初音ちゃんお誕生日記念

 

初音の


 
 

 2月27日、土曜日。
 三学期期末テスト最終日の終礼が終わると、悲鳴にも似た歓声が沸き上がった。
 まるで生徒の心理にあわせたように数日降り続いた雪も止み、どんよりとした雪雲は空の端に追いやられている。久方ぶりの陽光は試験から解放された生徒達を誘うように輝き、木陰や建物の影に残っている雪をゆっくりと雫に変えていた。
 テストが終わった今日は部活動も休みで、生徒達の自由を遮るものはなにもない。
 号令と同時にドアから飛び出して行く者。携帯電話で連絡を取り合う者。椅子を寄せておしゃべりに花を咲かす者。テストの答え合わせをして頭を抱えている者……
 そんな喧噪の中、柏木初音は自分の席に座って少ない荷物を鞄に詰めていた。

「じゃーね、初音」
「バイバイ!」
「うん。さようならっ」

 連れ立って教室を後にするクラスメイトに、初音は笑顔で手を振る。
 どうやら彼女たちは街に遊びに行くようだ。他愛も無い話題で笑いさざめく声が廊下を遠ざかり、角を曲がり、やがて聞こえなくなって行く。居残っておしゃべりをしている数人を別にすれば、すでに教室に人気はない。期末試験という苦行の後には皆、楽しい予定を組んでいるのだろう。
 そしてそれは初音も例外ではない。いや、むしろ初音にとって今日は、ただ単にテストが終わったと言うだけではない特別な日なのである。それは……

「あ〜〜いたいたっ。初音ーっ!!」
「芹菜ちゃん?」

 振り向くと、初音の親友の蒲池芹菜が廊下側の窓から手を振っている。芹菜のいる隣のクラスは今終礼が終わったところなのだろう。初音が微笑んで手を振り返すと、芹菜は自分の鞄を手に教室の中に入ってきた。

「よかったぁ、もう帰っちゃったかと思ったよー」
「テストどうだった? 芹菜ちゃん」
「あ〜〜、今日はその話題は却下。終わったことを後からいろいろ言うのは良くないよね。うん」

 脳裏に浮かぶ忌まわしい思い出を振り払うように頭をふる芹菜の姿に、初音はくすくすと笑う。
 近くの席から椅子を引き寄せ、芹菜は初音に向かい合うように座った。

「それよりも……初音、お誕生日おめでとう! はい、プレゼント」

 そう、今日は初音の17回目の誕生日なのだ。
 言いながら、芹菜は膝の上に載せた鞄の中から小さな包みを取り出した。緑地にテディベアの模様の入ったファンシーな包装紙に紅いリボンが掛かっている。片手の平に乗るほどの大きさで、重さは小鳥くらいしかない。 

「軽いけど、今回はちょっと凝ってるからね」
「ありがとう芹菜ちゃん。わたし大事にするね!」

 プレゼントを両手で包むように持ちにっこりと笑う初音を見て、芹菜はそれだけでプレゼントを買ってきた甲斐があったと感じるのだった。

「これ……いま開けてもいい?」
「あ、中に手紙入ってるから後で開けて。目の前で読まれると、ちょい、恥ずかしいかな。なんて」
「うん、わかった。じゃあ家に帰ってからのお楽しみにしとくね」

 そう言って初音がプレゼントを鞄に入れていると、二人の話を聞いたのか、教室に残っていた数人の女生徒がやってきた。皆、いうまでもなく初音のクラスメイトである。芹菜とも知らぬ仲ではない。

「えっ? 柏木さん今日誕生日なんだ」
「おめでと〜〜!」
「教えてくれれば私たちもなんか用意したのに、ねぇ」
「「ねえ〜っ」」

 最後の「ねえ」だけが練習したように見事なユニゾンとなる。
 初音はすこしびっくりしたが、笑って手を振った。

「そ、そんな、言うほどのことじゃないから……。でも、気持ちだけで嬉しいよ。ありがとう、みんな」

 ぺこん、と初音は頭を下げた。
 それを聞いて一人の女子が思いあまったように初音を横から抱きしめた。

「くうう〜〜っ、あんたって子はなんて可愛いの!! この、この!」
「く、くるしいよ……」
「ほーんと、柏木さんみたいな娘、今時貴重だよね」

 頬に指をついてそう言ったのは、おおきなトンボ眼鏡におさげを結んだ少女である。自分自身も今時貴重なファッションをしているのだがそれは論外らしい。
 芹菜と顔を見合わせて苦笑する初音の横で、一人が手を打って言った。

「じゃあさ、誕生日のお祝いになんかおごって上げるよ。柏木さんこれから何か予定入ってた?」
「あ、それナイスアイデア! ねえねえ、行こうよ柏木さん。蒲池さんもいっしょにさ」

 初音の髪を弄びながら楽しげにクラスメイトは誘う。
 そしてやれどこのケーキが美味しいだとか新しい店のボーイが格好いいだのと黄色い声で話し出す。その手の話に疎い初音が言葉を切り出せないでいると、芹菜が初音に確かめるように言った。

「初音、あんた確か今日は……」
「うん……そうなんだけど」

 言って、初音は腕時計をちらっと見た。11時半を過ぎたくらいだった。
 約束の時間まで一時間少し。微妙なところだった。

「え? なになになに? 柏木さん予定入ってるの?」
「うん、ちょっと……」

 言って、初音はもじもじと言葉を濁す。胸の前で握った手の爪を見つめるようにうつむいて、かすかに頬を染める。
 その様子を見て、三人娘は視線をかわし無言で意見を交換する。
 意見は一致した。女の勘とは恐ろしい物である。

「……男だね?」

 真ん中の、ボーイッシュな少女がいきなり核心をついた。
 図星をつかれた初音の顔がさらに赤くなる。これではもう何も言わなくても自分から答えを言ってるようなものだ。事情を知る芹菜は顔に手を当ててためいきをついた。
 あいかわず隠し事の出来ない子だこと。ま、それもあんたのいいとこなんだけどね、初音……
 親友として複雑な心境の芹菜であった。

