現人鬼(あらびとおに)ブルース外伝
 
『哀しい闘気』
 
 
作:YISAN
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「女の子がこんな場所を一人で歩くのは感心しないな」

夢の中で男と出会った
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「俺は強くなんかない」

夢の中で男の苦悩をみた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……ああ、綾香」

夢の中で男を可愛いと感じた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「女の子を待たすと後が怖いからな」

夢の中で男がたまらなく愛しかった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「貴様の相手は、俺だ」

夢の中で男は変わった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「この世界に鬼は似合わない」

夢の中で男が恐ろしかった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「こういち」

夢の中で男は…………去った
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちがう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちがう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちがう、それはすべて現実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.
 
 
 電子音が聞こえてきた。
 幻のように聞こえてきた。
 やがて音は徐々に大きくなった。
 少女の意識は夢の世界から急速に引き戻されていく。
 
「う、ううん」
 
 いつものように手を、いつもの場所へ伸ばす。
 小さな目覚まし時計のボタンを叩くように押すとその音は止まった。
 目を擦り上半身を起こすと少女は頭を大きく振った。長い髪がバサバサと耳元で鳴った。
 寝覚めは最悪に近い。今見た夢のせいだと少女は思った。
 コンコンとドアが鳴った。
 
「綾香様、お時間です。もうお目覚めになられましたか」
 
 ドアが開きゆっくりとした歩調で中へ入ってきたのは、少女の専属メイドロボ――もっとも少女は彼女の事を友人だと思ってるのだが――HMX− 13「セリオ」である。
 
「……おはよう、セリオ」
「おはようございます、綾香様」
 
 メイドロボの少女は、無表情な顔で部屋を横切りカーテンを開いた。
 日は明けていない。まだそんな時間ではない。
 5時半…1月の終わりのこの時間は、日が昇るのはおろか空が白み始めるにもあまりに早すぎた。
 少女は何も映らない窓の外をぼうっと見つめる。
 外は如何ばかりの気温だろうか。二重ガラスになっている窓は音も気温も、いや外界のすべての出来事をシャットアウトしている。
 少女はもう一度首を振るとベッドから離れた。
 来栖川綾香…来栖川家のご令嬢の一日が始まった。
 
 
 
 綾香はもともと朝が苦手だった。
 姉と同じく低血圧気味のこの少女は、夜は強いものの朝はからきしダメで、いつもセリオに無理やり起こされていた。生身のメイドが起こしに行っ たりすれば、寝ぼけた綾香にどのような反撃を食らうかわかったものではない。寝起きの部屋に入れるのは親友のメイドロボと、ひとつ上の彼女の姉だけだ。
 日の出よりも先に起きた事などなかった。
 そんな彼女がある日を境にして変わった。
 家族の誰もが知っているが誰もが口にしない出来事が起こった。
 前の年の12月の初めであった。
 その日夕刻、綾香が失踪した。そして日も変わった深夜に綾香は老執事とともに屋敷に帰ってきた。
 帰ってきた彼女は毅然としていた。だが、見慣れぬダッフルコートを羽織った綾香はそれまでの綾香とは違っていた。少なくとも彼女の姉にはそう 見えた。
 帰ってすぐ綾香は自室に引き籠もり、だれにも会おうとはしなかった。
 そんな彼女がいきなり早朝練習を始めたのは、彼女が2日間自室に籠もった翌日からだ。それからずっと練習は続いている。
 朝、5時半に起きてハイスピードで30分間のランニング、その後ストレッチを30分、サンドバックを使っての突き・蹴りに20分、そして組手 に30分である。
 ランニングとストレッチにはセリオが付き従い、その後老執事の長瀬が組手の相手となった。
 メイドロボが主人に従うのは当たり前として、老執事はいきなり早朝練習などを始めた少女に対しその理由を聞いた。
 
「強くなりたいから…」
 
 そう一言だけ言う少女にそれ以上はなにも問わず、老執事は彼女の組手の相手を引き受けた。
 老執事も目の前の少女が変わった事に気付いていた。
 
 
 
 
 
2.
 
 
「ハッ!」
 
 右の突きが繰り出された。
 長瀬は綾香のスピードの乗った一撃を左腕で受け流し、そのまま肘のカウンターで迎え撃った。
 綾香は軽くステップを踏んで、そのカウンターを避ける。
 長瀬は間髪入れず一歩踏み込むと、ミドルキックを放った。
 余裕を残していたステップから一転、瞬時に後方へと跳んだ綾香は長瀬の爪先が空を切るや、伸びたバネが戻るようにその身を長瀬に接近させつつ 右足を鋭くしならせる。
 ハイキック一閃。
 爪先は長瀬がガードした左手越しに側頭部を捉えた。
 
「うっ」
 
 長瀬は呻いた。
 呻いた長瀬は、それでも掌を綾香の水月に繰り出そうとする。だがそれは突きと言うにもほど遠いスピードでしかない。
 綾香は易々とその反撃をかわした。
 
「それまで。時間です」
 
 凛としたセリオの声が朝日の当たる床の上に響いた。
 構えを解く少女の前に片膝を付いていた老執事は、大きく息を三度吸い込むとゆっくり立ち上がる。
 両者は開始線の位置に戻ると向き合い終了の礼をした。
 火照った体を真冬の冷気が急速に冷やしていく。
 室内とはいえ50畳もある板の間の練習場なのに暖房は入れられてはいない。雨露さえ凌げれば十分という長瀬の意見通りに30年前に作られた道 場であった。
 セリオは二人に乾いたタオルを渡すと「失礼します」と道場から出ていく。朝食の準備を手伝うためである。
 その姿を追っていた長瀬は綾香の方に向き直ると今朝の組手の反省に入った。
 
 
 
「……というところでしょうか」
「わかったわ」
 
 流れる汗を拭う長瀬。対して綾香は首に掛けたタオルもそのままにじっと長瀬を見つめ続けていた。
 
「それにしても最後の蹴りはなかなかのものでしたな。スピード、キレ、タイミング…申し分(ぶん)ございませんでした」
「…ありがとう」
「そろそろ私も綾香お嬢様の組手のお相手をするには荷が重とうなってまいりましたかな」
 
 珍しく苦笑いを浮かべながら、一抹の寂しさを老執事は感じていた。
 このところ組手において長瀬が綾香に圧倒されるシーンが間々起きて来だした。綾香の攻撃が以前にまして連続的且つ苛烈になってきたからであ る。
 若さにまかせた攻めに長瀬の肉体はスタミナの点でついてゆけなくなってきていた。
 年をとった…
 と、老執事は思う。
 
「それではお部屋にお戻り下さいませ。まもなく朝食でございます」
 
 そう言い、長瀬は2、3歩程歩き…立ち止まった。
 少女は微動だにしていない。不審に思った老執事は
 
「綾香お嬢様。お体を冷やしますぞ」
 
 と、声を掛けた。
 
「セバス」
「なんでございましょう」
「どうして手を抜くの」
 
 長瀬は綾香の目を見た。その瞳はまっすぐに老執事に向けられている。
 
「…はて?」
「どうして全力で闘ってくれないの」
「どういう意味でございますか」
「あなたの力はこんなものじゃないはずよ」
「ご冗談を。これが私の実力でございます」
「猫被ってんの? それとも私には力を出しきる必要がないって訳?」
 
 長瀬の顔に憤慨という色が浮かんだ。だが、浮かんだ色はたちまちいつもの仏頂面に隠れた。
 
「…聞き捨てならない事をおっしゃいますな。このセバスチャン、綾香お嬢様のお相手をする際に手を抜くなどという事は一切ございませんぞ」
「そう…でも、私は知っているわ」
 
 老執事は少女の瞳に怒りを見た。失望を見た。そしていままで一度も見たことがないもの…焦燥のようなものを見た気がした。
 
「あなたが鬼とも互角に立ち向かえる事を」
「それは夢でございましょう」
 
 冷厳に長瀬は言った。
 
「夢なればそのような事もありましょうぞ」
「私は強くなりたいの。たとえ鬼を相手にしても一歩も退かずに闘えるぐらいに」
 
 静寂が道場を押し潰そうとしていた。
 ふたりの視線は絡み合ったまま解れることはない。
 
「何故(なにゆえ)に」
「資格が欲しいの」
「……綾香お嬢様が必要とするものではございません」
 
 長瀬は言い切った。仕える者が主(あるじ)に発する言葉ではなかった。
 
「どうして」
「お時間でございます。学校に遅れますれば、お急ぎ下さいませ」
 
 そう言って身を翻すや長瀬は足早に戸口へ向かって歩き出す。戸口で上座に向かい一礼をした長瀬は何事もなかったかのように道場を後にした。
 ひとり綾香は取り残される。
 
「どうして…」
 
 頭(こうべ)を垂れ床を見つめながら少女はもう一度だけ小さく呟いた。
 
 
 
 
 
3.
 
 
 リムジンは朝の通勤で渋滞する車の群れの中に埋没していた。同乗者は4人。行き先は綾香の通う女子高と、その姉の通う高校である。
 車内は外の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
 運転手の長瀬、助手席に座るセリオ、そして後部シートに綾香と、その姉の来栖川芹香。
 前に座る二人は必要とされた場合以外は決して自ら口を開こうとはしない。我が身の立場をわきまえた二人である。
 後部座席の右に座る姉の芹香は全くと言っていいほどしゃべらない。本人から言わせればなかなかに饒舌(じょうぜつ)らしいのだが、その姿を見 られるのは妹と恋人のふたりだけ。もっとも彼女の場合、口数以前にその声があまりにも『か細い』ため周りの人間に聞こえないせいもあったが…
 口数はそう多くないメンバーだが、今日はいつにもまして会話がなかった。
 残るひとり、常にムードメーカーとなる人物が一言も口を開かないのだ。
 車内には重苦しい空気すら漂い始めていた。
 
「…………」(綾香ちゃん、今日は変です)
 
 薄桃色のセーラー服に身を包んだ少女が隣に座る妹に向かって何か問いかけた。静かな車内なのに言葉は聞こえない。
 
「ん…そう?姉さん」
「…………?」(風邪でも引かれたんじゃないんですか?)
「えっ、そんなふうに見えた?」
「…………」(元気ありません)
「そんなことないわ」
「…………」(休んだ方がいいです)
「大丈夫よ。それより姉さんの方こそどうなのよ。あいつとはうまくいってるの?」
「…!」(えっ!)
 
 姉の答えに妹のツッコミが入り…ようやく会話が始まった。
 ただ姉は妹のその姿にどうしても無理をしているように感じずにはいられなかった。
 やがてリムジンは寺女の正門の前に着く。すぐさまセリオが助手席から降り後部ドアを開いた。
 
「それじゃ、行って来るわね」
 
 芹香に向かってそう言い、綾香はさっさと車から降りた。そして後ろも見ずに
 
「今日は歩いて帰るから迎えはいらないわ」
 
 そう言い残すと正門の方へと歩いていく。その後ろをセリオが付いていった。
 車窓越しに妹の後ろ姿を見つめていた芹香の唇が小さく動ている。
 
「…………」(綾香ちゃん、何か焦ってます)
 
 後部座席に座る少女の呟いたその言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか…老執事は静かにリムジンをスタートさせた。
 
 
 
 夕刻、綾香の姿が姉が通う学校の前に見られた。人待ちげに立つ彼女の側には主人に負けず劣らず美しいメイドロボの少女の姿もある。
 綾香は校門の前ではなくそこから少し離れた路地に隠れるように立っていた。かれこれ1時間が過ぎている。辺りは既に夕焼けに染まっていた。
 やがて、じっと立ち続ける少女の肩がぴくりと動いた。
 正門から現れたのは彼女の姉芹香とその恋人、藤田浩之。
 その姿を認めるや否や、いったいどこから見ていたのか角を曲がって黒塗りのリムジンが音も立てずに二人の前に横付けされる。
 運転席から出た老執事は隙のない動きで後部ドアを開けた。
 二言三言、少年が言葉を交わしたかに見えた後、優雅な物腰で少女はリムジンの中へと消える。
 やがて、少年をひとり残しリムジンは夕闇の迫る街中へ走り去っていった。
 物陰から険しい顔でその一部始終を見ていた綾香は何かを決意した表情を一瞬浮かべ…すぐになに食わぬ顔をして少年の後を追いかけた。
 
「はあい、浩之」
 
 綾香の声に少年は振り返り
 
「んっ? なんだ、綾香か」
 
 そう言葉を返した。
 
「お久しぶりです。浩之様」
「おっ!? セリオもいるのか。久しぶりだな、元気だったか」
「はい」
 
 出会って早々、自分以外の女性に目がいく浩之に綾香は棘(とげ)のある言葉を投げつける。
 
「ひとり寂しくお帰りかしら」
「残念だな。今まで先輩と一緒だったぞ」
「姉さんは?」
「セバスの爺さんと一緒に帰ったぜ」
「なんだ、姉さんに振られちゃったの? 浩之」
「バカいえ。あんな成金趣味の車に乗る事を、オレのプライドが許さなかったんだ」
「…相変わらずねえ」
「ほっとけ」
 
