その1 千鶴の場合

「痛っ! いてててっ! 梓、頼むからもう少し優しくやってくれって」
「なーに言ってんだよ、このくらいのかすり傷。男なんだろ? 我慢しな」
「男だって痛いものは痛いんだよ!」
「あぁもう動くなって言ってるだろ。消毒液が飛び散るじゃないか。よしっと、じゃあ初音、背中の方は消毒終わったから適当にバンドエイド張っといて……ってちょっと楓、あんた包帯なんて持ち出してどうしようっていうの?」
「でも……」
「そんな大袈裟なことしなくたっていいの。どうせ明日の朝になればきれいさっぱり治ってるんだから。ほら耕一、今度は腹の方消毒するからこっち向きな」
「痛っ! 馬鹿野郎っ! 怪我人を乱暴に扱う奴があるかっ!」
「はいはい、わかったから早く両手を挙げな」
 現在午後8時30分、俺は上半身裸で椅子に座り背中を中心に無数にできた傷の手当てを梓と楓ちゃんと初音ちゃんにしてもらっている。そして机を挟んだ反対側ではそれらの傷を作った張本人の千鶴さんが一人しょぼくれて座っている。

 嫌な予感はしていた。夕方帰りの電車に乗ったあたりから少しずつ騒ぎはじめてた俺の中の鬼。そのざわめきは我が家へと近づくにつれてどんどん激しくなっていった。憂鬱な気分になりながらも間違いであることに一縷の望みを抱いて家へと向かった俺を待っていたのは死刑宣告にも等しい光景だった。我が家に隣接する公園にたたずむ3人の人影。救急箱を抱えた初音ちゃん、着古したシャツと膝のぬけたジーンズを持った楓ちゃん、そしてこういう事態のために用意された「柏木家非常持ち出し箱」にもたれ掛かった梓。それは俺の胸騒ぎの原因が予想通り目の前の我が家の中にいることを示していた。
「はぁ……」
 一つ溜め息を吐くと俺は3人のもとに歩み寄る。
「お帰り、耕一。言わなくても状況は判るよな」
「ああ、多分な」
 俺の帰りを待ちくたびれた表情の梓と言葉を交わした後、俺は先月新調したばかりのスーツを脱いで楓ちゃんに渡し、代わりに渡されたシャツとジーンズに着替えた。そして心配そうに見つめる楓ちゃんと初音ちゃんに
「それじゃあすぐ終わるからもう少し待っててよ」
 と努めて明るく言うと、目の前の我が家へと入っていった。

 玄関の扉を開けて中に入る。立ち込める殺気に逃げ出したくなる気持ちを何とか抑えて靴を脱ぎ廊下を歩いて居間に入る。と、予想通り千鶴さんはそこにいた。椅子に座ったまま入り口に背中を向けている。こちらからその表情を伺うことはできない。
「た、ただいま、千鶴さん」
 笑いながら言ったつもりだが顔が笑っていた自信は全然無い。そもそも声が出ているのかすら疑問だ。だがそれでも喉を絞って話を続ける。
「きょ、今日は早かったんだね。投資先との打ち合わせって言ってたからもっと遅くなるのかと……」
「こ・う・い・ち・さ・ん」
 だが千鶴さんの発した言葉に俺の話は遮られた。
「は、はいっ」
「耕一さんは今日はなんで帰りが遅かったんですか?」
「いや、その、今日は仕事の依頼先との打ち合わせとかいろいろあって……」
「本当にそれだけですか?」
「えと、うん、ほ、本当にそれだけ」
「嘘おっしゃい!!」
 そう言って立ち上がると千鶴さんは恐ろしい形相で俺を睨んだ。
「そんな言い訳なんて! 私が何にも知らないとでも思っているんですか!」
「ちょ、ちょっと、落ち着いてよ、千鶴さんっ」
 と千鶴さんを宥めつつも、俺は既に事態が回避不能な状態になっていることを確信し、次に起こることに備えて先ほどから少しずつ抑えを外してきた鬼を急速に解き放った。そして
「今日こそは許しませんからね! 覚悟しなさい!」
 と叫んで千鶴さんが飛び掛かろうとしたまさにその瞬間、
 がしっ!
 俺は千鶴さんの目の前に飛ぶと両腕でその体を拘束するように抱きしめた。
「きぃいいいいいいいーーーーーーーーー!!」
 その直後、千鶴さんのヒステリーが爆発した。鬼を全開にして自由にならない両手で俺の服を引き千切り背中をかきむしる。それでも放すわけにはいかない。一度放したが最後、今度は俺が町内を逃げ回るしか手がなくなり、鬼と化した千鶴さんの姿をご近所に晒すことになってしまう。だから千鶴さんが疲れ果てるまでこのままずっと俺は彼女を抱きしめていなければならないのだ。