「え〜〜〜〜っ! 柏木さん彼氏いるのお!!」
「えっ、あっ、彼氏とかそんなじゃなくて……」
「うわあ滅茶ショックやわあ、うちにもおらへんのにそないの」
「ねえ、どうして関西弁なの?」
「ええい、あんたはしゃべらんでいい! 問題は柏木さんの彼氏でしょ!」

 脱線しかけた話を強引に引き戻した少女が大げさに椅子に座り直す。

「柏木さん、いま『彼氏とかじゃない』って言ったけど、それはどういう意味?」
「ううっ……」
「さあさあ答えて貰いましょうか。せっかくのわたしのおごりを断ってまで行くんだからそのくらい聞かせてもらわないとねえ」

 実に楽しそうに少女は初音に詰め寄る。助けを求めるように初音は視線を芹菜に向けた。
 しょうがないなと苦笑して、芹菜がかわりに言った。

「初音の従兄弟のお兄さんなのよ。名前は……耕一さんだったっけ?」

 熱病にかかったように顔を朱に染めてうつむいた初音がこくこくと頷くと、三人の間におお〜というどよめきが走った。

「蒲池さん会ったことあるの? どんな人だった!? 格好いい?」
「どうって、優しそうな人だったよ。格好いい……まあ、悪くはないね」

 そもそもあの人を外見で判断するのは間違いだろうと芹菜は思った。自分の親友は、そんなことでつき合う相手を選ぶような人間ではないと芹菜は知っていたから。
 耕一のことを格好悪いと言っているわけではないが、校内一の美少女である初音から連想するほど目の覚めるような美男子というわけでもない。しかし、芹菜は一度しかあったことがないので耕一の内面を良く知っているとはいえないが、初音にここまで好かれるのにはそれなりの理由があるに違いないと思った。

「イトコかぁ……イトコって結婚できるのよね」
「おおっ、ナイスツッコミ」
「ねえ、柏木さん。その従兄弟のお兄さんいくつ? 大学生?」

 急に問われて初音はぱちぱちと瞬きした。

「ええっと、耕一お兄ちゃんは大学……こんど4年生になると思う」
「――ちょっとまって」

 その時、真ん中の少女が初音の言葉を遮るように片手を上げて言った。

「……お兄ちゃん? なんなの、その『お兄ちゃん』って」
「えっ、お兄ちゃんがどうかしたの?」

 初音はきょとんとした表情で問い返す。
 どうしてその言葉にクラスメイトが反応したのかわからないといった風に。
 すると少女はすこし真面目な顔で言った。

「柏木さん、あなた、コウイチさん本人の前でもそう呼んでるの? コウイチ『お兄ちゃん』って」
「う、うん……」

 真面目な顔でそう問われ、小さく頷く初音。
 長年言い親しんできたその呼び方のなにがいけなかったのだろうと初音が考えていると、目の前の級友たちは一瞬目を合わせ、そして言った。

「――子供っぽい」
「ちょっと、それは……ねえ」
「えっ?」

 初音にとっては予想外の反応であった。
 耕一を「お兄ちゃん」と呼ぶことに物言いが付くなど、考えたことすらなかった。

「へ、変かな? 『お兄ちゃん』って、呼んじゃだめなの……?」
「ダメとは言わないけど……やっぱり変だよ」
「柏木さんらしいって言えばらしいけどね」

 思いもしない事態におろおろする初音に、そう言葉をかけるクラスメイト。
 その時芹菜がフォローを入れる。

「そんなに変でもないんじゃない? 結構いるよ、お兄ちゃんって呼んでる子」
「それはそうかもしれないけど……」
「でもなんか引っかかるのよねぇ」

 肯定、否定、わやわやと意見が出る。
 すると、黙って考えていた一人が不意に言った。

「――やっぱり、ダメよ」

 はっきりした否定の言葉が場に響いて、席はしんと静まった。
 眉根を思慮に寄せた少女の顔に、自然と視線が集まる。
 そのなかで、少女はもう一度言った。

「やっぱり、それは良くないよ。――柏木さんのためにも」
「どうして?」
「だって……」

 少女は初音の大きな瞳を正面から覗き込んだ。

「柏木さん、その『耕一さん』のこと好きなんでしょ? 彼氏とかじゃないって言ったけど、でも好きなんだよね? そうよね。名前出すぐらいで、あんなに真っ赤になっちゃうくらいだもん」
「………」
「年上の、優しい従兄弟だから『お兄ちゃん』……それがおかしいとは私も思わないよ。でも、『お兄ちゃん』は恋愛の対象にならないんだよ? その『耕一さん』が柏木さんのことどう思ってるかは知らないけど、このまんまじゃいつまでも『お兄ちゃん』は『お兄ちゃん』のまんまだよ? ――柏木さん、それでいいの?」

 少女の問いかけが、あるかなしかのわずかな風にさらわれて消えると、教室には静寂が残った。
 開け放たれたドアや窓から、隣の教室にまだ残って何か騒いでいる生徒の声や道路を走る車の音などが日溜まりを縫って遠く聞こえてくる。
 問うたほうも、問われた方も、ただ無言で言葉を噛みしめ答えを探していた。

「わたし……」

 うつむいて、初音はぽつんと言った。

「わたしは……」

 ――そのとき、風が強く吹いた。
 消え入りそうな初音の語尾に重なるように吹き込んだその風は、教室の白いカーテンをまるで帆船の帆のように翻した。思わず目を細めて風の吹く方を見やった初音は、光の射し込む窓越しに晴れ渡った青空を見上げる。
 そこに、何かの答えがあるような気がして。