 こんな何気ないやりとりを浩之とするのは久しぶりだ。
 好きだった。
 けれども好きになってはいけなかった。
 自分にとってなによりも大切な姉が、ようやく家族以外にその心を開いたたったひとりの男性…
 だからこそ、その姉から奪い取る事が出来なかった。淡い恋心は愛情に変わる前に終止符を打つ以外になかったのである。
 そんな浩之とこうして話をしている。
 しかし心の中に動揺を感じない。
 綾香は不思議な気持ちだった。
 自分のなかでようやく踏ん切りがついた事を綾香は確信した。だからこそ今なら聞ける気がした。
 綾香は浩之の横に並んだ。だがどうしても横にいる少年の方を向けない綾香は俯いたまま歩いていく。
 確かめたい。確かめなければ…
 普通の人とは違う世界にいる姉を選んだ彼だからこそ、自分の問いかけへの答えを持っているはずだ。
 
「今日はどうしたんだ。葵ちゃんにでも会いにきたのか」
「…ねえ、浩之」
「んっ?」
「ひとつ答えて」
「おい…いったいなんなんだ」
「あなたは『自分が姉さんの恋人である資格を持った人間』だと思う?」
「…どういう事だ、綾香」
「あなたは『自分が姉さんに相応しいか』って聞いてるの」
「………」
「答えて」
「オレは頭はよくねえし、どこかのボンボンでもねえし、天才でも努力家でもねえ…」
「…」
「将来もどうなるかわかりゃしねえ」
「…」
「けど、先輩を想う気持ちだけは誰にも負けねえ」
 
 下を向いて歩いていた綾香の顔が浩之に向けられた。
 
「周りのみんなが反対しても?」
「あなたなんかよりもっとお金持ちで、地位があって、賢い人が姉さんを好きになっても?」
「私やセバスが二人の仲を邪魔しても?」
「先輩を幸せに出来るのはオレしかいねえ。オレを幸せにしてくれるのも先輩しか…な」
「…言ってて恥ずかしくない?」
「言うなよ。自分でもわかってんだから」
 
 ちゃかされたと思ったのか、左の頬をポリポリと掻きながらも浩之はまっすぐに前を見ている。
 
「そうだな。先輩の言葉を借りれば“魂が支え合う”っていうのかな」
「……」
「先輩が言うには、人ってのは魂のどこかが欠けたまま生まれてくるんだそうだ。だから人はその欠けた魂を支えてくれる人を求めるんだってよ」
 
 昨年暮れの交霊会の日、部室で芹香は浩之にこう言った。
 
『浩之さんの魂は私の魂の隙間を埋めてくれます。そして私の魂は浩之さんの魂を…。私たちは二人で支え合って一つなんです』
 
 仄(ほの)かに輝くマジックサークルの中で手をつないで立つ二人は『好き』という想いの本当の意味を知った。二人の魂はお互いを探し求めてい たのだと。
 
「そういう意味じゃ、オレは先輩を好きになる資格を持った人間じゃねえかなって思ってる」
「……」
 
 いつの間にか二人は立ち止まっていた。二歩前にいる少年は後ろを振り返り…思い詰めたような顔をしている少女に一瞬驚いた。
 
「おい、綾…」
「ありがとう、浩之」
 
 そう言って綾香はきびすを返すと、振り向きもせず来た道を駆けていった。少し慌てたようにぺこりと頭を下げたセリオはその後を追っていく。
 その後ろ姿をあっけにとられたように見ていた少年は独り言を呟きながら再び歩き出した。
 
「あいつ…なに焦ってんだ」
 
 その言葉は、偶然にも今朝登校する綾香を見送った姉が漏らした言葉とまったく同じものだった。
 
 
 
 
 
4.
 
 
 ウッドチェアーに体を預け、長瀬はグラスを口に運んだ。
 一日の仕事が終わり、寝る前に飲むグラス一杯の焼酎が長瀬の日課だった。
 質素な長瀬の部屋に置いてあるサイドボードの中には、ウイスキーやワインから日本酒、果ては濁酒(どぶろく)やウォッカまで様々なアルコール 類が揃えてある。
 だがその多くは時折彼の部屋を訪れる来客が置いていったに過ぎず、長瀬はその棚の隅に隠れるように置いてある焼酎を飲むのが殊の外好きだっ た。
 大ぶりのグラスに氷を4つ5つ落とし、並々と焼酎を注ぐ。そのたった一杯の液体を氷が溶けるまでゆっくりと味わう。
 その日一日の出来事を振り返り、無事に一日を終えた充実感にしみじみと浸れる時間だった。
 だが今日の長瀬はいつもとは違った。
 手に持ったグラスの中で少しずつ溶けていく氷を見つめながら、長瀬はあの青年の事を考えていた。
 忘れなければいけない出来事だった。夢の中の出来事だった。
 …忘れられるはずがない。紛れもなくあれは現実に起こった出来事なのだから…
 
 
 
 あのような殺気を身に纏(まと)う人間に会った事はなかった。
 数々の修羅場をくぐってきた。死にかけた事も1度や2度ではない。長瀬の体に刻まれたいくつもの傷痕はそれを雄弁に物語っている。
 闘った男達の顔が何人も浮かんでは消えた。だがその誰からもあれほどの殺気を感じた事はなかった。なおかつ、あの鬼に似た化け物から発散して いた狂気とも違う。
 鬼に変身する前のピアス男が持っていた殺気は長瀬にとって恐るべき敵だとの認識は与えたが、決して敵わぬ相手ではないと感じられた。
 あの時、長瀬には主人を辱められた事への怒りと、久しぶりに体験する実戦への昂揚が肉体の中を駆けめぐっていたはずだ。
 それが変身した鬼と対峙した瞬間、彼は死を覚悟した。
 仕える主人の『趣味がら』常人では体験しないような出来事にも幾つか会った。それ故に人外の化け物を目の前にしようが決して臆(おく)しはし ない自信が彼にはあった。
 その自信は根底から揺らいだ。
 鬼がニタリと笑った時、長瀬の肉体は硬直した。鬼の放つ鬼気に、精神は立ち向かおうとしても肉体が死を意識したのだ。
 しかしあの青年が纏っていた殺気はそのようなレベルですらなかった。
 まるで唐突に出現したその気は殺気というよりはそこにいた鬼の鬼気に遙かに近いものであったが、鬼が放つ鬼気とは本質がまるで違っていた。
 狂気でも無ければ恐怖でもない、純粋な殺気…
 生ある者が命を捧げる事が当然ともいえるような、死を容認させる殺気…
 そしてそれを裏付けるように、鬼と青年との闘いは正に一瞬で終わった。鬼ですらあの青年にその命を与える事しか出来なかったのだ。
 倒れた鬼を見つめる青年の姿が目に焼き付いて離れない。
 あの青年と対峙すれば、自分は死を受け入れるだろう。それも喜んで…
 長瀬はそう思う。それだけの思いを抱かせる人物なのだ。
 あの柏木耕一という青年がどのような素性を持つ男なのかはわからない。だがあれだけの気を持つ男である、少なくとも陽の光の下を真っ直ぐ歩け るような人間だとは到底思えなかった。
 だからこそ、主人である少女には忘れて欲しいと願った。
 立場や身分が違うなどというものではない。存在する世界がまるで違うという事をわかってほしかった。
 それ故に、『夢だ』と言ったのである。
 その事に少女は気付いてはくれなかった。
 あの日を境に、その少女――来栖川綾香――の様子がおかしくなった。
 長瀬にとってこれは憂うべき事態である。
 あの青年に綾香の心が惹かれていた事は以前から知ってはいたが、この出来事をきっかけにしてその想いを断ち切ってくれるだろうとの長瀬の思い はすぐに裏切られる事となった。
 部屋に籠もった綾香を心配などはしなかった長瀬だが、出てきた彼女を見た時漠然とした不安が頭の中を掠めた。その不安は、朝練の組手に指名さ れた時には確信に変わっていた。
 それでも長瀬は一縷(いちる)の望みを持っていた。
 綾香の『強くなりたいから…』という言葉を信じたかったのだ。肉体の強さではなく精神の強さを彼女は求めようとしているのだと思いたかったの だ。
 修行を積むという事はなにも肉体を強くするという事だけではない。強靱な肉体があっても精神が強くなければ本当に強い人間とは言えないのであ る。肉体と精神のバランスがとれていない人間は容易にその身を持ち崩す。そんな人間達を長瀬はいくらも知っていた。
 綾香は聡明な少女である。同世代の若者達に比べれば物事の考え方は遙かに成熟していると長瀬は思っている。その彼女が言った言葉だからこそ信 じたかった。だが、結果は長瀬のその思いを打ち砕かんとする方向に向かっている。
 いつの間にか机の上に置かれたグラスの表面にうっすらと水滴が張り付いていた。
 
 Buu Buu Buu……
 
 静寂(しじま)を破る無粋なブザー音が部屋に響いたのは、そのグラスの中で半分溶けた氷がカランと鳴った時だった。
 
 
 
 
 
5.
 
 
 長瀬は部屋の雰囲気に似つかわしくない電子音を耳にするや、壁にある幾つかのランプの内の一つが点滅しているのを確認した。
 素早くチェアーから立ち上がると足早に洗面台の前へと歩く。水道の水で2度口を濯ぎ、コップになみなみと注いだ水を一気に飲み干した。そして ミラーで身だしなみを整えた長瀬は口臭スプレーを一吹きした後、上着を羽織ると部屋のドアを開け廊下へ出た。
 幾千、幾万回と通った廊下を辿り重厚な扉の前に着いた老執事は、2度ノックすると幾度となく繰り返してきたセリフを口にする。
 
「お呼びでございますか。大旦那様」
 
 ここは老執事の先代主人…現主人の祖父…来栖川グループの創始者…来栖川香之助の部屋だった。
 
 
 
「入れ」
「はい」
 
 老執事は音も立てずに扉を開き、流れるような足取りで部屋の中に入った。そして開けた時と同様に音もなく扉を閉めた。
 扉に劣らず重厚な部屋の造り、置いてある調度品は全て超弩級の値が張るものばかり。仄(ほの)かな明かりを醸し出すスタンドはガレだ。
 だがその全てがまとまり作り上げる部屋の印象はあくまで落ち着いている。いや、色褪せてすら感じる。
 そこにいるただひとりの人間の存在が、アクの強い部屋の雰囲気を己の支配下に置いているからだ。
 分厚いマホガニーのテーブルの向こう、本革張りのソファーに沈むように小柄な老人は座っていた。来栖川香之助である。
 年をとって縮んだ体ではなく元から小さな体格であるが、その体から溢れてくるオーラは尋常ならざるものがある。自然体なのに人を圧倒するそれ を王者の風格と呼ぶのかもしれない。
 
「夜分、大儀じゃったな」
「滅相もございません。大旦那様」
 
 老執事は直立不動の姿勢のままで来栖川老を見つめながら答えた。
 
「もう飲んだ後じゃったか?」
「申し訳ございません」
 
 十分に注意したつもりであっても長瀬がすでに日課の全てを終えていた事に香之助は気付いていた。
 
「かまわん。このような時間に呼ぶ方が悪いのじゃからな」
「…どの様なご用でございましょうか」
 
 長瀬はこれ以上の社交辞令は来栖川老に失礼に当たると考え本題を促した。
 
「まずは座れ」
「しかし…」
「2度も言わすな、セバス」
「わかりました」
 
 来栖川老の真正面に対する位置に座り姿勢を正す老執事に、彼は些(いささ)か苦笑気味に声を掛けた。
 
「儂等だけの時ぐらいその生真面さをやめられんのか」
「申し訳ございません。職務中ですので」
「変わらんな」
「昔とは違いますれば…」
 
 来栖川老は普段と変わらぬ老執事の瞳の奥に過ぎた時間を見たような気がした。2度と戻る事のない二人だけの過去の時間…
 
「孫が迷惑を掛けておるようじゃな」
「とんでもございません。私も綾香お嬢様のおかげでこの頃すこぶる調子が良うございます」
「どうじゃ、あれの様子は」
「ますます腕に磨きが掛かってきておられます。近い内に私も敵わぬようになりましょう」
「おまえがそこまで言うとはな…喜んでいいものやら」
「綾香お嬢様には必要なものでございます」
「格闘技もよいがもう少し女としての器量を磨いてもらいたいものじゃな」
 
 今度は長瀬の方が苦笑せざるをえなかった。泣く子も黙る来栖川グループの支配者でも、在り来たりの老人と同じ悩みを持つのだろうか。孫娘のや んちゃさに心配の種が尽きないのかもしれない。
 