 永遠とも思われる時間が過ぎ去り(実際は1時間弱ほどだったのだが)疲れ果てた千鶴さんが落ち着きを取り戻すと、俺はふらふらになった千鶴さんを椅子に座らせ外で待っている梓たちに窓から合図を送った。そして背中を中心に傷だらけとなった上半身の手当てをしてもらっているというわけだ。
「で、今日のヒステリーの原因は何なわけ?」
「え、えーと、その、あの……」
 呆れ返った表情で訊ねる梓に消えそうな声でごにょごにょと答える千鶴さん。でも俺には原因の心当たりがあった。
「千鶴さん。ひょっとして千鶴さんもあの喫茶店にいたの?」
「え? あ、はい……」
「……じゃあひょっとして俺と由美子さんがあそこにいた間ずっと俺達のことを見ていたとか?」
「……はい」
「……はぁ〜」
 やっぱりそうか。午前中に客先での打合わせを済ませた俺は昼飯の後次の打合わせまでの空いた時間をつぶすために何気なく本屋に入ったところ、そこで大学時代同じゼミだった小出由美子さんと久しぶりに再会した。で、立ち話も何なのでということで近くの喫茶店に入ってそこで1時間ほど話し込んでいたのだが、どうやらそれを千鶴さんに見られたらしい。
「耕一、由美子さんって耕一が大学で同じゼミだった小出さんのこと?」
「ああ、暇つぶしに入った本屋で偶然会ってその後喫茶店で話し込んでたんだけど、その喫茶店に千鶴さんもいたらしいんだ」
「なるほどね。で、小出さんと耕一が一緒にいるところを見てぶっちぎれちまった訳だ、千鶴姉は」
「……だって小出さんとお話している耕一さん、なんだかすごく嬉しそうだったんですもの……」
 梓のジト目にますます消え入りそうな声の千鶴さん。
「ふ〜ん、確かに小出さんって美人だからなぁ。例によって耕一が鼻の下を伸してたってわけか」
 それまで千鶴さんにジト目を向けていた梓が俺の方をにらむ。
「ばっ、馬鹿言え、単に学生時代の話で盛り上がってただけだ。大体由美子さん今はもう人妻だぞ。お前だって彼女の結婚式の2次会に出たんだから知ってるだろ」
「冗談だよ。しかし相変わらずというか進歩がないというか、もうそろそろ何とかならない、千鶴姉?」
「まあまあ、梓お姉ちゃん。家も無事だったんだし耕一お兄ちゃんの傷もたいした事無かったんだから…」
 消えてしまいそうに小さくなる千鶴さんをみかねて初音ちゃんが助け船を出す。

 それにしても困ったもんだよなぁ、千鶴さんには。本当にちょっとしたことですぐに焼き餅を焼くんだから。5人一緒に暮らすようになってかれこれ3年目になるけれど、その間にこんなことをそれこそ数えきれないほど繰り返してきたような気がする。大学で女友達と一緒に歩いているのを見掛けたとか、会社の事務の女の子と楽しそうに話していたとか、挙げ句の果てにはテレビ番組に出演していた女優に見とれていたなんていう言い掛かりに近い理由でヒステリーを起こされたこともあったし。焼き餅を焼かれるのは愛されている証拠だ、なんて言う人もいるけど、千鶴さんの場合は半端じゃないからなぁ。まあ最近は何となく要領みたいなものが分かってきたけど、それでもヒステリー起こした千鶴さんを抑えるのはやっぱり大変だし……。
 などと心の中で愚痴をこぼしていたら、
バシッ!
 いきなり梓の平手打ちが背中に飛んできた。
「痛っ! いきなりなにするんだてめえっ!」
「なに一人でぶつぶつ言ってるんだよ。さてと、だいたいこんなところかな。初音、風呂はもう沸いてる?」
「うん、さっきアラームが鳴ったからもう大丈夫だと思うよ」
「そっか、じゃあ傷の手当ても終ったことだし、お姫様連れて早いとこ風呂入って今日はとっとと寝ちまいな、耕一」
 そう言って梓は俺の背中を押す。
「お、おう」
 押し出されるように立ち上がった俺は千鶴さんの座る椅子の前まで行くと小さくなって座っている千鶴さんをお姫様だっこで抱き上げた。
「あっ……」
 いきなり抱き上げられて驚いた顔の千鶴さんは、しばらく俺の顔を見つめるとぽっと顔を赤らめて俺の肩に手を回した。
「あーあ。まったく、ヒステリー起こして暴れまくってヘトヘトになって結局は耕一に甘えてるんだからしょうがないよなぁ、千鶴姉も」
「……姉さん、ずるい」
「まあまあ、楓お姉ちゃん。千鶴お姉ちゃんだってたまには耕一お兄ちゃんに甘えたいんだろうし……」
 背後から聞こえる小姑達(?)のつぶやきにますます顔を赤らめる千鶴さん。俺は心の中で苦笑しつつも赤らめた顔にそっと口付けると彼女を抱いたまま風呂場へ向かった。


目次←→「第1話 千鶴の場合」←→「第2話 梓の場合」


木村