 春一番には早すぎるその気まぐれな風は、校庭の木々と教室のカーテンと初音の心をただいたずらに揺らして、どこかへと足早に去っていった。

「……わからない」

 長い沈黙の後、結局それだけを初音は言った。

 風が吹いて止むまでの短い時間に初音の心の中で交錯した想いは、決して言葉にはならないものだった。言葉に出来るほど、確かな物ではなかった。それはもっと曖昧で繊細で透明な、現れた瞬間に音も立てずに消えて行く儚い水泡のようなものなのだ。
 クラスメイトの問いかけは、初音にとって今まで考えたことのない、全く新しい問題提起だった。
 耕一を『お兄ちゃん』と呼ぶことが、どんな意味を持つのか。どんな結果を生むのか。そんなことを考えたことは一度もなかったし、これまで誰かに言われたことさえなかった。ただ、単純な事実として、9年前の七夕以来、耕一は初音の『お兄ちゃん』であったのだから。それ以外の呼び名を考えたこともなく、耕一もそれを拒まなかった。むしろ歓んでくれていたような気さえする。
 ――しかし。
 

 (『お兄ちゃん』は恋愛の対象にならないんだよ?)
 (このまんまじゃいつまでも……)
 (柏木さん、それでいいの?)
 (『コウイチさん』のこと好きなんでしょ?)
 (――好きなんでしょ?)
 (――すきなんでしょ?)
 (――すきなんでしょ?)

 クラスメイトの問いかけが、耳鳴りのように頭の中でリフレインする。
 それは、初音に『これまで』とは違う『これから』を生きさせようとするいざないの言葉であった。
 それはつまり、一人の女として、一人の男性として、初音と耕一が新たな関係を築いて行くということ。兄妹の間のものではない、男と女としての『好き』を育むこと。名前を聞かれたときに初音の顔を紅く染めたあの甘い気持ちに正直になること。
 ――しかしそれは同時に、優しい『お兄ちゃん』を失うということでもあるのだ。一緒に遊んでくれた、一緒にいてくれた、甘えさせてくれた、大好きな優しい兄を……

 これから私はどうしたらいいんだろう。
 今のままでいいのか。それとも、変わるべきなのだろうか。
 何もかもは、時の流れに押し流されて変わって行く。それは自然な事なのかも知れない。
 たとえば風が、ひとところに留まることのないように。
 たとえば空が、一瞬たりとも同じ貌を見せないように。
 たとえば花が、芽を吹き花を咲かせやがて枯れるように。
 そして、たとえば……人が、子供から大人になるように。
 変化は、自然の営みなのだ。変わらない物はない。初音にもそれはわかっている。
 初音も今日で17歳になった。17歳と言えば、もう世間では子供ではない。
 自分と耕一の関係も、変化の時を迎えているのだろうか。
 ――何もかも、変わって行かなければならないのだろうか。

 初音は空を見上げて答えを探したが、答えはもちろんそこにはなかった。

「……もう、やめよ。この話」

 黙りこくってしまった初音を気遣うように、芹菜が頃合いをはかって言った。
 その言葉に、同じく沈黙していた女生徒も呪縛が解かれたように口を開き、とってつけたような声で同調した。初音に問いかけた少女だけが最後まで初音の顔を見ていたが、やがて小さく息をついて初音の肩に手を置いて言った。

「ごめんね、柏木さん。変なこといっちゃって」

 うつむいていた初音は目を上げて少女の目を見、そして微笑み小さく頭を振った。

「ううん、気にしてないよ。ありがとう」

 嘘ばっかり。と、横で見ていた芹菜は思った。気にしていないはずはないのだ。
 優しすぎる、と芹菜は思った。初音の優しさは自分自身を傷つけている。人を思いやるあまりに、自分を犠牲にしすぎる。もっとわがままで良いのに。
 ――しかし、そんな初音だからこそ、芹菜は一生かけての親友でいたいと思うのだ。

「……時間は大丈夫?」

 芹菜が訊くと、初音は時計を見た。さっきから20分ほどが経っていた。

「あと40分くらい」
「なんか、中途半端な時間になっちゃったね」
「今日は暖かいから、待つのもそんなに大変じゃないよきっと」

 クラスメイトの女子とそう話していると、突然別の一人が思いついたように言った。

「あっ、そうだぁ! 誕生日プレゼント替わりに、柏木さんお化粧してあげるよ!」

 すると、眼鏡をかけた子もそれに同調した。

「あ、それいい! 柏木さん地が良いからメイクしたらすっごくキレイになるよ、きっと」
「お兄ちゃんもメロメロ! なーんてね。 あははっ」
「あたし昨日リップ買ったんだ。ピエヌの新色。濃すぎないからイメージにも合うし」
「あたしにも貸してよそれ」
「やーだ」

 そしてやいのやいのと言いながら、自分のポーチの中身を並べ出す。
 突然の申し出に初音は戸惑った。

「え、え……でも私お化粧とかしたことないし……」
「だーかーら! するのよ」
「もう17歳なんだから、お化粧の一つも知らないとだめよ? 今時中学生でもしてるのに」
「そ、そうなの?」
「安心して、私巧いんだから。将来そっちの学校に行こうって思ってるぐらい」

 不安げに言う初音に自信満々で答える女生徒。

「きちんとお化粧していい女になって、コウイチさんびっくりさせてやろうよ。ね?」

 にこにこと笑いながらそう言う女生徒にあるのは、純粋に初音への好意である。
 だから、初音は断れなかった。

「――でもさぁ。本当に柏木さんお化粧とかしたことないの? 口紅くらいあるでしょ」

 脂取り紙で肌をなぞりながら信じられないといった具合にそう言うクラスメイトに、しかし初音は首を振る。必要とも思わなかったし、なにより自分には似合わないと思っていた。

「やっぱり今時貴重だよね、柏木さんみたいなタイプ」
「よっし、じゃあ口紅からいってみようか。最初だから自然で軽い感じのを……」

 学校に何をしに来ているのか化粧品が大量に詰まったポーチの中を探り、数本出してはまた収め、そうしてその娘は一本を取り出した。
 キャップを開け、手の甲にさっと滑らせ色を確かめる。もの慣れた手つきだった。