「あの綾香が朝早くから起きているなど、いきなり夏が来そうじゃわい」
 
 珍しい冗談に老執事は生真面目に応えた。
 
「それは綾香お嬢様にあまりにも失礼でございましょう。あのお方はやれば出来る方でございますから」
「ふふふ。そうか」
 
 目を細めて香之助は笑った。
 
「変われば変わるものじゃ」
 
 だが、来栖川老の笑顔は徐々に収まってゆく。人の心の奥底までも見通す眼光が瞳の奥から漏れだしてきた。
 
「女は変わる…男でな」
 
 目の前の老人の雰囲気は完全に変わった。長瀬は何故自分がここに呼ばれたのかその理由を知った。
 
 
 
「柏木耕一という男を知っておろう」
「存じません」
 
 香之助の問いに対し長瀬は答えた。
 
「ほう、セバスでも知らぬか」
「私の記憶ではそのような人物に面識はございません」
「セバスよ、儂も馬鹿ではないぞ。孫娘がつまらん目に遭った夜、何が起こったかぐらいは知っておる」
「あの日の出来事は報告書と口頭にて大旦那様と旦那様にお伝えいたしました。それが全てでございます」
「では言おう。あの現場にはもう一人、男が居ったはずじゃ」
「居りません。綾香お嬢様と犯人、そして私の3人のみでございました」
 
 二人の男は分厚いテーブルを挟んで無言のまま向かい合っていた。
 
「……そうか…おまえがいないと言うんじゃ。ならばいなかったのじゃろう」
 
 来栖川老はゆっくりと目を閉じた。老執事はその姿を見ても眉一つ動かさず座った時と同じ姿勢のままでいた。
 やがて再び目を開けた香之助は、自身が座っているソファーの横にあるミニテーブルの上の封筒に手を伸ばした。そして、その封筒を長瀬の前に置 いた。封筒の表紙には「柏木耕一に関する報告書」と書かれてあった。
 
「それを見よ」
 
 長瀬は手に取った封筒を開け中身を出した。大判の写真が数枚とA4のレポート用紙10数枚からなる報告書だ。
 元来、こういう内々に行われるような調査は必ず長瀬を通して香之助は指示を出していた。今見るこのレポートを長瀬は初めて見る。これはこの調 査が長瀬がまったく知らぬ内に行われたものであった事を意味していた。
 
「その男を見た事があるか、セバス」
 
 盗撮されたに違いないようなものから証明写真のように上半身がきっちり写ったものまで4枚の写真を一通り見た長瀬は無表情のまま
 
「ございません」
 
とだけ答えた。
 
「うむ…」
 
 来栖川老は小さく頷いた。
 
「では、セバス。その男を見ておまえはどう感じる」
 
 静謐(せいひつ)さすら湛えた目で見つめられる長瀬は底知れぬプレッシャーを感じていた。齢(よわい)80を越えた目の前の老人は、初めて 会った時と少しも変わってはいない事をまざまざと彼に感じさせる。
 
「恐ろしい男ですな」
「ほう…それから?」
「哀しい男です」
「そう思うか…」
 
 ソファーの背もたれにその身を委ねながら来栖川老は小さく息を吐いた。
 香之助にとって長瀬の頑(かたく)なな態度は、主従の関係となって以来初めての事だった。
 先に言ってのけた通り、綾香を巡る一連の事件において何が起きていたのか、そのあらかたを香之助は把握していた。
 柏木耕一という人物の存在は確かなものである。そして綾香が耕一に対し好意を持っている事、その耕一が綾香の人生観に影響を与えるような存在 である事が、来栖川老にとって極めて重大な関心事であった。その事を目の前にいる老執事が理解出来ないはずがない。
 隠している。
 それが香之助の考えだった。
『大切な孫娘に付く悪い虫』などという低レベルな話ではない。来栖川という巨大コンツェルンに関わる問題とも成り得る可能性をこれは秘めてい る。
 芹香の時にも、香之助は藤田浩之という少年について徹底的に調べ上げた。とりわけ芹香の場合は香之助が溺愛していただけに、最初から二人を引 き離そうとばかりに『重箱の隅をつつくが如く』の調査だった。孫娘の幸せを願わない祖父など居はしないが、気に入らないものは気に入らない。なんとしても 別れさせようとした調査の結末は、手痛い芹香のしっぺ返しだった。
 ついに二人の仲を認めたのは調査の結果、藤田浩之本人に対しては――多分に主観混じりではあるが――不足、不満は大いにあったものの、彼を取 り巻く環境に来栖川を脅かすような問題はなく、最終的にはお目付役の長瀬が少年を擁護したからに他ならない。
 その長瀬がこの青年には『イエス』とも『ノー』とも答えずその存在自体を否定した。
 だからこそこの柏木耕一という人物がどのような人間なのかを尚更知りたかった。長瀬源四郎をしてそう思わせる人間とはいったいどのような人物 なのか香之助には興味があった。
 
「どのように恐ろしい。どのように哀しい。思った通りの事を言ってみるがよい」
「降りかかる火の粉全てを薙ぎ払う事がこの男には出来るから恐ろしい。そしてその力を持っているが故に哀しいのでございます」
「その力、儂等にも向けられるか」
「降りかかる火の粉全てでございます」
 
 こんな会話をする事自体が青年の存在を肯定しているのを長瀬はわかっている。だが、香之助の疑問が殊(こと)個人の問題に留まらない事も理解 していた。来栖川という組織に対しての影響を考えた場合、黙ったままという訳にはいかなかった。来栖川老の問い掛けはそんな老執事の事情を察しての問い掛 けであり、それに対し長瀬は自身の意見をこういったカタチで答えたのである。
 たっぷり5分も押し黙ったままだったろうか。長瀬は香之助の次の言葉を待った。
 
「忘れろ。という事か」
 
 独り言のように来栖川老は言った。
 
「…」
 
 老執事は答えない。ただ、両の瞼を一度ゆっくりと瞬きしただけであった。
 
「…そうか」
 
 張り詰めた空気が僅かに緩んだ。
 
「もう一つ、聞かせて貰おう」
「なんなりと」
「この男は惚れた女を幸せに出来ると思うか」
 
 あまりに無造作に投げかけられた問いに長瀬は片眉をぴくりと動かせた。
 忘れる…いないはずの人間に、何故香之助はこの問いかけをするのか。この問いは藤田浩之に対して彼が長瀬の意見を聞いた時とまったく同じもの だったのだ。
 香之助は報告書を読んで柏木耕一が非常に興味深い立場にいる事を知った。今はただの三流大学生だが将来、巨大旅館グループのトップに立つ可能 性を持った青年に対し、企業家としての欲が顔を覗かせていた。もしもこの青年が綾香と一緒になれば労せずして来栖川グループに観光事業という新しい分野が 加えられるだろう。
 だが今の長瀬の言葉を聞いて彼が扱いようによっては非常に危険な人物と成り得ると判断出来た。忘れろというのはイコール関わるなという事に他 ならないからだ。
 それでも香之助がこの質問を長瀬にぶつけたのは、祖父として孫娘の惚れた男がどれ程の男なのかを知りたかったからに他ならない。愛し合う男女 の仲を引き裂く事がどれだけ無粋な真似かを芹香の時に体験した香之助は、長瀬の答え如何(いかん)では綾香の自由にさせてやるつもりだった。
 長瀬はあの時の会話を思い出していた。たしかあの時は『彼でしか出来ますまい』と言葉少なに答えたはずだ。来栖川老はその答えに、静かにそし て少し寂しい笑顔で頷いただけであった。
 
「この男に惚れた女は幸せでしょうな」
 
 今、老執事はこう答える。
 
「そして、この男が惚れた女は不幸せでございましょう」
 
 この青年は大切な者を守るためならば、己の全てを捨てて如何様な事もする人間である。
 煙たい存在だった綾香を、命と社会的存在を捨てて救った事からもそれは推察出来る。責任感が強いと言ってしまえば身も蓋もないが、あまりにも 自己犠牲が強すぎるきらいもある。献身的愛、それも尋常ではない愛のカタチをこの青年は持っている。
 そんな青年を愛せる女性は至福の歓びを感じる事が出来るだろう。
 だが、背負った業(ごう)の大きさ故に青年の歩む道は荊(いばら)の道に違いなかった。
 その道を共に歩もうとする女性に心休まる時が来るとは到底思えない。
 やがて自分の存在が青年の重荷になる事に気付くだろう。守られ支えられるだけの存在でしかないと知った時、女は自分の弱さを思い知らされるだ ろう。
 愛されれば愛されるだけ、女は自らの存在価値を見失ってゆくに違いない。並の女では押しつぶされるだけだ。
 これが来栖川老の問いに対する老執事の答えだった。
 その言葉の意味を噛みしめるようにじっと目を閉じ微動だにしなかった香之助はゆっくりと目を開いた。
 
「下がってよろしい」
「かしこまりました」
 
 すっくと立ち上がった老執事は一分の隙もない動きで扉へと向かって歩き出した。
 
「待て」
 
 三歩歩いたところで呼び止められた長瀬はくるりと向きを変えて香之助を見つめた。
 
「もう一度聞く。セバス、おまえは本当に柏木耕一という男に心当たりはないのじゃな」
「ございません」
 
 野太い声であった。間髪入れぬ返事であり、そして滑稽な答えであった。
 今までの会話からすれば長瀬が耕一を知っていると断言出来るのにそれでも彼は知らないと言う。長瀬の鋼の意志を香之助は感じ取った。
 
「その報告書はおまえの手で処分するがよい」
 
 来栖川老は柏木耕一という人間を完全に忘れ去る事に決めた。
 
「御意」
 
 テーブルに戻った老執事は封筒を拾うと部屋を後にした。来栖川老は再び口を開く事はなかった。
 
 
 
 
 
6.
 
 
 長瀬はグラスを口に運んだ。
 先程と同じウッドチェアー、先程と同じ姿勢で先程と同じ焼酎だった。
 ただ違うのは先程はグラスの中に沈んでいた氷が今は入っていない事だけだ。
 口の中に濃度の強いアルコール臭が広がった。鼻に抜けるその匂いを嗅ぎながら、長瀬はそれを嚥下(えんか)した。
 視線はデスクの上、そこに置いてあるレポートの束。
 柏木耕一のほぼ全てがそこにあった。
 
 
 
 自室に戻った長瀬は香之助の部屋から持ち帰った報告書を1時間かけてじっくりと読み通した。
 以前にも自力で青年の事を調べた事があったが、このレポートは内容においてその比ではなかった。
 生まれや学歴はいうに及ばず、交友関係や血縁に至るまで事細かく調べ上げられた中身を読むにつけ、つくづく来栖川の持つ情報収集力の凄さを思 い知らされる。
 隆山でも有数な名家の出である事。小学生の頃に、父親が家庭を捨て隆山に住む従姉妹達の保護者となった事。その後もグレたりせず残された母親 と生きてきた事。その母親が亡くなった後も一人で生活している事。父親が昨年亡くなり天涯孤独の身となった事。その父親を奪った従姉妹の中で長女である女 性が会長を務める鶴来屋という巨大旅館に就職が決まっている事。将来は会長職を委譲されるであろう事。従姉妹達の中の一人と恋仲である事……
 長瀬がその素性を知りたかった青年はこの報告書によって丸裸にされたも同然だった。
 そして、報告書を読み切った長瀬はサイドボードから再び焼酎を取り出してグラスに注いだのである。
 瞑想に耽るように青年の正体に思いを馳せる長瀬は、考えれば考える程にわからなくなっていた。
 不遇な境遇ではあるが彼が歩んできた人生の中であの殺気を身につけるような原因がどこにもなかったからである。
 不自然な点はある。彼の父親、叔父夫婦が不可解な死を遂げている事だ。だが、それとても彼に直接関係することではない。
 現時点で長瀬が確信を持てる事、それは青年が人を殺した事があるという事だけだ。
 何故そう思えるのか。
 あの殺気――鬼気といった方が正しいだろうか――は、人を殺した事がなければ身につけられないものだからである。
 自分にも当てはまる。自分も殺気を身につけているからだ。人を殺した事があるからなのだ。
 
 
 
