腕を組んで肩を竦めた梓が居間に入ってくる。既に9時を過ぎて日が差し込んでいるにもかかわらず外に面した廊下の空気は冷たい。今朝も隆山はよく冷え込んだようだ。
「おはよう、梓」
新聞を読んでいた千鶴が声をかける。
「おはよう千鶴姉。今朝は早いんだな」
「私もさっき起きたところ。ねえ、お茶飲むでしょ?
今入れるわね」
「ああ、いいよ。そのくらい自分でやるから」
そう言って目の前にある急須のふたを開けポットのお湯を注ぐ梓。自分の湯飲みと新聞の脇におかれた千鶴の湯飲みを並べて置き、急須の中身を交互に注いでいく。
「おはよう、梓お姉ちゃん」
朝食の準備をしていた初音が台所から顔を出して挨拶する。
「おはよう、初音。手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。もうすぐ準備ができるから座ってお茶でも飲んでいてよ」
そう言って初音は顔を引っ込めた。台所からは再びとんとんという包丁の音が聞こえ始める。
「ふむ……。んじゃまぁ、今日は初音のご厚意に甘えることとしますかね」
梓は椅子に座ったまま頭の上で手を組んで伸びをし、そして湯飲みを両手で抱えて入れたばかりのお茶をすする。
「ふふ、いつもは早起きの梓もさすがに今日は朝寝坊だったわね。どうだった?耕一さんには優しくしてもらえた?」
新聞を机の上に置いた千鶴は突然悪戯っ子のように微笑みながら梓にたずねる。
「げほっ! い、いきなり何言い出すんだよ、千鶴姉!」
湯飲みを抱えていた手を口に当ててむせかえる梓。咳はすぐに収まったようだが、突然昨日の晩のことを持ち出されて顔は耳まで真っ赤に染まっている。
「今ふと昨日の晩耕一さんと腕を組んで歩いていったあなたの後ろ姿を思い出したのよ。はにかんでて、でもすごく嬉しそうで。姉さん梓のあんな顔初めて見たわ。ふふふ」
頬杖を突いて微笑みを浮かべて梓を見つめる千鶴。
「そ、そ、そう言う千鶴姉はどうなんだよ。目の下に隈ができてるぞ。よっぽど耕一と激しく燃えたんじゃないの?」
ようやく自分を取り戻した梓が反撃に出る。
「え? 嘘? 隈なんて……。私そんな……」
梓の指摘にうろたえた千鶴は目の下を両手で押さえ鏡を探して洗面所に駆け出そうとする。
「ばーか、冗談だよ。すぐに真に受けるんだから、千鶴姉は」
梓がジト目で千鶴をにらむ。やはりこういう勝負は梓の方が一枚上手なようだ。
「も、もう。ひどいわ、梓。本当かと思ったじゃない」
千鶴が口をぷぅっと膨らませる。
「最初に突っ掛かってきたのは千鶴姉だろ。しかし初音は元気だな。まさか昨日耕一が来る前に寝ちゃったんじゃないだろうな?」
またいたずらっぽい微笑みに戻った千鶴が梓の耳元でささやく。
「ふふ。あの子ね、どうやら本当に耕一さんに添い寝してもらったみたいよ。耕一さんに腕枕してもらってぐっすり眠れたんじゃないかしら」
「なんで千鶴姉そんなこと知ってんだよ。ひょっとして覗いてたの?