「うん、ま、こんなもんかな。――ねえ、あんたの筆貸して」
「筆塗りするの?」
「うん、やっぱりそっちの方がきれいに塗れるし」

 言いつつ準備をするクラスメイト達を、初音は黙って見ていた。
 彼女たちが好意でしてくれていることはよく解ったし、化粧に全く興味がないといえば嘘だった。初音の向かいに座って準備をしているその子も、プレゼント替わりにメイクをしてあげるというくらい上手でセンスも良さそうである。失敗したり野暮ったくなったりせずにきちんと綺麗にしてくれるだろう。
 なのに――初音の心は哀しかった。初めてのお化粧だというのに、心はどこか重かった。

「もうちょっと上を向いて。うん、そのくらい。そして軽く唇を引いて……」

 言われるように顔を上げ、初音はキスを待つときのように目を閉じる。
 すると、化粧品の匂いが強まったような気がした。強く香る、大人の女性の匂い。
 それを、今から自分がつけるのだと初音は改めて思った。
 初めての化粧。初めての口紅。
 子供から――大人へ。

 ――すうっ

 かすかに冷たい、小さな筆先が初音の唇を一筋なぞった。
 初音は電気が流れた時のように思わずあっと声を出しそうになって、目を強く閉じて堪えた。
 ためらい無く動く筆はその間にも、初音の唇の上を幾度か往復する。
 上唇、下唇、唇端……意識を痺れさせる鮮やかな衝撃に、初音は身をこわばらせて堪えた。
 ……堪えようと、した。
 しかし――

「柏木さんっ……」

 唇をなぞる筆が急に止まり、クラスメイトの驚いた声が聞こえた。
 その声で、初音は気が付いた。
 頬を、いつのまにか一滴の涙が滑り落ちていることに。

「初音……」
「あ、あれっ? どうしたんだろ。ごめんね」

 掌で涙を拭いながら、初音は明るくそう言おうとした。
 しかし、声がすでに涙声だった。
 喉をせり上がってくる何かを飲み込んで、初音はがたんと音を立てて席を立った。
 ここにいたら、きっと泣いてしまう。涙を止められなくなってしまう。
 理由もなく初音はそう思い、机の上の鞄を手に取った。

「柏木さん……その……ごめん」
「ううん、なんでもないの。お化粧また今度教えてね。今日は……」

 初音は、優しく笑みながら言った。痛々しい笑顔だった。

「今日は――ごめんねっ」

 涙が、また瞳の堤防を越えて頬を濡らし始めた。
 それを誰にも見られないように、初音は口早に別れを告げて教室を小走りに出ていった。
 人気のない廊下をうつむいて走りながら初音はどうして私は泣いているのだろうと考えたが、その理由は自分でもよく解らなかった。
 ただ、化粧をしたことを耕一には知られたくないと思った。 
 それだけは、強く思った。

 

 

 改札を出ると、耕一はそれまで車内で縮こめていた身体をほぐすように大きく背伸びをした。
 両手を上げて深呼吸だか欠伸だか本人にもよく区別のつかない事をしながら、駅前で待ち合わせをしている初音の姿を探す。
 丁度学校が終わる時刻でもあり、所々雪を残す駅前広場には制服姿の少女達が大勢歩いている。初音の学校と同じ制服も少なくない。
 しかし、耕一はすぐに初音の姿を見つけた。
 時計塔の影、雪が白い姿を残すその日の当たらない場所に初音はうつむいて立っていた。

「おーい、初音ちゃーん」

 呼びかけた耕一は、初音がいつものように輝くような笑顔をみせてくれるものと思った。
 耕一お兄ちゃん、と名を呼んで、生きることが楽しくて仕方がない子犬のように駆け寄って来てくれると思った。そうしたら、耕一も笑って初音の頭をなでてやろうと思っていた。
 しかし。

「………」
「初音ちゃん……?」

 耕一の声に初音は顔を上げ、一瞬確かに微笑んだ。
 しかしそれはすぐに憂いの表情に取って代わり、視線は再び足下に落ちる。
 名前を、初音は呼ばなかった。動きかけた唇は途中で力を失った。

「どうしたの初音ちゃん? もしかして……遅れたのを怒ってる?」

 昨夜の大雪の影響でダイヤにずれが生じて、約束の時間に耕一は15分遅刻していた。
 荷物を置いて腰をかがめ、初音に視線を合わせた耕一がそう訊くと、初音は小さくふるふると首を横に振った。

「じゃあ、具合でも悪いの?」

 ふるふる。
 初音は耕一を見つめたまま声無く首を振る。

「わかった、お腹空いたんだ。よし、お詫びに俺がおごるよ。どこでも好きな――」

 かがめた身を起こし、なにやら暗い雰囲気を一掃しようと脳天気な声を出した耕一は、しかしそこで急に黙った。コートの袖を初音がうつむいたまま引いていた。

「違うの。ごめんねこういちお……」

 初音はゆっくりと顔を上げた。弱々しく微笑んだ。
 そして、ためらいを押しのけるように、耕一を呼んだ。
 呼び親しんだ、あの名前で。

「耕一……おにいちゃん……」

 急に、笑顔は崩れた。
 乾いたはずの涙がまた、頬を伝い落ちた。
 その顔を見られたくなくて、でも耕一に側にいて欲しくて、初音は……

「初音ちゃんっ!?」

 衝動的に、初音は耕一に抱きついていた。
 胸元に顔を押しつけ、癖っ毛を震わせながら、声もなく初音は泣いていた。

「初音ちゃん……」

 突然の出来事に耕一は当惑したが、胸元にすがりついて泣いている初音を見ていると次第に冷静になった。初音に何が起きたのかは解らないが、何はともあれ初音が泣いているのだ。
 俺がしっかりしなきゃなぁと思いつつ初音の背中を軽く叩く。
 大丈夫、大丈夫。俺はここにいるから。
 耕一の想いを読んだように、初音は小さく頷いた。その頭をゆっくりとなでる。
 髪はひんやりと冷たかった。

 

 

「ミルクティおひとつにブレンドおひとつ、生クリームワッフルお一つ、以上でよろしいですか?」

 黙って頷く耕一。
 赤い髪のウェイトレスはかしこまりましたぁと元気よく言って、店の奥にオーダーを出しに行った。
 後に残る沈黙。かすかに流れるBGMが気まずさをさらに演出する。