 長瀬源四郎が生まれたのは昭和に入ってすぐの事であった。
 生まれついて体の大きかった少年は腕力でも誰にも引けを取らなかった。
 そして親から『世のため、人のため、国のために生きろ』と教え込まれた彼は曲がった事を見過ごせない正義漢として育った。そんな少年が、力に モノを言わせて悪い奴らを叩きのめすのは彼自身にとっても爽快な事であった。
 折しも時代は風雲急を告げ、日本は大陸へと進出し列強各国と険悪な状態になりつつあった。大国から虐げられているアジアの人々を解放し大東亜 共栄圏を築きあげるというスローガンは、そんな少年の心を魅了してやまなかった。
 満州事変が勃発し、太平洋戦争が始まると彼は軍人として参戦する日を心待ちにするようになっていた。
 戦局悪化で年齢制限が引き下げられて召集令状が届いた時、少年は狂喜乱舞したものである。
 だが、軍人として大陸へ渡った彼は日本が支配した土地で日本軍がどのような事をしているのかを目の当たりにして愕然(がくぜん)とした。
 略奪、暴行は日常茶飯事、有らぬ嫌疑をかけて地元民を殺す同胞を見て異を唱えた彼を待っていたものは上官の拳と仲間達のいじめだった。
 そして運命の日。
 昭和20年8月9日、怒濤の如くソ連軍が侵攻を開始。日本軍は反撃はおろか組織的防衛もままならず壊滅した。
 その最中(さなか)に長瀬は初めて人を殺した。
 撲殺だった。
 ソ連軍を迎え撃つ日本兵にはまともな武器弾薬はなかった。目の前に現れたソ連兵に長瀬は無我夢中で殴り掛かり…気が付けば両手を血で真っ赤に した長瀬の足下に顔の形すらもわからぬほど変形した人間が倒れていた。全身の震えが止まらなかった。その震えが止まらぬ内に彼は別の敵に襲い掛かっていっ た。
 そのたった一日で長瀬は3人の命を奪ったである。
 だが多勢に無勢。ソ連軍に包囲された村の中で長瀬は討ち死にを覚悟する。国の為に死ねるという事だけが彼にとって慰めだった。
 そんな長瀬を、なにかと可愛がって面倒をみていた二人の古参兵が叱咤した。
『逃げろ』と。
『日本へ戻り二度とこんな無駄死にをせずにすむ国を作れ』と。
『それがお前達、若者の使命だ』と。
 渋る長瀬の背を押してすぐ後、銃弾を蜂の巣のように浴びて倒れる古参兵は最後に『生きろ』と言った。
 だから長瀬は逃げた。日本へと向かって…
 それからの事を長瀬は今も忘れたいと思う。思いながらもどうしても忘れる事が出来ない。そのように悲惨な脱出行だった。
 生い茂る草の中に身を潜め、泥の中を這い回り、民家に忍び込んで食い物を盗んで食べた。
 敵はおろか、地元民にも見つかれば殺される事は間違いない。毎日が死と隣り合わせだった。
 敵兵を何人も殺した。人を殺す事に何の感情も持たなくなっていた。
 日本海に面した港まで辿り着き、日本行きの輸送船に潜り込めたのは奇跡以外の何物でもない。
 そのようにして逃げ帰った日本は長瀬の希望を、未来を、完膚(かんぷ)無きまでに打ち砕いた。
 価値観は逆転し、正義などどこにもない。狡(ずる)い者、強い者だけが肥え、弱い者はやせ衰えて死んでいく。
 こんな国のために生きてきたのか…
 長瀬は荒れた。
 自暴自棄になった彼は、日々をゴロを巻いて惰性で生きていくだけとなった。
 強そうな男を見つけては喧嘩をふっかけて、その相手を倒して悦に浸った。
 この時期に彼の死生感は大きく変わっていく事になる。
 当初、『いつ死んだって構わない』という捨て鉢な思いが誰にでも立ち向かわせていった大きな理由だった。死にそびれた人間が死に場所を求める ように、不利な状況を見つけては戦いを挑むようになり…幾つもの死線をくぐる内に、やがて『死に限りなく近い生』に快感を覚えだしたのである。
 喧嘩相手は素手の相手だったのが、やがてヤッパ(刃物)やチャカ(拳銃)を持った相手へとなるのにそう時間は掛からなかった。そして、そんな 相手は裏街道をいく者――ヤクザ者――しかいない。いつしか長瀬は『極道潰し』の異名を持つに至った。
 そのような時に運命の出会いがあった。
 来栖川香之助との出会いだった。
 
 
 
 それはいつものように闇市を流しながら喧嘩相手を物色中だった昼の最中(さなか)の出来事だった。
 一人の小柄な男を3人のチンピラが取り囲んでいた。
 年の頃は長瀬よりも5から10は上だ。身長こそ160センチにも満たないが、こざっぱりとした身なりからして良いとこの出のようだった。
 おそらくチンピラ達は難癖をつけて金でも巻き上げようとしたのだろう。
 だが、取り巻いたチンピラ達はドス(短刀)を手にしながらも今ひとつ男に対して突っ張り切れていない。取り囲んだはいいがそれから先どうして いいものかわからないようだった。
 格が違う。
 長瀬はそう思った。
 男は取り巻いているチンピラ達の一人とでも、殴り合いになればボコボコにされるのがオチなくらいの体つきにしか見えなかった。
 だが溢れてくる重圧感がある。男が身に纏うオーラは長瀬でも傅(かしづ)かずにはいられない程の力量感があった。
 長瀬は野次馬の一人にしか過ぎないのに目の前の男に圧倒されていた。
 そのとき、チンピラ達に鋭い眼差しを向けていた男の顔が偶然自分を見た。
 心の奥まで見透かされたような気がした。
 1秒後、男は笑った。
 旧来の友に街角で偶然出会ったようなような笑顔だった。
 10秒後、長瀬は倒れ伏す3人のチンピラの側で男の横に立っていた。
 自然に体が動いた結果だった。
 10分後、二人は屋台に並んで座って酒を飲んでいた。
 二人は親友となった。
 それからの1年が長瀬にとっては最良の時間だった。友と二人、大いに笑い、大いに飲み、大いに暴れた。
 お互いを『源四郎くん』『香(こう)さん』と呼ぶ二人はいつも行動を共にした。香之助は戦後の混沌とした都会の至るところを歩き回り、長瀬は 道案内兼ボディーガードのような役回りをして、その行く先々で香之助にちょっかいを出そうとする者を相手に大立ち回りを演じた。
 長瀬は香之助の側にいることがとても心地よかった。彼の発するオーラに身を委ねると荒(すさ)んでいた自分の魂が癒されるような気がした。
 その香之助は年こそ長瀬よりも上だったが長瀬を自分と対等に扱っていた。屋台に行こうが高級レストランに行こうが二人は同じ物を食べ、同じ酒 を飲んだ。
 長瀬は香之助が平安の世から続く名門『来栖川家』の当主である事を知ったが、そのような事をおくびにも出さない彼が好きだった。ただ、彼が街 中でふと立ち止まり物思いに耽(ふけ)る姿に疑念を感じずにはいられなかった。彼が見つめる視線の先は、焼け落ちた軍需工場であったり、バラック街であっ たり、物乞いをする親子であったりした。それらは全てあの忌まわしい戦争の傷跡だったのである。
 
 
 
 そんなある日、香之助は上野の駅前で長瀬に向かってこう言った。
 
「源四郎くん。日本は何故戦争に負けたと思う?」
「香さん。なんだい、いきなり」
「武器が無かったからか? 食い物が底をついたからか? 無能な政治家がいたからか? 愚かな軍人のせいか?」
 
 長瀬は満州での惨劇を思い出した。
 撃つ弾すらもなく銃剣のみで立ち向かった仲間達。彼等は馬鹿な指揮官の命令で玉砕していった。
 だが香之助の答えは違った。
 
「どれでもない。この国が…日本が世界から必要とされていなかったからだ」
「どういう…」
「必要とされるモノは無くなったりはしない。いらない、邪魔になるから消えてゆくんだ。…だが、幸いにしてこの国は未だ生き残っている。それは まだ何かにこの国が必要とされているからだ」
 
 香之助は指さした。長瀬はその先にあるものを見つめた。
 
「あの靴磨きを見てみろ。年端もいかぬ子供がその日食う金をああやって稼いでいる」
「彼等だ。彼等達にはこの国が必要なんだ。なのに…」
 
 十にもならないだろうその少年は人生に疲れたような顔で一心不乱に目の前に座った大人の靴を磨いていた。
 
「源四郎くん、子供は笑わなくてはだめだ。未来を見つめなければ嘘だ。私は自分の子や孫にあの子達と同じ塗炭(とたん)の道を歩ませはしない」
 
 長瀬の脳裏に古参兵の顔が浮かんだ。
『無駄死にをせずにすむ国を作れ。』
 彼の死の間際に吐いた言葉がフラッシュバックする。
 
「…そう…か」
「私は決めた。この国が世界から必要とされる国にしてみせる」
「えっ?」
「今の私には僅かな金と来栖川という取るに足りない血筋しかない。だが、君と一緒に見てきたこの焼け野原…私でも出来る事がある」
 
 香之助は長瀬を見据えた。長瀬もまた香之助を見つめ返した。
 
「君が必要だ。私の手足となってもらいたい」
 
 何のために今を生きているのかわからくなった長瀬にとってこの言葉は大きかった。必要とされない存在だと思っていた自分が何の役に立つという のだろうか。
 
「君や私のまだ見ぬ子供達のためにこれからを生きようじゃないか」
 
 長瀬は古参兵の言った言葉をもう一度噛みしめた。
『それがお前達、若者の使命だ』
 自分の子供達が無駄死にをしない未来をつくる事が生き残った自分に与えられた使命だったはずだ。
 
「……わかった」
 
 この瞬間から友の関係は主従のそれと変わった。
 これから後、香之助のサクセスストーリーの陰に長瀬は常に居続ける事になる。
 戦後の荒廃期を積極果敢に攻めた香之助。彼には当然の如く敵も多くいた。中には物騒な連中もおり、命を狙われる事も度々だった。そんな時、長 瀬は正に盾となって香之助の命を守り、矛(ほこ)となって塞がる敵を粉砕した。
 やがて香之助が屋敷を構えた後は執事となり彼の側に付き従うようになったのである。
 
 
 
 長瀬が身につけた殺気は、血と殺戮と、生死を賭けた闘いを繰り広げてきた半生の落とし子である。
 香之助は長瀬の殺気をいみじくもこう言った。
 
「お前の闘気は哀しいな」
 
 長瀬源四郎という人間をよく知った香之助だからこそ言えた言葉だった。
 その殺気を、いやそれ以上の鬼気をあの青年は何故纏(まと)えるのか。柏木耕一という男の人生に何が隠されているのか。
 空になったグラスを握りしめ、長瀬はいつまでも写真に写る青年の姿を食い入るように見つめ続けていた。
 
 
 
 
 
7.
 
 
 空調の行き届いた部屋の中に鋭い空気の流れが奔(はし)った。
 電気仕掛けの少女が一人、戦(いくさ)の舞を踊っていた。
 セリオの繰り出す高速の突き、蹴りはその少女の無表情さ故に不気味にすら感じられる。
 やがて一連の動きが終わったのだろうか、セリオはスラリと立つと
 
「データ再生、終わりました。もう一度繰り返しますか、綾香様」
 
 と、問いかけた。
 
「んっ?」
 
 唐突に声を掛けられた綾香は一瞬ビックリしたようにセリオを見たが、
 
「あっ、ああ、もういいわ。…ありがとう、今日はこれでおしまいにしましょう」
 
 と、答えた。
 
「はい」
 
 そう言うとセリオはレオタードの上にガウンを羽織りドアへと歩いた。ドアの前で回れ右をして綾香の方を向いたセリオは無感情無表情な声で言っ た。
 
「それでは明朝5時半に参ります。お休みなさいませ」
 
 深々と礼をした後、ドアを開けて出ていく。隣りにある控え室へと戻ったのである。
 パタンと閉じられたドアの音を背中で聞きながら綾香はノートパソコンのキーを叩いた。
 
「ふう…」
 
 ため息を一つ
 
「やっぱしダメね。考え事をしながらじゃ身になんないわ」
 
 綾香がセリオを使ってやっていたのは格闘技のシュミレーションである。
 ライバルを偵察する時、綾香は必ずセリオを連れていく。彼女達の動きをセリオに見させて、サテライトサービスを使いその生のデータを屋敷のパ ソコンに入力するのである。得られたデータを研究して彼女達の癖を見つけだすのだ。それのみならず、そのデータをセリオを使って再現させる事によって綾香 は自室に居ながらにしてライバルと――実際はライバルを真似たセリオ相手だが――模擬格闘戦すらも行えるのである。
 セリオがレオタードを着ていたのは細かい体の動きをチェックするためのものであった。
 だが、今日の綾香はどこか上の空でセリオがやるシュミレーションをまったく見てはいなかった。ちなみに実行されていたデータは綾香の後輩の松 原葵のものである。
 綾香の頭の中では耕一への想いが渦巻いていた。
 
 
 
