、子供のままで。
 ――俺をお兄ちゃんと呼んで。
 だから俺はこう答えたんだ。

    「もちろん。初音ちゃんが嫌になるまでそう呼んでいいよ。でも――」
    「初音ちゃんは成長してる。もしかするとこの先、初音ちゃんにお兄ちゃんと呼ばれなくなる時が来るかも知れない」
    「でもね、それでも、俺は初音ちゃんのそばにいるよ。初音ちゃんの『お兄ちゃん』でなくなっても、ずっと一緒にいるよ」
 
 いつか、必ずやってくる「その日」。
 俺が「お兄ちゃん」と呼ばれなくなる……初音ちゃんが大人になってしまうその前に、その願いを聞いてあげることで刻みつけておきたいと思う。
 俺が初音ちゃんの「お兄ちゃん」だったという、かけがえのない思い出を。 
 ――きっと、これも俺のわがままなのかもしれないけれど。

「……」

 俺が物思いにふけっている間、座は何となくしんとしてしまった。
 千鶴さん達も、俺の言ったことの本当の意味まではわからないまでも、それが冗談やいい加減な気持ちで言ったことでは無いことは伝わったらしい。俺と初音ちゃんの顔の間を、きょときょとと視線を往復させている。
 梓までもがなんだかおとなしい顔をして、酒にも手をつけてない。
 しまった、なんだか堅っ苦しい雰囲気にしてしまったかと苦笑して、俺はわざと砕けた声を出しながら酒を口に運んだ。

「ま、よーするに今しかできないことをしようってことなんだけどね。今より若い時はないんだからさ」
「う、うん……」

 初音ちゃんはうなずいて、物思う風に目を伏せた。
 初音ちゃんは何を願うのだろう。気になるけれど、俺はそのことをあまり考えないことにした。
 何を願われても、それをかなえて上げよう。初音ちゃんのために――そして、自分のために。
 大丈夫、できないことはないさ――気楽にそう考える事にして、酒をまた一杯あおったその時。
 初音ちゃんが、言った。

「じゃ、じゃあ……今夜一緒に寝よう。お兄ちゃん」
ぶはっ!
「――初音っ!?」

 俺がドリフのコントのように酒を吹き出すのと、千鶴さんが絶叫するのがほぼ同時だった。

「は、はははは初音?、あんたいきなり何を……」
「そういうのは大人になってからするものよ、初音」

 驚きのあまり表情を真空にしてしまった梓がわなわなと口を震わせる横で、楓ちゃんが頬を染めつつとんでもない事を言っている。
 千鶴さんは頭を冷やそうとしているのか深呼吸をしているし、初音ちゃんは全員の反応が予想外だったようでおろおろしている。
 気管に直接流れ込んでしまった酒に悶絶する俺に、誰もかまってくれなかった。

「み、みんなどうしたの?私、なにか変なこと言った?」
「初音……あなたね……」

 千鶴さんが貧血でも起こしたような表情で、初音ちゃんと向かい合った。

「いくら子供っぽいっていっても、あなたももう17歳なんだから……耕一さんだって健康な男性なんだから、朝はあんなに元気になるぐらい……と、ともかく! そういうことにならないとは言い切れないでしょ! そんな一緒にだなんて……駄目ですっ!!」
「初音、もっと自分を大事にしろよ、な!」
「『男は狼なのよ、気をつけなさい』と昔の人も言ってるわ、初音」
「えっ? えっ? えっ?」
 
 姉たちの引きつった顔に気圧されてきょときょととしていた初音ちゃんだったが、自分の発言がみんなにどんな意味に受け取られたのかを理解した途端、かあぁ〜っ、と顔中を真っ赤に染めた。

「ち、違うよお姉ちゃんたち! そんな、そんな意味じゃないよう……」
「じゃあどういう意味なんだよ! 一緒に寝るって、そうとしか考えようがないじゃんか!」
「遅れてると思ってたけど…どこでそんなこと覚えてくるのかしら。やっぱり友達かしらねぇ」
「初音、めしべとおしべがね――」