「あ、あのっ……」

 耕一の向かいの席で、初音は可哀想なくらい真っ赤になっていた。
 耕一は吹き出したくなるのを堪えて黙っている。
 初音は何かを言いかけて、やっぱり顔を伏せてしまう。
 それを何回繰り返した後か、初音はようやく切れ切れに言った。

「ご、ごめんね。耕一お兄ちゃん」
「………」
「私……その……あの……」
「……ぷぷっ」

 目の前で指をちょんちょんと突き合わせ、真っ赤な顔で恥ずかしそうに言う初音を見て、ついに耕一は堪えきれなくなって笑い出した。

「くくくく……」
「耕一お兄ちゃん?」
「――あっはっはっはっはっはっはっはっは!!」

 急に笑い出した耕一を見て緊張した表情を緩めた初音だが、まだ赤みの残る頬に手を当ててもう一度初音は謝った。

「……ごめんなさい」

 初音が謝っているのは、駅前での出来事の結果である。
 程なく涙のおさまった初音が見たものは、ぐるりと取り囲んで二人に好奇の視線を向ける人垣と、その視線に晒されてもはや悟りをひらいたように遠い空を見ている耕一の顔だった。
 初音が顔を上げたことに気が付いた耕一は、少なからず引きつった笑顔で
「や、やあ」
 と間抜けな挨拶をして、頬をぽりぽりと掻いたものだ。
 周囲の視線に硬直した初音の顔にかあっと血が上って耕一にもう一度抱きつくと、誰からともなく笑い声が上がり、それはやがて辺りを揺るがす大爆笑に変わった。
 その笑いと視線の輪を身を縮めるようにして耕一と初音は抜け出して、すこし離れた場所にあるこの喫茶店にこそこそと隠れこんだというのが顛末である。
 しゅんとしてしまった初音に、笑いすぎて出てきた涙を拭いながら耕一は言った。

「いや、いいって初音ちゃん。良い経験だったよ」
「……でも」
「あの時の初音ちゃんの顔。可愛かったなぁ、くっくくくくく」
「もうっ……お兄ちゃんの意地悪」

 また頬を紅く染める初音。
 上目使いに睨む顔にも迫力が全くない。耕一は浮かんでくる笑みを押し殺しながら

「それはともかく……」

 深呼吸をして、気持ちを入れ替える。
 真面目な顔になって初音に向き直り、優しく言った。

「なにがあったか、教えてくれる?」
「………」

 少しの逡巡の後、初音は小さく頷いた。
 そこに、ウェイトレスがトレイをもってやってきた。
 注文した品がアンティーク調のテーブルの上に並べられる間、初音は黙っていた。
 耕一も、そんな初音を見やったまま黙っていた。

 耕一は、初音があんな風に泣くのを初めて見た。
 声もなく、顔を隠してただ静かにむせび泣く。それは子供の泣き方ではない。
 悲しいからとか、腹が立ったからとかいう単純な涙ではない。あれはもっと複雑な涙だったと耕一は思った。初音は何かで悩んでいる。答えの見つからない悩みで、初音は苦しんでいるのだ。
 話を聞くことで、初音の悩みを解決してやれるなどとは思わない。それほど耕一は自惚れてはいなかった。ただこんなときは、話を聴いてやるだけでも気持ちが整理出来ることがある。場所を人気のないこんな喫茶店にしたのはそのためなのだ。
 ごゆっくりどうぞと言い残してウェイトレスが去ると、再び沈黙が落ちてきた。
 備え付けのシュガーポットからひと匙砂糖をカップに注ぎ、陶器のスプーンでかき混ぜる。

「……紅茶、来たよ」

 耕一がそう言うと、初音は小さく頷いたがテーブルの上に手を出そうとはしなかった。

「ワッフルも、食べたら?」
「……お兄ちゃん、あのね」

 目を上げて、初音は言った。

「お兄ちゃんは、私から『お兄ちゃん』って呼ばれるの、嫌?」

 耕一はかぶりを振る。

「嫌じゃない。初音ちゃんからそう呼ばれると、俺はとっても嬉しいな」
「どうして? どうして嬉しいの」
「なんか、家族だなって感じがして。俺、一人っ子だったし」
「あ……」

 コーヒーカップを軽く持ち上げて、立ち上る香りに目を細める。
 一口つけてから、耕一は逆に質問した。

「でも、どうしてそんなことを思ったの? 誰かに何か言われた?」

 初音ははっと耕一の顔を見直して、小さく頷いた。

「変だって、子供っぽいって……いつまでも『お兄ちゃん』じゃダメだって……」
「………」
「17歳なんだから、もう子供じゃないんだから、お兄ちゃんって呼ぶのやめて、お化粧したりして、今まで見たいに一緒に遊んだりするのやめて大人になりなさいって……」

 言葉を連ねるうちに、また視線はテーブルの上に落ちてしまっている。
 白磁のティーカップに注がれたアッサムの、濃い褐色の水鏡に映る自分の影に向かって話しているような姿だった。
 耕一は、なにも言わなかった。待っているのだ。
 初音が自分の気持ちを自ら話してくれるのを、黙って待つつもりだった。
 店の奥で、店主らしき壮年の男とさっきのウェイトレスが談笑する声が聞こえる。
 店の外を人影が通り過ぎ、車が排気音を響かせながら走り去って行く。
 いつの間にか、BGMが終わっていた。店員達の声もぱったりと止んだ。
 全ての騒音が遠く消えて、陽の光がカーテンを洗う音さえも聞こえてきそうな静けさに包まれる。