先輩を幸せに出来るのはオレしかいねえ。オレを幸せにしてくれるのも先輩し か…な
 私はどうなのだろう。
 綾香は自問する。
 私は幸せになれるんだろか。私は幸せに出来るんだろうか。
 たまらなく愛しい。
 どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。
 初めて出会った時から、どこか気になる人だった。
 カッコいい訳ではない。どちらかといえばお人好しにすら見える風貌。でもどこか陰のあるその態度に興味が湧いた。
 掛け値無しに強いと思う。
 ナイフを持つ人間を相手に少しも怯まず立ち向かえるような人間を、綾香は長瀬しか知らない。だからちょっかいを出してみることにした。
 強引に付きまとう少女を、拒否こそしなかったものの煙たがりはした。
 綾香は自分の容姿にそれなりの自信を持っていたし、性格だってそんなに悪くはないとも思っている。実際、アメリカでは彼女の周りにはいつも多 くの男友達がいた。
 そんな彼女があからさまに嫌がられたのは初めてだった。いつもの綾香なら自分から付き合うのを止めていたはずだ。
 だが、そうはならなかった。
 青年の強さが少女を惹きつけたからだ。
 彼が何かとてつもないモノを背負い込んでいるとは感じられた。だがそれをおくびにも出さず歩いてゆく様(さま)に本当の強さを感じた。
 自分が持たない強さに憧れる事の何が悪い。
 裕福な環境と恵まれた才能は綾香に欲しい物全てを与えたが、初恋に傷付けられた彼女の心は自分を包み込んでくれる強さを持った人間の登場を待 ち望むようになっていた。その人間が耕一であった。
 そして、もう一つ…
 青年が自分と同じように心の底では誰かに救いを求めていると感じられたからだ。
 強いくせにそれをひけらかしもせず孤独を貫こうとする。ほんとは寂しいくせに…
 なぜ、どうしてそんなに一人で居ようとするの?
 私ならあなたの側にいつもいられるわ。
俺には好きな女性(ひと)がいる
 片思いか遠距離恋愛かはわからないが、彼のすぐ側にその女性がいない事だけは薄々感じられた。
 でも今の耕一に必要なのは彼の側に居て彼の孤独な心を癒してあげられる人…
 
 
 
そうだな。先輩の言葉を借りれば“魂が支え合う”っていうのかな
 そう、私の魂はあなたを支えてあげられる。
 あなたを想う気持ちは誰にも負けはしないんだから。
 あなただってきっとそうよ。
 だってあなたは来てくれた。
 あの倉庫へ…わたしのもとへ…、命を懸けて私を助けに来てくれたじゃない。
 私にはあなたを好きになる資格があるわ。無いのはあなたの足手まといにならないための力だけ。
綾香お嬢様では釣り合えませぬ
 わかってる。今の私じゃ、あの男性(ひと)の側にいられるだけの力なんて無いもの。
 だからこそ力が…力が欲しい。
 鬼にも負けないだけの力が…
 
 
 
 綾香が全力で闘ったのにあのピアス男には一矢も報いる事は出来なかった。
 その男は暗く寒い倉庫にロープで吊された少女から、いたぶるようにその身に付ける衣服を一枚づつ引き裂いていったのである。
 スカートを剥ぎ取られ、ブラジャーをむしり取られながら、少女は手も足も出ずただ目の前の男を睨み付ける事しか出来なかった。
 その結果として綾香は耕一のもう一つの姿を知った。だがそれは彼にとってあまりに大きな業を背負わせる事でもあった。
 あの時自分にピアス男に対抗出来る力があれば、倉庫から出ていく青年の苦悩する背中を見ずに済んだはずだ。
 力無き者に青年の側にいる資格はない。
 倉庫から寒風吹き荒ぶ波止場へ出た時、綾香はどうしようもない無力感に苛(さいな)まれていた。
 だが、そのピアス男に長瀬は対等以上の闘いを演じて見せたのである。この事は綾香にとって少なからずショックであった。
 今まで幾度となく綾香は長瀬と組手をしてきたが、長瀬の実力を自分とほぼ互角と評価していたからだ。
 父から老執事の過去の話しをよく聞かされていた少女はアメリカにいる時から彼と組み合える事が望みだった。
 帰国して初めて立ち合った時、彼女は数々の武勇伝が誇張混じりの話しであったのではないかと思えた。
 確かに強い。だが、驚くような強さとも感じない。
 その印象はあの時まで変わる事はなかった。そう、あの時までは…
 恐るべき殺気を身に纏いながら襲い掛かってくるピアス男。凶暴凶悪なそいつを老執事は完全にいなしていた。
 あの男が変身さえしなければ最後に勝っていたのは間違いなく長瀬だったはずだ。
 驚きはやがて怒りへと変わっていく。
 自分に対して長瀬は手加減していた。
 騙された思いだった。その思いが毎朝の組手での綾香の激烈さにつながっていた。
 長瀬を倒したい。それも本気の長瀬を…
 鬼に並ぶ力を持つ人間に勝つ事が鬼をも越える事を意味する。
 老執事を越える事が耕一の側にいる資格を得る唯一の方法であると綾香は考えたのだ。
 だが、いくら闘っても長瀬はあの時の長瀬ではなかった。
 自分に対して老執事は手を抜いているとの思いは日に日に膨らんでいった。
 
 
 
 『電源を切る準備が出来ました』の表示がディスプレイに映っている。
 それをぼんやりと見つめる少女の瞳に一人の女性の姿が浮かんだ。
 あの日から幾度となく綾香は耕一の通う大学の前を訪れた。
 正門の前で隠れるように立っていた綾香。
 だが耕一に会う事が出来なかった。
 会えばきっと彼はあの時の事を思い出す。彼の苦しむ様を見るのは辛かった。
 いや、会う勇気がなかったのだ。愛する青年に拒絶されるのが怖かったからだ。
 会えなくてもいい。彼の近くにいるだけでいい。
 そう思って納得しようとする自分が滑稽だった。自分はもっとアクティブでどんな事でも前向きに考える性格だったはずなのに。
 そんな一昨日、偶然綾香は街中で耕一の姿を見つけた。
 その傍(かたわ)らには一人の女性が佇(たたず)んでいた。耕一の想い人である事はすぐにわかった。彼のはにかむような笑顔が全てを物語って いたからだ。
 そしてその女性は、耕一の全てを包み込むような微笑で見つめていた。
 綾香はいたたまれなくなり逃げるようにその場を去った。
 そこにあるのは、信じ合い、愛し合い…求め合った者だけがお互いの心を交わせられる世界。
 その世界の中にどうして自分はいないのだろう。
 あの女性と同じように彼の側にいたい…
 あの笑顔を自分に向けて欲しい…
 あの男性(ひと)を私だけのものにしたい…
 綾香はノートパソコンの蓋を閉じた。そして、その横に置いてある携帯電話を手に取るとメモリーを呼び出した。
 呼出音が鳴ると同時に隣の部屋にいるセリオの声が聞こえる。

「はい、綾香様。なにかご用でしょうか」
「ゴメンね、遅くに。…明日の朝の事なんだけど……あなたはトレーニングには付き合わなくてもいいわ」
「あの…よろしいのですか?」
「ええ…そうよ」
「…わかりました」
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」

 用件だけ伝えるとすぐに通話を切る。
 
「ごめんセリオ…でも…」
 
 待ち受け画面に映る綾香とセリオの姿を見つめる瞳に強い光りが灯った。
 
「やらなくちゃ……やらなくちゃ。私が私でなくなっちゃう」
 
 耕一への想いは募る。
 それはどす黒い焦燥感を伴っている事に、彼女自身気が付いてはいなかった。
 
 
 
 
 
8.
 
 
 長瀬が道場に入って来た時、綾香は開始線上に立っていた。
 毎朝の組手の時間だった。
 いつもなら長瀬の方が先に道場に来て綾香が来るのを待っている。それにいつもなら居るはずのセリオがいない。
 訝しみながらも神棚に向かい一礼した後、長瀬は
 
「お待たせいたしました、綾香お嬢様」
 
 もう一方の開始線に立ち、言った。
 
「セバスチャン」
 
 綾香が口を開いた。
 
「あなたは何故鬼と闘えたの?」
 
 老執事は沈黙でそれに答えた。
 
「答えなさいっ! セバスチャン」
 
 少女の瞳は老執事の眼を捉えて離さない。老執事のそれもまた綾香から外れる事はない。
 1分たった。
 静止した時の流れは、綾香の疲れ切ったような声で再び流れ出した。
 
「あの時、あなたが纏っていた気を、私は今まで一度として感じた事がなかったわ…。それはその必要がなかったからよ。そういう相手がいなかった んですもの。当然よね」
 
 少女は言葉を続けた。
 
「でも奴に出会った」
 
 綾香の口から白い息が吐き出される。朝の道場は冬の寒さ以上の冷気が満ち始めていた。
 
「奴に出会ってあなたは本当の力を出さざるを得なかった。そしてあの鬼が放っていた毒々しさにも負けない程の殺気を身に付けていたからこそ、あ なたは奴と闘う事が出来たのよ…それが答えじゃなくって?」
「そうであればどうだとおっしゃるのでございますか」
 
 初めて、老執事は口を開いた。
 
「綾香お嬢様が見られた夢の中で、私がどのような事をしたのかは存じませぬ…ですが、夢は所詮夢。二度と見ることのない夢でございますぞ」
 
 抑揚のない、感情のこもっていない声はなおも続く。
 
「いつまで夢を見続けるおつもりですかな」
「夢じゃないわ! 現実よ。決して夢なんかじゃない!!」
 
 少女は言った。
 
「ならば忘れなさい。それが綾香お嬢様にとって一番の幸せです」
「忘れられる訳ないじゃない! だって、…あいつは…耕一はほんとうにいるんだもの!」
「申し上げたはずです。綾香お嬢様では釣り合えないと」
「そうよ。こんな弱い私じゃあいつの側にいる事なんて出来やしない。でも好きなの! 耕一の側に居続けていたいのっ!!」
 
 綾香の声は叫びに近い。
 長瀬は目の前の少女がただの女の子であった事を思い出した。来栖川の名を背負っていようと、十分すぎる程の才能に恵まれていようと、恋する乙 女に理屈は通用しないものだ。長瀬は事実を告げる事に決めた。
 
「綾香お嬢様は人を殺せますか?」
「えっ」
「綾香お嬢様がどうしてもおわかりになられないのでは致し方ございますまい」
「何故私が闘えたのか」
 
 一呼吸おいて老執事は口を開いた。腹の底から絞り出すような声であった。
 
「私が幾度となく人を殺してきたからです」
「なっ…なん…」
「人を殺し殺される闘いを繰り返してきた。きたが故に、鬼の気に飲み込まれる事無く奴と闘えたのです」
「これが答えでございます」
「……そうなの」
 
 老執事の口から語られた事実に打ちのめされたのか、少女は俯き小さく呟く。
 
「おわかりになられましたかな」
「……わかったわ」
 
 やがて、ゆっくりと面(おもて)を上げた少女の目に迷いはなかった。
 
「それは良うございました」
 
 顔色ひとつ変えずそう言った長瀬は綾香の次の行動に眉をひそめた。
 綾香は自分の左手にはめられたフィンガーグローブを外し道場の隅へ放り投げたのだ。
 そして、右のグローブも同じように投げ捨てると両の手のひらを強く握りしめ……
 長瀬に向かって跳躍した。
 
 
 
 軌道の低い蹴りが長瀬を襲った。
 膝を狙ったローキックをかわせたのは流石に百戦錬磨の長瀬である。
 だが闘う素振りすら見せなかった綾香の不意打ちに近い攻撃を、余裕を持って避けた長瀬は直後にきた連続攻撃には押しとどめるだけで精一杯と なった。
 屈んだ姿勢からバネを生かしたショートフック。捻った頭を後ろ回し蹴りが掠めると、次には前蹴りが長瀬の鳩尾を襲う。両手を組んで防いだら、 今度は顔面めがけて右ストレートが来た。
 仰け反りながら後ずさる長瀬を追って繰り出される左フックは確実にレバーを照準に捉えている。際どいフットワークで左へと避けた彼は、それが フェイントであった事に気付いた。
 またも顔面に綾香の右拳が送り込まれる。軸として残っていた右の踵に渾身の力を入れ飛び退いた長瀬は、綾香のパンチが今まで彼がいた頭部の中 心まで延びていたのを見た。
 少女の電撃の突きと蹴りはこれでもかと途切れる事がない。その各々が研ぎ澄まされたナイフの様な切れ味を持つ事を長瀬は知っている。
 右に左に身を捩り、後退しつつも逃げ場を確保しながら一発でも貰わないようにする。謂われのない綾香の攻撃に反撃をする事もままならない長瀬 は、ひたすら攻撃の間合いが出きるチャンスを待っていた。
 