 静かだった部屋が、今はぎゃあぎゃあと騒がしい。
 酒に溺れて死にかけていた俺は、荒い呼吸をしながら身を起こした。せき込んでいるうちに衝撃も薄れ、初音ちゃんの言葉の意味もなんとなく分かっていた。

「ちょっと落ち着いて、みんな。べつに初音ちゃんは俺と同じ布団で寝るとは言ってないさ。ねぇ初音ちゃん」
「う、うん……うん! ただ、耕一お兄ちゃんと同じお部屋で眠りたいなぁって思っただけだよう……」

 耳から首筋まで真っ赤に染めた初音ちゃんが、顔を伏せたままこくこくとうなずきながらそう言うと、千鶴さんたちの間からおおきなため息が出た。

「なんじゃそりゃ〜」
「そういうことならそう言ってよね、初音……」
「ご、ごめんなさい!」
「本当にそれが本音なの?初音」

 最後の楓ちゃんの鋭すぎるつぶやきは、幸いなことに初音ちゃんの耳には届かなかったようだ。
 ……なにげにこの子も爆弾投げるよなぁ……

「まぁ、それはともかく……どうしてそれをしたいと思ったの、初音ちゃん」
  
 多少強引にでも話題を引っ張らないと収集がつかない。
 俺は未だ顔から赤みが抜けない初音ちゃんに、できるだけ冷静にそうたずねた。
 
「あ、あのね。お兄ちゃんの言葉聞いてたら、ずっと昔、お兄ちゃんが初めて来たあの夏休みのことを思い出したの。蚊帳を張った部屋の中で、耕一お兄ちゃんや梓お姉ちゃんや楓お姉ちゃんとみんなで寝て……ちょうどいま夜だし、さっき耕一お兄ちゃんのお布団準備してきたし。それでなんとなく……」

 初音ちゃんはそう言って、ますます顔を深く伏せてしまった。
 うなずきながら、俺も初音ちゃんが思いだしたというのと同じ記憶を呼び起こす。
 もう10年も前になるのだろうか。ただ一度きり、この家に来たあの時のことを。懐かしさにめまいさえ覚える。
 そう、俺はあのときから、初音ちゃんの「お兄ちゃん」になったのだ。

「……わかった。ありがとう初音ちゃん、聞かせてくれて」

 手を伸ばして初音ちゃんの頭をぽんぽんとなでると、俺は千鶴さんの方に向き直った。

「――とまあそういう訳なんだけど、どうかな千鶴さん。今度の春に、みんなで俺の部屋に泊まりに来ることだしさ」
「耕一さん」

 千鶴さんは、うつむいた初音ちゃんの方をちらりと見てから俺の方を向き、ふうとため息をついた。
 そして軽く微笑む。しかたないわねと言わんばかりに。

「二人きりは許しません。初音が耕一さんと一緒に寝るなら、私も行きます」
「千鶴お姉ちゃん――!」

 すると、梓と楓ちゃんが抗議の声を上げた。

「あっ、ずるい千鶴姉! あたしもあたしも!」
「耕一さん、わたしもいいですか?」
「ちょっとあなたたち! そんな勝手に――」

 夕食の時の会話がまた復活しはじめている。
 相変わらずだなぁみんな。俺は思わず声を出して笑ってしまった。
 そして、笑いながら大きな声で言った。

「いいよ、いいよ!――今夜は、みんなで一緒に寝よう!」

 

 
 そして夜が来た。
 俺があてがわれている客間は10畳もあるかなり広い一室だけれども、5つの布団を敷くとさすがに足の踏み場がなくなってくる。

「なんだかキャンプみたいだね」
「なんか本当、なつかしいなぁ。みんなで寝るのって」

 パジャマ姿の梓と初音ちゃんが、布団の上に座ってそう話し合っている。
 かく言う俺も、千鶴さん達が用意してくれていたという男物の寝間着を着込んでいる。あっちの家じゃ寝間着なんて気取ったもの着ることなどないから、結構新鮮な気分だ。