「――いけないのかな」

 その時、ぽつりと初音が言った。
 コーヒーを飲んでいた耕一は小さく首を傾げて続きを促す。

「大人にならないと……いけないのかな」

 初音はうつむいたまま言った。

「『お兄ちゃん』って言うのやめて、お化粧したりおしゃれしたりして、どんどん変わっていって……みんなみたいに、大人にならないといけないのかな……」

 それきり、初音はまた黙り込んでしまった。
 耕一は、すでに空になっているカップを傾けてコーヒーを飲むふりをしながら、初音の言葉の背後にあるものについて考えた。

 成長する、ということはとりもなおさず変化するということと同義である。
 蛹が蝶になるように、苗木が大樹になるように、仔馬が駿馬になるように――
 少女もいつしか大人の女性へと変わって行く。そして、それはおそらく耕一が言うまでもなく初音自身も了解していることに違いない。ただ――
 耕一は思った。
 ただ、初音は怖いのだ。変わって行くことが恐ろしいのだ。変化することで、大人になることで、今もっている何かを失うことになるのではないかと恐れているのだ。
 誕生日、という自分の成長を目の当たりにするイベントのために、普段は考えないことまで初音は考えてしまったのだろう。そこに、誰かの言葉が忍び込んだ。どちらが先だったか解らないが、おそらくそんな事だろうと耕一は考えた。

 ふと、耕一は思い出す。9年前、初めてみんなと会った時のことを。
 あのころ耕一は小学校5年生で、生傷が絶えない陽に灼けたやんちゃ坊主だった。
 そして初音は小学校1年生。今ほど髪も長くなくて、今よりぽっちゃりしていた。耕一を『お兄ちゃん』と呼んでは、シャツの端を掴んでどこにでもとことことついてきて、事あるごとに汗ばんだ肌をぴったりとくっつけてくる、そんな甘えん坊だった。
 一緒にお風呂に入ったり、一緒に眠ったり、夜中に一人でトイレに行けなくて泣きついてきていたあの小さな女の子がいま、目の前で「大人になること」について悩んでいる。
 そのことが、耕一にはほほえましくもあり嬉しくもあり、また寂しくもあった。
 初音は、きっと気が付いていない。
 自分自身の身に起きた、目を見張るような成長に初音は気が付いていない。
 我知らず微笑みながら、耕一は小さくためいきをついた。

「――初音ちゃんは、子供なんかじゃないよ」

 ソーサーの上に慎重にカップを置きながら、耕一はゆっくりと言った。

「いつでも優しくて、他人のことをいつも考えていて、何か嫌なことされても決して傷つけ返したりしないで許してくれる。――そんな人のことを子供と言ったら、世界に大人はいないんじゃないのかな」
「お兄ちゃん……」
「誰に何を言われたのかは解らないけれど、俺は初音ちゃんのことを子供だとは思ってない。子供っぽい言い回しをやめたりお化粧をしたりして、見かけだけ大人になっている人たちよりも、ずっとずっと大人だと思う。そして、俺はそんな初音ちゃんが大好きだよ」

 いつの間にか、店内にBGMが戻っていた。
 静かで穏やかな、優しいピアノ曲。

「昔の事を思い出してごらん。叔父さん達がまだ生きていて、俺達がまだ小さかった頃のことを。あの頃の自分と今の自分、どちらが大人だと思う?」
「……今」
「だよね。そして去年の初音ちゃんよりも、今年の初音ちゃんはずっと大人になっている。自分では気が付きにくいかも知れないけど、成長ってそんなものだと思うよ。焦って今あるものを脱ぎ捨てるのが成長なんじゃない。樹の年輪みたいに一枚一枚重ね着して大きくなっていく、それが大人になる方法なんだと、俺は思うよ」

 初音は顔を上げて、少し眩しそうな顔をしながら耕一の話を聞いている。
 耕一は急に自分がひどく気障な物言いをしていた気がして、照れ隠しに笑った。

「……って、なんか偉そうなこと言っちゃったね。はは」
「ううん、そんなことないよお兄ちゃん」

 初音は耕一の顔を見つめたまま首を振った。

「ありがとう。本当にありがとう、お兄ちゃん。私うまく言えないけど、なんだかほっとしたよ……」
「そう? だったらよかった。駅前で泣き出したときにはどうしようと思っちゃったからね」
「もう……お兄ちゃん意地悪だよっ」
「あはは、ごめんごめん」

 耕一が笑うと、初音も笑った。そしてそのままくすくすと、二人してしばらく笑い続けた。
 笑って笑って……初音は涙が出た。笑いすぎて出た涙ではなくて、それは不安にこわばっていた心がようやく緩まった安心の涙だった。初音はそれを耕一に見られないようにこっそり拭った。

 笑い止むと、もやもやしていた気分がなんだかすっきりしていた。
 初音は、すっかり冷めた紅茶を一口飲んでから耕一に向き直って言った。  

「……もうちょっと、今のままでいいよね? もうちょっとだけ、耕一お兄ちゃんのこと『お兄ちゃん』って呼んでいてもいいよね?」
「もちろん。初音ちゃんが嫌になるまでそう呼んでいいよ。でも――」

 突然、耕一が「でも」と言ったので初音は驚いた。
 やっぱり嫌なんだろうかと不安げに耕一を見つめる初音に、耕一は不意に尋ねた。

「ねえ、初音ちゃん。去年の七夕の約束を覚えてる?」

 耕一が言ったのは、去年の7月。耕一の発案で8年ぶりの七夕を祝ったときの事だ。

「あのとき、初音ちゃんは言ったよね。『これからは、ずっと一緒にいられますように』って。あのとき、俺もそうお願いしたんだよ。初音ちゃんと、みんなと、ずっと一緒にいられますようにって」

 言葉を失ったように、初音は耕一を見つめている。
 耕一は、その目を見返して続けた。

「初音ちゃんは成長してる。もしかするとこの先、初音ちゃんにお兄ちゃんと呼ばれなくなる時が来るかも知れない。でもね、それでも、俺は初音ちゃんのそばにいるよ。初音ちゃんの『お兄ちゃん』でなくなっても、ずっと一緒にいるよ。――迷惑でなければ、ね」
「耕一お兄ちゃん……」