「綾香お嬢様っ!」
 
 いつまで続くのかというようなラッシュが一瞬切れたその時、長瀬は叫んだ。
 
「お止め下さい! お嬢様っ!!」
 
 その答えはややフック気味の左ストレート。
 今度は避けず、手首で弾いてそのままショルダータックルする。長瀬程の体重があればぶつけられた方は吹き飛んでしまうはずだ。転がしさえすれ ば攻撃の緊張は崩れる。長瀬は何よりも話をする時間を求めた。
 だが綾香は左足を軸に半回転し長瀬の突進をかわすと、空(くう)に浮いていた右の爪先を鋭く蹴り上げた。
 何とも言えない“おぞ気”に跳ね上がるように綾香から離れると同時に、長瀬は右手を“おぞ気”の立つ方向…真下に向かって差し出す。
 がつんという手応えがあった。
 距離を取った長瀬は、今綾香が行おうとしていた行為が信じられなかった。いや、信じたくはなかった。
 とっさに出した手が相手の向こう臑に当たり止められた蹴り。その爪先は長瀬の股間を目標にしていた。
 金的…男にとって致命的とも言える急所である。
 しかもその蹴りはけん制や偶然のものではなく明確な意志で放たれた蹴りだ。
 綾香が試合と名の付くものであからさまに反則行為を行った事は今まで一度もない。彼女のスタイルを熟知する長瀬は、今の一撃が彼の睾丸を蹴り 潰す事を目的に繰り出されたものだと認識するのに一瞬の間を要した。その僅かな間は綾香が次の攻撃を仕掛けるには十分過ぎる時間でもあった。
 真正面から迫る綾香の右ストレート。だが、長瀬はその右手が握られてはなく2本の指が突き出ているのを認めた。
 人差し指と中指、二つの指先は長瀬の視線の元…眼球へと吸い込まれるように近づいてくる。
 長瀬は戦慄した。
 両足を前に投げ出すように腰を引いた長瀬の頭部がストンと腰砕けのように落ちる。間一髪、綾香の指は目玉を抉(えぐ)る事なく彼の頭上を通 過…する前に、強引に引き戻された。倒れ込みながらも放たれた長瀬の殺気に綾香が後方へ跳ね退いたからである。
 綾香は物理法則をも無視するような過激な機動に一瞬たたらを践んだ。その僅かの隙は決定的反撃を受けるには十分だった。
 だが、長瀬からの攻撃は来ない。
 綾香の2メートル前で無防備に立つ長瀬がいる。その身体からは闘いを中断する強い意志が感じられた。
 綾香は構えを解く。
 
「どういう意味だ」
 
 長瀬の口調から敬語が消えた。綾香はそれが当たり前の様に答えた。
 
「あなたは教えてくれたわ。鬼と闘う方法を…どうすれば殺気を身に付けられるかを」
 
 長瀬の目が厳しくなった。否、恐ろしくなった。
 
「だからそれを実践するのよ」
 
 綾香は再び構えた。
 
「あなたを……殺す」
 
 綾香の全身から闘気が迸(ほとばし)る。
 
「ひとの…」
 
 身じろぎ一つせず立つ老執事。だがよく見れば、強く握られた両拳が小さく震えている事に気が付くだろう。
 
「人の命の重みも、人の死の意味も知らぬ小娘が何を言う…」
 
 仁王の様に長瀬は綾香を睨み付けた。だが、その瞳は彼女を映してはいない。闘い、そしてその命を奪ってきた男達が彼の目の前にいた。
 ギラギラした殺意を隠しもせず短刀を手に持つチンピラ…腕に絶対の自信を持ち悠然と構える武道家…人殺しを生業とし、主人を襲った殺し屋…
 
「…取り消せ…」
 
 慈しみ、未来を見守る責務を授かったその少女が「殺す」と言う…
 何よりも笑顔が似合う少女が「殺す」と言う…
 奴らと同じ、「殺す」と言う…
 
「取り消さんかぁ――――――――!」
 
 天を裂き、大地を揺るがす咆吼(ほうこう)。
 広い道場は長瀬の怒りに震えた。
 
 
 
 
 
9.
 
 
「イヤよ」
 
 綾香は叩きつけられる怒りのオーラを全身に浴びながらも、身じろぎ一つせずドライアイスのように冷たい口調で言った。
 その言葉は自分自身を追いつめるための言葉だった。
 綾香は長瀬の怒声を今まで何度も聞いた事がある。
 彼女や彼女の姉に言い寄る男達に対してや――特に浩之には幾度となくだった気がするが――礼儀をわきまえない輩に浴びせられた彼の怒声は、聞 く者を芯から震え上がらせるものだったが、今日のはそんなものとは訳が違った。発せられた言葉自体が綾香を打つような重圧感を伴った怒声だった。
 本気で怒った長瀬を初めて綾香は間近に見たのである。
 動けなかった。
 体が動こうとしなかった。
『殺す』とまで言い切った心が、本気で反則技を出した体が、まるで自分の物ではないように感じられた。
 だから、萎えてしまいそうな気持ちを奮い立たせるために綾香は『イヤ』と言ったのだ。
 何のために闘うのか。
 己の良心すら捨ててまでこの場に立ったのは、一人の青年をこの手にする為じゃなかったのか。
 もう後には引けない。引きたくはない。
 
「本気で来なさい。さもないと死ぬわよ」
 
 少女は瞬時に間合いを詰めるとジャブを放つ。2発のそれは明らかにけん制の意味合いが強い。
 長瀬の上半身のガードが堅くなった。これを待っていたかのように、膝を狙って左跳び蹴りが叩き込まれる。
 長瀬の下半身が僅かに後退した。空を切った左足は地面に着くと同時に軸足に変化する。綾香の体が前へと出ながら折り畳まれていた右膝が大きく 開く。
 真正面から放たれた綾香の前蹴りは長瀬の顎をピンポイントで狙っていた。長瀬は尚も引き、顎を仰け反らしながら綾香の爪先をかわした。
 次が来る。
 長瀬の両目は頂点まで伸び上がった少女の爪先が、ギロチンのように落下してくるのを見た。
 踵落とし。
 腰が引け前屈みになっているとはいえ、180を越える身長を持つ長瀬の頭部を遙かに越える高さまで振り上げられた綾香の右足は、前蹴りのス ピードに匹敵する速さで彼の顔面めがけて打ち落とされる。
 長瀬は顎を引いた。首に渾身の力を入れた。腰と膝はショックに備えた。
 直後に、重い衝撃が来た。
 綾香の踵は長瀬の額に命中する。否、させられる。
 飛び退く綾香。
 跳び蹴り、前蹴り、踵落としの連続攻撃は、綾香の得意とするコンビネーションの一つであった。一撃を避けても二撃目が、そうでなければ三撃目 が矢継ぎ早に襲ってくる。しかも、後になればなるほどその破壊力が増してゆく攻撃だ。
 だが、振り下ろされた綾香の踵は、その破壊力を十分に出し切る前に退がるのを止め逆に前に出た長瀬の頭部で受け止められる格好となった。肉体 の中で最も堅い部分…前頭頂の頭蓋骨である。
 もしそのまま逃げていれば踵は顔面に突き刺さり鼻骨を粉砕して計り知れないダメージを与えるはずだったが、長瀬は比類無き格闘センスでもって それを読み切り、ダメージを最小限に止めた。そして、初めて攻めに転じたのである。
 クラッと白いもやのかかった視界の中に自分が仕える少女の姿があった。
 長瀬はその少女の脇腹目掛けてミドルキックを放った。ぶんと呻りを上げながら長瀬の足が綾香の腹を掠める。すぐに後ろ回し蹴り、再び回し蹴り と立て続けにキックを繰り出す長瀬。大木のような足は綾香を吹き飛ばさんと荒れ狂った。
 大振りの蹴りの間隙を抜い、脇腹目掛けて掌底を叩き込もうとした綾香の顔面を、肘が迎え撃つ。避けた彼女の顎を掠めてアッパーが通り過ぎた。 綾香は背後へと倒れ込みながらも長瀬の鳩尾に蹴りを放つ。だが、彼はすでに綾香の側面へと回り込んでいた。両者は再び距離を取った。
 長瀬が動いた。
 ダン、と踏み込みながら右の拳が出る。左正拳そして右正拳。
 綾香はひたすら避けてゆく。いつもの組手とはひと味もふた味も違う。受け流すという防御が出来ないのである。
 老いたとはいえ鍛え抜かれた筋肉から繰り出される蹴りや突きは、綾香の体のどこに当たろうとも重大なダメージをもたらすように感じられたから だ。本気の長瀬の攻撃は受け止めるには破壊力が大き過ぎたのだ。
 右の腕を引き付けながら、弧を描いてミドルキックが襲う。綾香は辛うじてこれをかわした。
 勢い余った長瀬がその体を横に向けた。綾香はカウンターを放つ。
 長瀬に死角となる方向からの必中のハイキック。
 延髄への蹴りには渾身の力が込められている。頸椎も折れろとばかりの一撃だ。
 長瀬は瞬時に身を屈めた。まるで後ろに目が付いているようにドンピシャのタイミングに、綾香の爪先は空を切った。
 屈めながら足払いを掛ける老執事。少女は間一髪で避ける。
 長瀬の攻撃は、いままでとなんら変わってはいなかった。スピードが速くなった訳ではない。タイミングもかわらない。技のキレに鋭さが増したよ うにも感じない。
 なのに押されている?
 ここにきて綾香は何十分も闘い続けているように体が重い事に気がついた。 一発も“もらって”はいないのだからダメージなど無いはずなのに…
 じゃあ、この疲れようはなんなのだろう。胸の息苦しさが少しずつ増してゆく。
 綾香は自分が不利な状況に向かっているとわかった。
 長瀬の攻撃は綾香にヒットする事はなかったが、一撃の度に桶から柄杓(ひしゃく)で水をすくうように彼女から闘う気力を削ぎ取っていた。
 攻めまくり圧倒的有利に闘いを進めてきたと思われた綾香は、逆に長瀬の闘気で疲弊していたのだ。
 殺気の正体が見えた気がした。
 殺気とは、肉体ではなく心を殺そうとする力なのだと…
 そう気付いた時、綾香ははじめて本当の恐ろしさを感じた。
 闘う気力の喪失は、傷つく事への恐怖…死への恐怖を人の心に生じさせる。
 試合ではなく真剣な闘いにおいて、負けが何を意味するのかを綾香はようやく悟った。
 そして、その事実を受け入れるには少女の心は弱すぎた。
 寂しさと、無力さと、焦りと…そして嫉妬に蝕まれていた彼女の心は、強さとしなやかさを失っていた。
 恐怖に支配された綾香の体は、自滅へのゴールに向かって走り始める。
 いまや、その肉体を支配するのは理性ではなく純粋な本能…『死にたくないという生存本能』だった。
 
 
 
 長瀬のワンツーパンチ。ミドルキック。そして、バックハンド。 大ぶりで直情的な、しかし破壊力を持った攻撃が続く。
 その攻撃を辛くも避け続ける綾香。
 攻守は逆転していた。
 なんとか反撃のチャンスを掴もうと耐え続けてはいるが、精神力の摩耗は限界を越えていた。綾香の体は現実の死から逃れるために動き続けている にすぎなかった。
 落ち着け、落ち着けと心の中で繰り返すが、体は鉛のように重くなってゆく。
 そんな綾香に一瞬の反撃のチャンスが巡ってきた。
 目測を誤ったのか、突きを繰り出した長瀬が綾香より半歩前で棒立ちに近い状態になった。
 最後のチャンス…
 自然に綾香の体は動いた。
 長瀬の左膝への電撃のキック。
 長瀬は関節への直撃を防ぐため、僅かに腰を落とす。綾香の蹴りを太股(ふともも)で受けようとしたのだ。
 次の瞬間、綾香の爪先は長瀬の側頭部を蹴り抜いていた。
 変則蹴り。ブラジリアンキックとも言う。
 長瀬の膝を狙ったローキックはその膝に当たる直前、鋭角的にホップアップ。ハイキックとなって長瀬の頭部を襲ったのだ。
 引き戻し動作がないうえにスピードすら落とさないその蹴りは、綾香の秘密中の秘密兵器だった。
 今までに使ったのはただ一度。
 10月のエクストリーム全国大会、女子学生の部での準決勝。大会本命と言われた女子大生を試合開始10秒でノックアウトしたキックだ。
 長瀬の顔はその瞬間、何が起こったかを理解出来ないかのように呆けた。目の焦点が合っていない。
 今しかない。『止めの一撃を』と思った綾香を凄絶な殺気が襲った。
 あのとき、愛する青年から迸(ほとばし)っていたあの殺気と同じモノ。
 体が固まった。心臓すらもその動きを止めていたかもしれない。
 突きを放たんとした姿勢のまま硬直していた少女は、動けない体でその狂気の塊(かたまり)が自分を狙っているのを悟った。
 膨れあがる殺気は、綾香の脇腹をターゲットに捉えている。
 死にたくないっ。
 強い念に答えるように凝固していた腰が落ちた。脇を庇う左腕に渾身の力を込めた。
 過去の、あの一度だけの体験が…あの青年の鬼気をその身に受けた経験が綾香の体を動かす力を与えたのだ。
 