やめろよな、そういう出歯亀みたいなことは」
「違うわよ! あの子のことが気になったから聞いてみたのよ、耕一さんに……」
「…………」
「…………」
再びジト目で千鶴を見つめる梓。千鶴は決まり悪そうに下を向く。
「まったく、そんな時まで母親役やってどうするんだよ。千鶴姉も初音も耕一の前では対等な一人の女なんだぜ。しかし初音も初音だよなぁ。せっかくの『初めての夜』なのにさぁ……」
「いいじゃない、あの子らしくて。耕一さんを思う気持ちはあの子も私たちも一緒なんだし。別に結ばれるだけが『初めての夜』の過ごし方とは限らないわ。それにきっとあの子にとっては……」
いつのまにか湯飲みを抱えていた千鶴が遠い日を思い出すように言う。
「辛さや苦しさや寂しさを感じることなく耕一さんと寄り添い合っていられる。それだけであの子にとっては幸せなのよ……」
「……そっか、そうだよね。500年前のあの時、私たちがいなくなった後で一人辛い思いをしたのはリネットだったあの子なんだよね……」
そうつぶやいた梓も湯飲みを両手で抱えるとその中をじっと見つめた。静寂に包まれた居間に台所からかすかにしゅーしゅーと聞こえる鍋の音だけが響いていた。
「千鶴お姉ちゃん、梓お姉ちゃん、おまちどうさま。いまご飯にするからね」
静寂を破ったのは朝食の準備ができたことを告げる初音の声。
「お、じゃあ茶碗と箸並べるよ」
「あ、あともう一度みんなの分お茶を入れ直してもらえるかな」
「じゃあそれは私が……」
「いいから千鶴姉はおとなしく座って新聞でも読んでなって」
「もう、梓ったら! そうやっていつも私だけのけ者にするんだから!」
そんないつも通りの光景が繰り広げられようとしていたときだった。
からからから……。
閉められていた今の戸が開けられると
「おはようございます……」
楓が居間に姿を現した。
「おはよう、楓お姉ちゃん」
台所から味噌汁の鍋を運んできた初音が明るい声で答える。
「へへ、真打の登場だな。どうだった?楓、500年ぶりに二人で過ごした夜は?」
梓が冷やかすと真っ赤になってうつむく楓。
「こら、梓。そんなこと言うんじゃありません」
梓を軽く睨んだ千鶴は、楓の方を向くといつもの優しい微笑みで話し掛ける。
「おはよう、楓。耕一さんは優しくしてくれた?」
うつむいたままの楓が、こくん、と首を縦に振る。
「楓お姉ちゃん」
味噌汁の鍋をテーブルの上に置いた初音がうつむく姉に
「よかったね」
と天使の微笑みで語り掛ける。それを聞いた楓は赤いままの顔をゆっくりと上げると
「うん……」
と言って微笑む。それは彼女が今まで見せたこともないような幸せにあふれた微笑みだった。
それから四姉妹は柏木家には珍しく遅い朝食を採った。交わされる言葉は少なかったが、そこには数ヶ月前にはなかった安らぎが存在していた。そして朝食の片づけが終わり4人が食後のお茶を飲んでいた時、
「なあ」
湯飲みをおいた梓がふとつぶやいた。
「耕一、あいつ何時まで寝ているんだろう?」
「そうね、今日はお昼過ぎまで起きないんじゃないかしら?」
と答える千鶴。楓と初音は何故梓が急にそんなことを言い出したのかと首をかしげている。
「そっか、そうだよな」
湯飲みを見つめながら梓がもう一度つぶやく。
「あのさ、みんなで……耕一の様子を……見に行かない?」
「「「え?」」」
梓の突然の言葉に驚く千鶴、楓、初音。
「でも耕一さん疲れているでしょうし」
「そうだよ。お兄ちゃん起こしちゃ可哀相だよ」
「耕一さん……ゆっくり休ませてあげたい……」
「いや、だから、起こすんじゃなくて、その、耕一の寝顔を、眺めたいかな、なんて……」
照れ隠しに鼻をかきながら上目遣いに千鶴の方を見る梓。それにつられて千鶴を見る楓と初音。少し驚いた顔をしていた千鶴はやがてにっこりと微笑むと、
「そうね、それじゃあみんなで見に行きましょ、私たちの旦那様の寝顔を」
「「「うん」」」
そして4人は立ち上がると客間に向かって歩き出した。中で眠る彼女たちの愛する男性が目を覚まさないように足音を忍ばせながら。
(了)