 初音の見開かれた瞳がゆっくりと綻び、また熱く潤んでくる。
 目を閉じて涙を抑え、祈るように胸に手を当てる。

「……うん。私も……ずっと一緒だよ……」

 切なく痛むこの胸の奥に、耕一の今の言葉を大切にしまっておこうと初音は思った。
 そうすれば、もう迷わない。悩まない。恐れたりしない。
 どんな未来でも、耕一お兄ちゃんと一緒ならきっと大丈夫。
 ――初音は心からそう信じられるのだった。

 

 

 その後、喫茶店を出ると二人はバスに乗って柏木家に向かった。
 隆山の繁華街でなにかご馳走するよと耕一は言ったのだが、帰省用の大きなバッグを抱えたままでは気の毒だからと初音が辞退したのだ。もっとも、革ジャンにすり切れたジーンズという耕一の相変わらずな格好では『ご馳走』の出るお店には入れなかったかもしれないが。

 昼下がりのバス車内は土曜日だというのにがら空きで、二人は日当たりの良い真ん中より少し後ろの席に並んで腰掛けた。隙間からの冷気で意外と寒い窓際に耕一が座り、通路側にちょこんと初音が腰掛ける。どうせ誰も乗るまいと行儀悪くカバンを前の席に置き、耕一は重荷から解放された肩に手を当て、首を回ながら軽く揉んだ。
 運転手の投げやりなナレーションでドアが閉まると、バスは老体を揺すってゆっくりと走り出した。
 バスの暖房独特のかすかに焦げたような匂いのする空気を吸い、耕一があるはずのない郷愁にひたっていると、初音がにこにこと話しかけてきた。

「お昼ごはん、どうしようか」
「う〜ん、家に帰っちゃうとまた出るの億劫だしね。しかもさっき初音ちゃんのワッフルわけて貰ったからなんかお腹減ってないし。……でもあれじゃ夜までもたないな、きっと」
「私が何か作ってあげる。 お兄ちゃん何が食べたい?」

 ゆらゆら
 ゆらゆら
 バスの座席は眠気を誘うように揺れる。

「お、いいね。嬉しいな。初音ちゃん料理上手だからな〜」
「そ、そんなことないよ……。梓お姉ちゃんに教えて貰って、簡単なのを少し作れるようになっただけだから、あんまり凄いのはダメだよ? お兄ちゃん」
「簡単なので……ふあ〜……全然だいじょうぶだよ」

 ぽかぽか
 ぽかぽか
 窓越しの、小春日和の温かな日差しが何とも言えず心地良い。
 旅の疲れもあったのか、耕一は急に眠気を感じた。
 話しながら大きな欠伸をする。浮かんだ涙に瞬きをして、耕一はちょっとだけ睡魔に抵抗する。

「眠いの? 耕一お兄ちゃん」
「……ううん、大丈夫大丈夫。それよりお昼は何を作って貰おうかな。得意なのは何?」
「あのね、スクランブルエッグとハムのサンドイッチとか、チャーハンとか、オムライスとか――」
「………」
「後は普通にお味噌汁に御飯とか。お味噌汁って一言で言っても、具が違うと味も全然違うけどね」
「………」
「あっそういえばわたし肉じゃがもできるように――って、お兄ちゃん?」
「………くー」

 話に反応が無くなった耕一の顔を覗き込むと、はたして耕一は世にも安らかな表情で居眠りをしていた。斜めに陽が差し込むバスの窓に頭をもたれさせ、膝の上に載せた手の指先まで力を抜いた姿勢で耕一はゆっくりと肩を上下させていた。
 初音はしばらく耕一の寝顔を見ていた。言えばきっと恥ずかしがると思うけど、可愛い寝顔だなと初音は思った。
 うふふ。
 まるで赤ちゃんみたい。

 人気のないバスの中で唯一の話し相手に眠られた初音は、ふと芹菜から貰ったプレゼントの事を思い出した。バスの降り場所までまだ時間があることを確認し、初音は鞄からその小さな包みを取り出した。
 リボンを解いて畳み、包装紙を留めているテープを爪を立てて綺麗にはがす。
 中にあったのは、透明のプラスチックケースに入った小さな白い花の形をしたイヤリング。そして包装紙とお揃いなのか熊の形をした緑色の便箋だった。
 初音は星の形をしたその白い花のイヤリングを一目で気に入った。
 箱を片手で持って眺めながら、初音は四つ折にされた便箋を広げる。
 そこには、芹菜の癖のある文字で、短いメッセージが書かれてあった。

 

「初音へ    誕生日おめでとう。

 この花は、あなたの花です。

 今日の誕生花、その名を「オーニソガラム」といいます! (私って物知り?)

 花言葉は「純粋」   ――初音、これがあなたの花だよ。

 時々心配になるけど、いつまでもそのままの純粋な初音でいてください。

 もう一度、お誕生日おめでとう!!     せるな」

    

 ――急に、涙がにじんできた。
 初音は慌てて目元を擦る。本当に、今日は私は泣き虫になってる。

「えへへ……ありがとう、芹菜ちゃん」

 もう一度、イヤリングを見つめ直す。
 星の形をしたその白い花びらは細い銀で縁取られ、まるで朝露をその身に纏っているかのように見える。
 花の名は”オーニソガラム”。またの名を「スター オブ ベツレヘム」 ――ベツレヘムの星
 東方の三賢者を産まれたばかりのメシアの元に導いた不思議な星が、地に落ちて花になったといういわれを初音は知らない。でも、なんて綺麗な花なんだろう。なんて可愛いイヤリングなんだろう。
 綺麗に畳んだ包装紙とリボンと合わせてプレゼントを鞄の中に入れようとしたとき、初音は便箋の一番下に小さな文字で追伸が書いてあるのを見つけた。

 

「 P・S   耕一お兄ちゃんと、うまくやりなさいよ!! 」            

 