「喝――――――――!」
 
 死の大波が押し寄せる。
 まるで、断頭台から落ちてくるギロチンのように…
 死神が振るう巨大な鎌(かま)のように…
 綾香はふっ飛んだ。
 気を失う直前、はっきりとふたつの音が聞こえた。『ぱき』という乾いた音と『ぼき』という鈍い音。それは自分の体の中から聞こえてきた音だっ た。
 ごろごろと転がる綾香の体は壁にあたってようやく止まる。板の壁が傾いだ。
 長瀬の放ったミドルキックは、軽いとはいえ一人の少女を5mも吹き飛ばすほどの破壊力を持ったものだったのだ。
 
「うぅ…あぅっ」 
 
 気絶していたのは一瞬だったらしい。激しい痛みは少女に失神という名の安らぎを与えはしなかった。
 立ち上がろうとしても力が入らない。僅かに顔を上げる事が綾香に出来る唯ひとつの行動だった。
 瞼を無理やりこじ開ける。靄(もや)のようにかすむ視界の中で、巨漢がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
 目の前に立つ老執事。その姿は『死』という存在そのものだった。
 死ぬ……殺される。
 だが、眩(くら)み霞(かす)む綾香の瞳はその時、巨躯なる暗き影にもう一人の男を映し出していた。
 愛してやまないあの青年の姿を…
 それは命あるモノ全てからその『生』を奪う…否(いや)、命あるモノ全てに『死』を授ける存在。
 視線を外す事が出来ない綾香は、老執事が言っていた言葉を思い出していた。
 何故、セバスチャンが殺気を身につけられたのか。『私が幾度となく人を殺してきたからです』という言葉を…
 
 
 
 そうか…
 そうなんだ…
 あの人も誰かを殺したんだ
 人を殺す事が出来るんだ
 
 
 
 膨れ上がる殺気が目の前に立った。
 その足下を見ながら綾香は、遂に自分の愚かさを悟った。
 その時を待っていたかのように彼女の意識は、再び暗闇へ吸い込まれてゆく。肉体の痛みは二度目の失神を妨げる力とはならなかった。
 
 
 
 
 
10.
 
 
 ガラス張りの部屋に二人の男が立っていた。
 一人は老主人、もう一人は初老の執事長であった。
 老人の腕には1才の幼子が抱かれている。
 二人は、ガラス越しにその向こうに見える生まれたての赤ん坊を見つめていた。
 
「天使のような笑顔でございますな」
 
 長瀬は、主人に言った。嘘偽りのない言葉だった。
 
「可愛いのう。どうじゃ長瀬よ、あの子はきっと美人になるぞ。そう思わんか」
 
 好々爺を通り越して爺馬鹿ともいえる香之助。
 
「まことに。将来が楽しみでございます」
 
 長瀬も似たような物だ。
 
「どうじゃ芹香。おまえの妹じゃぞ。綾香と言うんじゃ」
 
 香之助は幼子に語り掛けた。その幼子は一心不乱に自分よりも小さい命を見つめていた。
 
「仲良くなるんじゃぞ。しっかり頼むぞ、お姉ちゃん」
 
 香之助の目には慈愛があふれている。
 
「二人とも立派に育つんじゃぞ。幸せになるんじゃぞ。この世に生まれた者は、皆平等にその権利を持っているんじゃからな」
 
 綾香を見ていた芹香はその言葉を理解したのか、香之助の顔を振り向くと無邪気な笑顔を浮かべ、そしてまた綾香に視線を戻した。
 その二人の姿を長瀬は、まるで眩しい物でも見るかのように見つめている。
 長瀬にとってもこの二人の幼子はまるで自分の孫のように思えてならなかった。
 彼には子供がいたが、皆男の子ばかりで女の子は一人もいない。しかも職務を最優先とし、その仕事は激務。家庭を顧みなかった男にとって香之助 の家族の方がより肉親に近い存在だったのだ。
 そんな彼に、目の前にいる女の子は安らぎと優しさと幸福をもたらしていた。
 長瀬は微笑んでいた。
 
「長瀬よ」
 
 老主人は言った。
 
「儂はこの歳までがむしゃらに生きてきた。気が付けば、もうこんな老いぼれじゃ」
 
 執事長はなにも答えない。
 
「もう、よかろう…」
「どういう事でございましょうか」
 
 長瀬は主人の言おうとしている意味を図りかねた。
 
「もう、儂の役目は終わりと言う事じゃ」
「何を仰いますか。来栖川はまだ旦那様を必要としております。退くにはまだまだ早いかと…」
「儂は裕福になろうとか来栖川の家を大きくしたいとかいうために生きてきたのではない。生まれくる子供等に未来を授けるためにここまで努力して きたのじゃ」
 
 二人の男はいつしか向かい合っていた。
 
「芹香と綾香の姿を見てわかった」
 
 芹香を見て、そして綾香を見た香之助は
 
「二人の笑顔が教えてくれた」
 
 と、言った。
 芹香も綾香も笑っていた。男達も笑った。
 心の底からの笑顔だった。
 
「源四郎よ…儂の頼みを聞いてくれんか」
 
 数十年ぶりに聞くその言葉に、長瀬は一瞬呆けたような表情を浮かべる。
 
「この子達の…芹香と綾香の行く末を見守ってはくれまいか。二人の幸せをその目で見届けてほしいのじゃ」
 
 長瀬は狼狽した。
 
「何を不吉な事を仰います。旦那様ご自身の目でお確かめになればよろしい事ではございませんか」
「儂が生きておる間はいい…だが人はいつかは死んでゆくものじゃ。そして死は順番に訪れねばならん」
「源四郎よ。儂はおまえより先に死ぬ。それは明日かもしれんし、10年後かもしれん。だが、それがこの世の理(ことわり)じゃ」
 
 香之助は長瀬に向かってその頭を下げる。
 
「どうか、この目で見届ける事が出来ないかもしれぬ儂に代わって頼む」
「旦那様、頭をお上げ下さい。わかりました。この長瀬、命に代えてもお二人をお守り申し上げます」
 
 頭を上げた主人は右手を差し出す。その手を執事長は両手でしっかりと握りしめた。
 
「ありがとう。…では、お前に命ずる。長瀬源四郎…本日を以て執事長の任を解く」
「旦那様!それは…」
 
 長瀬は驚きの顔を隠そうともしなかった。一生を香之助に仕える覚悟であった長瀬に、その解任を主人から言い渡されされたのだ。
 
「明日より、お前は来栖川芹香・綾香、両名の専属執事となる」
 
 威圧ではない、真摯な…むしろすがるような香之助の瞳に、長瀬は与えられようとする役割がどれだけ香之助にとって大事であるかが理解できた。
 
「二人の事…よろしく頼む」
 
 再び頭を下げる主人に向かって、長瀬は直立不動の姿でもってこう言った。
 
「御…御意」
 
 遠い過去。
 二人の間で結ばれた約束。
 長瀬にとっては、残りの人生全てを捧げる役目。
『お嬢様達の幸せを見届けることが、儂が大旦那様から言い使った役目なのだ』
 その約束がいま、反故(ほご)になろうとしている。
 
 
 
 
 
11.
 
 
 来栖川老は大きくため息をついた。マホガニーのテーブルを挟んで向かいに座る老執事は微動だにしない。
 二人の間には一通の封書が置かれている。その表書きには達筆な字で『辞表』と書かれてあった。
 
「セバスよ、もう一度考え直してはみんか」
「大旦那様…申し訳ございません」
 
 座ったまま深く頭を下げる長瀬に、香之助は苦虫を噛み潰したような顔でまたも息を付く。香之助は頑ななさでは自分に勝るとも劣らない長瀬の性 格を知っている。もうお手上げの状態に近かった。
 朝食前に起こった事件から半日が過ぎていた。
 意識を失った綾香を抱きかかえて彼女の寝室へ運び、医者の手配や学校への連絡を瞬く間に済ませた長瀬は、綾香の両親と祖父へ簡潔に報告した後 自室に戻り一通の封書を携えて再び祖父の元を訪れた。
 不祥事の責任をとって執事の職を辞めたいとの申し出に、来栖川老は驚いた。練習中に怪我を負うなどという事は今までにもよくある話だった。今 回に限って、何故辞めようとするのか理解し難かったのだ。
 何をどう聞いても『申し訳ございません』の一点張りに香之助は匙を投げたい気分である。
 もう言うべき言葉はないとばかりに両の瞼を閉じ処断を待つ老執事は、瞼の裏に今朝の出来事を思い出していた。
 綾香の取った行動は、長瀬にとってはあまりにも承伏しかねるものだった。
 人の生死を幾度となく見てきた彼にとって、生命の重みは計り知れないものがあったからだ。
 それをいとも簡単に『殺す』などと言う綾香に怒りを覚えた長瀬は、確かに腕の一本やそこら、へし折ってもかまわないという感情を持った。だか ら昔やった死合(しあい)の一端を垣間見せ、『きついお灸』をすえるつもりだったのだ。だが不幸な事に、綾香の若々しい格闘術はすでに長瀬のそれを上回っ ていた。
 最初の踵落としが決まった時、長瀬の意識は半分飛んだ。理性という名のコントローラーを半ば失った肉体はブレーキの利かない暴走車のように走 り始めた。
 技術も経験も関係ない、力にのみ裏打ちされた攻めが続いた。闘いの勝敗など関係なくただ相手を粉砕するという欲望が、残った意識を侵略し肉体 を支配してゆく。だが、この時点ですら長瀬には格闘をしているという意識は微かにだが残っていたのだ。あの蹴りが来るまでは…。
 綾香の変則蹴りは長瀬の本能からくる防御すらも見事に欺いた。まったく無防備に長瀬はハイキックの持つ運動エネルギーの全てを自分の脳髄に受 けたのだ。
 それからの事を長瀬ははっきりとは覚えていない。気が付いたら気を失っている少女の顔面めがけて拳を叩き込もうとしている自分がいた。
 もし、一瞬でも正気を取り戻すのが遅れていたら、綾香の頭部は間違いなくザクロのように爆(は)ぜ割れていたはずだ。
 『自分を見失った』その一点が長瀬に辞表を書かせたのである。
 自分の中に獣(ケダモノ)が眠っている。ソレはいつ目覚めその牙を剥くかわからない。そうなれば、愛するものをその手で壊してしまうかもしれ ない。
 その恐怖は長瀬に意を決めさせるには十分だった。他人に説教を垂れながら、自分はなんだ。…と
 ここにいる資格はない。
 長瀬は自分の不甲斐なさを恥じ、その身を退こうとしていたのだ。
 
 
 
 バタンと大きな音を立てて扉が開いた。
 
「セバス、辞めるってどういう事!?」
 
 猫柄の可愛らしいパジャマを着た綾香は部屋に飛び込むや叫んだ。その胸を覆う石膏と包帯。固めた左腕を首から吊り、その上からガウンを羽織っ ただけの綾香は痛々しいの一言につきた。
 
「綾香!無礼じゃぞっ!」
 
 綾香の体がびくりと跳ねる。来栖川老の一喝は、炎のような怒りに燃える彼女に冷水を浴びせかけた。
 
「お前は部屋に入る作法すらも忘れたのか!」
「お爺さま…申し訳ありません」
 
 綾香はすごすごときびすを返すと廊下へと出て、静かに扉を閉めた。そして小さく二度ノックした。
 
「お爺さま、綾香です」
「入れ」
 
 ゆっくりと扉は開き、綾香は僅かに開いた扉の隙間からおどおどと部屋の中へ入った。
 
「あの…」
「セバスに用があるのじゃろう」
「はい…」
 
 俯き右手を強く握りしめながら、綾香は掠れるような声で言った。
 
「…セバスチャン」
「綾香お嬢様、お身体の方は如何でございますか」
 
 立ち上がった長瀬は綾香の方を向いた。
 
「ええ、だいじょうぶ」
 
 綾香の負った怪我は大きいものだった。蹴りを受け止めた左腕は完全に折れ、左肋骨も2本にヒビが入っていた。もしも、左腕のガードがなく直接 胸部に蹴りを食らったら、内蔵に重大なダメージを被ったのは間違いない。綾香の卓越した格闘技量と経験が生死を分けたと言ってよかった。
 
「どのような用件でございましょうか」
 
 いつもと変わらない態度で老執事は少女に問いかけた。
 
「ごめんなさい。私のせいであなたに迷惑を掛けて…全部私が悪かったの……だから辞めるなんて言わないでっ!」
 
 最後は絞り出すように声を出す綾香の顔にはありありと後悔の色が浮かんでいた。
 
「綾香お嬢様。あなたは何も悪くはございません」
「じゃあ、どうして辞めるなんて…」
「私はお嬢様方にお仕えする資格を失ったのでございます」
「資格…?」
「強くあることです」
 