「私、梓姉さんの隣はイヤ……」
「どうして? いびきでもうるさい?」
「こらっ耕一! いびきなんてあたしがかくか! 楓、あたしの隣の何がイヤなんだよー」
「だって姉さん朝が早いもの。私まで目が覚めちゃうから……」
「なるほど、年寄りは朝が早いもんな」

 そううなずく俺の顔に、バフンと枕がぶつかった。
 思わず尻餅をついて見上げると、梓がざまぁみろと言わんばかりに笑っていた。

「このやろっ梓!」

 気合い一閃、手近にあった枕を掴んで梓に投げつける。しかし梓は余裕でそれをキャッチした。

「へへん、枕投げであたしにかなうと思うなよ。小中高三回の修学旅行と部活の合宿の度に常勝無敗の名をほしいままにしたこの柏木梓さまをなっ!」
「くっ……やるな! しかし俺も男のメンツにかけても――お前を倒す!」
「いい度胸だ。来な!」
「行くぞっ!」
 
 一触即発、まさにいま世紀の大決戦の火蓋が切って降ろされようとしたその時。
 いつの間にか部屋に入ってきた千鶴さんがぱんぱんと手を叩いて、呆れたように言った。

「はいはい、耕一さんも梓もそこまで。もう寝ますよ」
「せっかく良いところだったのに……」

 ぶつぶつ言いながら自分の布団に入る梓。ほんとうに残念そうなのが梓らしくて笑えてしまった。
 正方形の部屋の中、布団は互いに頭を寄せ合うように二組と三組の二列に分けて並んでいる。
 床の間側の二組には俺と初音ちゃん。廊下側の三組には、楓ちゃん、千鶴さん、梓の順に並ぶ。

「明日の朝は、みんなでおはようが言えるね」
 
 布団に潜り込んでいると、隣ですでに布団の中に入ってる初音ちゃんがにっこりと笑ってそう言った。
 俺が、そうだね、と応えていると、一人立ち上がった千鶴さんが電灯の紐を握ってくすりと笑った。

「気の早い子ね。おはようより前に、いまからみんなでおやすみを言うのよ、初音」
「あ、そうだよね。うふふ」
「――じゃあみんな、電気消すわよ」
「はーい」

 パチパチパチン、と音がして、部屋が真っ暗になった。
 ごそごそと千鶴さんが布団に入る気配がして、やがて静かになる。

「おやすみ、みんな」
「おやすみなさい、耕一さん」
「おやすみー」
「おやすみなさい」

 暗闇の中で交わされるそれぞれの就寝のあいさつ。みんなの寝息、もぞもぞと身じろぎする音……
 一人で寝ることに慣れている俺はそれにわずかにとまどい、同時に、忘れかけていたなにかを思い出すようなあたたかさを感じていた。
 思っていたよりすんなりとみんな寝に入り、俺も寝ようかと思った時、俺の布団の端がぴくぴくと引かれた。
 この方角は初音ちゃんのほうだな。なんだろう?
 そう思って、引かれている方に布団の中で手を伸ばすと――初音ちゃんに指をつかまれた。
 
「初音ちゃん?」

 ひそひそ声でそう言うと、初音ちゃんは掴んだ指にぎゅっと力を入れた。
 ――そっか、初音ちゃんはこれがしたかったのか。
 俺は闇の中で微笑んだ。
 大人になる前に、もう一度お兄ちゃんと手をつないで眠りたかったのか。 

「お兄ちゃん」
「ん?」
「ありがとう。……おやすみなさい」

 初音ちゃんの小さな声が、夜の闇にわずかに響いてすぐに消えた。
 俺は初音ちゃんの小さな手を軽く握りしめてそれに応えた。

 おやすみ、初音ちゃん。良い夢を。
 俺は心から思う。
 君が大人になる前に、あと何回おやすみを言ってあげられるのか分からないけれど……

 これだけは確かだ。
 17回目の君の誕生日の日、みんなに秘密で手をつないで眠った今夜のことは――きっと、一生忘れない。
 
 
 

 2001/03/05
Akira Inui

 

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