「もう……芹菜ちゃんたら……」

 友人らしいいたずらに苦笑してプレゼントを鞄に収めながら、初音の視線は隣で眠る耕一の方にいつの間にか向けられていた。

 ――初音は、自分の気持ちの全てを耕一に話したわけではなかった。
 クラスメイトに指摘された、『お兄ちゃん』としてではない耕一への想い。そのことを初音は言わなかった。泣いてしまうくらいに悩んでいたそのことを、結局初音は口にしなかった。
 でも、それで良いと初音は思った。
 自分は今日で17歳。来年は18歳。そしてあっというまに19,20……。
 時間は待ってくれない。季節が巡りカレンダーがめくられるたびに初音は大人になっていく。
 だったら、なにも焦ることはない。
 今はまだ、もうちょっとだけ、耕一『お兄ちゃん』の甘えん坊な妹でいたい。
 この想いは当分胸の奥にしまっておこう。いつか本当に大人になるその日まで。

(でも……大好きだよ。お兄ちゃん)

 そっと大切に収められたその想いは、今はわたしだけの秘密。
 だから、斜めに差し込む陽を受けて何も知らずに眠る耕一に初音がそっと……をしたことも
 ――やっぱり秘密なのだ。

 

 

「ただいまーっ」

 耕一の先に立って玄関を開けた初音が、家の奥に声を掛ける。

「耕一お兄ちゃんと一緒だよ」
「ただいま〜」

 言いながら後ろ手に戸を閉じる。
 玄関に腰掛けて靴を脱いでいると、廊下の奥から数人の足音が聞こえてきた。

「おっす、耕一」
「……お帰りなさい」 
「ただいま。またしばらくお邪魔するよ」

 腰掛けて背中を向けたまま梓や楓と挨拶する耕一に、ちょっと遅れてやってきた三人目が声を掛けた。

「おかえりなさい、耕一さん。おかえり、初音」
「ただいま、千鶴お姉ちゃん」
「あれ、千鶴さん?」

 くるりと右に身体をねじって振り向く耕一。そこには、千鶴がにこにこしながら立っていた。

「たしか、今日は仕事だったよね」
「ええ、でも耕一さんが帰って見えるお昼の間だけちょっとお休み貰って帰ってきました」
「じゃあこれからまた仕事に行くんだ。わざわざ俺なんかのために……ありがとう千鶴さん」

 立ち上がり、すまなそうにそう言った耕一に千鶴はにっこりと微笑みかけ

「いいえ、だって耕一さんの……」

 ためですから、と続けるはずだった。
 しかし――

「? どうしたの千鶴姉」

 初音と話していた梓が、不意に言葉を止めた姉を不審に思い顔を覗き込む。
 驚きで声を失っているような表情だった。大きく見開かれた目はただ一点に釘付けになっている。
 その視線を追った梓も、またぴしりと表情を凍らせた。ほとんど同時に楓も気が付いたらしい、耕一を見つめたまま三人が時が止まったように凍り付いている。

「ど、どうしたのみんな」
「………」
「………」
「………」

 三人に見つめられ、なにやら居心地の悪い耕一。
 その後ろで、沈黙してしまった姉たちに初音が言った。

「お姉ちゃんたち、どうしたの?」
「……初音」

 その時、千鶴がやけに柔らかい声で言った。
 凍り付くほどに優しい微笑み。

「芹菜ちゃんから何度か電話があったわよ。早く電話してあげなさい」
「えっ、芹菜ちゃんから?」

 初音は一瞬きょとんとしたが、明るい笑顔でうんっと頷いた。
 きっと、教室での事を心配して電話してきてくれたんだろう。

「わかった、ありがとうお姉ちゃん!」

 トタタ……と小走りで自分の部屋に向かう初音。
 その気配がすっかり遠くなるのを見計らって、千鶴はゆっくりと耕一に向き直った。
 笑顔。渾身の微笑み。爆発10秒前の時限爆弾に表情があったらそんな顔なのであろう。
 みしり、と床材が悲鳴を上げるのを耕一は確かに聴いた。

「あ、あの……千鶴さん? 梓? 楓ちゃんまで……」

 あからさまに剣呑な雰囲気にたらたらと冷や汗を流す耕一。

「ど、どうしたのみんな。気温下がってるけど……はは」
「――耕一さん」

 形だけは完璧な笑顔を浮かべながら、千鶴は耕一の名を呼んだ。
 声がオクターブ低いのがなぜか雰囲気に合っている。

「これは、どうされたんですか」
「こ、これって……なななんのこと?」

 事態が飲み込めない耕一は、異様な殺気にただ軽薄にひきつり笑う。
 両手が自然と上に上がっている。銃を突きつけられてるわけでもないのに。
 千鶴はまったく、毛ほども表情を動かさず、ポケットから化粧用のコンパクトを取り出して耕一の前にその小さな鏡を差し向けた。

「――!!」

 今度は、耕一が言葉にならない叫びを上げる番だった。
 覗き込んだ鏡に映っていたのは、左頬に残る、淡く小さい、しかしくっきりとした紅い痕。
 なんでこんなものがこんなところにと耕一の脳裏を一瞬のパニックが襲う。
 口をぱくぱくさせて呆然とする耕一は、はっと自分が置かれている立場を認識した。
 軽蔑のまなざしの楓。奥歯を噛みしめて炎のオーラを背負った梓。そして氷の微笑を湛えた千鶴。
 耕一は血の気が滝のように音をたててひいて行くのを感じた。

「ちょ……ちょっとみんな待ってくれ。これは何かの――」
「耕一さん?」
「は、はひっ!?」

 その肩に、千鶴が動作だけは穏やかに手を乗せる。
 うっすらと笑った顔の中で、瞳が急に紅い光を宿す。

「――納得の行く説明を聞かせていただけますか?」

 言いながらぎりぎりと耕一の襟首を引き絞って行く千鶴。
 指をぺきぽきと鳴らす梓。身も凍る冷たい視線を向ける楓。
 ……三匹の鬼がそこにいた。耕一の理が通る段階ではすでになかった。
 耕一はふと、昔見た悪夢を思い出した。そしてつぶやく。
 朝はまだか、と……。

 

 その日、それから柏木家最奥の一室で何が行われたのか。
 それはいまだに柏木家の秘密である。

 

2000/03/03
Akira Inui

 

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