 静かに、そして真摯に綾香を見つめる老執事。
 
「そんな…セバスは強いじゃない」
「強さという意味…おわかりになりませんか?綾香お嬢様」
 
 長瀬は、綾香が答えを見つけだすのを待つように暫く間を置いた。
 
「己を失わぬ強さ…自分を律する強さでございます」
 
 長瀬は目を瞑ったままで続ける。
 
「綾香お嬢様を傷つけた時、私は自制心を忘れておりました。本能でのみ闘っていたのです…それは只のケダモノと同じです……自分にそのような欠 陥があるままでお嬢様にお仕えする訳にはまいりません」
 
 一言ごとに一呼吸、老執事は考えながら答えているようにさえ見える。
 
「そんなことないわ!」
 
 綾香は叫んだ。
 
「セバスは私を助けてくれたわ。私は死んでもいないし、こうしてちゃんと手当もしてくれたじゃない。理性もない人間がそんな事出来る訳ないわ」
「違うのです!」
 
 閉じた瞼を大きく開け声を荒げて長瀬は言った。
 
「…申し訳ございません。我を忘れてしまいました」
「よい。続けよ」
 
 来栖川老はソファーに身を沈めたまま、畏(かしこ)まるように頭を垂れる長瀬に促せる。
 
「私は闘っている相手を殺す事しか考えておりませんでした。ただ、この手で殴り殺す事だけを…」
 
 長瀬は苦悩を顔に浮かべ、視線を握った拳に向けた。
 
「私が初めて人の命を奪ったのは綾香お嬢様と同じ歳の頃でした。相手も…同い年の少年兵だった…」
 
 老執事の独白は少女には勿論、来栖川老にとっても初めてのものだった。
 
「彼がいたのです。綾香お嬢様と闘っていたはずなのに、いつのまにか目の前にいたのは銃を構え今にも私を撃ち殺そうとするその少年兵が…」
「私は無我夢中で彼を殺そうとしていた…」
 
 握られていた拳が開かれた。
 
「今回、綾香お嬢様が無事であったのは僥倖(ぎょうこう)です。なぜ、お嬢様が死ななかったのか私にはわかりません」
「おわかりになられましたか、綾香お嬢様。私の第一の使命は主人を守る事。己の制御も出来ない不出来者にその資格はありません」
 
 香之助はようやく長瀬の真意がわかった。そして哀しい過去に今も囚われ続けている老執事に不憫を感じた。
 綾香は俯(うつむ)いたまま動かない。だが、呟くような声で言った。
 
「私…私わかったの。セバスの言っていた事が…。釣り合わないって意味が…」
 
 しばしの静寂の後、
 
「耕一の事、なんにもわかってなかった…。あいつがいる世界が、生きてる時間がどうしようもなく違うって事を理解しようとさえしなかった」
「ううん、違う。逃げてたの。答えはとっくにわかってたはずなのにその答えを知るのが怖くて逃げてただけ」
「自分が弱いから…耕一に守ってもらいたいからあいつの側に居たかった。あいつの側にいるためにはあいつの足手まといにならないくらい強くなく ちゃいけないって思った…。でも耕一の側に立つ事は私には出来ない。私は…私じゃ…耕一の哀しみを支えてあげられないもの」
「でも、耕一の側に居る事が出来なくてもあいつが好き。この想いは偽りたくない。だから私に必要なのは魂の強さ。あいつを想っていられる心の強 さ。肉体の強さなんて関係なかったのよ。」
 
 綾香は真っ直ぐに長瀬を見つめる。
 
「セバスはやっぱり強いと思う。そんな悲しい事があったのに私や姉さんを見る目がどんなに優しいか私は知ってるもん」
「辞めないで。ううん、辞める必要なんてない。姉さんだって同じように思ってるわ。そうでしょ?姉さん!」
 
 扉に向かって綾香は呼びかけた。残る二人の目も同じ方向を向く。
 微かに聞こえるノックの音、2回。
 静かに音もなく開いた扉の向こうに立つのは老執事のもう一人の主人、来栖川芹香。
 黒いとんがり帽子に黒マント。片手にうねうねと折れ曲がった杖を持ち小脇に挟んでいるのは藁人形らしきもの。いかにも『魔女』といった風体は 普通の人がその姿を見れば一歩も二歩も退いているに違いない。
 
「…………」(辞めてはいけません)
 
 いつものように彼女の声はこの静まり返った部屋の中ですら聞こえてこないような小さなものだ。
 
「辞めてはいけない、と…仰(おっしゃ)りますか」
「…………」(セバスチャン、あなたには大切なものがあるはずです)
「私に大切なものがある…ですと?」
「…………」(守るべき大切なものです)
 
 芹香は茫洋とした目で長瀬を見つめながら言葉を続けた。
 
「…………」(無くしてもいいのですか?)
「辞めれば失う…守るべき大切なものを…」
「…………」(そうです)
「しかし、このまま此処に居ることはその大切なものを壊してしまう事になります」
 
 二人の少女へ交互に視線を送った長瀬からは、あまりにも弱々しい言葉しか出てこない。
 
「…………」(大丈夫です)
「大丈夫ですと?」
「…………」(そうです)
「どうしてそう仰(おっしゃ)られるのですか、芹香お嬢様」
 
 老執事は睨むような視線を主人に向ける。
 
「…………」(一人じゃないから)
 
 芹香は微笑んだ。その笑顔の中にあるのは確固たる自信だった。
 
「一人ではない…」
「…………」(私も綾香ちゃんもいます。お爺さまも、お父様やお母様も。)
「そうよっ!」
 
 綾香は右手を強く握りしめ声を張り上げる。
 
「自分を制御出来る人間なんてどこにもいやしないわ。誰だって何かが欠けたまま生きてるんだもの。だったら、それを他の人が補えばいいじゃな い。一人でなんでも背負い込むだなんて傲慢以外の何ものでもないわ」
「…………?」(私たちじゃダメですか?)
「いえ……そのような事は…」
「…………」(思い出してください。あの瞬間…何があなたを止めたのか)
 
 芹香が何事かを呟(つぶや)いた。それがなにかの呪文だと気が付いたのは綾香一人だけだった。
 
「うぅ…」
 
 老執事は何かに頭の中をむりやり引っ張られるような感覚に頭を仰け反らせた。
 高速で巻き戻される記憶の糸は、綾香に止めを刺そうと拳を振り上げたところで止まる。
 そうだ…何故、儂はあの拳を止めたのだ?…
 あの少年兵がいる
 幾度となく殴られて息も絶え絶えの少年
 泣きながら命乞いをしている彼の前に…
 少女が立っていた
 その両手をいっぱいに広げ…
 天使のような笑顔で…
 儂を抱きしめて……
 その少女は………
 
「…綾香…お嬢様」
 
 視界が暗転し、再びその視野に自分を見つめる三人の姿を捉えた長瀬は、自分がソファーに座り込んでいるのに気が付いた。右手でこめかみをゆっ くり揉み、ソファーにもたれ掛かっていた自身の姿勢を正す。
 
「…………」(思い出しましたか)
 
 老執事は小さく頷いた。
 
「…………」(セバスチャン)
「…はい、芹香お嬢様」
「…………」(弱ければ支えてもらえばいいんです。それは恥ずかしい事ではありません)
「…………」(私たちはセバスチャンに守ってもらっています。だから私たちもあなたを守ります)
「…………」(セバスチャンにとって大切なもの…あなたの生きる尊厳を…)
 
 芹香は長瀬を見つめていた。その瞳は見つめられる者の心の奥底までも見通すと同時に、心の壁をも融かしつくす力があるように思えた。
 老執事は大きくため息を付くと苦笑した。
 
「セバス、おまえの負けじゃ」
 
 香之助は言った。その顔には『してやったり』といった笑顔が浮かんでいる。
 
「儂との約束、反故にされずに済んだようじゃな」
 
 約束という言葉に、はっとしたように顔を上げた長瀬に向かって来栖川老は
 
「下がってよい」
 
 と、言いながら白い封書を破り捨てた。
 
「しかし、大旦那様」
「いいじゃない。行きましょ、セバスチャン」
 
 綾香は、有無を言わせないというように長瀬の左腕を掴むとその巨体を無理やり引っ張り立たせた。
 
「綾香お嬢様」
 
 面食らったような顔をする彼の右腕をスルリと芹香の右腕が捕らえる。
 
「せ、芹香お嬢様…」
 
 頭一つ以上抜け出した長瀬を二人の少女が引っ張って行く様は本人にとっては情けないものだが、それを見つめる香之助には微笑ましいの一言に尽 きた。
 綾香は歩きながら口を開いた。気恥ずかしいのか視線は前を向いたままだ。
 
「セバス。私もっと強くなりたい…どんな辛い事からも逃げ出さない強い心を持ちたいの」
「綾香お嬢様」
「あいつが普通の人じゃないっていうのはわかってるんだ。…でも、この気持ちは大切にしたいの」
 
 老執事は慈しむような目で左にいる少女を見つめる。
 
「だから……明日からもヨロシクっ!」
 
 わかってくれた。
 長瀬は嬉しかった。目の前にいる少女は、ひとつ大きな壁を乗り越えたのだ。
 
「でも姉さんのカッコ、いったいなに?」
 
 綾香は入って来た時の悲壮感などどこ吹く風とばかりの上機嫌で芹香に尋ねた。
 
「…………」(最悪の時のためです)
「さ、最悪って」
 
 のほほんと歩く姉に、思わず綾香は顔を向けた。
 
「…………」(セバスチャンがどうしても言う事を聞いてくれなかった時です)
「…どうするおつもりだったので?」
 
 冷や汗を流しながら長瀬が聞いた。
 
「…………」(これで言う事を聞いて貰うつもりでした)
 
 小脇に抱える藁人形に視線を送りながら答える芹香。
 
「そ…それって…」
「…………」(セバスチャンの髪の毛入りです)
 
 無邪気ともいえる笑顔でとんでもない事を平然と言う芹香に二人は二の句を告げられなかった。ただ、老執事の全身がこの時、じっとりと汗で濡れ ていただろう事だけは誰にも言えない秘密になるだろう。
 
「それにしても姉さん、セバスが暴走したなんてなんで知ってんの?」
「…………」(わかります…あんなに強い『気』なんですから)
「強い『気』って」
「…………」(心を締め付けられるようでした)
「芹香お嬢様。申し訳ありませんでした」
 
 長瀬は、組まれた腕を解き芹香に向かって頭を下げた。芹香はふるふると頭を振った。
 綾香が扉を開け、三人はそろって廊下に出る。
 
「大旦那様、失礼いたしました」
「お爺さま、ご機嫌よう」
「…………」(失礼しました)
 
 深々と頭を下げて礼をする老執事の両隣で、満面の笑みを浮かべて立つ少女達。
 扉が閉まる寸前、
『ありがとうございました』
 と言う老執事の声を、来栖川老は聞いたような気がした。
 
 
 
 
 
12.
 
 
 扉は閉まりきった。
 先程までの騒々しさがウソのように、静けさがこの部屋に戻った。
 香之助はソファーに座ったまま、三人が出ていった扉を見つめ続けている。その顔からは切なさと満足感とが同居する複雑な表情が見てとれた。
 長瀬の背負った業の重さは計り知れないものがあった。その多くは香之助が課したものだ。合法・非合法に関わらず、長瀬がその手を血に染めて 行ってきた所業を聞けば、二人の孫娘はどのような顔で長瀬や自分を見るのだろうか。過去の事だからという免罪符は自分達を納得させる詭弁でしかない事を幸 之助は知っていた。
 血塗られたその手を…闇に覆われた魂を、洗い流してくれるもの…それは二人の少女ではないのだろうか。
 香之助はそう思っていた。
 あの日、綾香の生まれた日…長瀬が浮かべた笑顔を香之助は忘れない。
 そして交わされた約束…
『二人の幸せをその目で見届けてほしい』
 それは長瀬に対してのみ交わされた言葉ではない。無垢な笑みを湛える幼い少女達への願いでもあったのだ。
『悲しい人生を歩まざるを得なかった漢(おとこ)の幸せを見届けてほしい』
『お前達ならそれが出来るはずだ』
 その想いは間違っていなかった。自分にああまで頑なに辞意を固持し続け、その理由すらも明かそうとはしなかった老執事が二人の少女には心を開 いた。想いの丈を素直に吐露したのだ。
 冷たく凍った長瀬の魂を、綾香と芹香は確実に溶かしてゆく。
 
「もう、大丈夫じゃろうて…」
 
 来栖川老は扉に向けられていた視線を前へ戻した。そこは老執事が先程まで座っていたソファー。
 彼は目を閉じる。
 ふと…長瀬が若かりし頃、闘いの最中で身に纏っていた殺気を思い出した。
 立ち向かう者全てを拒絶し、己一人の存在しか許さない闘気が…香之助には彼の救いを求める絶叫のように感じられた。
 
「哀しい闘気…か…」
 
 ソファーに身を深く委ね、長い吐息をつく香之助の口から出た声は静寂の支配する部屋に吸い込まれるように消えていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−終−


後書きへ

インデックスへ